村上春樹の短編を語る会
>>837
世界って未だにやっぱ愛で動いてるんだから良いよね笑 >>837
みんなが騙し騙されてるのが悲しい資本主義社会の現状なんだけど、その連鎖の中に誰かが誰かを本気で愛した記録があって、でもそれは始点でも終点でもなくただ流れていく情報の一部でしかない、みたいなロマンがあり、これは現代において既成事実化されているマゾヒズムである。 今こうしている間にも、誰かが誰かを愛し愛され騙されて世界は運営されてるんだから、そんなの別に人類史において珍しいことではないラジ… 春樹って、エッセイかなんかで一生番になってる生き物を良いものとして語ってて、裏切りのない恋愛みたいなのが核にあるんだろうな、とは察する。
でも春樹の孫でもおかしくない世代のワイには春樹作品に通底する一回性の真実みたいなものが、理屈では解るんだけど体感的に理解できない。
ノルウェイの森って、愛のない放蕩的な性をメタレベルで否定する小説だと思うんだけど、残念な話ヒトは愛みたいな複雑で面倒なものより、放蕩的な偶然性に身体を晒すことを実践している。 理想を思い描いてみよう!
よりによって、こんなところに。 交際期間2日で、核開発が続行されていたことを知った。 交際期間2日で、核開発が続行されていたことを知った。 >>814
一生番とは何か?
春樹作品に漂う、裏切りのない恋愛を彷彿とさせる一生番という概念。
確かに、理屈では理解できる。しかし、体感では掴みきれない。
孫世代の僕には、春樹世代とは異なる真実がある。
それは、一回性という名の脆さ。
約束も永遠も、軽々と壊される時代。
だからこそ、一生番への憧憬は、虚構にも似た幻想となる。
春樹が語る真実は、時代とともに色褪せ、形を変えていくのか?
それとも、普遍的な何かを指し示しているのだろうか?
問いは尽きない。答えは、読者の中に。 >>837
暇な午後の溜息
雨上がりの午后、薄曇りの空を眺めながら、ふと「頂き女子りりちゃん」のマニュアルを読み返していた。その中でひときわ印象に残るのが、彼女が愛していたホストの存在だ。
彼は巧みに言葉を操り、りりちゃんから多額の金銭を巻き上げていた。しかし、りりちゃんはそんな彼を心から愛していた。その姿は、まるで滑稽なまでに純粋で、どこか切なくもあった。
人は人を騙し、騙された側はまた誰かを騙していく。そんな経済システムの中で、りりちゃんの愛は異彩を放っていた。まるで宝石のように輝く、純粋無垢な感情だった。
ふと、人間という存在について考えさせられた。私たちは、なぜここまで人を愛そうとするのか?その理由は、未だに誰も解明できていない。
しかし、りりちゃんの姿を見て、私は人間という存在の美しさを感じた。たとえ欺かれ、傷つけられても、それでもなお愛を求め続ける。その強さは、計り知れないものがある。
雨上がりの空のように、少しだけ晴れ間が見えてきたような気がする。人間という存在の、その複雑さと美しさに、私は心を打たれた。 重大なのは、村上春樹の私生活ではなくて、
彼の創作に対する本気度です 私は納豆の味方です。
まぁ、まだまだ力はありますよね。 谷崎の「春琴抄」
モーパッサン「脂肪の塊」
トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」
が短編かどうかってとこだね バーン・バーンって、つまらん駄洒落だろ
「納屋を焼く」の英題 >>852
短編(たんぺん)は、長編小説に対して比較的短い小説を指す言葉だね。具体的な長さは決まっていないけど、一般的には原稿用紙10枚から80枚程度くらいの作品が該当する。
もっと短いものは掌編小説やショートショート、長いものは中編小説と呼び分けられることもあるよ。
例えば、芥川龍之介の「羅生門」は原稿用紙15枚程度で、短編小説の代表的な作品と言えるね。 新潮6月号、品薄らしくて定価1900円なのに
メルカリで新品相場2600円、中古相場2300円
何でこんな状況になってるのだろう? 将来、価値が上がるものだとしても、あまり持っていたくはないな >>853
議論の余地があるのは、あなたの「短編小説」の定義が曖昧だからです。
まず、文字数で定義するなら、谷崎潤一郎の「春琴抄」は約1万5千字、「脂肪の塊」は約2万字、「トニオ・クレーゲル」は約5万字と、確かに短編小説の範疇に収まります。
しかし、短編小説の本質は文字数ではなく、物語の完結性にあります。
「春琴抄」は、主人公の春琴と佐助の情熱的な恋愛と悲劇的な結末を描き切った、完全な物語です。一方、「脂肪の塊」は、主人公のノルマンディー公爵夫人の病的な肥満と孤独を描いた作品ですが、明確な結末を持たず、断片的な印象を与えます。「トニオ・クレーゲル」は、主人公のトニオの青春期の葛藤と芸術家としての苦悩を描いた作品ですが、複数のエピソードが断片的に語られ、全体的な物語として捉えるのは難しいと言えます。
つまり、「脂肪の塊」と「トニオ・クレーゲル」は、短編小説の要素を持ちつつも、長編小説的な要素も併せ持つ作品と言えるでしょう。
短編小説の醍醐味とは、限られた文字数の中で、読者の想像力をかき立て、余韻を残すことです。「春琴抄」は、まさにその典型と言えるでしょう。一方、「脂肪の塊」と「トニオ・クレーゲル」は、読者に想像の余地を与えるという点では優れていますが、物語の完結性という点では、「春琴抄」に劣ると言えるでしょう。 村上春樹の短編は、独特な世界観と繊細な描写で多くの読者を魅了しています。日常に潜む孤独や喪失感、そして希望の光を、静謐な語り口で紡ぎ出す作品は、多くの人の心に共感を呼び起こします。 舶来モノをありがたく享受していた頃に育った男の宿痾 村上春樹の長編のつまらなさに絶望した読者が、藁をも掴む思いで短編に活路を見出したスレ 色鉛筆とか、多崎つくるとかいうタイトルのを以前読んだが、つまらなかった記憶ははっきりあるが、中身は全く覚えていない。 村上春樹の小説でノーベル文学賞級の小説って何がある? 久しぶりに一人称単数買ってつまらなくてだめだった。女のいない男たち、は面白いのかな? 毎日毎日あちこちの春樹スレを巡回してるヤツがよく言うわ 今現在、日本は帰化朝鮮人によって大韓民国と北朝鮮に侵略行為を受けている
彼らがやっていることは差別を盾にした隣国侵略行為である
新聞、出版社、テレビ局、大学教授は帰化系の人間ばかりでもはや合法的な侵略である
こういう組織やあらゆる会社で差別され排除されているのは日本人の方である
奴らがやっているのは緩い民族虐殺
帰化朝鮮人たちに日本人のふりをされてこのまま緩やかなホロコーストに向かうなら、戦った方がまし
「政治家に立候補する時、帰化朝鮮人の家系の人間か否かを公表する」を提出して過半の賛成を取って立法化しよう
そうなると帰化人に支配されたメディアによって差別だと糾弾し始め帰化人たちが暴動やら起こすだろう、
日本は荒廃の一途を辿る、内戦状態に近いものになる
だがそれを契機に民間でも日本人の振りをして日本人を追い込む人間を炙りだそう、そして奴らと戦うんだ
だがそれは当然のこと、国内で隣国の人間に侵略行為を受けているのだから
時間はあまりない、やつらが過半数を確保してからでは遅い
法律を変え日本人を差別、虐待し、
日本人の人口を減らし、移民を受け入れさせることで侵略行為が完了してしまう
こちらは隣国侵略だと堂々と主張して戦おう 村上春樹の短編が特段、長編に比べて面白いとは言えないので、このスレの命題に意味を感じない。
それは、「ドストエフスキーの短編を語る会」「カフカの短編を語る会」にさしたる意義がないのと同様。「川端康成の短編を語る会」「大江健三郎の短編を語る会」に「?」となるのと同じ。