丸谷才一
蓮實 まず「私小説」以外の小説(傍点)がはたしてあるのか。原理的な問題としてではなく、
具体的な作品として。たとえば丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』、あれは「私小説」的なもの
から可能なかぎり遠ざかろうとしているけど、小説としては零だと思うわけです。『笹まくら』にしても
『たった一人の反乱』にしても読んでいるとつらくなってくるんです。西欧小説にたいする後進国的
な思いこみだけで書いているでしょ、このひと。ヨーロッパのほんの一時期の小説類型に殉じよう
とする特攻隊精神というか、文学はもっと自由でいいわけだ。彼の場合も、「私小説」的に書いた
『横しぐれ』だけがちょっとおもしろい(一同賛同)。むろんよいものが出てくれば褒めるのにやぶさか
でないし、ぼくとしては「私小説」なるジャンルにべつにこだわっているわけではない。 (P32)
『批評のトリアーデ』(1985) >>394
君はこのあたりのやりとりの内容についていけてないね。 しかし河出書房新社〈夢ムック〉のタイトル
『追悼総特集 丸谷才一 古典と外文と作家・批評家』の外文はひどいね
豊ア由美あたりが海外文学のことをガイブンと言ってるけど
外文なんて意味不明だ げ‐ぶん【外文】
外印(げいん)を押した文書。げぶみ。
確かに酷いな。豊崎の悪影響だ。 うん、基本略語って品がないけどガイブンってのは特にそれが顕著だね
ちなみに俺は豊崎のことは別に嫌いではない 「基本〇〇って」っていう「的に」を省略した書き方って品がないけど
ガイブンよりはマシかもしれない >>399
おいおい、「基本〇〇」は国語辞典にも載ってる普通の用法だぞ 辞典に載ってれば品がなくないのか。そうか。独創的な見解だな。 そうじゃなくて略してるわけじゃないと言ってるんだがな >>402
おまえ、どっかにいたな、そういう妙な言い草の(笑 野坂昭如さん、なくなりましたね。
仲人やったんだっけ? 挨拶はむづかしい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%A8%E6%8B%B6%E3%81%AF%E3%82%80%E3%81%A5%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%84
『挨拶はむづかしい』(あいさつはむずかしい)は、丸谷才一の著書。「挨拶」シリーズの第1作目。
1985年9月15日、朝日新聞社より刊行された。装丁と絵は和田誠。収録された挨拶の数は38。
巻末に野坂昭如との対談が付されている。1988年6月、朝日文庫として文庫化された。
2013年9月、本書と2作目の『挨拶はたいへんだ』(朝日新聞社)を一冊にした『合本 挨拶はたいへんだ』(朝日文庫)が刊行された。
Category:丸谷才一
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%B8%B8%E8%B0%B7%E6%89%8D%E4%B8%80
丸谷才一
あ
挨拶はたいへんだ
挨拶はむづかしい
い
いろんな色のインクで
う
裏声で歌へ君が代
お
男のポケット
こ
ゴシップ的日本語論
さ
桜もさよならも日本語
笹まくら
し
思考のレッスン
樹影譚
な
梨のつぶて
に
日本語のために
ふ
文章読本 (丸谷才一) 松本清張全集の解説はよかったな
才能溢れる小説家を才能のない人間が解説という形とはいえ評論するにあたっての
分際を弁えた長い引用と俯瞰的な視線
蓮實にはお前さん今更そんなこと言っても始まらないだろう
不毛なのはお前のほうが上だろと >蓮實にはお前さん今更そんなこと言っても始まらないだろう
>不毛なのはお前のほうが上だろと
意味不明。書き直し! 野暮で不細工な奴がキザったらしいことしても気持ち悪いだけという好例が丸谷才一 >>409
あはは、おまえが言われたんだろ、それ(笑 冨田健太郎
丸谷才一、1990年。「『星野鉄拳野球』なんて幕を外野席にひろげて、おだてる奴がいる。
大洋の大杉新コーチは記者会見で、大いにぶん殴るなんて公言してゐる。
よしたほうがいいなあ。もうそんな時代ぢやないよ。もしも本当に殴る気なら、日本人の選手だけぢやなく、外国人選手も殴つてみろよ」
【承前】2年後、また丸谷才一は書く。「このあひだヤクルトの野村監督が荒井選手をポカリとやりましたね。
スポーツ新聞その他は、殴ることそれ自体を非難しなかった。衆人環視のなかでやるのはまづい、と批判しただけだつた。
/ああ日本の野球は忠勇義烈だなあ」
【承前】丸谷才一が批判するのは、日本では名誉を重んじたので人を殴れば大問題だったが、
帝国海軍は英国から、陸軍はプロシアから体罰を学んで簡単に殴るようになったこと。
さらに、殴られる経験をした教員が学校で実践し、さらに体育系ではそれが積極的に容認されるようになったこと。
丸谷才一は、軍隊における体罰については野間宏『真空地帯』を読めばわかるというが、おそらく丸谷本人の体験に根ざしているのでしょう。
2016年1月24日 あなたは40代ロサンゼルス府警工場作りですか?ドーハの悲劇「横浜衝撃イヤフォン」「横浜悪夢イヤフォン」ですか?
それともいくつですか?huluさん?
それともいくつですか?huluさん?
それともいくつですか?huluさん? 1987年のリスボン
村上春樹「蛍」が1983年、丸谷才一「鈍感な青年」が1986年。
ほぼ同じ時期に若い男女の、友人の死の影をともなった逍遥を描いている。
ただ「鈍感な青年」の二人はその死を共有していないので、
女の欲望はためらいのない軽快なものに映り、佃の蔭祭や行為の失敗でさえ、にぎやかな祝祭のようだ。
2016年5月4日
蛇口ひねる
丸谷才一著「星めがね」を読み終わった。文庫本や文学全集に書かれた解説をまとめた著作でした。
かつて文学全集ブームというのがあったのです。1975年の出版だから40年以前のものですね。
定価980円、安いけれど造本はしっかりしてて今は高価格な本にしか採用されないクロス装なんです。
2016年5月13日 2016年05月09日
日々の泡立ち
五月某日
井上ひさしと丸谷才一の『短篇を読む、短篇を書く』という対談の中で、
「ジョージ・ケナンが、仕事に疲れたとき、ちょっとチェホフの短篇小説を一つ読む。
読み終わると、またその晩、短篇小説を読んだほかに自分の本筋の仕事ができるという。」
と丸谷才一が紹介していたのを読んで、あー、なるほどなーと。
対し、井上ひさしが、
「芝居で煮詰まっているときに、いい短篇を読むと、なにか前と違う頭になれるような気がします。」
と続けて、うん、なるほどと。
http://blog.livedoor.jp/leitch/archives/2016-05.html 井上ひさしの「煮詰まる」は誤用の方の使い方のような気がする 小谷野敦
レビュー対象商品: 日本語を作った男 上田万年とその時代 (単行本)
副題から、上田万年の伝記かと思ったが、いきなり小説みたいにして始まる。
あとは言文一致体についての学問的紹介と、その他鴎外とか漱石とか芳賀矢一のこととかがだらだら書かれていて、伝記ではない。
かといって丸谷才一の珍妙な谷崎論まで出てくる(谷崎が松子の文章の影響を受けた、なんてことはないので、『鮫人』ですでに英語翻訳調を使っている)。
娘の円地文子についても、さして大きくは出てこない。中途半端な本である。ほかのレビューは一人は本人、あともステマくさい。
(追記:五点レビューが増えているがみな山口の著作ばかりレビューしていて笑える) ん? 丸谷の谷崎論って
翻訳調だった谷崎が、松子の文章の影響で変わった
というのではなかったかな 朝日新聞(リレーおぴにおん)テレビの時間:4 糧になる批評、自問続ける
1982年9月、朝日新聞文化面トップに、TBSドラマ「淋(さび)しいのはお前だけじゃない」の評が載りました。寄稿は作家の故・丸谷才一さん。
仕事をやりくりするほど夢中で見ていたという番組の成功の理由は、大衆が馴(な)れきったリアリズムから離れたことだと、鮮やかに分析していました。
丸谷才一氏絶賛
われわれが見るのは大人のための童話劇であって、それは日常的な現実の外へ快く連れ出してくれる。そこには実用的な誠実主義の押し売りがなく、その代わり『青い鳥』や『不思議の国のアリス』に通ずる遊びごころがある。
そしてこれこそは、『淋しいのはお前だけじゃない』を在来のテレビ・ドラマと分かつ最も重要な点であつた。この作者は、リアリズムからふはりと離れることをきれいにやつてのけたのである。しかも、話の辻褄を合わせながら。でたらめにはならずに 足利時代〜室町時代はあまり日本史のなかであまり注目されていなかった。
脚本家の市川森一さんはそこに着目し、大河ドラマ「花の乱」(1994年)の脚本を書いた。
ところが資料を集め出すと、あまりない。詳しいのが、東京大学資料編纂所の「大日本資料」だった。
神保町の古書店でみつけ、室町時代にあたるのが十冊くらい見つかった。ところがばら売りはしない、という。
思わず全巻337巻に大枚800万円を払って衝動買いをしてしまった。
奥様から、涙目で「半年、どうやって生活してゆけばいいの」とぼやかれたとか。
http://blog.goo.ne.jp/rokuai57/e/0470ad476c5201a3b31115706cbda182
脚本家の市川森一さんが『若い藝術家の肖像』を読むきっかけは丸谷才一の新訳版が昨秋、刊行されたことから。
http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-column/news/20100309/enc1003091633008-n2.htm 「ほとんどの本は、余程の愛着か必要がないかぎり、捨てるなり古本屋に売るなりして処分してしまうので、
70年代はじめに買って今でも手もとにある何冊かの本の値段をなんとなく調べてみる。
純文学の小説が箱入り布製で千円以下の値段におさえられているのに、
’73年初版発行のアイルランドの作家フラン・オブライエンの『第三の警官』(筑摩書房)は、
ロレンス・ダレルの『トゥンク』、ミュリエル・スパークの『ミス・ブロウディの青春』と共に一二〇〇円で断然高く、
新潮社のル・クレジオ『愛する大地』七五〇円、ソレルス『公園』五五〇円(まあ、薄い本ではあるけれど)で、
ナボコフの『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(講談社)は六五〇円、」
「日本文学では、私はなんとなく新潮社の値段が安いと思い込んでいたのだったが、
芥川賞受賞作で安め多売系の定価設定とはいえ、文藝春秋の丸谷才一『年の残り』が、
短篇四つで五〇〇円を切って四九〇円で、相当に安いのである。」
金井美恵子『目白雑録4 日々のあれこれ』
http://d.hatena.ne.jp/qfwfq/20110703/p1 寺田農インタビュー(前篇)
http://gold-fish-press.com/archives/1798
寺田 親父は昔の人だから、なんでもかんでも捨てないでとっておくというか、そのへんに置きっぱなしにしていた。膨大な資料でね。
親父が亡くなった後に、重要そうなものは美術館に寄贈したりしたんだけど、その中に手紙類なんかがたくさんあったんです。
それを整理してたら、面白い葉書が出てきてね。丸谷才一先生の葉書なんです。
親父から聞いてたんですが、丸谷先生は若い頃、うちによく出入りされていた。その葉書には、
「装幀を依頼したいけど、お金がない、はなはだ些少ではありますが、お引き受け下さいませんでしょうか」という意味のことが書いてあった。
親父の七回忌に大判の画集を作って、それを丸谷先生にもお贈りしようと思ったんですが、
住所がわかんなくってそのままにしていたら、偶然、銀座でばったりお会いしたんです。
その時に「先生が昔お書きになった貴重な葉書を持ってるんですが、買いませんか」って言って葉書の話をしたら、
「買いたいなぁ」っておっしゃってね(笑)。
丸谷先生のお話では、親父への装幀の依頼は、出版社がつぶれたか、企画が流れたかして実現しなかったそうですが。
だから当時はいろんな方がうちに出入りしてたんです。いろんな方がうちのことを文章に残しておられますよ。
種村季弘さんが、寺田さんに家(ち)は藪蚊がものすごくたくさんいて、
でもうちの親父だけは食われなくて、客ばっかり刺されてたとか書いておられる(笑)。
親父は庭に大きな甕を置いて、そこに睡蓮を浮かべたりしてたんですが、そこにボウフラが湧いて、そこからまた蚊が発生する。
でも親父は「いいんだ、あそこにはカラスが水飲みに来るんだから。みんな生きてる証拠だ」とか言ってたらしいですね(笑)。 丸谷才一(1925年8月27日 - 2012年10月13日)
永川玲二(1928年2月11日 - 2000年4月22日)
高松雄一(1929年7月25日 - 2017年8月19日) 亀井麻美
ずっと以前、丸谷才一の「ケインとカミュと女について」(福永武彦、中村真一郎との共著『深夜の散歩』所収)の
「大衆小説のパターンを利用した純文学作家は、文学史に拾っていったら、たぶんきりがないくらいだろう。
たとえば、ドストエフスキーはウージェーヌ・スューをみごとに利用しつくしている」
2017年9月13日
https://twitter.com/kameiasami/status/908019763942535168
1987年のリスボン
三茶書房が丸谷才一さんの蔵書だった文庫本を並べていた時に選んだ新潮文庫版『ビリチスの歌』。
開くたびにページが剥がれ、分解していく厄介な一冊だが、全てばらばらになって、もはや「本」でなくなったとしても残しておきたい。
http://pbs.twimg.com/media/DKmtYyyVAAAGLY0.jpg
http://pbs.twimg.com/media/DKmtYyzV4AA76dh.jpg
2017年9月25日
がいこつ
それで思い出したのですが、谷崎潤一郎の『文章読本』を、丸谷才一が
「あれは日本語じゃなくて、英文法を前提にした文章作法の本だ」みたいな指摘をしているんですよね。
漱石から谷崎くらいまでの20年ほどの間で、そうした漢文素養と欧米語の素養が混乱するほどの進行があったのかもしれんですね。
2017年10月11日
Sお
クリスティの『春にして君を離れ』はイシグロの『日の名残り』に影響を与えているという昔からの妄想。
丸谷才一の「『郵便配達は二度ベルを鳴らす』はカミュ『異邦人』に影響を与えている」方式(方式?)
2017年10月6日
蔀 県
丸谷才一をどう思っているかなんて考えたこともないけど フランス映画『去年マリエンバートで』を激賞してたのはちょっと意外だった
中央公論『日本の文学』46巻付録の 川端康成・宇野千代との鼎談で言ってる
いわく「感動しすぎて、なにか物そうにも三枚以上は書けないだろうと思った」
2017年9月3日 中野孝次について。―01
http://www.asahi-net.or.jp/~nz6k-imi/01magajin/magajin16.6.html
一九五三年 (昭和二八年) 二八歳
ゲーテ書房在職中から荻原芳昭と訳していたカフカ『城』が、
辻増も加わった共訳として、新潮社版『カフカ全集』の第一巻として出版される。
国学院大学は拡張期にあり、外国語科主任菊池武一教授のもと
英語に丸谷才一、仏語に橋本一明、独語に中野孝次が入り、以後次々と若い俊秀が教師となった。
成瀬駒男、永川玲二、小田島雄志、飯島耕一、松本俊介、菅野昭正、清水徹、安東欣男、竹内芳郎、高松雄一などが加わって、
若々しい活気のある所となった。ここが以後一〇年余最高の文学道場であった。
自分はもっぱら、ホフマンスタール、ムージル、プロッホ、カフカ、ノサック、グラス、ベンヤミン、フリッシュなど現代ドイツ文学を読んでいた。》 ナッシー(Takanashi)
10年越しの企画が形になった!
夏目漱石が『吾輩は猫である』執筆の参考にしたのではと丸谷才一に推理されているコヴェントリーの『チビ犬ポンペイ冒険譚』です。
原書を図書館から借りてコピーして、10年間、いずれ翻訳書出したいとずっと持っていて、ようやく話を聴いてもらえて出せた(涙)!
http://pbs.twimg.com/media/DNWlZBDVwAAIj9c.jpg
2017年10月29日
丸谷才一にインタビューした折、まとめた文章がこちら。
「明治末期、不安と焦燥の時代の斬新極まりない「反小説」」とタイトル冠しました。
『1時間で読める!夏目漱石 要約『吾輩は猫である』』(講談社)に収録されています。
にしても、2回インタビューしたのであるが、とても緊張した記憶だけ。
http://pbs.twimg.com/media/DNZY1viUQAATrNI.jpg
2017年10月30日
『事件』大岡昇平|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談
https://allreviews.jp/column/1566 G.L.J.
元図書新聞編集長で仏文学者のYさんと会って色々話をした。
特に、西部邁、安原顯、阿部晴政、花田清輝、三浦雅士について。
三浦に関しては編集者としては優秀だったが、文芸評論家としては柄谷行人→丸谷才一の腰巾着にすぎず、
凡庸な常識人という意見で一致。『メランコリーの水脈』は割と面白いが。
2018年3月18日
8Bのオーナー
遠藤周作の『駄犬』に登場する、主人公と犬を挟んでいがみ合う嫌みな評論家=「丸田利口」ってのは、丸谷才一のことかな。
2018年3月24日 >>17
>丸谷の初期の作品どれでもええからみてみ、文体の冴えのなさゆうたら呆れる
>ほどやで・・だから江藤にバカにされるんやろ >>147
>大江や井上ひさしみたいなガチの左翼なら「後鳥羽院」や「新々百人一首」は書かないよ 『輝く日の宮』の丸谷才一さん
インタビュア 鈴木健次(大正大学教授)
丸谷 面白いでしょう。小説っていうのは面白いものだと思
うんですよ、僕は。日本の小説家がわざと面白くなく書くの
は間違っている。僕は文学賞の選考委員をやるとき、まず目
をつけることが三つあるんです。筋が面白いか、作中人物に
魅力があるか、それから書き方がおもしろいか。筋は大事だ
けれど、筋がいくら面白くても出てくる人間がロボットみた
いだとつまらない。筋がよくて作中人物がよくても、書き方
に新しい工夫がなくて古臭い書き方を踏襲しているのは、僕
はやっぱり惹かれないんだなあ。
(2003年6月16日 東京・目黒にて取材) <論争を読む> 論争評判 不言思本忠心蔵 : 丸谷才一『忠心蔵とは何か』をめぐって ·
敷地 博 · Hiroshi Shikichi. 成城国文学,(2),47-51 (1986-03). 丸谷才一『文学のレッスン』聞き手湯川豊。新潮社、2010
《丸谷 短篇小説とは何かという定義となると、一筋縄ではいかない難しさがあるから、
それは脇に置くとして、短篇小説の短さにもおのずから限度があって、極端にうんと短く
なってしまうと、それはアネクドート(逸話)になる。短篇小説じゃなくなる。アントニ
ー・バージェスというイギリスの作家・批評家が『エンサイクロペディア・ブリタニカ』
の「小説」の項目でそういってるんです。バージェスの説は、たとえばワシントンが桜の
木を伐(き)って、それを正直に父親にいった。父親がその正直さをほめて伐ったことを許
したという話、あれはアネクドートであって短篇小説ではない、ということですね。
アネクドートは短篇小説ではないとしますね。そのアネクドートと接して、ここから短篇
小説になるというのは、スケッチという言葉がぴったりかも知れない。川端康成の「掌の
小説」は駄作もあるけれど、おおむねいいものが多いんです。今の作家では江國香織さん
の書くものは、短篇小説というよりもむしろスケッチに近いものがあって、あれ、うまい
ですね。》
《丸谷 もう一つ、連作短歌とか連作俳句というのがあるでしょう。俳句の場合だと水原
秋桜子(しゅうおうし)とか山口誓子(せいし)とかが、どこか旅に出て、長崎なら長崎の句を
連作としてつくって一緒に発表するというものですね。あの連作に似ているのが、小説の
サイクルという方法です。サイクルというのは、この場合、一団とか一群という意味なん
です。
具体的にいうと、ジョイスの『ダブリン市民』。ダブリンの人びとのことばかりを短編連
作のように書いて、一冊の短篇集にしている。あれはサイクルです。》 赤井浩太
『国文論叢』55号がネット上で読めるようになりました。
特集「漱石論の現在」のほか、梶尾文武の『笹まくら』(丸谷才一)論、劉
夢如の『阿呆船』(寺山修司)論などが読めます。
2021年1月21日
北烏山編集室
ジョン・バースの訃報。大学に入るか入らないかぐらいの頃、『ユリイ
カ』で丸谷才一さんと井上ひさしさんの対談があり、そこで、野崎孝先生
の『酔いどれ草の仲買人』の翻訳が激賞されていたのだった。1/n
2024年4月3日