三島由紀夫の「豊饒の海」を語ろう★
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『豊饒の海』(ほうじょうのうみ)は、三島由紀夫の長編小説。
「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の4部からなり、「浜松中納言物語」に題材をとる。
1965年から1970年にかけ、月刊の文芸雑誌『新潮』に連載された。
概要
「夢と転生」がテーマ。20歳で死ぬ青年が、次の巻の主人公に生まれ変わっていく。
仏教の唯識思想、神道の一霊四魂説、能の「シテ」「ワキ」、春夏秋冬、など様々な東洋の伝統を踏まえて書かれている。
なお第一巻は和魂を、第二巻は荒魂、第三巻は奇魂、第四巻は幸魂を表すと三島は述べている。第四部「天人五衰」の入稿日に三島は、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した(三島事件)。
「豊饒の海」とは、月の海の一つである「Mare Foecunditatis」の訳語。
創作ノートからは、当初とは全く違った構想だったことがうかがえる。 本多=三島
聡子=園子
主人公たち=近江
仮面の告白のリメイク
春の雪が何で雪かと言うと仮面の告白の雪の場面で近江に恋したから
不良の中の子供っぽい部分に気づいたあの冬の日に
三島は本気で近江に恋に落ちた、だから春の雪
転生者が何故黒子なのかと言うと仮面の告白の近江の鉄棒で見せた
たくましい体と黒々とした腋毛に三島は自分は届かないと恋に挫折した
だから主人公は脇腹に黒子を持っている
そういう届かない存在でないと恋に値しない
暁の寺は秋になっておそく女の問題でいなくなった
自分を置いて消えてしまった近江の話
天人五衰は近江がいなくなり喪失感に苛まれた戦後の三島
近江と三島=本多は恋に値しないから園子=聡子を近江の恋人にして
近江のいない悲しい人生を描く 仮面の告白の園子=聡子
園子と結婚していれば、仮面の告白は世に出ることはなく、大蔵官僚として堅実な人生を
歩んだか。 出世をあきらめた後、役所を辞めて、作家になっただろうか? その場合、
社会の裏側を見て、ロマン主義的作風ではなくなっていただろう。 園子と結婚するなんてことはありえなかったってことを書いたのが仮面の告白だと思ふ そう強がりでホモって仮面をでっち上げた小説
三島はホモではない
ホモの仮面を被ってただけ いやホモはホモでしょ
マッチョ男(刺青があればなお良)を見たら勃起するってのは嘘だとは思えない
しかし女に惹かれる、女を必要としてた男であるのも事実だと思う
性的には男に興奮し、恋心は女かよ 矛盾してるじゃねえかって言われるかもしれないが
普通のノーマル男でも、性的に興奮する女と恋心を抱く女は別種であることは多いので
性と恋の分離は別におかしくはないとオモ 三島が最もびんびんにエレクトできたのは
「聖セバスチャン殉教図」
オンナとかホモとかじゃあないんだな 磔にされて弓や刃物で刺されていたぶられて死ぬ
そういうのが好きなの
SMのマゾなんてもんじゃない、死に至るとこまで行くのが理想だからな
本当は切腹じゃなくそういう死に方がベストだったが、なんとか写真集出して自分を慰めてたな いやホモかどうかつうのは要は対象のベースが男か女かって話だろ
そこからすれば三島の勃起の対象は明らかに男のほう やっぱ幼少期に母親(つまり若い女体)のスキンシップが足りなかったから
それが満足感の原型にならなかったんだろうな 三島由紀夫のように、研ぎ澄まされた様な文体で小説が書ける作家は今はいない。
平野敬一郎あたりではまだまだである。 研ぎ澄まされてはいないでしょう
精緻な論理構成と華麗な修辞による
堂々たる建造物のようではあるけれど 一行一行の表現に魅力があるとは思うが
全体の話がなんだか「変」、無理に操作してるって感じがする 暁の寺の冒頭とかにそれっぽい法律論が出てくるけど
ちゃんと勉強すると微妙に間違ってるよね
半分かりのを飾りのために尤もらしく書いてるみたいな
三島が好きになれない人って結局そういう所が嫌なんだと思う >>637
トーマス・マンのオマージュじゃないのかな
『魔の山』とか『ワイマルのロッテ』等の
知識があるとふざけてることが解る議論を、糞真面目な文体で書いてる所とかの >>636
物語として面白いとか、人間の心理えぐるとかそういうタイプの作家じゃないから。
文体と、警句や逆説が楽しんだ。
シュールアホリズム。 そうなの?
清顕さんの思考の屈折具合とか昔の自分見てるみたいで読んでて心が痛くなった… 奔馬の初めに出てくる、奈良の何とか神社の百合祭り?
今年はどうなったんだろう? 『春の雪』がダントツの出来で、あとの3作はたいしたことはない
自分はこの四部作はバルザックの人物再登場法を使った別々の小説とみている
連作小説としてのつながりはかなり弱い 遠憲あたりかな。
松重さんだと真面目過ぎちゃう。
大杉錬さんは死んでるし…。 最近のガキ、特に5ちゃんに来ている様な餓鬼どもは、情報過多の世の中で
溢れる玉石混交を見抜くこともせず、勝手な虚構を自分の中で組み立てて
知った様な大法螺を平気で抜かしているから笑える。
おまえら、全てに於いてそうだよな。
馬鹿言う前に、春の雪から天人五衰まで、まずは通読しろよ。 どーだったかな
ふんわりした記憶でも言ったらネタバレになりそうやし
今ここに読んでる途中の人いるんでしょ
知らない方が楽しめるよ 法律、裁判所の描写が詳細ですね。インド、仏教への造詣も深く、勉強になります。 >>644
「豊饒の海」の主題が何かってまったく気にしてないんだな
そういう気楽な読み方ってのもありなのかもしれんが、三島渾身の力作がそんなふうに読まれちゃ立つ瀬がねーな
言っておくが、輪廻転生は単なるフリで主題じゃあないからな 春の雪で肺炎になっていく過程の描写がやや性急な気がした。 春の雪で、寝取られた皇族のその後に一切触れず進行するところは、氏の文体の、格調を保つ意味では、三文的にならずよかったと思う。 奔馬で、みねと侯爵ができていて最初の子が飯沼のか侯爵のかわからん、というくだりがありますが、春の雪でみねと侯爵ができていたという話はなかったですよね? >>661
では君はその主題を何と捉えているのかな? 天人五衰ちゅう題はミスマッチやな、
内容とのつながりが不明、
根本は、仏教など少しも信じていない作家が、
仏教思想を利用しようとした点
神道ならまだほんまもんや >>666
認識とは何ぞやってお話。
現実に起こってること起きたことという「事実」はただ一つしかないが、
それが人間が認識する、脳内に入ってしまうと、その現実の「事実」と認識したものは、果たして同一といえるのか?
過去(記憶)と未来(想像)って、人間の脳内で処理してる場合、その違いって何なの?
さらには「今」まで加わるが、「今」って果たして存在するのかよ?
時間は流れているから、「今」という瞬間、境目はないんだ。
境目がないんなら、過去と未来の違いはどうなるのよ?
ってなことのお話。
「暁の寺」で説明不能の「空」の話をしたように、結論は出して(出せて)ない。
と、オレは思ってます。 聡子さんが、松枝清顕のことは覚えていない、
そんな人はいなかったというが、
これは老人性の記憶脱落と考えられる、
本田といい、聡子さんといい、老人問題が顕著
その点現代的先駆的である、さすが、 ニーチェが神は死んだって言ってるのに、神としての天皇を蘇らそうとしてるのが三島
神は死んだよって言ってるのが聡子さん
三島はニーチェの逆をやろうとしたのか
太宰の逆をやった三島だからあり得るな >>669
それは哲学が扱うテーマだね
文学が扱っても答えは出せない
三島の小説の多くが観念的なのはそういう哲学的テーマを扱うからだ
だったら彼は哲学者になればよかったのだが、文学が好きなんだね
わたしは哲学嫌いだから、小説に哲学的テーマが扱われても無視する
『春の雪』は三島の最高傑作だが、『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』は
空疎極まりない >>670
最初から読んできてその結論かい
そこまで短絡な解釈されちゃ三島も浮かばれねーなー
「奔馬」のラストをよく考えろ
実際に朝日は昇っていないのに、腹切った瞬間脳内では朝日が昇ったんだ
そーいうことを言い続けてるのが「豊饒の海」なのよん
「奔馬」がってことじゃないが、「豊饒の海」は遺書みたいなもんだ
なんで物書き、文学者を止めて、腹を斬るという肉体的な行為で死ぬのかという説明、あるいは宣言みたいな書なんだよな >>674
三島の小説は、物語として読んじゃ楽しめるものはほぼないと言っていい
登場人物を借りて三島のこねくり回した理屈を訴えてるんだ
心理描写にすぐれてるとかいうのもありゃしない
そりゃそうだ、そんなことやっちゃいないんだから
しかしまあ多かれ少なかれ小説家ってのはそういうもんらしいな
結局自分の事しか書けやしないんだって
太宰だったっけかな
小説を書くというのは、往来で素っ裸になって歩くようなもんだ、とか言ってたのは >>674
物語としての面白さを求めて読むことを否定はしないが、それじゃ三島の小説なんかで面白いものなんかないんじゃね?
「春の雪」だけが、らしくない異質な作品だったともいえるか
現実の世界で起こっていることと、それを処理する個人個人の脳内の世界が果たして同一なのか、同じと言えるのか
あるいは、違いがあるとしてもその違いは、異質、別物とまでなるものなのかとかってな問題は、さほど哲学的なことでもなく、小説のテーマになるのも不自然なこっちゃないと思うけどな 槙子役は誰がいいであろうか。
竹内結子は中村より男であった。 三島は『春の雪』と実話を題材にした『宴のあと』が面白い
それ以外は観念的でつまらない みたらい
@46wtcFjxWqXmCbi
2月19日
ある大学教授の韻文。身体感覚を旨として作っているらしいが、客観性を持つがあくまで主観的な観点から発せられる言葉をもって、その感覚が読み手に伝わるとは思えないケド。難解好きなインテリがはまる陥穽じゃないかなあ。
むしゃくしゃしたんで、庭に立った霜柱を踏みつけた。はあ、スッキリ。
何様やねんこいつ 豊饒の海は春の雪以外ゴミというなら同意する
冒頭から文章下手くそ過ぎて読む気なくす 豊饒の海の面白さがわからないって不幸だな
三島作品それだけ読んだってのならわからんでもないが、多くの作品読んだ上でだろ
まあ人の感想だからどうでもいいことだし、オレがわかったことをみんなが共有する必要もないことだけど、一応チャチャは入れておきたくなるわ 三島がなんであんな死に方したのかを探るのには「豊饒の海」の理解が必要ではある
また三島個人の思想とかを考える上でも必須になる
三島由紀夫という人間はどういうもんだったかってのを考えるのにはね
そんなことはどうでもよく、ただ作品が楽しめるかどうかってなことだけだったら、そりゃ人それぞれ勝手に好き嫌い言ってればいい 作家自身から独立して作品だけで名作たり得るものは無いと言われてもしょうがないんだな なぜラスト、あんな何もない地点に行きついたのだろう
あの後、死が待っていたからか 何もない地点?
どういうことかわからんぞな
「豊饒の海」は、存在と認識ってのがコアになってるお話だって分かれば何のことはないんだがな
例えばそこらに咲いてる花があるとする
人はそれを見たり触れたりしてその存在を知るわけだが、それは目で見たものを脳が認識して花だと思うんだ
その脳で認識した花と、実際にそこに咲いてる花は同じものなのか、同じと言えるのか、あるいは違うものなのか?
また、二人の人間が同じ花を見たとする
二人が見れば二つの花がそれぞれの脳内で誕生するんだ
見てどう思うかも全然違うかもしれない(少なくとも全く同じってことはない)
その二つは同じものといえるのかね?
現実に存在している物体でさえそういうもんなんだ
いわんや、昔の出来事の記憶においておや
それが「こころこころやさかい」ってこと
物語の中の本多はそのことに気づいてなかったんだが、読者もそれに付き合ってちゃ理解はできないってことだ
しかしわかっちゃうとラストの「衝撃」がなくなるのよね
くだらねー小説だったなってなってしまうという皮肉 三島に限らないけど日本時作家は西洋式の哲学については造詣が浅いから、
その観点から見ちゃうとどうしてもくだらなくなるんだよなあ 理屈にキレがないんだろうな
説明不能の「空」を説明しようとしたりするんだ、お得意の逆説が繰り出せないからな 三島由紀夫の埋もれた超短編作品「恋文」 文芸誌掲載へ
https://www.asahi.com/articles/ASP4575XHP44UCVL001.html
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20210405002847_commL.jpg
作家の三島由紀夫(1925〜70)が、新進作家として歩み出していた20代半ばに「恋文」と題した掌編小説を残していたことがわかった。全集や単行本には未収録で、専門家にも存在を知られていなかった。7日発売の文芸誌「新潮」に掲載される。
「恋文」は、宴会に出ていた男がハンカチを取りだそうとして、知らないうちに入っていた手紙を見つける場面で始まる。「明日五時PX前でお待ちします。X子」。匿名の恋文に隠された秘密が米占領下の日本の状況を暗示するような短い物語だ。 >>664
みねには侯爵の手がついていた、てあったよ。 >>664
春の雪で、みねには侯爵の手がついていた、てあったよ。 >>706
奇麗ごと言い過ぎやw
侯爵の手じゃなくて侯爵のマラだろw >>707
本文まんまだよ。
ただ、奔馬では松枝侯爵家はすっかり落ちぶれて、父侯爵は悲惨だよね。 >>670
聡子にそう言われたらそんな気もしてくるしね。
つまり、登場人物、物語全て、本田の妄想、てこと? >>708
三島の父方先祖は幕臣だから、明治維新で
成り上がった勲功華族の松枝侯爵家を冷や
やかな目で描いた?
大体の幕臣が先祖の時代小説家は早乙女貢
などを典型として、薩長土肥をケチョンケ
チョンに書いているw
太宰治は戊辰戦争で寝返った弘前出身だっ
たのも、三島と仲が悪かった理由か。
浜松中納言物語に想を得たというが、浜松は
当時の女性批評家「無明草紙」が褒めた。
松浦宮物語といい、浜松中納言物語といい、
中国を舞台にした日本の騎士物語は、中世西欧の
knight errant騎士物語と同じく、自分より上流の女性との恋愛
話になってる。
三島自身にもそういう上昇志向が潜在してたような。 >>709
本多には本多の記憶があり、聡子には聡子の記憶があるんだ
実際に起こったことと、人それぞれの記憶は一緒じゃあないという単純な話じゃん じゃ実際にはあったけど、本多はしっかり覚えていて、聡子はすっかり忘れていた
ということでOK? 戦後の日本を認めようとせず観念の中で死んだ三島の鏡
存在しなかったことが明らかになる最終巻を脱稿した日に自決してるのはそういうこと
三島の人生は壮絶な劇というほかない >>712
誰の記憶が正しいとか間違ってるとかは問題じゃないんだと思う
実際にあったことですら、それは「正しい」あるいは「絶対」なのか?
全ては人間個人個人の脳内で処理されるんだ、世の中のあらゆる出来事は
そっちを「絶対」にしちゃったら、世の中のことは「夢まぼろし」ってことになるよね
まあそんなことをいろいろ言い続けてるのが、この作品やね >>713
存在しなかったということが明らかになったわけじゃない
さんざん3巻で空の説明してたでしょ
在るとも言えば在るし、無いと言えば無いとか
そのどちらでもないとかなんとか
人の脳内世界はその人それぞれのもので、他人とはもちろん実際にあった現実とも違いがある
本多はそれがわかってないだけ
「こころこころやさかいに」ってどういうことってのが
本多がわかってないからって、読者もそれに付き合うことはなかろうよ >>713
逆だろ
小説書きという観念の世界で「生きて」きたんだ、三島は
死ぬ時はそれを捨てて、リアルな感覚(腹切った時の)を求めたんだ
三島の分身という人もいる本多は、ずっと人がやってることを見る側の人間
自分で行動するんじゃなく人を見てる、認識する側の、小説や評論書いてる三島と同じ側の人間
ラストで本多が否定されたのは、三島の生業への決別みたいなもん
自決は、思想のためじゃないよってことだな
認識じゃあなく、リアルな肉の感触を味わうために死ぬんだぞって 仏教でいうところの阿頼耶識というやつやね
あるといえばある
ないといえばない
三島は、ここに一枚の皿があるだろとタテにして持って、その上にさらに横に向けた皿を載せて
これが阿頼耶識だと説明していたそうだが。(ようするに意味不明ということか) 阿頼耶識なんて仏教を本格的に勉強した人間でも難解だという。
なぜ三島が最後の最後にそこにたどり着いたのだろう? >>718
辿り着いたわけではなく、三島には三島の人間の(あるいは自分の)「認識」とはどういうものかというのがあったと思う
しかしそれをうまく表現できないから、仏教哲学借りて説明しようとしてたんじゃないかと
小説書きとしては怠慢かもしれんな
「神風連史話」とかまんま載せちゃうとこなんかも、三島はよくそれを自分で許すことができたもんだって思っちゃうな 読後感は人それぞれだろうけど、なんか最後で煙に巻かれたって感じがしたわ >>709
聡子という女性に酒飲みに連れてってと誘われてホテルでペロペロしてたら
「入れて」と言われて …
実話です。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています