【グレート・ギャツビー】フィッツジェラルド
>>136
そうかぁ〜?
まあ彼は童顔だから実年齢と違う30歳て設定は違和感なかったが
全体的に90年代トレンド風映画で映画そのものの乗りが時代遅れて感じ バブル真っ最中だもんなぁ
Babylon Revisitedなら時代に合ってるかもしみったれてて見たくないか 春樹訳を読んで、フィッツジェラルドの小説は、かなり秀逸だと感じた。
すべての言葉が箴言のようだったし
まるで素晴らしく大きな壁画を形づくる一個一個突飛で魅力的な石である
ひとつひとつ選ばれた語彙の緻密さ、その奏功にうならされた。
遠景に隠された複雑な近景。鳥瞰図と虫瞰図を巧みに使い分ける筆致。
描写のフラジャイルさや心理的なものへの限りないこまやかさ、
そして風景や歴史的な視座への問題意識の広がりなど
アメリカ大陸に移民してきたすべてのアグレッシブな開拓者の
子孫たちにとってアメリカという国が根本的に抱えている矛盾というか
限界や空虚で虚飾なものをすべて包摂した作品なんだろうと思った。
だからアメリカ人には自ずと感じさせるものがあって、受けたんだろうと。
作者の小説態度に
春樹が見出した「ドストエフスキーにも及ぶほどの 途中で投稿されてしまった。
ヘミングウエーを超えてドストエフスキーに迫る深さがある
と読んだ若い頃の春樹の、「成熟した読み」にも驚かされた。
が、映画版を見たら
原作の一筋縄ではない奥行きはすっかり刈り込まれてしまって
見晴らしのいい芝生のうえで、わかりやすい野外劇がおこなわれているようだった。
ロミジュリやムーランルージュのときのようなあの映像編集は
原作とはミスマッチの功罪という感じ。
けっこう原作を大切に映画化していることはわかったけど
まあ映画は50点って感じだった。
原作は、ギャツビーの葬式前後〜エピローグ的なところに重要なことがいっぱいあるんだけど
映画はもう終末へ向けてお定まりの流れへ単純に雪崩れているといった感じで、それだけで減点30かな。 今アメリカは50s60sを今風にアレンジするのがトレンドですから。
生まれる前に嗅いだ匂いをどう表現するか…目が見えない人が描く景色や
耳が聞こえない人が奏でるメロディ…ある意味 ろ ま ん。 ギャツビーって毎日風呂入んねーんだよ。きったねぇー ギャツビーが毎日風呂に入んないって ちゃんと後ろの方に書いてあるぜ。
おまえら、ちゃんとギャツビーの小説全部読んだか?
ギャツビー、きったねー ケルアックの路上なんか読んだらきみは死んじゃうんじゃないかね ギャツビーが毎日風呂に入んないって ちゃんと後ろの方に書いてあるぜ。
おまえら、ちゃんとギャツビーの小説全部読んだか?
ギャツビー、きったねー 風呂入って死んだ奴はいても、風呂に入らないで死んだ奴なんかいねーよ グレートギャツビーの翻訳を読もうと思うんだけど
誰が一番いい?
悔しいけど村上春樹? 映画観たけど、現代版の設定にしほうがよかったかもね
ありゃジャズよりディスコ時代だわ。当時のファッションと髪型がSF世界の宇宙人にしか見えんw
役者はがんばってたのに残念 中央公論新社のグレート・ギャツビー(村上春樹訳)を読もうと思ってるんだけど、図書館でネット検索すると
・319ページの愛蔵版 (別冊付録:「グレート・ギャツビー」に描かれたニューヨーク 村上春樹著(28p)
・356ページの村上春樹翻訳ライブラリーシリーズ
の2冊があって、前者は予約もほとんどない状態、後者は予約で一杯で、いつ読めるかわからない状態なんだが、
やっぱり後者を読んだ方がいいの? 俺が読んでるのは昔も今もロバートレッドフォードが表紙の岩波文庫だ。
細かいことを気にするなら村上約じゃなくて原文を読め。 内容は一緒だよ
ただ、ハードカバーで読みたい人が多いってだけだろう >>152
同意。原文で読むべきだ。
アメリカの友達と喋ってると
原文で読んでいて良かったと痛感する。 グレート・ギャツビーの文学的価値がイマイチ分からん
個人的には感傷的なところが好きなんだが
いろんな作家がこぞってこの作品を評価しているところが分からん 『夜はやさし』読んでるんだが、場面だの情景だのまったく頭に入ってこない。
グレートギャッツビーやら短編は文体もストーリーもとても好きなんだが、翻訳が読みづらいのか、原書自体無理して書かれた感が強い気がする
上巻読んだが、糖質の美人との恋愛結婚と理想的な不倫相手しか記憶に残ってないわ… これのどこがいいのかまったくわからん。
俺の中では駄作。 誰の訳を読んでいるのかは知らんけど、
フィッツジェラルドは凝った文章を書くから、日本語に訳すのが大変。 他には、森慎一郎、谷口陸男が訳しているよ。
森慎一郎訳を読むべきだったな。
フィッツジェラルドに限った話ではないが、旧訳の小説は読むのが大変だよ。 旧訳になるのかw
ギャツビーは村上と野崎のどっちも良かったんだけど、あっちは登場人物少ないしストーリーも分かりやすいからなぁ >>159
俺に言ってるんじゃないなら>>163は無視してくれ。 谷口陸男は名訳者だと思うね。
この人の『夜はやさし』『日はまた昇る』にどれだけ感銘を受けたことか。 「夜はやさし」は原本からして二つのバージョンがあるからねえ。
人ぞれぞれだろうけど、
オリジナル版(ローズマリーの登場から始まる)を使った新訳の方が、
まずはリッチな描写を楽しみながら、物語に入っていきやすいと思う。 >>167
翻訳がいいから原作の良さを味わうことができる。
『夜はやさし』の情感豊かな典雅な文体と
『日はまた昇る』のハードボイルドな文体をきちんと訳し分けている。
特に、後者におけるヒロインの男っぽいセリフの訳にはしびれた。 >>168
出回っている数が少ないからね。
こういうのはどちらかというと図書館などが購入する本。
個人で買う人は少ないし、買った人は手放さないから値が上がる。 彼女をもう一度ものにするため必死こいて
働いたというのはいいんだけど成功するの早すぎないか? フィクションの成金だからな
あんな品の良い成金は現実には存在しない
だからグレートなんだよ >>167
将来有望な主人公が転落していくってだけのわかりやすいストーリーだと思うけどなあ。
旦那、妻、ローズマリーの三人の視点で語られるってだけ(最後のほうで破綻してる箇所もあるけど) レッドフォード版の映画見たけど
どいつもこいつも汗だくで暑苦しくてこっちまで
気分悪くなったがあれは演出なのだろうか
とくにろくでなしの主人公が一番汗だくで不愉快だった チャールズトーマスも本当はグレートギャッツビーになりたかったんだぜ! 映画みたけど、小説ではよくわからない筋がみえてよかった
ただデイジーを諦めればギャツビーも幸せになれたのになあ... ギャツビーにとってデイジーのいない世界なんてクソと同じだろ 実際には、そのデイジーがクソだったんだから、
むなしいよなあ。
女には夢やロマンは通じない グレートをここの住民ならどう訳すんだろ
あ、村上みたいに諦めてそのままは無しね 日本じゃわりと人気あると思うんだが、
どうして楽園のこちら側の新訳とか、美しく呪われし者の翻訳が出ないんだろう 翻訳者も翻訳に乗り気な出版社もいないんじゃない
だからといって村上春樹に翻訳されても困るが
光文社の古典新訳文庫ならワンチャン >>182
夜はやさしの新訳がされたのも50年近く経っての事だったみたいだし、
グレート・ギャツビーとある程度の短編があればいいって感じなのかなぁ
残念だ、長編くらいは全部翻訳で読める環境になっていて欲しい >>180
10か月ほど考えてみた。
「となりのギャッツビー」・・・だめだな 元々フィッツジェラルドはこの小説に『おバカなギャッツビー』って題をつけようと考えていた、という逸話を目にした事がある グレートギャツビーはアメリカ文学史の観点からは
間違いなくモニュメントだよ
あの時代のアメリカの豊かさを享受した都会の白人の心性と感性を余すところなく描けている
彼らの精神性が形を変えつつも現代に至るまで
世界中に行き渡ってるという意味では
普遍性を備えてると言える
文章は装飾的に過ぎるようにみえても
読めば読むほど過不足なく絶妙なバランスを
保っていることがわかる
それ自体が恰も当時の繁栄やギャツビーのストーリーや
もっと言えばフィッツジェラルド自身の生が不可避的に内包していた
脆さのメタファになっているようにすらみえる
だからこそ本物の作家の所業と言えるんだろうけど
アメリカ社会史、心性史および宗教史の知識なしに読んで愉しめるのは
ギャツビー本人と同じように青年期に
人生を決定づける恋愛を経験した男性だろうね
そこに限定すれば通俗小説としても一流 モニュメントだね
アメリカの中で完結した世界
まさに20世紀 >>43
かなり同意
しかし俺はこう考えている
努力ではどうしようもない壁がある
それが一番よくわかるのが恋愛である
貧乏人が無理に金持ちの女と無理に付き合っても合わんもんは合わん
金持ちの女も貧乏人の成金の男とでは何か違う
やはり豊かに育った人間同士がいちばん心地よい
貧乏人の男は金持ちの美人な女、それに象徴される世界に憧れるけど
絶対に手が届かない
両者の間にはものすごく高い壁がある
こういう感覚は俺自身の体験からかなりのリアリティをもって共感できる
俺にとってグレートギャツビーはこういうところがすごくリアルに描かれた小説だという点で印象に残る 金持ちと貧乏人の格差
階級社会
というものがものすごく厳しい世界であるほど
グレートギャツビーのことがより実感をもって感じられるだろう
そういう意味ではどちらかというと日本人には実感としてわかりにくいかもしれん
ヨーロッパに住んだらものすごくよくわかるようになる
階級の差
パッと見ただけで階級を見分けられる
という不思議な感覚
絶対に越えられない壁の存在 立ち居振る舞いなのか言葉遣いなのかなんなのか
階級の高い者同士は一目で分かり合える
これは貧乏人には全然わからない
不思議だよこれは
ギャツビーが大富豪として適当な女と結婚して子供をもうければ
ギャツビーの孫はデイジーみたいな女と結婚できたかもしれない
JFKなんかもそんな感じだろう >>43
デイジーは解っててバカ金持ち女やってるんだよね
詳しくは書かれてないけど彼女が金持ちの家に生まれたことで
葛藤しながら生きてきたことは容易に読み取れる
女の子は可愛いバカが一番云々のセリフは
聡明な彼女の諦念が言わせた言葉
その意味で魅力ないとは思わないよ俺は
話は変わるけどフィツジェラルドはフェミニストから
比較的攻撃されなかった印象がある
それはデイジーのキャラ造形なんかみても
なんとなく得心がいくんだよね 村上春樹は『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』に
収録されているエッセー「『夜はやさし』の二つのバージョン」でこの二つを比較し
おそらくカウリー版の方が全体のバランスは良い
しかしオリジナル版のミステリアスな雰囲気も捨てがたい
ただ自分は最初に読んだのがカウリー版だからかも知れないが
そっちに思い入れがある、みたいなことを書いている。 しかし村上春樹は見る目がないと思う。
断然オリジナルバージョンの方が素晴らしい。
前半の華やかさがあるからこそ
ラストの儚さと余韻の美しさが活きる。
改訂版ではそうならない。
出た当初はそれほど反響がなくて
がっかりしたかもしれないが
それでもフィッツジェラルド自身の
ポリシーと美学を貫くべき。
よって改訂の必要は自分は感じない。
森慎一郎の訳を推します。 もうちょっと安く出れば...
向こう(アメリカ)だったら
気軽に手を出せる値段なのに。
それだけギャツビーぐらいしか
日本では求められていないということか。 『夜はやさし』を出した時の
あまりにもの市場の反応の薄さに
改訂版のもくろみを
始めたのかもしれない
あれだけ心血を注いだにもかかわらず
さっぱりな反応しか得られなかったので
こりゃ順番変えた方がいいのかなと
思ったのかもしれないが
あの構成こそ
あの小説の唯一無二の個性を
表していると思うし、
改訂版は本人自身が完成させた
ものではなかったからな 『グレート・ギャツビー』は美的構成が整っており、芸術として評価が高い。
一方、『夜はやさし』は構成に欠陥があるものの、作者の真情がその濡れた文体に
横溢している点が傑出している。個人的には圧倒的に後者を愛する。 20世紀アメリカ文学は、一方にヘミングウェイの乾いた文体を、もう一方にフィッツジェラルドの
濡れた文体を創造した。そして、両者とは遙かに隔たったところでフォークナーの錯綜した文体を持った。 キレと抒情的があるとすると
『夜はやさし』はより抒情的の方に
寄っている作品
『グレート・ギャツビー』ほどは
メジャーになりきれないのかもしれないが
人知れず、でも深く
愛され続ける作品 ギャッツビーを原文で読んだ
ラストタイケンも原文だった tycoonは日本語由来なんだからちゃんとタイクーンって読めよ In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice
that I've been turning over in my mind ever since.
おれは今日から英語の勉強をすると決めた 読み終わったんだけど質問
ギャツビーは最初からデイジーの事が好きじゃなかったという記事を見たんですが本当ですか?
文章中では海外に行く前、互いに愛し合っているのを自覚したとあるんですが 209です。ごめんなさい間違いです、訂正します
yahoo知恵袋では「デイジーはギャツビーを昔から好きだったわけではない」という文章を見たのですが
本文では海外に行く前、互いに愛し合っているのを自覚したとあるんですが、どうなんでしょう?
これはただのギャツビーの自意識過剰だったんでしょうか?
結婚式前に手紙握りしめて酔って泣き喚いたデイジーは、その時まだギャツビーに対して恋心があったように思います。 ギャツビーにおいて金はポイントではない。
重要なことは最後の自己犠牲だ。
だから偉大なんだ。
自己犠牲は本当の英雄の行為なんだ。 ちょうどamazonで見つけて気になってた
訳者は何者なんだ? 最近『グレート・ギャツビー』読み終えたばかりなんだけど、とにかくシンドイ読書だった
空っぽな印象 >>215
いいね。荒地出版社の旧訳持っているが、ひどい訳で途中放棄したままだ。
今度こそ良訳であってほしい。もちろん買う。 ギャツビーは、映画は良いのだが、原作はぱっとしない。 ギャツビーの映画の脚本はコッポラ
それもゴッドファーザーPARTUと同じ1974年
つまり彼の創造力のピークの頃だ
悪いわけがない なるほど、しっかりと時代考証をしてファッションもそれっぽくて、絵画を見てるよう。
格差社会アメリカの富と貧困の鮮やかな対比や、富の嘘と一瞬の没落が描けていて、
映画はフィッツジェラルドの原作を骨組みとして使っているが、肉はコッポラがつけたわけね。
原作は膨らみに欠ける。 >>215
買ったよ。聞いたことがない出版社に訳者。解説なし。
大きな書店に在庫たった2冊きりだった。 春樹訳のグレート・ギャツビーを読み始めたけど、
思ってたよりもくどくどしい文体で読みづらい。。
こんなものなのかな? そうなのか。。
勝手に流麗な文体を想像していたからギャップが大きかったのかも。
春樹訳のレイモンド・カーヴァーは違和感なく読めたんだけど(原文知らないけど)。
夏バテで頭がボーッとしてたのかもしれん、時間を置いて読み直そう。 春樹の翻訳業だとカーヴァーが大傑作でフィッツジェラルド、特にギャッツビーが一番の駄作だからな う〜ん、国語力のない人はまずそのことをしっかり自覚するべきなんじゃないかな。 国語力とか言いだしたら
翻訳の日本語なんか汚くて
読めたもんじゃないな 1974 年の映画を名画座で見て、原作をざっと読んだ。
ギャツビーはロマンティストで、デイジーにもカネにも夢を抱いて、それに恋をしているだけ。
現実のデイジーという女は見えていない。
「アデルの恋の物語」でアデルにピンソンという男が見えていないのと同じ。
「スワンの恋」でスワンにオデットが見えていないのと同じ。