いろいろと盛り込みすぎなんだよ。木に竹を接ぐというか。
やりたいことをやりたいように詰め込んだ結果、長尺になってしまっている。
安っぽいクリシェと化した村上春樹的な「生き残された者の背負った宿命」みたいなテーマと、
俗物の塊のような教授に二十年以上も献身的に奉仕して、
自分の人生を棒に振ってしまったと感じているワーニャ伯父さんの絶望、
その2つを重ね合わせて悠介とみさき、ワーニャとソーニャを抱き合わせて
最後にソーニャによる「辛い運命だけど、これからも生きていくのよ」的な有名な科白を韓国手話を使って観客に向けて送る…
やりたいことは分かるんだけど、それにしては北海道で悠介が発する科白が陳腐なんだよね
こんなに長い時間かけて(妻の死から2年以上経てから)やっとそんなことに気づいたのかよ、みたいな
実はテーマがちぐはぐでチェーホフと村上春樹は食い合わせが悪いんじゃないかと疑ったな
チェーホフ劇の中にある多層的な感情の揺らぎみたいなものを、村上春樹は捉えていない。
それはチェーホフのレトリックに満ちたテキストを表層だけ捉えて、
テキストの内側にある重層的な言葉の意味のテクスチャーにまで達していないからだと思う