紫式部、源氏物語スレ
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日本の文学とか芸術とかいいますと、たいていの西洋人がすぐに思い浮かべるのが「源氏物語」でありましょう。
「源氏物語」はまた世界最初の小説として世界のひとびとの注目を集めています。
しかしながら「源氏物語」は、日本人があまり読んでいない作品で、世界的に名を知られているほどには
日本人が親しんでいるとはいいにくいのが「源氏物語」でもあります。
「源氏物語」を語り合いましょう。 Q:
最も古いノベルは何ですか?
A:
あなたの質問の答えは「ノベル」がどのように定義されるかによって、この質問の答えは異なります。また、「小説」はどのように定義されるか。
小説が「重要な長さの散文話」として扱われる場合、最も古い小説は11世紀日本で紫式部によって書かれて、恐らく源氏物語です。
源氏物語は、現代の目への小説として確かに認識可能です。 事実上、広く読まれ続けています、そして、多数の言語に翻訳されました。
この本は物凄い影響を国文学に与えました、そして、それは今日著名な日本人のノベル家による主要なインスピレーションの源に挙げられ続けています。
「ノベル」の分野の下で叙事詩を含んでいて、何人かの学者が含んでいるとき、問題はもう少し複雑になります。ギルガメシュのEpicとオデュッセイアの
両方が源氏物語よりはるかに古いです、そして、それらが現代のノベルへの先駆であるとある意味で考えることができました。
特にオデュッセイアは西洋文化と文学に莫大な影響を与えました。 この叙事詩からのテーマは西洋の芸術、音楽、および書法で何度もポップアップされます。
あなたが、ノベルの厳密な定義を満たさないで以来オデュッセイアが最も古いノベルであると考えていないなら、確かに、最も有力でした。
最も古いノベルのアイデンティティに関する論争は小さく見えるかもしれませんが、それは、好奇心をそそってかなり顕である場合があります。
「最初のノベル」としてのロビンソン・クルーソー(1719)が、おく面もなく作品を無視するのを選んでいるように、刊行物を支持する人々は、
早ければスペイン語で書かれた、多数のいわゆる「ロマンス」、フランス語、およびイタリア語に伴う源氏物語12世紀であるのが好きです。
ロビンソン・クルーソーはほとんども英語で最も古いノベルではありません、作者によって使用されたイギリス人が、ジェフリー・チョーサーが好きで
あることを理解するのに現代の読者は苦労するかもしれませんが。
(以下長いので省略。詳細は↓にて)
http://www.wisegeek.com/what-is-the-worlds-oldest-novel.htm やつを追う前に言っておくッ!
おれは今やつの世界をほんのちょっぴりだが体験した
い…いや…体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
,. -‐'''''""¨¨¨ヽ あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
(.___,,,... -ァァフ|
|i i| }! }} //| 『幼馴染といちゃいちゃしたいとおもってたら
|l、{ j} /,,ィ//| いつの間にか義理の母親のことを好きになっていた
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ とおもってってたら実の親父から熱い視線をうけていた』
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ |
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ おれも何をされたのかわからなかった…
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉 頭がどうにかなりそうだった…
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ 元祖同人女だとか“world's first novel”だとか、
/'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \ 王朝文学だとか1000年前のことだとか
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... ジグ イ もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ… 高明さま(*'-'*) (> <)こきみの妄想だち 英訳シーンろこつやったな、英米解読人の妄想かげきす。
日本人読者一般にはひみつやん当分は 源氏物語好きには陸でなししかいない。
ドナルド・キーンなんか、なぜ性に関する悪徳賛美が大好きなのか臆面なく自己の良心に反省できるんだろうか。
源氏物語が好きか、それともその反命題としての平家物語が好きか。
内容も形式も好対照なこの問いを聴けば、人品は見分けがつく。狭い門はどちらかを知る人ぞ知る。 >>151
そうだね。朝鮮人に生まれなくて良かったねw いや、俺は朝鮮人より倭人の方がひどいとおもうな。なんびとも疑うまい。
関西人種に足をひっぱられているのに、当の関西人種は悪業自慢なので始末に負えない。 現世人類が一様に愚かだとでもおもっているらしい。
源氏物語からノルウェイの森まで、
関西人種の異様な乱交性はモンゴロイドの変種としての倭人種を侮蔑するに足る十分な証拠になる。
実際、自分も関西人種と同じ島に住まわされている者として、心から侮蔑するし、憎悪さえ覚えているのだから。
普遍的な宗教心のある者で、自分の今書いた事に共感しない者があるだろうか。
チンパンジーからDNA分岐があまり進まなかった連中なのだろうが、同じ島で、「日本人」を名乗られるから手に負えないのだ。
言葉はそれなりに違うのだが。関西語で話していればいいものを。 ひがしに京都を作った連中も、
そこであれらの邪悪な乱交による人身売買をはじめたのは、
はじめは家康が大阪の商人を持ってきたのが興りだろう。
関西人種のDNAに違いない。
そこに朝鮮人、つまり渡来人のものがDNAに混ぜられたというのが有力な因果になっている。
舞妓は妓生の相似形だからな。
あんないきものが大勢いる地点など、それらのDNAに連鎖しているとしか思えないほど狭い。
あれらは、いわばprostituteが職業的に典型化した姿だろう。
歌舞を含むとしても、所詮は女性を好色のまなざしで彩るといった煽情行為なので、歴史的に見れば乱交性の前座になっている。
彼らが、つまり朝鮮人の分岐種としての関西人種DNAが、この島国に千年前からはびこった一つの悪印の焦点だと思うが。
源氏物語を正当化しようとした本居だが、巨視すれば乱交習性の自己正当化にすぎず、ボノボが語るチンパンジーくらいの話だ。現世人類からは距離がありすぎる。 お局ジャネットが敬愛する源氏スレなるぞ
みなのもの頭がたかあーーい! 魏志倭人伝にも多妻制だったらしい記録があるから、古来から乱交性のあった連中なのだろう。
実際、現代でもアダルトビデオ等の中では連中は、あたりかまわず乱交している。そのDNAが酷いのだ。
当人たちには反省力とか羞恥心とか、罪悪感はない。連中にとって最低でも数千年前から慣習化しているからなのだろうが。
寧ろ、ドナルドキーンへ倭の皇族が勲章等の件でもそうだが、普通にこれらの乱交習性を広めようとしていると捉えていいだろう。
地球的に見ても、王の世継ぎが固定化された時、それらの周辺にこの乱交行動が見られ易い。これは言って見ればサル、特にチンパンジーとそっくり同じだ。
人類の変種で、違った風があるのは、倭とかアジア人種、オランダ人とか、一部の変種では大勢この乱交性をもつ労働者がいると云う事。
どちらにしても、それらの両極端ではない、つまり
王の世襲という地位を維持する動機づけがあって乱交する者ともっとも悲惨な労働者ではないの大多数は、民族的にもそうだが、この風習へ嫌悪感をもつのだろう。
この道徳心からいうと、源氏物語は大変にたちのわるい仕業の記録でしかないし、吐き気や悪寒をもよおす邪悪な書物なだけだ。チンパンジーとか鈴虫レベルの話をなぜ驕りながら持っているのかその間抜けな相手の恥知らずさと白痴ぶりに。 乱交嫌いな種は、源氏物語に大変な嫌悪感を覚える。そういう事だ。
倭人種には、近畿地方の人民や江戸時代からの労働者にこの習性がひろく見られる。
西村賢太と光源氏は行動原理が一致する。乱交だ。 KARAとAKB。これらを見れば、朝鮮人と倭人がそっくりで、若干倭人がネオテニー起きてるだけなのが分かる。
習性も同じ。妓生と舞妓。みにくすぎ。消えろ。 乱交好きの究極を言うと、
単に性的寄生虫への耐性を淘汰的に得る変わりに、社会的習性とみた多くの理知の発達を抑制するでしょう。
イギリスの売春宿で堕胎に使ったスプーンで食事させられた偶然の滞在者が嘔吐して逃げ出す。こういう事だ。
そもそも、これらの悪所に近寄らない人々の中には力学と自然神学の理念が宿った。 チンパンジーとそんなに変わらない暮らしを継続したいなら>>191それで、といおうか、西村賢太でいいんじゃないでしょうかね。
別に社会的に阻害する要因は、自由主義圏ではないじゃないですか。当人らは好きで乱交している。あなたも。
ただ、我々はそれを行なうだけの愚昧さは、はっきり言うが全くない。あり得ない話だ。吐き気がする。
彼らの乱交行為への罪悪感のなさには、必ずやDNAがあると思う。本能が違うのだから。そして、大きく見ると二種に分化するだろう。
私は乱交社会には住まない。鬼と倭が住むだけだ。 鬼へ言えるのは、あなたは神を信じていないに過ぎない。
私はミル(J.Sミル)の論旨があなたには適当だと思う。
いわく、「満足した豚であるよりは不満足なソクラテスの方がよい」。
このよさは、実に、美そのものですらある。
人類が、乱交つまり、類人猿の無秩序な性関係に由来した多くの悲惨を、
今日の段階まで緩和しにのぼってきた大きな原因が、ここにあるのだ。
私達が妻の涙を意味がないものと思うのならば、その人生には人類としての致命的な堕落があるだろう。
そして多くの悲惨がくりかえされ、その人生とやらはチンパンジーが恐れた同類からの背信行為を伴うだろう。
なぜならば、この妻の涙の意味は、相手が家庭の中でその人との信頼関係を維持していくという破られた契約に対する涙なのだ。
あなたが、もしこの涙を無意味だと思うのならその人生には背信行為の業が蓄積されていく。結果、神からの信は失われるだろう。
もし単に現代語のみでいうなら、「裏切り合いの仲間」の中で悲惨な暮らしをするだろう。
しかし彼らはその悲惨に馴れ親しむのでそうと悟らぬまま、集団内での信頼関係が鈍磨していく。これを犯罪という。
鬼のせりふ「犯罪はいいもんです。気付かないから」 鬼の片親は、その背信を行なった可能性が高い。
その為に極東の中で自己の出自を合理化してくれる種類の好色漢の説話を好んでしまった。
私小説と見れば、『共食い』の様な話だ。 源氏物語を読んだことがないのがよく判る
性的乱交の要素しか語れない人は例外なく一般に流布している俗説の受け売りだもんね まわりくどい語りの手法を韻文なども入れ込んでお為ごかすが、
結局は乱倫していく皇族付近の者の欺瞞を暴いていく物語とかんがえていい。
式部の筆致は冷徹で残酷だから、かれらの正当化をさせていない。寧ろ浮舟に同情感を与える物語になっている。
浮き舟は唯一、一夫一妻の理念をほのかに物語の中でもっている人物として描かれている。それが式部のいいたいことなのだろう。
良心のみがうつくしい。 満足した村上春樹であるよりは不満足な夏目漱石の方がよい。 アメリカという国は、
はじめプロテスタントの純粋な理想国として建設されたが
途中でその理念が堕落し、
たとえば「プラトニズムの堕落」と三島などに指摘されているわけだが(『若きサムライのために』)
その悪習がポルノ社会の密かな蔓延などからはじまったと思う。
それでも多数派はキリスト教徒で、純粋な初期の理念を維持したがっていると思う。
鬼はその堕ちこぼれと見なしていいだろう。逆にいえばこの鬼を倭の皇族は利用し、手先に仕立てたのだろう。
源氏物語の中の乱交性を補完してくれる役者、いわば喜劇役者として。 巨視的にいえば、人類の中で社会条件の違いのために、
乱交性のDNAと婚姻性のDNAが分かれてきている段階にあるのではないか。
北欧とアメリカを比べれば一発でわかるが、
或いはイギリス・ドイツとフランス・オランダでもいいが、
これらの住み分けはわりと着実に進んでいる潮流なのかもしれない。
同様のことは、たとえば日本と中国でも起きている。
中国では、限られた政府の見ていない法の外で多妻制度が古来普通に存在し続けているとか。
現実にはすべての社会はそれらの中間地点にいるが、大きくみれば二分されるだろうとおもう。
種の問題とみても、乱婚性のサルはそうでないサルと睾丸の大きさが違うという端的な事実がある。
これは、失礼にならないと仮定して冗談と言ってみれば、多くの傾向から分析して言っても、
村上春樹の睾丸に比べて、夏目漱石の睾丸は相対的に小さいその遺伝子の差に由来するかもしれない。
慣習や出身地、その文化的習性を除いて単純化すればその程度の話なのかもしれなかったが、
大きく見れば社会構造をまったく違えてしまうし、最終的には違う人類の姿になる可能性のある問題だ。 自分の知る限り、一夫一妻制度に近い状態が造られる封建主義社会を維持した国家だけが自主的に近代化した。
日本でもヨーロッパでもそうだった。だから、婚姻性のミームが相対的に優位に立ったのが近代と言って差し支えないだろう。
源氏物語はこれら以前の、前近代性のミームとしてその命脈を文物の中に保つよすがになっているはずだ。
鬼はこの事実を、個人の出自問題の精神心理学的な「補償」として、いわば慰めのよすがとして渡来してきたDNAと捉えていいだろう。
結論をいうと、とりあえずという事だがこれは例外に過ぎない。
先進国の一部が試行錯誤して、この封建主義社会のethosの中にあった理念を解体していたりする。例えば婚外児社会が作られているオランダ法相の問題を見ればいい。
これらの傾向は、大きく見なせば消滅か、失効するのではないか。私はミルのいう事が正しいと思う。
ミルは精神的快がつまり幸福が、封建主義社会のethosの満足として訪れる事をも、このスレッドの流れでいえば、性関係の問題についても語っていると思う。
ただの慣習としてもその公序良俗の側が、連合国の中ですら優位な真相は変わっていない。これが現実の真相だろう。世界を支配する人にとって乱婚している暇はないのだ。 作品中に描かれている花鳥風月に関して一言も言及してないね
これが感知出来ないとは文学センスがないとしか言えない 王族に関して、イギリスであれヨーロッパであれ日本であれ朝鮮であれ、
確かに、乱交性の風儀がかなり広く見られるのは事実だった。
ただ、今の段階では王室制度を維持するのがこの封建主義社会ethosの延長で指揮する民衆なので、
彼らの乱交性は「外部的に」、いわば世論からの非難可能性として抑制されている状態にある。
ダイアナ后妃の一生涯を見る者は以上の事実が、深刻に劇的なのを知るだろう。
昭和天皇からの自主的な側室の否定は、ある意味で皇族史とみても特別なのを知るだろう。
私が日本国民の一員として言いたいことは、これらの世襲王の制度が人倫の中にあってある聖域または不可侵のtabooになっている事は、
大きく見れば特に取るに足らないのではないか。それらの乱交の限界が、数百人の子を儲けたというアラビアの王に見て取れる。所詮それが限界なのだから。
仮に周辺の皇族が同様の業を行なって、各数百人の子を儲けたとしてそれらの近交弱勢が数億の社会集団に与える影響は決して軽いとはいえないが、やはり微弱だろう。
たとえば種とみて、チンパンジー社会の王が同様の業を行なっていようと、属する集団は特にその色彩を帯びるとはやはりいえないだろう。だから、もし王権の風習を維持するにせよしないにせよ、
重要なのは実際の主権者がこれらの風習で大切な時間を浪費しない事、つまり優れた公序良俗のなかにはぐくまれ、その理知を鈍磨させない事の方だ。 >>202それほどいい和歌があるわけでもないし、どちらかといえば『枕草子』の方が清いから。
それに、和歌集が別にある上、単なる風物詩とみても『枕草子』の方がみてとりやすい。『源氏物語』の方はたくみな語りにすぎない。 軽く挿入されている程度で、自分が読む限り、源氏物語の方は人間関係の描写が殆どだ。
そのまわりくどさはそこからくる。風物詩ではないのだ。人事録といった趣だ。
いわゆる小説内小説論としての物語論からもそれが見て取れる。織り込まれたものは付属物にすぎず、語りが主題なのだ。 源氏物語の混雑性、いわば歌劇詩としての質をジャネ氏な名無しで>>202はおっしゃっているのだろうと思う。
ただ、如何せん上に書いた前近代らしさが免れず、状態とみれば『紅楼夢』と変わらん。卑俗なのだ。式部は悪意を持って書いたと思う。
皇室の卑俗さを暴露させた、という意味で式部の悪意はあきらかではないか。仏教も儒教も当時からあったのを彼女は知っていた。
完全に源氏物語の理解とみると、宗教心と制度の矛盾を式部なりの筆をもって批判的意図で書き付けたのだ。
だから例えば綿矢りさ、金原ひとみ、など現代の煽情主義的な通俗書販売で商業行為をしている女流に比べても、
描写よりも事態の批判の意図を主とするが故に細かな卑猥さは積極的に省かれている。
同様に王族物語とみて、『ロミオとジュリエット』辺りと比べればいい。別に形式的にはそれほど差はない。
地の文が語りとして出現している事、つまりリアリズムは、いわば幕間の人が語るものだから、
時期的には先に小説性を作り出しているとはいえ長い目でみればそれほど特殊とも思わないが。 ジャネ氏な七誌さんは、ドナキン氏と類似キャラであって、
いわば本居説の狂信者といって構わない悪意ある白装束集団さを秘めていると見える。
その怪しげな儀式の底で、「でも乱交っていいものですよ」とか言っている。酷い話だ。獣類だ。
我々が宗教心を作ってきた土台を壊そうとする自称神道教徒、従軍慰安婦を連れて亜細亜を侵略した者の仲間になるのか。
その禍々しさはだれの目にも欺けない。 我々はこれらの関西人と組む鬼がどんな禍を齎すか見通す事ができる。
こころよき人に恵みあり。
犯罪と背信の業に馴れ親しむ、配偶者への裏切りを習慣化した人種に禍あれ。 書き込むなら3行以内にしようよ
じゃないと読んでくれる人ほとんどいないと思うよ あなたにとっての問題だ。
そういう人がなんらいないならば長文作品の文芸スレッドにいる意味がよくわからない。
(嫌味を言われてジョークで返す。紳士の心得。えっへんえっへん。やーい3行広告やーい☞読者) でさー、
そんなに浮気小説読んでたのしいの? ばかって。
・ f・) はなくそぽじらふぉっくす
もじもじ
まーた関西人が。ま、どーでもいいけどすで。鬼がいやみいっとる
f =・ (アメリカ代々大国様傘下の倭人種衆愚業帯)
おぴーん
へー でけました! 一行だ
っし
源氏名で魍魎うろつく歌舞伎町
こまかなことをいいたてまつるアホいみやああそのみやの雲丹の棘棘
源氏好きああ源氏好き浮気好きいまもエイズになれてしたしむ
御の字といわばいえいえそのみちに元も子もなき春の売り島 乱婚社会が楽しい人達は何が楽しいのかよく分からん。
そういうのを模倣してる文物に、高い評価を与える人のチンパンジー脳も。
単純に損害を買うだけ。 小説とはどういうものかという芸術学上の定義はむずかしいのですが、ごく常識的にいえば、それは普通の人間、
われわれと同じような人間の世界を描いた散文芸術である、といっていいかと思います。
ところが、日本でも西洋でも、どこの国でも文学のもっとも古いかたちは、伝承物語あるいは神話であって、小説ではありません。
神話というのは、名前のとおり普通の人間を超えた者、神とか英雄とかを扱う文学で、そういう神や英雄を媒体にして国家、
あるいは民族を描く文学だといえるでしょう。
そういう大きなものの象徴として人間が描かれるわけですから、ギリシャ神話のばあいであれ、日本の神話のばあいであれ、
そこに出てくる主人公は、普通の人間の心理構造とか感情とか性格といったものを持っていません。
彼らは思いがけない残酷なことをやってみたり、想像もつかない大らかな感情を持っていたりして、
それがまた神話の魅力にもなるわけです。日本のばあいもむろんそうなので、『古事記』や『日本書紀』などに現れる物語は、
世界的な標準から見ていわゆる神話であるといっていいでしょう。
しかしながら、日本できわめて特徴的なのは、そういう神話からあまり時をへだてない早い段階で、すでに普通の人間のこまごまとした感情、
あるいは微妙な心理関係を主題にした文学が生まれたということです。
その代表的な作品が『源氏物語』であって、たしかに『源氏物語』はその意味で、世界最初の小説であるといっても過言ではないと思われます。 >>220まあリアリズムって意味ではそうなんだろうけどさ、異論はあるだろうし、別にどうでもいいわ。
そこまで先取権争いするのって出自の問題なんだろうが、卑しい話だよ。要は名誉が欲しいんだろう。ないから。
あと、ドナキンもそうだが、西洋かぶれは形式主義が過ぎるんだよ。ヘレニズム真に受けすぎて。
どうせ内容は強姦乱倫ばかりなんだから、関西人種のゲス加減を後生に伝える効果しかねーからどうでもいいがな。それを権威めかすな馬鹿。 上にも書いたけど、形式主義の過剰ってヘレニズムの中の、特にスコラ哲学じゃないかね。
具体的にいうとアリストテレスの形相論でしょう。そっから、芸事の評価といえば形式論となっている。
更に言うと、柄谷が「括弧入れ」という言葉でいいあらわそうとしているのが、この形式主義だろう。
裸体画論争も、この源氏の姦淫書論争も、やはり形式主義をどの程度重視するかという審美論の課題だ。
全般として、源氏を高く見積もってるドナキンらを見てると、公衆の面前にマネの裸体画を飾ったりする点でも、
この形式主義をヘレニズムから強く持ち込んでいる。イタリア・ポルノ女優との交接の彫像を公然陳列罪するジェフ・クーンズとか。 商業主義のルールの中には、この偶像化を都合いいと見なす悪徳まみれの獣魂があるよ。
売れればいいじゃねえか、何でもいいじゃねえかただの作りごとなんだから。こういう訳だ。
それが極大化するとポルノビデオとか猟奇殺人ニュースとか戦場実況中継チャンネルになる。
媒体を通すとなんでも虚構に見えるから、大震災をみてそのルールに馴れた石原は「天罰だ!」と勘違いして現実の被災者へ言ってしまった。
要は偶像崇拝な訳だが。模倣されたものは現実自体ではない。だから虚構なのだ。
偶像化をジャネットは擁護している。これも同じで、虚構にはまって抜け出せない寓話の中の物語作家と似ている。そして妄想に死ぬのだ。 プラトンの「写し」のたとえによる批判は、この論旨で参考になるのではないか。
プラトンの素朴な批判は、現実の物を写し取った物はよりイデアが薄まっている、という点にあった。
表面をなぞるだけの絵は物を作りだしたりできないし、椅子の絵を描く画家は椅子職人よりさらにイデアを持たない。
この意味でのイデアは、創造性の中にある。だからある意味ではイデア論は神知論でもあるのだろう。
同じく、源氏物語のなかで悲劇をくりかえす人達はイデアそのものの模倣でしかない。このイデアは悲惨な、無宗教な人達だ。
この無宗教、あるいは無神論者達は、上田秋成が『雨月物語』の序文で総まとめする様に、因果律のなかで自業自得を受ける。
いいかえれば式部は、ある悲劇の模倣を通して当時の天皇非難を行なった。
父の不遇にあてつける様に、これがジャネットには偶然に形式主義と重ねられた点なのだが婉曲な表現を駆使し、権力者にありがちな好色に媚びる体裁で。
道長はその書物の宮廷内での頒布を許したのでそれは幾らかより成功したのだろう。婉曲的なややこしい言い方で腐敗した宗教心の悲劇性を暴露するイデアはこうして
表立った史記にはあらわされていない、いわば抑圧される女性のまなざしにしか見抜けない内情の「物語論」として源氏の中で登場人物にさりげなく語られたままになっている。
そして、この継母物語という類型は、実に式部が『竹取物語』から継承的にならいとったものだった。 >>212
長文オナニー君の正体は「関東人VS関西人」の対立構図を作ろうとする
日本分断工作を目論むチョンですね
わかります いや全然違いますね。お前はfool。
単に日本を理解しているだけ。 夢浮橋がなんか納得できない、仏門に入ればチャラになるという考えがこの時代の風潮だったのかな 紫式部の。。おためぼかしはーーー白人のーーーだった?宮仕えモノだからいいやぁーーーあたしのだぁーーー
とかーーーよくなるおばさーーーん・・・・・いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
本当は・・・・・こども贔屓で、子供の死を悼む。。心の良心よ・・・・・なんてのね・・・・・・・・・・・・
コーーとか云う類になった。。遊ぶこどもたちの。。邪魔しーーー(いやぁーーーな白人賊よ。。本当は。。貧乏コたくさんの家だったりするから
気をつけることよ)
にーーー、、、陥れられ・・・・・ボーーになってーーー死ぬのよ・・・・・・・・・宮つかいなんてーーー話にのーーーならんのーーーなーーーーおばさーーーん
に。。きっと好まれる。。コーーーの瀬戸内のじゃくじん。。ジャクショーーーか?まーーーきっと、、云うのでしょう・・・・・・・・・
チャクラが風流ーーーーーーおおおおおおおおおおですね?おおおおおおおおおお
お届けーーーーーー
あら?同和の伊集院いいいいいいいがいいいいいいと出てるーーーーー紫式部?なーーーーでしょうか?どうりで・・・・・・・・・・
コーーー孤独かよーーーでしょうね?孤独じゃなくて同和なんだーーーーじゃ?ノーーーーー
いいいいいいい
いいんです?女なのよ・・・・・・・・いいいいいいいいいいい
でしょうね?ひーーーーにほんじーーーーんじゃね?おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
/) /)
/ ⌒ ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ●_ ● | < コネ・パクリ・マクラの「うんこ文壇」に生息する発達障害者(水牛顔、無能盗作屋、低学歴)♪♪♪
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>>1の
>「源氏物語」はまた世界最初の小説として世界のひとびとの注目を集めています。
件についてチラシの裏
「源氏物語」は作品の長さは「Novel」というには十分すぎるほど長いし、おとぎ話でもなければSFでも神話でもないし、
現代(ただし平安時代)に根ざした作品だし、登場人物は皆、読者と等身大の人たちだ。
しかも、登場人物に対する描写も、ヤバイくらいに現実的かつ現代的なものだ。
ここらへんが紫式部が“considered the world's first novelist”ということにされている理由となるし、
定義の仕方によっては源氏物語は「considered the world's first modern novel」になるかもしれない。
http://everything2.com/user/mw/writeups/novel
http://keeperofthesnails.blogspot.com/2011/03/japan-and-first-modern-novel.html
だが、問題がある。
当初は「小説」として描かれたものじゃないし、この源氏物語について紫式部は「小説」だとは一言も言っていない。
一番ヤバイのは「Novel」という文学のジャンルは11世紀には・・・。無い!!
ここらへんが事態をややっこしくしている。
ちなみに、光源氏のやったさまざまな暴挙は海外のサイトのほうが詳しかったりする・・・。
空蝉だけで強姦・不法侵入・窃盗・ストーキング。でと、もう何でもアリだ。
だが、しかし、1000年くらいずれていれば性の価値観だって違ってて当たり前だから問題ない。
http://summergenji.wordpress.com/2010/06/22/tale-of-genji-crime-blotter-week-one/ >>177-179
源氏なんかより、平家物語のほうが面白い 確かに文学的価値には疑問符が付くが、史料的価値は永久に残る。
何より、現代の女流作家が書きそうなものをあの時代に既に書いていたという事が驚きだ。 かの須磨は、昔こそ人の住みかなどもありけれ、今はいと里離れ心すごくて、海人の家だにまれになど聞き給へど、
人しげく、ひたたけたらむ住まひは、いと本意なかるべし。さりとて、都を遠ざからむも、故郷おぼつかなかるべきを、
人わろくぞ思し乱るる。よろづのこと、来し方行く末、思ひ続け給ふに、悲しきこといとさまざまなり。
谷崎純一郎の現代語訳
あの須磨という所は、昔は人のすみかなどもあったけれども、今は人里の離れた、物凄い土地になっていて、
海人の家さえ稀であるとは聞くものの、人家のたてこんだ、取り散らした住まいも面白くない。
そうかといって、都を遠く離れるのも、心細いような気がするなどときまりが悪いほどいろいろにお迷いになる。
何かにつけて、来し方行く末のことどもをお案じになると、悲しいことばかりである。
谷崎純一郎は「文章読本」の中で自分の現代語訳を絶賛していたが、谷崎純一郎の現代語訳は、「物凄い土地」や「住まいも面白くない」など、
文章としてあざとい表現が多い気がする。
素人の俺が現代語訳した文章。他の作家の方がよほど上手く書けると思う。
あの須磨は、昔こそ人の住みかなどもあったものの、今では人里の離れた、非常に寂れた土地になっていて、
海人の家さえ稀であるとは聞いているけれども、これまでの都の、人家が立て込んだ、取り散らした住まいは本意ではない。
そうといって、長く住み慣れた都から遠ざかるのも、故郷を懐かしむなど心細いことが多く、色々とお迷いになる。
万事のこと、来し方行く末のことをお案じになり、それは大変悲しいことばかりである。
一つのセンテンスの中で「ものの」「けれども」の逆接を重複して使う場合、「けれども」に重点が置かれるべきだと思う。
谷崎純一郎の現代語訳はいきなり「けれども」から始まっているため、他の人から聞いた話なのかすぐには判断できず、文章として分かりづらくなっている。
「文章読本」で自分の現代語訳を絶賛していたが、こういう自分の文章の欠点には気付かなかったらしい。 >>240
「物凄い」という表現は雨月物語の『白峰』でも、寂しくて
恐ろしくなるような場所の雰囲気を伝えるのに使われている。 >>240
谷崎潤一郎を純一郎と書いている時点でこいつの言っていることはきけない ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ >>241
現代語訳だから、「物凄い」の部分も現代語に訳すべきだったと思う。
>>242
単なるミスだからスルーしてくれ。
古典としての知識は谷崎潤一郎の方が圧倒的に上なんだろうけど、
現代語訳の文章としては何だかなと思っただけ。
自分の意見は谷崎潤一郎の「文章読本」を読んで、
すぐに思い付いた素人の意見なので、その辺はあしからず。 >>244
現代語訳と言っても、やはりそれなりの古めかしさを保ちながら、
現代人に理解出来るのがベストな訳で、その範囲で谷崎は用語を選択
していたのではないかな?
じゃ、しばらくは席をはずす。 >>245
まあ長く議論する気はないんだが、
「物凄い」が古語的表現であるのを知っているのは、古典の知識がある人くらいで、現代において理解できる人は少ないだろう。
そういった人たちのために、現代語訳は作られているのであって、
ならば「物凄い」の部分は、現代人にも理解できる、分かりやすい言葉に訳すべきだったのではと思う。
現代語訳において古めかしさを保つというならば、「物凄い」という表現よりも、
「かの須磨は」「さりとて」など現代でも使われている古語的表現を、現代語訳においても用いた方が良いのではと思う。
俺ももう少し古典の知識を付けてから、議論するべきだったかもしれないけど・・・。 俺の言っていることは一見としては、谷崎潤一郎のことを批判しているように聞こえるけど、
谷崎潤一郎の文章に見られるよどみなく長いセンテンスは、
源氏物語における文章表現を受け継いでいて、その点に関しては評価すべきところだと思う。
それだけに、ところどころに見られる言葉の使い方が気になったのかもしれない。
スレ違いだった。スマソ。 「物凄い」という古語表現を知らなかったんじゃないか? 小さいときから、一緒の床で寝るのが習慣になっていたので、
紫の姫君は今も、源氏に抱かれて眠ることにすっかり慣れ親しんでいた。
そうして、楽しくとりとめもない話を交しているうちに、姫君は、いつかすこやかなねむりに落ちるのがきまりだった。
紫「おやすみなさい、お兄さま」
と姫君は、重そうな瞼を、もう開けずにいう。
源氏「私を愛しているかい?」
と源氏がいうと、姫君は半分、とろりと睡ったまま、ゆるんだ愛らしい花の唇から、
紫「お兄さま、だい好きよ」
と、ため息とともにいう。
源氏「ほんとう?」
紫「ほんとうよ、お兄さま」
源氏「その証拠をみせてくれるかい?」
紫「証拠って?」
姫君はそう言ったなり、うつつに寝入ってしまう。源氏の手枕が重くなった。
姫君の愛らしい重みが、源氏にはもう堪えられない。
こんな無垢の少女には、もうすこしの間ときを与えて、女として開花するのを
待つべきかもしれない。しかし若い源氏はもう待てない。
長い間、心からいとしんだものを、もう待ちきれない気がする。
源氏は姫君にそっと唇を重ねる。やわらかい少女のままの唇。
源氏「私の愛に免じて、私が何をしも許してくれるね?」
紫「いいわ、お兄さま……。でも、何を?」
姫君は夢うつつのやさしい声音でいった。けれど、それに続くものは、源氏の
若々しさを示す性急な男の動作だった。
紫「えっ、えっ?お兄さま一体何をするの!?」
源氏「許してくれ…」
姫君の寝衣の帯が解かれ、源氏の手が幼い胸元に差し入れられる。
紫「いやー、お兄さま恐い」
まだその行為の意味を知らぬ幼い少女は、長年兄と慕っていた人の豹変ぶりに恐怖を覚えた。 これ、コピペなんだろうけど、安っぽい三流小説みたいだよなw 円地訳は(個人的に)ダメだったな。
くだぐだ過ぎ、何でもかんでも書き込んで補足すればいいってものじゃない。
だから、初めのいくつかを読んで投げ出した。
色々な感じ方があるもんだね
自分は円地訳が一番良いと思った 自分も円地訳よかったと思ったよ
それ以前のものは原作の文に忠実すぎて 何がおこっているのかよく把握できなかった
それ以後ものもはくだけすぎているようで、おもしろいことはおもしろいけど
そこまでいかなくても、と思った というわけで円地さんのが自分にはぴったり
今は色々な訳がでてるから、人それぞれの好きな訳を見つけて源氏の世界を楽しめるね 雨夜の品定めのやつで、女について長々と喋ってるところの、
文章が序論本論結論みたいな構成になってて、
読み手が説得力を感じる文章になってるらしい 寂聴源氏8巻まできたけど心折れそうやわ。
励ましてけろ〜 町田康の末摘花めっちゃおもろかった。
頭の中将がぬっと現れる幻覚に襲われて発狂寸前になったとか光源氏が言うんだよね。 >>257
寂聴訳なんか読むのやめたら?
源氏物語は寂聴のような俗物な人間が訳すと良いものにならない気がする。
田辺聖子訳は忠実な訳としては一番じゃないかもしれないけど文章の切れ味、センスが良くて、すごく読みやすいよ。
自分は田辺聖子を読んだ後に円地文子訳を読んで、円地訳がまた面白くて源氏物語を二度楽しめた。 内舘牧子が最近書いた弘徽殿の女御が主人公の小説はどう? 円地は文章の流麗さでは寂聴よりずっと上だろうな。
寂聴はがちゃがちゃしてて、説教(文章)を静かに聴くって
感じじゃないw >>259
レスありがとう!
寂聴はあまり評判良くないんだね。
宇治十帖に限定するとどれが読みやすいかな? 実家の土蔵から交野将と書かれたものがでてきました。
ボロボロですけど。 >>259
> 源氏物語は寂聴のような俗物な人間が訳すと良いものにならない気がする。
で。
>>261
> 円地は文章の流麗さでは寂聴よりずっと上だろうな。
どっちも正解な気はする。
円地はお嬢様過ぎて現実離れした神経(同じ棟に居る後輩を電話一本で
使うのが当たり前だった)と、不倫を繰り返した自身に苦しんで仏教に
身を捧げた寂聴さん。
会社に行けば机があって、家に帰ればビールを飲める幸せ。
そんな当たり前の幸せを忘れちゃいけない。 だいぶ前になるけど何かのテレビ番組で瀬戸内と小沢一郎が出ていて
瀬戸内が小沢のことをやたらとヨイショしているのを見て、瀬戸内はバカだと確信した。 田辺聖子訳はダメだな、初心者向きじゃない
まだ寂聴のが入りやすい 田辺聖子訳はむしろ初心者向きだと思うけどな。
古典を読むという堅苦しさの要らない読みやすい訳。スラスラ読めちゃう。 寂聴はくどい。数巻読んで耐えられなくなった。
敬語表現を不必要に訳してるからだと思う。
古代の敬語を現代語に訳すと字数多くなるじゃん。
そうすっと原文のリズムが崩れて冗漫になる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています