かの須磨は、昔こそ人の住みかなどもありけれ、今はいと里離れ心すごくて、海人の家だにまれになど聞き給へど、
人しげく、ひたたけたらむ住まひは、いと本意なかるべし。さりとて、都を遠ざからむも、故郷おぼつかなかるべきを、
人わろくぞ思し乱るる。よろづのこと、来し方行く末、思ひ続け給ふに、悲しきこといとさまざまなり。

谷崎純一郎の現代語訳

あの須磨という所は、昔は人のすみかなどもあったけれども、今は人里の離れた、物凄い土地になっていて、
海人の家さえ稀であるとは聞くものの、人家のたてこんだ、取り散らした住まいも面白くない。
そうかといって、都を遠く離れるのも、心細いような気がするなどときまりが悪いほどいろいろにお迷いになる。
何かにつけて、来し方行く末のことどもをお案じになると、悲しいことばかりである。


谷崎純一郎は「文章読本」の中で自分の現代語訳を絶賛していたが、谷崎純一郎の現代語訳は、「物凄い土地」や「住まいも面白くない」など、
文章としてあざとい表現が多い気がする。

素人の俺が現代語訳した文章。他の作家の方がよほど上手く書けると思う。


あの須磨は、昔こそ人の住みかなどもあったものの、今では人里の離れた、非常に寂れた土地になっていて、
海人の家さえ稀であるとは聞いているけれども、これまでの都の、人家が立て込んだ、取り散らした住まいは本意ではない。
そうといって、長く住み慣れた都から遠ざかるのも、故郷を懐かしむなど心細いことが多く、色々とお迷いになる。
万事のこと、来し方行く末のことをお案じになり、それは大変悲しいことばかりである。


一つのセンテンスの中で「ものの」「けれども」の逆接を重複して使う場合、「けれども」に重点が置かれるべきだと思う。
谷崎純一郎の現代語訳はいきなり「けれども」から始まっているため、他の人から聞いた話なのかすぐには判断できず、文章として分かりづらくなっている。
「文章読本」で自分の現代語訳を絶賛していたが、こういう自分の文章の欠点には気付かなかったらしい。