【深い河】遠藤周作【沈黙】
>>428
俺もウィキその他のネット情報を見て言ってるだけだが、
じゃあ真相は?? >>430
俺はお前みたいなチマチマした人間じゃないので
細かいことにあんまり興味ないんだよ。 >>431
だからデタラメばっか書き込んでゴミみたいな人生送ってんだろう
周りがみんなチマチマ頑張ってるのに陰口を叩きながら
自分は宝くじでも当たりますようにと願っているようなカスなんだろうw
な、カスw >>432
人には分というものがあって、お前はチマチマを専門に拾ってろ。 >>433
ブ?貧乏臭い部屋で屁でもこいてろよゴミw お前の屁が出ないならお前の死期が近いんだよw
鏡と会話してるつもりなのか、アスペかよw やっぱつまんねーなお前
話になんねーから本くらい読めよゴミ 生誕100年か
三島由紀夫より年上だったんだな
高校生の頃、講談社から出ていた遠藤周作文庫を愛読した
今はその本は一冊も手許にないけれど 遠藤作品を初めて読んだ感想 白い人
表現がきれい
変な性癖がありそう 遠藤周作文庫のA10, A11, A12って出版されたんですか? 遠藤周作と同じような作家、ほかにおすすめあれば教えてください。
登場人物に人間臭さがあって心情描写がしっかりしてるような。 >>447
反共同士でもあり、遠藤と親しかった阿川弘之。 大江健三郎は第3の新人のなかでは安岡と吉行とは仲がよく、
遠藤、阿川とは犬猿の仲だった 自分を持ち上げてくれる人とばかりつるんでいるって感じ。 >>447
>反共同士でもあり、遠藤と親しかった阿川弘之。
遠藤さんが反共だったかどうかは詳しくないが。反精神分析だったのは北杜夫との対談で読んだこと
ある。北杜夫は精神医学者だし精神分析にも作家を知る方法の1つとして意味はある、という言い方
をしたら、遠藤が猛然とそれまでのまさしくグウタラなモードから変わって反論しだしたのを覚えてい
る。今思えばあそこまで精神分析を否定する必要あったのかと思うくらいの調子だった。
遠藤周作の狐狸庵ものは楽しませてもらったが、一見グウタラでありながらそうではない堅いところ
もあった。精神分析否定はその典型で、しかし精神病の作為体験とかがあって苦しんでいる人もいる
事に関してどう言っていたか記憶にない。精神分析をやるしかない事例だってあるんだし。もしや
今思えば『存在と無』でのサルトルに同調したかもしれない。あそこでサルトルは無意識を否定。
当然精神分析も否定。しかも後からはそれを撤回する。あれで『存在と無』が「20世紀哲学の金字塔」
とよく言われるはないだろうと思うが。サルトルのあそこでの展開を鵜呑みにしてそのままだったのか
という疑いもある。最後のフローベール論ではサルトルは精神分析全開なんだけど(笑) >>457に続けると。遠藤さんてグウタラとか標榜して軽妙なエッセイも書く。だけど深刻な宗教
小説も書く。二面性があるわけだけど。しかし先の精神分析批判もだけど、肝心な、作家としての
「ここだけは」という線にかんして、甘いところがあったようにも見えるんだけど。サルトルの自ら
の不勉強を後に放棄したと同じ無意識批判をそのまま持ってるとかね。北杜夫がどうみても気の毒な
感じがした。ああいう遠藤と話さなきゃいけない。しかも先輩なわけでしょう遠藤の方が。しかも
グウタラから急に起き上がって反論しだして(笑)北は自分が躁鬱で周囲に迷惑もかけてるし、自分の
病歴の実体験で言ってるんだから遠藤の持論展開に付き合う理由はなかったはずだが付き合ってた。
今思うと終生ちゃんと勉強してたのか疑問だし、途中でそれまでの教養でしか書かないようになった
のじゃないかって疑問もありますね。それでいかにも世間的にはユーモアもわかる教養人で宗教家で。
どっか緩んでるというか、「緩んでるように見えて実は私は硬派である」かにみせてその実
物事を突き詰める作業から離れたんじゃないか。しかもそれを優しさみたいに考えてたんじゃないか
という疑いはある。 >>458に続けると。狐狸庵ものが読まれた当時は1970年代で、政治運動が連赤事件でいったん頓挫
して、どっか「突き詰める思想は危ない」て風潮が蔓延したときでもあったんですね。狐狸庵先生や
マンボウものはそこでウケた。「突き詰めないのが優しさ」みたいなはぐらかしの効用があるみたいに
。だけどそういう時代が一段落して振り返ると、遠藤さんの立ち方がどっかいい気なものみたいに
視えてくるところはありますね。政治的にも文学的にも宗教的にも。優しさはいいけど、それを盾に
して突き詰める思想にSTOPかけるのがさも正しいみたいに。そういうのって遠藤さんの周辺全体
にあって、結局保守派の1グループみたいなところに落ち着いていくわけでしょう。北杜夫は別とし
て。佐藤愛子もそう。それと阿川弘之は逝去してるけど娘の阿川佐和子って、年長にしては可愛いだけ
であと何がある、と問えば何もないんじゃないか(笑)あらゆる人に平等に接するは良いけど、この方は
相手に決定的な疑問を呈することは避けるからそれが続いてる。それって素晴らしいことなんだろうか
。こういう姿勢ー決定的な突き詰め方をしない優しさーこそ遠藤周作一派から継承してる癖であり、
文春対談のポリシーであり、阿川佐和子が可愛いおばさんだからこそ通用するんですよね阿川さん?
(笑) サルトルもフロイトも強姦しているけど文学界や医療制度で。 カトリック作家の遠藤周作がフジテレビに入社が決まった息子に言ったらしい。「おまえは公道を歩くことにしたんだな」――砂浜を歩きながら。「こうして一歩一歩自分の足跡が残る生き方もいいもんだぞ」 Kim, Yi-Chul 🖖
国際的な知名度があり、同時代の大衆にも浸透しており、優秀な作家であ
るけれども、同世代のなかで突出しているわけではないという「第三の新
人」のなかの遠藤周作のような立ち位置に漫画史上いるのが鳥山明。他方
「24年組」は大江健三郎が三人ぐらいいるのでかなりおかしい。
2024年3月11日 必死に持ち上げてるごく一部の人たちを除いてはほぼ忘れられつつある。 遠藤周作氏は、著書の中でキリシタン時代の歴史を独自の視点で描き、宣教師やキリシタン弾圧について批判的な視点を提示しています。しかし、彼の作品には、歴史的事実の誤認や偏見に基づいていると思われる部分も見受けられます。
例えば、宣教師が侵略戦争を行うためのスパイとして送り込まれてきたという主張は、史料的な裏付けが乏しく、当時の宣教師たちの活動内容を過度に単純化していると言えます。また、キリシタンの拷問・処刑が根拠なく行われている残忍なものであるという表現は、当時の弾圧の実態を過度に強調しており、キリシタン弾圧の複雑な背景を考慮していないように思われます。
さらに、高瀬弘一郎氏の『キリシタン時代の研究』に引用されているイエズス会宣教師ペドロ・デ・ラ・クルスの手紙の内容は、宣教師たちが日本征服を企んでいたという印象を与えるものです。しかし、この手紙はあくまでも一人の宣教師の個人的な意見であり、当時のイエズス会全体の意向を反映しているとは言い切れません。
遠藤周作氏の作品は、キリシタン時代に対する理解を深める上で貴重な役割を果たしていると言えるでしょう。しかし、彼の作品を鵜呑みにするのではなく、歴史的資料に基づいて批判的に検討することが重要です。 遠藤周作(1923年3月27日 - 1996年9月29日)
『沈黙の声』(2017年、青志社)、1992年時の著作
「長崎で見たときはなんでもなかった踏絵が私の心にかかりだし
たのは、東京へ帰ってきてからだった。(中略)
あの黒い足指の痕を残した人びとはどういう人だったのか―――と
誰もが考えるように、私も考えた。自分の信ずるものを自分の足
で踏んだとき、いったい彼らはどういう心情だったのだろう。」
「踏絵に足をかけていった人びとの話は、私にとってけっして遠
い話ではなかった。むしろ切実な問題だった。〈信仰〉などと言
うと縁遠い話になるのなら、〈自分の生き方や思想・信念を暴力
によって歪められざるをえなかった人間の気持〉と考えてみれば
どうだろう。誰にでも痛いほどに分かる問題のはずだった。
踏絵の足指の痕は、他人事ではない。」
遠藤周作『沈黙の声』 遠藤の小説だといわゆる中間小説よりと言われる『おばかさん』とか『私が捨てた女』とかが好きだな。『深い河』は深みがあまり感じられず晩年に行き着いた境地としては不満足