澁澤龍彦(1928-1987) Part 4
>>169でのマグナの登場のさせ方とその描写はうまいよねえ。感心するよ。
プロ作家でもかなりの人だよね。
>>170は単純に叙述的でうん、ここは普通。
でここで男言葉になる。
>>171は序破急の「急」。きちんと完結。
ストーリーテラーだね。で男言葉だけどここでは一人称が「あたし」になる。
男でこれくらいの能力のある作家が女を一人称にして文章を書いたなら、
女言葉と一人称に非常に神経質になるから、それらはちゃんぽんにはしないし、間違えない。
というわけで、>>169-171のレスは実力派の女流作家が書いたものです。誰?。あはは。 マグナ=カッパ説ですかな。これはまたうろんな。澁澤的な。あまりにも澁澤的な(笑) アジャパー!
これはかな〜りアウチなオヤジギャグをかまして、もうじょうだんはよしこちゃんですかな。
ほっほっほ。 もうじょうだんはよしこちゃん→忘れられた古典ギャグの発掘 私はうつろな目をして一部始終を見ているよ。
そして場の緊張感が高まったら、焔の天使をこのスレに使わす。
このスレを焼き尽くす。それでいいね。 さて。次はサドの閨房哲学だが…これも一筋縄ではいかないなあ。チラっとさっき中身を見たけどなあ。
今んとこ、ネットでもサド読者と話し合った事がないんだよな。サド読者っていうのは孤独なものなんだ。
サドオタの人がツイッターで言ってたけど、自分のフォロワーが少ないのは見る人を選んで制限してるから
って言ってたけど、どうなんだろうな。話す事を最初から諦めていては、学ぶ事も少なかろうと思う。 見る人を制限してるから、ってそりゃ負け惜しみだよねえ。
一見、えらそうな言い方で、じつはあんまり男っぽくないような気がする。 せっかくアンニュイな気分で、しかしすごみをきかせて綴ったのにのうたりんとは何だね? >>177
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< 馬 う l:::::::::::::::::::/ _,, `ヽ;l
) 鹿 .す !::::::::::::::::::| ヽ二二,、 ヾ、、 l!
< ! ! ら ';:::::/^ヽ;::| ミr_(;o゚;;〕 _ ヽ l
ノ ';:::i 入 ;リ (イ;;o゚)彡l
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/ '二ヽ ノ i マグナも津原も澁澤を何時まで読むつもりかねw
澁澤は現代においては価値ゼロだ。
澁澤の追随者である限り、津原は何百冊出しても、ゼロであるしかない。
ドラコニアきたん集『極楽鳥について』から、抜粋すると、
ヘルベルト・ヴェントのごときは、次のような大胆な仮説を述べている。
......中略・・・・・・・
しかし、私の印象を率直にいわせてもらうならば、このヴェントのいかにも
本当らしい意見は、どうにも眉唾物のような気がしてならないのである。
これは一見して、花田清輝の文体を真似たものと分かるが、ごく表面的にしか
花田の文体を澁澤は理解していないから、こんな醜態をさらすことになる。
ここで、澁澤がヴェントの「仮説」や「意見」を眉唾物のような気がする、と
言うが、仮説や意見は元々が相対的なものであるから
それに対して眉唾であるという言い方は有り得ないのだ。
花田が「眉唾物である」と、言う時は、歴史的常識に対してなのだ。花田だけで
なく、「眉唾物」の使い方はそうあるべきだと思うが。
澁澤は形だけ花田を真似するから恥を曝すことになる。
無論、澁澤の『ドラコニアきたん集』や津原の「不思議」は花田にとっては
まったく意味のないものであったし、花田以後を目指す俺にとっては
問題外の事だった訳だが。 相変わらず小谷野はバカだなあ。
だけどマグナはともかく、なんで津原なん? 友情か?
それとも単にマグナ・津原・小谷野で三バカ大将ってことか?(笑 >>183
おまえまだいたのか(笑
まずしい読書量からくる狭小な視野と守備範囲、からっぺたな文章、花田花田と
やかましい連呼、すぐにわかるな。
少しも成長しないところを見ると、すでにおっさんか? >>185
お前のようなバイキンにも生きる資格はある。 ツイッターでこの>>183を要約して呟いたら、とある映像作家から過去作の番組を紹介されたよ。
YOUTUBEで澁澤 NHKで検索すると出て来る。澁澤は時代に食いつぶされた人では決してない。 悪かった。
子供の玩具を取り上げるとか、俺も大人気なかったw
じゃなw そういうのは風の谷のナウシカについてわずかに書いてるだけだからな おれは『唐草物語』が澁澤龍彦の最高傑作だとおもっているけど、みんなはどう思っているかね? >>193
おれは犬神家だから趣味近いな、おまえと。 >>196
おれもおれも。蟻塚のあたりが特に好き。 澁澤が神秘としたものは、というよりも、神秘とすべきとしたものは
これからどんどん解明されて行くか、既に解明されてるものだから。
松岡正剛がバルトルシャイティスについて最初に語ったあれですよ。 >>197
おれも。おれは蟻の戸渡りのあたりが好きだから趣味近いな、おまえと。 >>190
大瀧啓裕の、エヴァンゲリオンの夢、って本があるよ。 ナウシカは好印象だったようだけど、エヴァは好きじゃなさそう
ロボットにも興味ないだろう もしロボットが球体関節でしかもちょっとエロかったら... どうだろねえ・・・
そういえば、多くの人は勘違いしてるようだけど、タデウシュ・カントルとか天野可淡みたいなタイプの人形はあまり評価してなかったみたいだな 『女体消滅』は、なかなか官能的であった。
古人の名前をからかうのは、いかにも澁澤らしいなw 西欧芸術論集成買えば世紀末美術や幻想の肖像や幻想の彼方の文章も載ってる? >>190
俺は澁澤龍彦にH.R.ギーガーの絵を見せて感想を聞きたいなw
NHKの日曜美術館の澁澤特集は録画して100回は見たな。 テレビ嫌いだったらしいから、ネットなんか大嫌いになっただろうな 自分で発信、編集できるから毛嫌いするとは思えないけどな。
生きてたら仏やEUの衒学者達と早くから濃いネットコミュニティを形成してたんじゃない?
テレビは一方的に押し付けてくるだけだし このひと、現実的なことは何でも龍子さんまかせだったらしいから
まずネットは無理w ネットコミュとかももちろん無理ww性格的に無理っしょww
どっちにしろ、いい時期に死んだよ。年代的にもぎりぎりだな。 そういう物言いは好かんなあ、早死にだったんだから
松山俊太郎氏も現在、癌で闘病中 内弁慶の逸話は多いみたいだな。一人じゃ買い物もできなかったらしいし 『澁澤龍彦を語る』
澁澤 龍彦(1928 - 1987)
出口 裕弘(1928 - )
松山 俊太郎(1930 - )
種村 季弘(1933 - 2004)
巖谷 國士(1943 - ) 澁澤の批評と叙述の中間のエッセイっていうんだろうか、あの形式の話がすごい好き。作者の意見を展開しつつ
物語が進行していくのあの文体が真似だきたらいつ死んでも文句はないなあ。でも本人さらっとやってるけど非常に
難しいだろうねえ、なんか作者がのってくると、描写と解説が渾沌として来るのが好き。 結局はエッセイの語り口の現在性=(通)空間性と、
小説のストーリーを語る時の(通)年性というか、
(通)時間性が織り成す世界、つまり横糸と縦糸を
互いに絡ませ織って行く作業な訳だ。
澁澤のは少し目が粗い織りだが。 死後三十年近いのにこんなに読まれるという事はなんか凄さはあるんだろうな。 ヘルメスに対する態度が、花田が真剣なのに対して、澁澤はまともに
取り合っていないこと。これは松岡正剛、中野美代子らにも共通する。
澁澤が『極楽鳥について』で「神話や伝説の起源を合理的に
解釈しようとする試みに対して、いつも私は胡散臭いものを
感じてしまう。」と、言ってるがこれに集約されてる。
極楽鳥については、カロルス・クルシウスが既に、1603年かに、
極楽鳥の脚がないはずがないことを論じていたから、ヨーロッパで
「脚がない」との伝説がどれだけ流布していたか疑問だし、いわゆる
旧態の錬金術から確実に科学は脱皮し始めていた。
少なくとも、澁澤はクルシウスを無視するべきでなかった。
澁澤は馬鹿馬鹿しい部分だけを取り上げて楽しんでいるのだ。
少なくとも、脚のない鳥についてはオルフェウスなどのギリシャ神話
からの伝統があった。それを無視して、「愚か」とするのは、太宰が
古典を近代的解釈するのと似たようなものだ。
クルシウスは1576年にルドルフ2世が王位につくやいなや、職を
解任されている。若年のルドルフは旧態以前の錬金術を好んだから、
クルシウスのような科学者が疎ましかったのだ。晩年のルドルフは
ディーらの錬金術師達を追放して、機械時計や、エンジンの開発に
関心を向けるのだが。
クルシウスは極楽鳥の標本を高価を払って、Jacob van Heemskerk
(オランダの1598ー1600年のインドネシア遠征を率いた)から
入手していた。
澁澤や中野が神秘としたものの出所は俺はいくつも突き止めた。
俺には神秘を神秘としてそのままにしておく雅量が欠けてるから。
ヘルメスは古代人の思考であり、かつて実在したものであり、
現代にはいや増して有効なものかもしれない、とさえ俺は思ってる。 221でレッツゴー3匹のジュンさんが亡くなったのを知った。
産経新聞の偉いところは、旧式のパソコンでも綺麗に読める
ようにしてるところ。
その次に偉いのが読売ぐるーぷ。
一番、不親切なのが朝日、毎日だな。
たいしたことも書いてない癖に勿体ぶるな! >>224
ありがとう。
海野弘の『スペクタクルと都市』の中で、1603年のイギリスの
ロンドンのジェームズ1世の即位ページェント(パレードや、街の
あちこちでお祝の演出を凝らしてる)の様子について書いてるが、
この人は、古代思想とのつながりへの目配りが深い点で、好きだな。
松岡正剛にも似てるかな。文章の官能性は余りないね。
澁澤がいなくなって、退屈してる人は覗いてみてはどうですか? 南方熊楠→アホみたいな読書量
中島敦→アホみたいな漢籍読解能力
澁澤→アホみたいな(昭和の人間が出来うる限りの)読書量
荒俣宏→アホみたいな(書籍収集と)読書量
こういう「アホみたいな」何かがものを言う系譜っていうのがあるんじゃないかな。 石川淳→アホみたいな和漢洋にわたる読書量 とかか? 漱石ってそんなすごいのか
>>212
生活力なかったっていうのは、生い立ちからか、後の読書の影響からか 漱石は読書量がそんなに人並みはずれて多いタイプじゃないよね。 後年はまた鬱っぽくなって読めない時期があったらしいしな 漱石のようにあれだけの創作をして弟子達との付き合いもあり思索も詩作もする人間が
読書だけにそんなに時間は割けないんじゃないか? 一方、石川淳は午前中仕事して、午後になったらどこかへ行ってしまうような毎日だったとか 澁澤は蔵書二万冊だからそれほど取り立てて多いという訳でもないな。
読んだ本は残しておく人だったぽいから、青年期からの読書量は殆どはいってると思われる。 作家は読書量というが、ある程度の冊数、1000〜ぐらいからになってくるともう読書量じゃ無く力量が問われてくるなとは思う。 量か質か
実際に一冊読むのだって、流し読みと何度も精読するのと違うからな 熊楠全集を憑かれた様に読み込んで飽き足らず、自分のための索引を作り直したと言うあたり、伊達の読書人ではないと思ったよ 現代人が活字を集中して読めなくなったのはネット、スマホ、ゲームのせいだろうか 読書量というとおいらが知ってる中では鶴見俊輔が圧倒的にすごい。
小学校卒業までに一万冊読んだという。これは仮に一年生から読み始めたとすると
一日平均4.5冊を六年間続けたことになる。異常だね、これ。
大読書家といわれた杉浦明平が、ひと月10,000ページのノルマを自身に課していて、
毎月月末はノルマ達成のために大菩薩峠みたいな大衆小説に取り付いたので
ノルマの弊害、読書の堕落だと自嘲していたが、常人の読書量はこんなレベルだろう。 >>240
現代人って活字を集中して読めなくなってるのかい?
そんなの聞いたことないね、君だけなんじゃないかい? 現代人を語ってみたけど、ちょっと知性が不足していたようだね 現代人は読んでると思うぞむかしの人よりよっぽど。だが新書とか入門書的なのも増えたからな。新書読みの学者先生が増殖してると。 きのうもどっかで林真理子が「こんなに本が売れない時代なのに」とか言っていたから
「売れないのはおまえの本だ、ば〜か」とオレは言ってやったよ。心の中でな。
だって別に目の前に林真理子がいいたわけじゃないし。 漫画は読む? 見る?
どちらの言い方がふさわしいかな? 見るだと思う。でも、言葉としては読むの方が通じるだろうな
ともかく、文学というより、絵が主体だから美術に近い 「夢の宇宙誌」に参考文献として英仏独の本を40冊弱挙げているが、
必要な情報だけ拾ったのか全部読んだのかは定かでないね。 そういえば、参考文献の名前並べてページ数稼いでるエッセイない・・・? 日本語のメリットは「早く読める」ことだし
日本語を読める外人に聞いたら、母国語より日本語のほうが早く読めたという笑い話があるくらいで
漫画といえばヤマザキマリ&とりみきの合作で「プリニウス」が出てたので読んでみた
ヤマザキマリに言わせると「私のプリニウス」で博物誌から引用された部分はイタリア人が絶対抜粋しないところだと 厳密には ヤマザキマリの亭主に言わせると が正しい >イタリア人が絶対抜粋しないところだと
思わせぶりな言い方だな、なにが言いたいのかはっきりしろい! 三島由紀夫、澁澤龍彦の周辺ってミソジニーが多くない? 芸術家っていうのは文学に限らず、多分にミソジニーな傾向がある >芸術家っていうのは文学に限らず、
男性一般のこととして、つまり芸術家に限らず、一定の割合のミソジニーはいる。
そしてミソジニーの割合が芸術家の場合に特に多いとは言えない。 澁澤は女のミソジニーはゾッとしないほうだろうからな。 三島とか澁澤はわかるけど、永井荷風と吉行淳之介って女性の扱いが巧みだったのにミソジニーと言われるのはどういうこと 折口センセイレベルにならないとミソジニーとは呼べません 吉行をミソジニーの作家と呼ぶのはどうか。
どういう立論か読んでみないとわからないが、驟雨を論じるなかで
言ってるとしたら、初期作品にはそのような精神上の傾向が見えるということかも知れない。
思うに、男性の中には青春期から若年期にかけてミソジニー傾向を持つ場合がかなり多いのではないか。