オルテガだったのかルカーチだったのかは判然としないのですが、
例えばドン・キホーテに代表される近代小説の特性は
理想と現実というギャップから生じる批判意識を駆動因として物語を牽引していくことなのだそうです。
このギャップは個人意識の段階においては時間となり、これが共同主観的に総合化されと歴史(物語)となる。

ただ、日本の場合はこのような遠心力が言語構造などの事情から機能しないので
“場”の求心力によって時間性が消滅してしまう。
日本のいわゆる物語とは欧米の小説とは違ったものである。
まあ、こんなことをボルヘスは指摘しています。
確かに漱石の夢十夜なんかだと回帰してしまうんですよね。

しかし、ジェイムズの強い影響下で書かれたとされる『坑夫』はどうなんだろうか?
それとジョイスは社会主義リアリズムの作家として出発しながらも
ヴィーコの循環史観(と詩学)を利用して『ユリシーズ』を発表した。
つまり転向文学者による回帰思想でもあるわけです。
では、この“回帰”とは日本的回帰(とボルヘスが想定する)とどう違うのか?