【小説】サルトル【戯曲】
『出口なし』だげどよう、
女が二人居んだぞ、あーじゃこーじゃ言わんと、俺ならまずはセックスセックスしまくるけどな、
おまーらだってそーだろ、チンコ付いた男だろが、あーっ!? >>206
酷いこというなよ、>>205が自殺しちゃったらどうすんだよ。 ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか
ニ、ニ、ニーチェかサルトルか 詠もうかなーと思ってるんだけどどれから読めばいいの シロトが読んでみるなら芝居が面白いんじゃないかな。 文学評論にあたるくらいなら小説を読んだ方がいいし
政治評論は誤謬が多い >文学評論にあたるくらいなら小説を読んだ方がいいし
文学評論ってものがわかっていないらしいな。 >たとえば文学とは何かを読んでも身につかないよ
ば〜か、それは評論じゃないよ、講演だろ。 ボードレール論
聖ジュネ
家の馬鹿息子
マラルメ論 >>231=>>232
ふたりのフリをするんじゃないよ、おばかさん。 自由への道は未完だけど素晴らしい
岩波版読んだ人いるのかな >>239
誤訳のない翻訳なんて存在しません。
そういうものはありえないんです。 サルトルとドストスレをやたら更新する輩がいるけど
中身がない 中身って言うけどさあ、素人に対してそんな風にハードル上げても仕方ない。死ぬほど過疎板なんだから気軽に回す事が重要なんだよ。
「中身がない」なんていうレス書くくらいなら、何か有意義な話題を提供してみなよ。あなたの今のレスは確実に僕のレス以下だから。 なんて話をしても仕方ないか。「嘔吐」の鈴木道彦の注釈はイカ臭くて途中で参照するのをやめた。文庫化する時はもっと読む人の事を考えた注釈の付け方にして欲しいな。 NHKスペシャルにサルトル出てるぞ!60年代についての「新・映像の世紀」 嘔吐なんかよんで思ったけど
「実存は本質の先に立つ」だっけ?この一言でこいつの思想は充分だよな >>248
実存主義に関する最も有名な言葉だけど、なぜそれで「充分」だと思うの? スレチですが質問です
バタイユの残した小説って「目玉の話」、「マダム・エドワルダ」、「青空」の他に何かありますか? >>252
意外にスレ違いではない。
サルトルは初期に「新しい神秘家」というバタイユ論を書いてるし
第二次大戦中1944年、既にこの時バタイユは『ドキュマン』所収論文や
『社会批評』所収論文また哲学的エッセイ集『内的体験』を発表していたが、
サルトル含めた数人とバタイユ本人も交え討論会を行っている。
この討論は『バタイユの世界』(青土社)に「討論 罪について」として
収録されている。 >>256
二見書房の『バタイユ著作集』を見てみればいいんじゃないの?w
俺もそう詳しくはないよ。
『C神父』『聖なる神』『死者・空の青み』『眼球譚・太陽肛門』
あたりが小説群でしょう。
ちなみに複数収録巻では
『聖なる神』「マダム・エドワルダ」「わが母」「シャルロット・
ダンジェルヴィル」3編とも小説。「わが母」が長編。僧である息子
を堕落させ乱交に引きずり込み結ばれる母。
『死者・空の青み』「死者」「空の青み」2編とも小説。「空の青み」
が長編。「死者」は短編。恋人を亡くした女が酒場に現れ酔客と
乱交に及ぶ話。
『眼球譚・太陽肛門』「眼球譚」が小説。「太陽肛門」「供儀」
「松毬の眼」は思想的エッセイだったと思う。 今泉富美子(雑誌でスワッピング募集している淫乱ドスケベ変態老衰よぼよぼしわくちゃ婆)
今泉一八(音感ゼロの自己陶酔ED音痴爺) 実存主義とはなにかでサルトルが言ってる全人類に対しての責任があるって
何しても当人の自由っていう思想があまりに無秩序で節操がないから取って付けた考えに思えてならないんだが 自己は他者との関連で成立し、この関係性から責任が生じる
これはマルクス主義に近い考え方だけど
マルクスの場合は世界市場の出現と
市場内経済主体の相関性が論拠となっている
サルトルはヒューマニズム的マルクス主義
あるいはヘーゲル左派ていどで片付けられる >>269
諸思想に関してミスリーディング多過ぎてお話にならない
記憶みたいだな
つりでもなければ
ただの馬鹿過ぎる奴!!! >>269
サルトルの実存主義とはなにかによると
「自身と同時に全人類をも選ぶ立法者であることを理解する人は
全面的な、かつ深刻な責任感から逃れることはできないと自覚し、
そのために常に不安が付きまとう」
とあるけど
これって常に他者の利益を考えて行動するという”明瞭な神意”を
作り出してることになると思うんだが
それなのに神の存在を否定して
「我々は自分の行いを正当化する明白な価値や命令を眼前に見出すことはできない。
そのため自身の選択の逃げ口上も見出せず孤独である」
と書いてるし
これって”全人類の責任を常に考えて行動する”という明確な価値を
作り出してる時点で矛盾してないか? たとえ自身の選択が失敗しても
”全人類のために行動したから許される”と
”逃げ口上”を与えることになると思うんだが 責任とは「或る出来事もしくは対象の、あらそう余地のない作者であることについての意識」である、というのが『存在と無』における定義
つまり責任とは、自分が何らかの状況や事物を「存在させている」という意識のこと
「全人類に対する責任」論は、他者の利益を考慮する以前に「そもそも全人類を存在させるか否か」ということじゃないかな >>273
全人類は自分が存在させているという意識か
そりゃ確かに責任重大で不安だな
まあ破滅させようと望む良心にやましい人間がひとりくらいいても不思議はないか ビートたけし「あべぴょん、らめえええええええ!ひぎぃ!アナルが裂けちゃううううううっ!」 あと数日で受験終わるからサルトルの実存主義の本とか読もうかな 企図自体ができない全体主義失敗のような部分は毒抜きが必要。
はい魔術で。 自由への道1部と2部は面白いね、読んだのは人文書院版だけど。
水いらず、部屋、一指導者の幼年時代もよかった。 ぼーどれーるは病院がらみのところがスミだな。
人を頼ってはいけないよ。看護婦とか。医師とか。 『家の馬鹿息子』って、フロベールに興味はあるがサルトルに興味はない、という人でも楽しめますか?
フロベールスレでは無視されたんで、ここで聞いてみるんですが たまたま「wikipedia サルトル」を視たら、思想の欄に晩年の変貌が書かれて
いないのが気にかかり。というのはそれまでの『存在と無』『弁証法的理性
批判』に代表されるサルトル哲学が1971年刊行『家の馬鹿息子』あたりから
重要な深化を為す、というのがサルトルの変貌で、当時の読者に衝撃を与えた
、というのがありましたから。
なので私の知る限りでの追加を記載させてもらいました。興味のある方が
いたら覗いていただけたらと思います。 >>288
ありがとうございます。
>>286を書いたものですが、サルトル哲学に詳しくないので、『家の馬鹿息子』を読むのは止めようかと思います。 >>290
フローベールに興味がある人ならば読んだ方が良いでしょうね。サルトルは
フローベールの生誕以前から、彼の先史(意識以前)が何だったか、を詳細に
解き明かし、人格が如何にして形成され、フローベールがその幼年時代に
拘束されたかを書いて行く。
フローベールに留まらない1人の人間の生涯をその意味をここまで抉り取っ
た批評は稀有でしょう。
サルトル哲学に詳しくはない読者でもフローベールに興味があれば読める。
サルトル哲学に詳しい人が読めば、その変化に気づくし興味津々な箇所は
ある。しかし純粋にフローベール論としても勿論読める。仮に
フローベールを研究するならば、この本を避けることは不可能でしょう。
それくらいの意味はあります。 ふむ。
考えてみる。
Hazel BarnesのSartre and Flaubertなんて本もあるんだね。 17世紀ヨーロッパ初頭、産業革命の前夜の大事な時期のモンテーニュとデカルトとパスカルらをスルーして、
後出しジャンケンのモダン石器時代の自称哲学者のサルトルなんかに傾倒するバカは大江健三郎とオノ・ヨーコしかおらん
サルトルなんて旅客機に乗っている自称哲学者だぞ スチュワーデス付きの旅客機に乗った哲学者は哲学者にあらず。
産業革命の基礎哲学を完成させた立派な哲学者たち モンテーニュ 享年59歳 デカルト 享年53歳 パスカル 享年39歳
もの乞い坊主の念仏の人生哲学を説いた飛行機に乗った詐欺師男 サルトル 享年74歳
なんの役にも立ってない大江健三郎 現在82歳
役に立たないバカほど長生きする >>294
20世紀哲学者のサルトルは哲学者ではなくて、文学者の小説家と思ったほうがいいよ。
フランス人とユダヤ人のクォーターのモンテーニュが懐疑主義哲学を創り、
懐疑による懐疑でキリスト教神学に見切りをつけで近代合理主義哲学の父となったのがデカルトで、
これ以上は合理主義哲学を語るべきではないと「人は考える葦である」と哲学をバカにすることが哲学であると説いたのが神学者パスカルだからね 『想像力』(1936年)
『自我の超越』(1937年)
『壁』(1937年)
『エロストラート』(1938年)
『水いらず』(1938年)
『部屋』(1938年)
『一指導者の幼年時代』(1938年)
『嘔吐』(1938年)
『情緒論素描』(1939年)
『想像力の問題』(1940年)
『存在と無』(1943年)
『蝿』(1943年)
『出口なし』(1945年)
『恭しき娼婦』(1946年)
『墓場なき死者』(1946年)
『ユダヤ人』(1946年)
『実存主義とは何か』(1946年)
『シチュアシオン』(1947-65年)
『ボードレール』(1947年)
『汚れた手』(1948年)
『文学とは何か』(1948年)
『自由への道』(1949年)
『悪魔と神』(1951年)
『聖ジュネ──殉教者と反抗』(1952年)
『キーン』(1954年)
『ネクラソフ』(1956年)
『アルトナの幽閉者』(1959年)
『方法の問題』(1960年)
『弁証法的理性批判』(1960年)
『言葉』(1963年)
『トロイヤの女たち』(1965年)
『家の馬鹿息子』(1971&1972年) 嘔吐はなかなか面白かったけど、読んでて辛くなるというか
もう1回読みたいとは思えないな 15、実存主義についての概略
実存主義という哲学用語がある。ぼくは長いこと「実存主義」とは何なのか、さっぱりわからなかった。
だから、手をつけるのがだいぶ遅れたのだが、面白い言説があり、
特にサルトルの小説「嘔吐」は傑作だったので、未熟者なりにぼくがまとめてみたい。
まず、実存主義が有名になったのはサルトルの「嘔吐」からでまちがいない。
大流行したらしき実存主義は、盛んに研究された結果、キルケゴールが起源だとか、
さらには十一世紀のイスラム哲学のガザ―リ「哲学者の自己矛盾」にまでさかのぼるらしい。
いずれ、入手して読みたいものだが、まだ未読な状態で簡単に実存主義を紹介しよう。
サルトルの「実存主義とは何か」によると、実存主義とは「実存は本質に先立つ」と要点をまとめることができるらしい。
ぼくなりの解釈では、本質は物自体であり、実存は我々の表象として現れる現実である。
世界は、本質(物自体)が堅固であるのに比べて、現実存在は不安定でゆらめいている。 我々の存在は、神に愛され、存在を許された時に表出したのであり、
我々の世界への出現において、神の愛が記される。
本質は、世界の根幹となる基盤であり、それは神の存在で満ちているのだろう。
これだけを記述すると、実存主義はバラ色の優しい世界に感じられるだろう。
しかし、サルトルはそんな凡庸なことでは終わらない。
サルトルが「嘔吐」で語るのは、「存在を望まなかった木」についてである。
存在を望まなかった木は、サルトルにとって異物であった。
神学者であれば「存在を望まなかった木」は悪魔としてとらえられるかもしれない。
愛を知らぬ被造物。それが「存在を望まなかった木」である。
だから、実存主義者は神に対して孤独であり、世界と離れて孤独である。
もちろん、植物は、無機物のように、何も考えていないとされていた物体である。
サルトルは「実存主義とは何か」で「かつて、キルケゴールにおいては、
実存主義は宗教的信仰と切り離せないものだった。」と記述している。
存在することは創造主に愛されたことを表す。自分の人生が神に愛されていなかったのではないかという絶望がある。
実存主義は、キルケゴールに当てはめれば、神に愛されない死に至る病であり、絶望である。
ガザ―リ「哲学者の自己矛盾」、キルケゴール「おそれとおののき」を読んだら追記する。今はここでこの章の筆をおく。 我々の存在は、神に愛され、存在を許された時に表出したのであり、
我々の世界への出現において、神の愛が記される。
本質は、世界の根幹となる基盤であり、それは神の存在で満ちているのだろう。
これだけを記述すると、実存主義はバラ色の優しい世界に感じられるだろう。
しかし、サルトルはそんな凡庸なことでは終わらない。
サルトルが「嘔吐」で語るのは、「存在を望まなかった木」についてである。
存在を望まなかった木は、サルトルにとって異物であった。
神学者であれば「存在を望まなかった木」は悪魔としてとらえられるかもしれない。
愛を知らぬ被造物。それが「存在を望まなかった木」である。
だから、実存主義者は神に対して孤独であり、世界と離れて孤独である。
もちろん、植物は、無機物のように、何も考えていないとされていた物体である。
サルトルは「実存主義とは何か」で「かつて、キルケゴールにおいては、
実存主義は宗教的信仰と切り離せないものだった。」と記述している。
存在することは創造主に愛されたことを表す。自分の人生が神に愛されていなかったのではないかという絶望がある。
実存主義は、キルケゴールに当てはめれば、神に愛されない死に至る病であり、絶望である。
ガザ―リ「哲学者の自己矛盾」、キルケゴール「おそれとおののき」を読んだら追記する。今はここでこの章の筆をおく。 医者と仲いい人成績下じゃないの?医学工学なんて検査機器みたいな地味ないらない仕事。 あまり日本で読んでいる人は少ないので、ガザ―リの「哲学者の自己矛盾」という本の内容を紹介する。
ガザ―リによれば、世界(実存)の始まりより先に創造主(本質)があったはずである。
「世界の中に創造主はいない」という実存主義と考えられる主張が語られる。
ガザ―リはサルトルとは異なる主張を展開する。
例えば、ガザ―リは「世界を創造する前に、創造主が存在した」という主張をとり、
「世界は始まりもなく、終わりもない。永遠の意志によって世界は存在する」という主張と対立する。
さらには、イヴン・スィーナーの主張をガザ―リは紹介していて、かなり興味深い神学が語られる。
それは、こういうものである。神は原因であり、世界は結果である。
原因より結果は優れているはずなので、創造主たる神より。結果であるこの世界は優れていて幸せに満ちているはずである。
つまり、神は、この世界より醜く不幸でさげすまれているはずだ。
だから、この世界は我々が神として想像している概念よりももっと美しく幸せで誇り高き高貴な世界であるはずだ。
ガザ―リも「神よ、どうか実体より偉大な存在であってくれ」と力説してしまうが、
神はこの世界の素晴らしさより醜いものであろう。この世界の喜びは、神の優しさの現れであろう。
キルケゴール「おそれとおののき」を読んだらまた加筆する。