【小説】サルトル【戯曲】
『出口なし』だげどよう、
女が二人居んだぞ、あーじゃこーじゃ言わんと、俺ならまずはセックスセックスしまくるけどな、
おまーらだってそーだろ、チンコ付いた男だろが、あーっ!? たまたま「wikipedia サルトル」を視たら、思想の欄に晩年の変貌が書かれて
いないのが気にかかり。というのはそれまでの『存在と無』『弁証法的理性
批判』に代表されるサルトル哲学が1971年刊行『家の馬鹿息子』あたりから
重要な深化を為す、というのがサルトルの変貌で、当時の読者に衝撃を与えた
、というのがありましたから。
なので私の知る限りでの追加を記載させてもらいました。興味のある方が
いたら覗いていただけたらと思います。 >>288
ありがとうございます。
>>286を書いたものですが、サルトル哲学に詳しくないので、『家の馬鹿息子』を読むのは止めようかと思います。 >>290
フローベールに興味がある人ならば読んだ方が良いでしょうね。サルトルは
フローベールの生誕以前から、彼の先史(意識以前)が何だったか、を詳細に
解き明かし、人格が如何にして形成され、フローベールがその幼年時代に
拘束されたかを書いて行く。
フローベールに留まらない1人の人間の生涯をその意味をここまで抉り取っ
た批評は稀有でしょう。
サルトル哲学に詳しくはない読者でもフローベールに興味があれば読める。
サルトル哲学に詳しい人が読めば、その変化に気づくし興味津々な箇所は
ある。しかし純粋にフローベール論としても勿論読める。仮に
フローベールを研究するならば、この本を避けることは不可能でしょう。
それくらいの意味はあります。 ふむ。
考えてみる。
Hazel BarnesのSartre and Flaubertなんて本もあるんだね。 17世紀ヨーロッパ初頭、産業革命の前夜の大事な時期のモンテーニュとデカルトとパスカルらをスルーして、
後出しジャンケンのモダン石器時代の自称哲学者のサルトルなんかに傾倒するバカは大江健三郎とオノ・ヨーコしかおらん
サルトルなんて旅客機に乗っている自称哲学者だぞ スチュワーデス付きの旅客機に乗った哲学者は哲学者にあらず。
産業革命の基礎哲学を完成させた立派な哲学者たち モンテーニュ 享年59歳 デカルト 享年53歳 パスカル 享年39歳
もの乞い坊主の念仏の人生哲学を説いた飛行機に乗った詐欺師男 サルトル 享年74歳
なんの役にも立ってない大江健三郎 現在82歳
役に立たないバカほど長生きする >>294
20世紀哲学者のサルトルは哲学者ではなくて、文学者の小説家と思ったほうがいいよ。
フランス人とユダヤ人のクォーターのモンテーニュが懐疑主義哲学を創り、
懐疑による懐疑でキリスト教神学に見切りをつけで近代合理主義哲学の父となったのがデカルトで、
これ以上は合理主義哲学を語るべきではないと「人は考える葦である」と哲学をバカにすることが哲学であると説いたのが神学者パスカルだからね 『想像力』(1936年)
『自我の超越』(1937年)
『壁』(1937年)
『エロストラート』(1938年)
『水いらず』(1938年)
『部屋』(1938年)
『一指導者の幼年時代』(1938年)
『嘔吐』(1938年)
『情緒論素描』(1939年)
『想像力の問題』(1940年)
『存在と無』(1943年)
『蝿』(1943年)
『出口なし』(1945年)
『恭しき娼婦』(1946年)
『墓場なき死者』(1946年)
『ユダヤ人』(1946年)
『実存主義とは何か』(1946年)
『シチュアシオン』(1947-65年)
『ボードレール』(1947年)
『汚れた手』(1948年)
『文学とは何か』(1948年)
『自由への道』(1949年)
『悪魔と神』(1951年)
『聖ジュネ──殉教者と反抗』(1952年)
『キーン』(1954年)
『ネクラソフ』(1956年)
『アルトナの幽閉者』(1959年)
『方法の問題』(1960年)
『弁証法的理性批判』(1960年)
『言葉』(1963年)
『トロイヤの女たち』(1965年)
『家の馬鹿息子』(1971&1972年) 嘔吐はなかなか面白かったけど、読んでて辛くなるというか
もう1回読みたいとは思えないな 15、実存主義についての概略
実存主義という哲学用語がある。ぼくは長いこと「実存主義」とは何なのか、さっぱりわからなかった。
だから、手をつけるのがだいぶ遅れたのだが、面白い言説があり、
特にサルトルの小説「嘔吐」は傑作だったので、未熟者なりにぼくがまとめてみたい。
まず、実存主義が有名になったのはサルトルの「嘔吐」からでまちがいない。
大流行したらしき実存主義は、盛んに研究された結果、キルケゴールが起源だとか、
さらには十一世紀のイスラム哲学のガザ―リ「哲学者の自己矛盾」にまでさかのぼるらしい。
いずれ、入手して読みたいものだが、まだ未読な状態で簡単に実存主義を紹介しよう。
サルトルの「実存主義とは何か」によると、実存主義とは「実存は本質に先立つ」と要点をまとめることができるらしい。
ぼくなりの解釈では、本質は物自体であり、実存は我々の表象として現れる現実である。
世界は、本質(物自体)が堅固であるのに比べて、現実存在は不安定でゆらめいている。 我々の存在は、神に愛され、存在を許された時に表出したのであり、
我々の世界への出現において、神の愛が記される。
本質は、世界の根幹となる基盤であり、それは神の存在で満ちているのだろう。
これだけを記述すると、実存主義はバラ色の優しい世界に感じられるだろう。
しかし、サルトルはそんな凡庸なことでは終わらない。
サルトルが「嘔吐」で語るのは、「存在を望まなかった木」についてである。
存在を望まなかった木は、サルトルにとって異物であった。
神学者であれば「存在を望まなかった木」は悪魔としてとらえられるかもしれない。
愛を知らぬ被造物。それが「存在を望まなかった木」である。
だから、実存主義者は神に対して孤独であり、世界と離れて孤独である。
もちろん、植物は、無機物のように、何も考えていないとされていた物体である。
サルトルは「実存主義とは何か」で「かつて、キルケゴールにおいては、
実存主義は宗教的信仰と切り離せないものだった。」と記述している。
存在することは創造主に愛されたことを表す。自分の人生が神に愛されていなかったのではないかという絶望がある。
実存主義は、キルケゴールに当てはめれば、神に愛されない死に至る病であり、絶望である。
ガザ―リ「哲学者の自己矛盾」、キルケゴール「おそれとおののき」を読んだら追記する。今はここでこの章の筆をおく。 我々の存在は、神に愛され、存在を許された時に表出したのであり、
我々の世界への出現において、神の愛が記される。
本質は、世界の根幹となる基盤であり、それは神の存在で満ちているのだろう。
これだけを記述すると、実存主義はバラ色の優しい世界に感じられるだろう。
しかし、サルトルはそんな凡庸なことでは終わらない。
サルトルが「嘔吐」で語るのは、「存在を望まなかった木」についてである。
存在を望まなかった木は、サルトルにとって異物であった。
神学者であれば「存在を望まなかった木」は悪魔としてとらえられるかもしれない。
愛を知らぬ被造物。それが「存在を望まなかった木」である。
だから、実存主義者は神に対して孤独であり、世界と離れて孤独である。
もちろん、植物は、無機物のように、何も考えていないとされていた物体である。
サルトルは「実存主義とは何か」で「かつて、キルケゴールにおいては、
実存主義は宗教的信仰と切り離せないものだった。」と記述している。
存在することは創造主に愛されたことを表す。自分の人生が神に愛されていなかったのではないかという絶望がある。
実存主義は、キルケゴールに当てはめれば、神に愛されない死に至る病であり、絶望である。
ガザ―リ「哲学者の自己矛盾」、キルケゴール「おそれとおののき」を読んだら追記する。今はここでこの章の筆をおく。 医者と仲いい人成績下じゃないの?医学工学なんて検査機器みたいな地味ないらない仕事。 あまり日本で読んでいる人は少ないので、ガザ―リの「哲学者の自己矛盾」という本の内容を紹介する。
ガザ―リによれば、世界(実存)の始まりより先に創造主(本質)があったはずである。
「世界の中に創造主はいない」という実存主義と考えられる主張が語られる。
ガザ―リはサルトルとは異なる主張を展開する。
例えば、ガザ―リは「世界を創造する前に、創造主が存在した」という主張をとり、
「世界は始まりもなく、終わりもない。永遠の意志によって世界は存在する」という主張と対立する。
さらには、イヴン・スィーナーの主張をガザ―リは紹介していて、かなり興味深い神学が語られる。
それは、こういうものである。神は原因であり、世界は結果である。
原因より結果は優れているはずなので、創造主たる神より。結果であるこの世界は優れていて幸せに満ちているはずである。
つまり、神は、この世界より醜く不幸でさげすまれているはずだ。
だから、この世界は我々が神として想像している概念よりももっと美しく幸せで誇り高き高貴な世界であるはずだ。
ガザ―リも「神よ、どうか実体より偉大な存在であってくれ」と力説してしまうが、
神はこの世界の素晴らしさより醜いものであろう。この世界の喜びは、神の優しさの現れであろう。
キルケゴール「おそれとおののき」を読んだらまた加筆する。 ダイナ手術ミスム 自覚 他覚がた。脚術で働くももいいのに。 >>306
>それは、こういうものである。神は原因であり、世界は結果である。
>原因より結果は優れているはずなので、創造主たる神より。
>結果であるこの世界は優れていて幸せに満ちているはずである。
であるのなら世界に悪がはびこるのは何故か?
これは中世カソリックでも議論された事ですね
それと個別的存在者である
人間的諸個人に意識にのぼる世界(イメージあるいは世界観)と
意識の外部にある世界(存在そのもの)は違うと思いますけどね
ヤスパースは個別的世界観が統一的イメージに収まることはない
という意味合いにおいて実存主義者であり、
サルトルもその系譜に属すると思いますけどね
しかしアンガージュマンというキーワードで
個別的存在者(これも一種のフィクションに近い)たちを
強引にリンクしようとするから全体化につながるような気がしますが
たとえばゴラン高原あたりで行われる存在者たちの無益な殺生と
渋谷や五反田のラブホで行われる
乱痴気騒ぎとの間に全く関係がないとは言いませんが
そういう個別的存在者たちが世界全体に対して責任を負えるんですかね? 吐瀉物はサルトルとペドロコスタであっているのかな?運動神経がいいなあ。 武蔵野美術大学は2019年4月に造形構想学部が新設されるようだ。ということは・・・ 森進一・・・は息子が好きじゃないから書きたくない。 首都大学東京、2020年「東京都立大学」に変更だって。
筑波大学もレベルが低いから「東京教育大学」にもどしてほしいな。 東京教育大の古典文法の本あるけど、レベルは相当低くない。その時代の方が
良かったという評判も当り前だね。でもあくまで東京の教育大であって
上越や鳴門などの下請け産業だということを、忘れてはならないし、
東大も下部組織という自覚から辛酸をなめる度胸もない。 兵庫にも教育大学があって、文部大臣教育長委員などを歴任されてる方は良いけど
未だならそういったキャリアおお勧めします。文学を継ぐ者にはね。 原因より結果って優れてるものかな?
そうとは限らないと思うけど
てか創造主が仮にいたからって、自分が愛されてると思うってのもなあ
偶然の産物とは考えないのか
例えば産業廃棄物とか飯食った後に排泄されるうんことか
ビッグバンは実は創造主のビッグベンだったのさw /⌒彡:::
/冫、 )::: また…秋が…
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/ 丶' ヽ:::
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/ /へ ヘ/ /:::
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(_,,/\ >>322
>てか創造主が仮にいたからって、自分が愛されてると思うってのもなあ
被造者感情というのは自分を虫けらのような
とるに足らないものだと自覚することから始まる
つまり、絶対的な存在に対する畏怖の感情が源泉であり
そのような恐怖を愛情という形で解消する
これがいつしか自分が愛情を捧げているので
相手もそうだろうという転倒につながり
やがてどのような苦痛でも愛ゆえに受け入れるという倒錯に変貌する
独裁国家の独裁者への忠誠心やDV配偶者への忠誠を誓う妻とかも
似たような心理であり、それゆえに解決が困難です
簡単に言うと「狂信」だからね
しかし、この「狂信」ゆえに不安や恐怖を感じずに済むわけです たとえば暴力や恐怖で妻を支配する暴君のような夫がいたとして
その夫を殴りつけたり法的制裁を加えても
一種の洗脳状態にある妻を解放することは非常に困難です
かえって支配の不安定さから恐慌状態に落ちります
支配というものの本質はそういうものなんですね 暴力や恐怖で支配されるのは夫の方だよ。ボーボワールは女性がマゾになっている
分の東京が変だというね。ほかしていかないと。性差、特性をわきまえて、
動詞の属性を考えるべき。 暴力に対抗して非 暴力であらがうのがオトコってもんだよ。 洗脳状態の方がある意味幸せなのかもね
自由の刑は怖いなあ 『実存主義とは何か』(サルトル著) ・・・ ヒロシマ・ナガサキヘの原爆投下、アウシュビッツ
でのユダヤ人の大量虐殺、ベトナム戦争での殺し合い、太平洋戦争での日本軍の愚行・・・
これらも人間の「実存」の領域の一つ。「人間とは何々である」といったそれまでの哲学や
文学での定説が、第二次世界大戦とその後の世界各地での戦争で崩れてしまった。
「実存は本質に先立つ」、既成の 「人間とは何々である」への「嘔吐」。 『嘔吐』で公園のサボテンを見てゲロった理由が分からん
実存、すなわち偶然の存在は想定外ゆえに気持ち悪いってことでOK? 嘔吐とか文庫にならないな。
もう少し主著みたいなの文庫化してほしい。 あんま関係ないけど
できちゃった婚で生まれた子供って常に実存を意識しながら生きているんだろうか Seyn フォレスト YouTube篇 11 尾崎豊の晩年と我々の知の停滞
https://youtu.be/uanLKZ4XAQI 『嘔吐』の邦訳版権、人文書院が持っているから、文庫化は絶対ない
『自由への道』岩波文庫があるから我慢しよう 嘔吐、途中まで読んだけどさっぱりわからなかった
訳が悪いのか、読解力がないのか?
どうもサルトルの作家としての能力の所為としか思えん 小説は人間同士の関係を描くのが基本だが、『嘔吐』は自分と世界の関係を描いている
つまり小説より詩や哲学に向くテーマといえる
文学的に重要な作品ではあるが、面白い小説とはいえない 文学で何が映るかが大事であって理解して意味を取るということは特別な場合においてしなくていい。誰が書いたかわからない多人数の散文のように受け取る。
時間をおいて繰り返し読んでみて自分の成長により文学は高くなる。 嘔吐では実存主義がなんたるかを庶民向けに分かりやすく書いただけであって、サルトルも読み手を楽しませてあげようなんていうサービス精神まではないと思うわ
楽しく本を読みたいなら大衆文学で充分では >>351
谷川渥美の気取った薄っぺらな書評をさっき読んだよw
いい年をしてああいう恥ずかしい文章を書けるのは、谷川が
これっぽっちも肉体を知ろうとしないからだろうね。 >>348
庶民向けに分かりやすく書いた?
俺は庶民だけど最初からまったくわからなかったぞ
庶民でわかるやつは1000人に1人だと思う サルトル研究者のほとんどが年収1千万のブルジョワ大学教授なんだから
そもそも庶民なんか相手してねえんだよ 庶民には理解できないと思うなら最初から読まなければいいのに
難しい内容をわかりやすく庶民向けに小説で教えてあげてるのに、それが分かりにくいってどんだけバカなの
100回読み直せハゲ 図書館から引っ張り出してボードレール論を読んだわ、
今どき誰が読むのだろうかと思いつつ。
章分けも区切りもなしに150頁程度を最後まで書き継げる
あの透徹した文の持続力に驚いた。 >>360
遊んで暮らしながら読むサルトルは鞭ですなあw アンガジュマンなどいらぬ
実存主義って突き詰めたら、虚無的楽観主義に行きつく気がする
遊んで暮らしながら読むと、逆に開き直っちゃうのでは なんか順番逆になってた
楽観的虚無主義でした
失礼 名著37 「枕草子」清少納言
名著38 「菜根譚」洪自誠
名著39 「ハムレット」シェークスピア
【スペシャル】日本人論 「『いき』の構造」九鬼周造、「死者の書」折口信夫、「中空構造日本の深層」
河合隼雄、「日本的霊性」鈴木大拙
名著40 「茶の本」岡倉天心
名著41 「フランケンシュタイン」メアリー・ジェリー
名著42 ブッダ最期のことば
名著43 「荘子」
名著44 「オイディプス王」ソポクレス
名著45 「日本の面影」小泉八雲
名著46 「種の起源」ダーウィン
名著47 「斜陽」太宰治
名著48 「実存主義とは何か」サルトル この人とマルクス主義との関係で日本の戦後左翼運動の核心は語れる。と言える
ほどにその関係は濃密だったはず。『存在と無』からして世界の状況すべからく
〈私〉は責任がある、だから。政治に参加するしかない。実際は、状況と〈私〉
といっても媒介があり、関係性にも段階や層がある。そこをほぐしてくれたのが
吉本で、個人幻想ー対幻想ー共同幻想の3つだったわけでしょう。サルトル哲学
の強迫性を解毒するのが吉本の思想。だからスガ秀実が自著でサルトルと
吉本を並べてるらしいけど、実際はサルトルの強迫性を解毒するのが吉本思想で
、どっちも政治の季節のカリスマだと同じように並べることはできない。実際
新左翼党派からは吉本は目の仇にされて講演で大揉めにもなってる記録があるし
ね。 文学の次の課題が政治だとしたらな。哲人政治、文人政治。文民統治。 サルトルは血統古いな源氏平家ボボワールは言論など暴力に苦しんだだろう。 超越的能力自体が暴力なんじゃ。人種間でもあるけど。
黒人男性が白人女性と付き合って時間が違うから子供が成功しないで力落として滅んでいったり、
白人男性が黒人女性と付き合って、時間など敷居こえれずに子供が成功しないで沈んでいくこともよくある。 kemofure
ちなみに実存哲学五人衆(キルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチ
ェ、ハイデガー、サルトル)で、音楽を実存と結びつけて重視したのはシ
ョーペンハウアーとニーチェ。ただ、ショーペンハウアーと後期ニーチェ
は音楽の捉え方が正反対だけど(前者は生の苦痛を癒す鎮痛剤、後者は生
を高揚する興奮剤)
2024年3月31日 読売新聞オンライン
『竹内芳郎 その思想と時代』鈴木道彦/海老坂武監修
/池上聡一編
2024/01/12
評・郷原佳以
竹内は、流行としての実存主義とは別の文脈で、また、ポストモダンによって実存主
義が死んだとみなされた後もサルトルの可能性に拘った。それはあくまで、サルトル思
想が、「この日本的現実のなかにあってその愚劣さと闘うための武器としてそれを生き
る以外にはない」存在だったからである。「日本的現実」とは、戦争体験を思想形成の
原点とした竹内にとって、集団同調主義のことであり、それを竹内は「天皇教」、「神
道的精神風土」と呼んだ。ここには、京都学派の哲学者が自ら戦争を肯定したように、
哲学が戦争を明確に否定することができなかったという現実に対する哲学としての闘い
がある。その意味において竹内は、自分は「いちども実存主義者たることをやめたこと
はない」と言う。
竹内の「実存主義」とは、「生活と思索の結合」である。しかしそれは、思索が生活
に役立つ便利な道具だなどということでは断じてない。「生活を単に追認するだけの思
想なぞ、思想の名に価しない」という竹内の警句は耳に痛い。 温泉マーク ♨オートチューンがかかるゆるキャラ/マスコットVTuber🍉
今日買った本だぜ
西村紗知『女は見えない』
中村達『私が諸島である カリブ海思想入門』
黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』
赤阪辰太郎『サルトル 風通しのよい哲学』
松井理恵『大邱の敵産家屋 地域コミュニティと市民運動』
https://pbs.twimg.com/media/GK-BKUMbMAAs1xS.jpg
2024年4月12日