【小説】サルトル【戯曲】
↑な、なにいってやんでい、こ、こちとら自慢じゃねえがぁ腕っ節だきゃあじ、自慢なんでい、ザマアみやがれべらぼうめいってやんでいっ!!☆ サルものは追わず
サルもおだてりゃ樹に登る
サルモネラ菌
猿芝居 >>41
べらぼうじゃなくてびんぼうだろ
てめえみてえのをあたぼうってんだこんちくしょう 猿回し
サルすべり
サルツブルク
ざるそば
猿渡哲也
バザールでゴサル 遠藤習作『沈黙』良いね
神の不在とこの世の無意味無価値の重さをリアルに伝えてくれる
作者の信仰心なんかどうでもよい☆ やぶにらみの哲学者はとてもやさしい人だったらしいな。 そして、とても女性にモテた。サルトルの周囲には常に女性がいて、ボーヴォワールは嫉妬しまくってたみたいだ。 「嘔吐」好きです。実在主義というのが、何なのか、よくわかる。
関係ないけど、フロムは「希望の革命」が良い。わかりやすい。 ____
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/ ` ´ | 新潮でも岩波でもサルの小説戯曲出せやヴォケ!あーっ!? 学生時代にアーサー・ミラーの「るつぼ」が英語のテキストだったことがある。
これは確かサルトルが仏語で戯曲を書いて「サレムの魔女たち」として映画化されたんじゃなかった?
アビゲイルがミレーヌ・ドモンジョで・・・とか先生がひどく感激していた。 ちと失礼
出だしに犬を連れた老人が徘徊する話、サルトルだっけ?
『嘔吐』だったかすら・・・? 『歯車』ってシナリオだったっけ…?
単独で小説を読みかけたことがあるような気がするけど、
何かと混同しているのだろうか 『鐘(Bell)』が有名な英国女性作家アイリス・マードックは
最初は哲学者で、Romantic Philosopher というのが有名。
「サルトルの小説が面白くないのは、彼が愛情のない人間だから」という趣旨。
愛の作家としてトルストイを挙げてたな。
「アイリス」って映画があったっけ。
ケイト・ウィンスレットが若き日のマードックを演じていた。 文学とは何かはかなり刺激的だった
うまいよね文章が このスレ大丈夫?
今月の21日はサルトルの誕生日だけど
それにちなんでサルトルの著作を読むなら何を読みますか?
今年は戯曲を読もうと思っています もう数年経つのか…『自由への道』は第1巻だけ読んだ。分別ざかりってやつ。
あんまりおもしろくなかったんだよね… キャメロン・ディアス主演の『運命のボタン』で『出口なし』が取り上げられてました グック(Gook)=海外で使われる韓国人に対する蔑称
韓国語で「国」を意味する「국(グク)」に由来。これは、朝鮮戦争で米軍が朝鮮軍や
市民に相対する中で、現地民が「アメリカ合衆国」を意味する「미국(ミングク、美国)」という語を
口にするのを聞いて、米軍が「Me gook?(ミー・グック)」と聞き間違え「間抜け野郎、卑屈野郎、売女」
と言う意味で使われだした。韓国人への蔑称。
LA地方紙に実際に掲載されたアメリカ人の投稿より。
俺はアジアで何カ国かに住んだことのあるアメリカ人だ。断言するが、きさまらgookどもは地球上で
最低の人種、一番の人種差別民族だ。
醜く野蛮な犬喰いで平面顔の上に、見苦しくも588層の化粧塗りたくったきさまらgookどもと比べると、
中国人は謙虚で、しかも自信たっぷりだ。犬喰いで平面顔で、しかもニンニク臭い口臭振りまいてる
野蛮人共と比べると、日本人ははるかに親切でオープンな人々だ。
<略>
きさまらgookどもは不潔で、国全体が肥溜めみたいに臭うときてる。
日本に移る前、二年ばかりgookランドに棲んでいた。はっきり言って、あれは人生最悪の二年間だった。
日本はまるで天国みたいにいいところだ。野蛮なきさまらの国と違って、いいか、ここの人達は歯も
きちんと磨くし、風呂にだって入るんだぞ。
<略>
あたり構わず嘘をついて廻るんじゃない、このファッキンで虚弱で馬鹿な、精神病で
コッカースパニエル喰いのgookども!
個人的にはアメリカが日本じゃなくお前らの小汚いgookランドに原爆を御見舞してくれればよかったと
思ってるし、朝鮮gook動乱のときにいっそ中国が本気出してきさまら薄バカどもをきれいに
掃除してくれれば、言う事なしだったとも思ってる。この先しばらく、そんなことが起きそうにないのが
とてもザンネンだ。きさまらgookどものことを思うだけでヘドが出そうになる。
とっととLAから出て行け、それからきさまらの犬スープ食堂やら酒屋、コインランドリーも全部引き上げやがれ。
ttp://www.themedium.net/archives/spring04/032404.pdf
ttp://blogs.yahoo.co.jp/vernichter_007/50014267.html グック(Gook)=海外で使われる韓国人に対する蔑称
韓国語で「国」を意味する「국(グク)」に由来。これは、朝鮮戦争で米軍が朝鮮軍や
市民に相対する中で、現地民が「アメリカ合衆国」を意味する「미국(ミングク、美国)」という語を
口にするのを聞いて、米軍が「Me gook?(ミー・グック)」と聞き間違え「間抜け野郎、卑屈野郎、売女」
と言う意味で使われだした。韓国人への蔑称。
796 名前:名無しさん@恐縮です@転載は禁止[] 投稿日:2014/06/23(月) 16:24:11.98 ID:UsAkOuuD0
https://www.youtube.com/watch?v=JXHD1XLPQK8
英語版は海外コメ「FUCK KOREA」「Little dick Gook」連発で伸びまくってるな
「Little dick Gook」=短小チンポの韓国野郎 \\\\\(*゚∀゚)/☆まんこまんこまんこまんこおおおおおお〜〜〜っ!!!!☆ サルトルの小説はいくらもないから揃えたけど何がお奨めかな 図書館で借りた新潮世界文学17を最初から読んでいる
嘔吐と壁は読んだ。次は部屋。
嘔吐は最初かなり読みにくかった。日記の中で書かれる対象がすぐに変わって
何について書かれているのを辿るのが大変
嘔吐の登場人物は変わり者が多いのな
少女をレイプするところを主人公が目撃して警告をして去る場面や
その後実際に事件が起こり少女がレイプ後殺害されることや
独学者が少年に性的いたずらをして図書館をおいだされることや
もと彼女のアニーも、自分の気に入らないしぐさをする主人公にイライラすることや
実存にかかわる病理的な事柄に、自分などは興味を持った
戦前のフランスで、現代社会にまで繋がる問題を取り扱って、今なお色あせない
そう感じた
一方壁は読みやすい作品でさらっと読めた。その分印象は薄かった 少女や少年の性愛に向かうことは、実存に纏わる病であるとみてる
ここに興味があるのは、その扱う対象に興味がないからで
変わったことをしているという立場で、傍観者として見れるからだ
男なしでいられない性分のカフェのマダムと、
セックスだけの関係をする主人公なども、その生活様式が今の日本のようだな
嘔吐は毒があって面白いよ >>125
Some of these days
You'll miss me honey
この部分にひどい音がするから、
レコードに筋が入っているに違いない
しかし、そこには、胸をしめつける何かがある
どうしてジャズを聞くときだけ吐き気を感じないのだろうか?
はっきりといっているように思うのは、存在の罪から清められたと云う部分 エロストラートを読んで
私は、と話すことに耐えられなさを感じ拳銃を発砲してしまうようなことに
嘔吐に見られるような、私として存在することの苛立たしさが現れているとみえた 国家犯罪確定!!豊中市の事件の容疑者は集団ストーカー犯罪・テクノロジー犯罪被害者だった!!
テクノロジー犯罪で音声送信されるとほんとに隣部屋から悪口をいわれている風に聞こえます。
私も数年間騙されました。犯人は警察です。警察による集団ストーカーやテクノロジー犯罪によってターゲ
ットをキレさせ(統合失調症に仕立て上げ)、本来起こらなかった事件を意図的に誘発させているのです。
周南市事件、淡路島事件、中央大教授刺殺事件、秋葉原事件も同様です。
集団ストーカーとは警察による監視+挑発+家宅侵入・器物破損・窃盗等を繰り返すことで、一度ターゲット
にしたら止めることはありません。警察は金儲けのためにこういったいやがらせ犯罪を行っているのです。 水入らずのリュリュちゃんは
下着をあまり替えず、不潔を好む女性で
腋毛を生やし、弟の前でわざと着替える
友達のリレットという女性も離婚をしきりに勧める、一風変わった女性
いろいろ読んでみて、登場人物が変わり者ばかりだった
いいぞサルトル、哲学者にしてこの鋭さ
ますます気に入ったwww >>129
コピペにレスするのはどうしたものか知らないが
まさに統合失調症はサルトルの扱いそうな存在に関係した病だよな
一般に本人に病気の意識がない
病気ではないから、テクノロジー犯罪で音声送信されると、幻聴を外界の原因にする
数年間幻聴が聞こえているようだから症状は重いのだろう
しかし一方で、させようとする集団がいるから、
やらないでおこうとする間は犯罪は起こさないだろう
監視+挑発+家宅侵入・器物破損・窃盗等などは客観的証拠はなく、
自分の心の中で起こっていること。
家の前を掃除する隣人は、掃除をするだけの目的であっても、自分側から見れば
監視と挑発で、器物破損と窃盗は、物忘れで紛失した自分側の原因を、
外側に求めてだって成り立つ
警察は実績をあげるために犯罪をでっち上げるために、人的資源を裂くものだろうか
犯罪は増加傾向にあって人手は足りないではないか
自分は自分にとって唯一無二の存在ではあっても、
社会の中ではいてもいなくてもいい代わりの効く誰かでしかない
そこにまさに病の根があるのだろうと、サルトルなんかは見るんじゃないのかな もう読まれないし流行も来ない気がしてきた
尖り過ぎていて、感情移入はできんな もっと読むし流行を越える気がしてきた
尖り過ぎず含蓄があり、深読みできるな 11月4日(水)22時よりNHK Eテレ『100分de名著』でサルトルを扱うそうですよ! >>151
それはぜひ見よう。
今年はバルトの生誕100年だから、サルトルの次はロラン・バルトってどうかな。
サルトルほどではなくてもバルトは日本での人気はかなり高いよね。 嘔吐はもともと哲学論文だったんだって
それをミステリー風に仕上げたという話は興味深かった >>157
そんなこと嘔吐を読んだ人ならだれでもしってるだろ。 >>163
そうなんだってね、おれもおどろいたよ。 「嘔吐」と邦訳が定着してるが、原義的にはムカムカ感・なんとも生理的に気分の悪いような心身感、のような。 サルトルを読むということはねひとつのファッションなんだよ そしてサルトルとボーヴォワールの関係に成熟した男女の理想的なあり方を見るのか? サルトルの本業は哲学だからね
哲学書は書けないでしょ大江には 家の馬鹿息子サルトル全集にはいるといいんだけどな
絶版なのかな 人文書院に電話なりすれば
ゲーテ全集そうして買ったから>>182
サルトル全集に編入してもらった方が安く買えるからね サルトル読んでるヤツの勘違い振りが見るに耐えない。 サルトル全集4巻と12巻が未刊なんだな。もう出版しないのかな? サルトルはやはり人文書院だよな
岩波は訳がよくない サルトルは戦争と平和だけど大江は四国の森のお花畑だもんな
格が違いすぎる>>192 >サルトルはやはり人文書院だよな
人文書院のサルトル全集は誤訳であふれているので有名だよ。
おれはサルトルならガリマールしか読まない。 花畑とサルトルを同列にいうとこがバカっぽいんだが>>178
大江がサルトルの影響を受けるのは勝手だが
サルトルに及ぶものではない >>198
178はサルトルと大江を同列にしてないのに、そう見るお前が低能 サルトルも海老坂武も俺も結婚しない。自由だからだ。 >>205
しないんじゃない。出来ないんだよ。現実に向き合いたまえ >>206
酷いこというなよ、>>205が自殺しちゃったらどうすんだよ。 ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか
ニ、ニ、ニーチェかサルトルか 詠もうかなーと思ってるんだけどどれから読めばいいの シロトが読んでみるなら芝居が面白いんじゃないかな。 文学評論にあたるくらいなら小説を読んだ方がいいし
政治評論は誤謬が多い >文学評論にあたるくらいなら小説を読んだ方がいいし
文学評論ってものがわかっていないらしいな。 >たとえば文学とは何かを読んでも身につかないよ
ば〜か、それは評論じゃないよ、講演だろ。 ボードレール論
聖ジュネ
家の馬鹿息子
マラルメ論 >>231=>>232
ふたりのフリをするんじゃないよ、おばかさん。 自由への道は未完だけど素晴らしい
岩波版読んだ人いるのかな >>239
誤訳のない翻訳なんて存在しません。
そういうものはありえないんです。 サルトルとドストスレをやたら更新する輩がいるけど
中身がない 中身って言うけどさあ、素人に対してそんな風にハードル上げても仕方ない。死ぬほど過疎板なんだから気軽に回す事が重要なんだよ。
「中身がない」なんていうレス書くくらいなら、何か有意義な話題を提供してみなよ。あなたの今のレスは確実に僕のレス以下だから。 なんて話をしても仕方ないか。「嘔吐」の鈴木道彦の注釈はイカ臭くて途中で参照するのをやめた。文庫化する時はもっと読む人の事を考えた注釈の付け方にして欲しいな。 NHKスペシャルにサルトル出てるぞ!60年代についての「新・映像の世紀」 嘔吐なんかよんで思ったけど
「実存は本質の先に立つ」だっけ?この一言でこいつの思想は充分だよな >>248
実存主義に関する最も有名な言葉だけど、なぜそれで「充分」だと思うの? スレチですが質問です
バタイユの残した小説って「目玉の話」、「マダム・エドワルダ」、「青空」の他に何かありますか? >>252
意外にスレ違いではない。
サルトルは初期に「新しい神秘家」というバタイユ論を書いてるし
第二次大戦中1944年、既にこの時バタイユは『ドキュマン』所収論文や
『社会批評』所収論文また哲学的エッセイ集『内的体験』を発表していたが、
サルトル含めた数人とバタイユ本人も交え討論会を行っている。
この討論は『バタイユの世界』(青土社)に「討論 罪について」として
収録されている。 >>256
二見書房の『バタイユ著作集』を見てみればいいんじゃないの?w
俺もそう詳しくはないよ。
『C神父』『聖なる神』『死者・空の青み』『眼球譚・太陽肛門』
あたりが小説群でしょう。
ちなみに複数収録巻では
『聖なる神』「マダム・エドワルダ」「わが母」「シャルロット・
ダンジェルヴィル」3編とも小説。「わが母」が長編。僧である息子
を堕落させ乱交に引きずり込み結ばれる母。
『死者・空の青み』「死者」「空の青み」2編とも小説。「空の青み」
が長編。「死者」は短編。恋人を亡くした女が酒場に現れ酔客と
乱交に及ぶ話。
『眼球譚・太陽肛門』「眼球譚」が小説。「太陽肛門」「供儀」
「松毬の眼」は思想的エッセイだったと思う。 今泉富美子(雑誌でスワッピング募集している淫乱ドスケベ変態老衰よぼよぼしわくちゃ婆)
今泉一八(音感ゼロの自己陶酔ED音痴爺) 実存主義とはなにかでサルトルが言ってる全人類に対しての責任があるって
何しても当人の自由っていう思想があまりに無秩序で節操がないから取って付けた考えに思えてならないんだが 自己は他者との関連で成立し、この関係性から責任が生じる
これはマルクス主義に近い考え方だけど
マルクスの場合は世界市場の出現と
市場内経済主体の相関性が論拠となっている
サルトルはヒューマニズム的マルクス主義
あるいはヘーゲル左派ていどで片付けられる >>269
諸思想に関してミスリーディング多過ぎてお話にならない
記憶みたいだな
つりでもなければ
ただの馬鹿過ぎる奴!!! >>269
サルトルの実存主義とはなにかによると
「自身と同時に全人類をも選ぶ立法者であることを理解する人は
全面的な、かつ深刻な責任感から逃れることはできないと自覚し、
そのために常に不安が付きまとう」
とあるけど
これって常に他者の利益を考えて行動するという”明瞭な神意”を
作り出してることになると思うんだが
それなのに神の存在を否定して
「我々は自分の行いを正当化する明白な価値や命令を眼前に見出すことはできない。
そのため自身の選択の逃げ口上も見出せず孤独である」
と書いてるし
これって”全人類の責任を常に考えて行動する”という明確な価値を
作り出してる時点で矛盾してないか? たとえ自身の選択が失敗しても
”全人類のために行動したから許される”と
”逃げ口上”を与えることになると思うんだが 責任とは「或る出来事もしくは対象の、あらそう余地のない作者であることについての意識」である、というのが『存在と無』における定義
つまり責任とは、自分が何らかの状況や事物を「存在させている」という意識のこと
「全人類に対する責任」論は、他者の利益を考慮する以前に「そもそも全人類を存在させるか否か」ということじゃないかな >>273
全人類は自分が存在させているという意識か
そりゃ確かに責任重大で不安だな
まあ破滅させようと望む良心にやましい人間がひとりくらいいても不思議はないか ビートたけし「あべぴょん、らめえええええええ!ひぎぃ!アナルが裂けちゃううううううっ!」 あと数日で受験終わるからサルトルの実存主義の本とか読もうかな 企図自体ができない全体主義失敗のような部分は毒抜きが必要。
はい魔術で。 自由への道1部と2部は面白いね、読んだのは人文書院版だけど。
水いらず、部屋、一指導者の幼年時代もよかった。 ぼーどれーるは病院がらみのところがスミだな。
人を頼ってはいけないよ。看護婦とか。医師とか。 『家の馬鹿息子』って、フロベールに興味はあるがサルトルに興味はない、という人でも楽しめますか?
フロベールスレでは無視されたんで、ここで聞いてみるんですが たまたま「wikipedia サルトル」を視たら、思想の欄に晩年の変貌が書かれて
いないのが気にかかり。というのはそれまでの『存在と無』『弁証法的理性
批判』に代表されるサルトル哲学が1971年刊行『家の馬鹿息子』あたりから
重要な深化を為す、というのがサルトルの変貌で、当時の読者に衝撃を与えた
、というのがありましたから。
なので私の知る限りでの追加を記載させてもらいました。興味のある方が
いたら覗いていただけたらと思います。 >>288
ありがとうございます。
>>286を書いたものですが、サルトル哲学に詳しくないので、『家の馬鹿息子』を読むのは止めようかと思います。 >>290
フローベールに興味がある人ならば読んだ方が良いでしょうね。サルトルは
フローベールの生誕以前から、彼の先史(意識以前)が何だったか、を詳細に
解き明かし、人格が如何にして形成され、フローベールがその幼年時代に
拘束されたかを書いて行く。
フローベールに留まらない1人の人間の生涯をその意味をここまで抉り取っ
た批評は稀有でしょう。
サルトル哲学に詳しくはない読者でもフローベールに興味があれば読める。
サルトル哲学に詳しい人が読めば、その変化に気づくし興味津々な箇所は
ある。しかし純粋にフローベール論としても勿論読める。仮に
フローベールを研究するならば、この本を避けることは不可能でしょう。
それくらいの意味はあります。 ふむ。
考えてみる。
Hazel BarnesのSartre and Flaubertなんて本もあるんだね。 17世紀ヨーロッパ初頭、産業革命の前夜の大事な時期のモンテーニュとデカルトとパスカルらをスルーして、
後出しジャンケンのモダン石器時代の自称哲学者のサルトルなんかに傾倒するバカは大江健三郎とオノ・ヨーコしかおらん
サルトルなんて旅客機に乗っている自称哲学者だぞ スチュワーデス付きの旅客機に乗った哲学者は哲学者にあらず。
産業革命の基礎哲学を完成させた立派な哲学者たち モンテーニュ 享年59歳 デカルト 享年53歳 パスカル 享年39歳
もの乞い坊主の念仏の人生哲学を説いた飛行機に乗った詐欺師男 サルトル 享年74歳
なんの役にも立ってない大江健三郎 現在82歳
役に立たないバカほど長生きする >>294
20世紀哲学者のサルトルは哲学者ではなくて、文学者の小説家と思ったほうがいいよ。
フランス人とユダヤ人のクォーターのモンテーニュが懐疑主義哲学を創り、
懐疑による懐疑でキリスト教神学に見切りをつけで近代合理主義哲学の父となったのがデカルトで、
これ以上は合理主義哲学を語るべきではないと「人は考える葦である」と哲学をバカにすることが哲学であると説いたのが神学者パスカルだからね 『想像力』(1936年)
『自我の超越』(1937年)
『壁』(1937年)
『エロストラート』(1938年)
『水いらず』(1938年)
『部屋』(1938年)
『一指導者の幼年時代』(1938年)
『嘔吐』(1938年)
『情緒論素描』(1939年)
『想像力の問題』(1940年)
『存在と無』(1943年)
『蝿』(1943年)
『出口なし』(1945年)
『恭しき娼婦』(1946年)
『墓場なき死者』(1946年)
『ユダヤ人』(1946年)
『実存主義とは何か』(1946年)
『シチュアシオン』(1947-65年)
『ボードレール』(1947年)
『汚れた手』(1948年)
『文学とは何か』(1948年)
『自由への道』(1949年)
『悪魔と神』(1951年)
『聖ジュネ──殉教者と反抗』(1952年)
『キーン』(1954年)
『ネクラソフ』(1956年)
『アルトナの幽閉者』(1959年)
『方法の問題』(1960年)
『弁証法的理性批判』(1960年)
『言葉』(1963年)
『トロイヤの女たち』(1965年)
『家の馬鹿息子』(1971&1972年) 嘔吐はなかなか面白かったけど、読んでて辛くなるというか
もう1回読みたいとは思えないな 15、実存主義についての概略
実存主義という哲学用語がある。ぼくは長いこと「実存主義」とは何なのか、さっぱりわからなかった。
だから、手をつけるのがだいぶ遅れたのだが、面白い言説があり、
特にサルトルの小説「嘔吐」は傑作だったので、未熟者なりにぼくがまとめてみたい。
まず、実存主義が有名になったのはサルトルの「嘔吐」からでまちがいない。
大流行したらしき実存主義は、盛んに研究された結果、キルケゴールが起源だとか、
さらには十一世紀のイスラム哲学のガザ―リ「哲学者の自己矛盾」にまでさかのぼるらしい。
いずれ、入手して読みたいものだが、まだ未読な状態で簡単に実存主義を紹介しよう。
サルトルの「実存主義とは何か」によると、実存主義とは「実存は本質に先立つ」と要点をまとめることができるらしい。
ぼくなりの解釈では、本質は物自体であり、実存は我々の表象として現れる現実である。
世界は、本質(物自体)が堅固であるのに比べて、現実存在は不安定でゆらめいている。 我々の存在は、神に愛され、存在を許された時に表出したのであり、
我々の世界への出現において、神の愛が記される。
本質は、世界の根幹となる基盤であり、それは神の存在で満ちているのだろう。
これだけを記述すると、実存主義はバラ色の優しい世界に感じられるだろう。
しかし、サルトルはそんな凡庸なことでは終わらない。
サルトルが「嘔吐」で語るのは、「存在を望まなかった木」についてである。
存在を望まなかった木は、サルトルにとって異物であった。
神学者であれば「存在を望まなかった木」は悪魔としてとらえられるかもしれない。
愛を知らぬ被造物。それが「存在を望まなかった木」である。
だから、実存主義者は神に対して孤独であり、世界と離れて孤独である。
もちろん、植物は、無機物のように、何も考えていないとされていた物体である。
サルトルは「実存主義とは何か」で「かつて、キルケゴールにおいては、
実存主義は宗教的信仰と切り離せないものだった。」と記述している。
存在することは創造主に愛されたことを表す。自分の人生が神に愛されていなかったのではないかという絶望がある。
実存主義は、キルケゴールに当てはめれば、神に愛されない死に至る病であり、絶望である。
ガザ―リ「哲学者の自己矛盾」、キルケゴール「おそれとおののき」を読んだら追記する。今はここでこの章の筆をおく。 我々の存在は、神に愛され、存在を許された時に表出したのであり、
我々の世界への出現において、神の愛が記される。
本質は、世界の根幹となる基盤であり、それは神の存在で満ちているのだろう。
これだけを記述すると、実存主義はバラ色の優しい世界に感じられるだろう。
しかし、サルトルはそんな凡庸なことでは終わらない。
サルトルが「嘔吐」で語るのは、「存在を望まなかった木」についてである。
存在を望まなかった木は、サルトルにとって異物であった。
神学者であれば「存在を望まなかった木」は悪魔としてとらえられるかもしれない。
愛を知らぬ被造物。それが「存在を望まなかった木」である。
だから、実存主義者は神に対して孤独であり、世界と離れて孤独である。
もちろん、植物は、無機物のように、何も考えていないとされていた物体である。
サルトルは「実存主義とは何か」で「かつて、キルケゴールにおいては、
実存主義は宗教的信仰と切り離せないものだった。」と記述している。
存在することは創造主に愛されたことを表す。自分の人生が神に愛されていなかったのではないかという絶望がある。
実存主義は、キルケゴールに当てはめれば、神に愛されない死に至る病であり、絶望である。
ガザ―リ「哲学者の自己矛盾」、キルケゴール「おそれとおののき」を読んだら追記する。今はここでこの章の筆をおく。 医者と仲いい人成績下じゃないの?医学工学なんて検査機器みたいな地味ないらない仕事。 あまり日本で読んでいる人は少ないので、ガザ―リの「哲学者の自己矛盾」という本の内容を紹介する。
ガザ―リによれば、世界(実存)の始まりより先に創造主(本質)があったはずである。
「世界の中に創造主はいない」という実存主義と考えられる主張が語られる。
ガザ―リはサルトルとは異なる主張を展開する。
例えば、ガザ―リは「世界を創造する前に、創造主が存在した」という主張をとり、
「世界は始まりもなく、終わりもない。永遠の意志によって世界は存在する」という主張と対立する。
さらには、イヴン・スィーナーの主張をガザ―リは紹介していて、かなり興味深い神学が語られる。
それは、こういうものである。神は原因であり、世界は結果である。
原因より結果は優れているはずなので、創造主たる神より。結果であるこの世界は優れていて幸せに満ちているはずである。
つまり、神は、この世界より醜く不幸でさげすまれているはずだ。
だから、この世界は我々が神として想像している概念よりももっと美しく幸せで誇り高き高貴な世界であるはずだ。
ガザ―リも「神よ、どうか実体より偉大な存在であってくれ」と力説してしまうが、
神はこの世界の素晴らしさより醜いものであろう。この世界の喜びは、神の優しさの現れであろう。
キルケゴール「おそれとおののき」を読んだらまた加筆する。 ダイナ手術ミスム 自覚 他覚がた。脚術で働くももいいのに。 >>306
>それは、こういうものである。神は原因であり、世界は結果である。
>原因より結果は優れているはずなので、創造主たる神より。
>結果であるこの世界は優れていて幸せに満ちているはずである。
であるのなら世界に悪がはびこるのは何故か?
これは中世カソリックでも議論された事ですね
それと個別的存在者である
人間的諸個人に意識にのぼる世界(イメージあるいは世界観)と
意識の外部にある世界(存在そのもの)は違うと思いますけどね
ヤスパースは個別的世界観が統一的イメージに収まることはない
という意味合いにおいて実存主義者であり、
サルトルもその系譜に属すると思いますけどね
しかしアンガージュマンというキーワードで
個別的存在者(これも一種のフィクションに近い)たちを
強引にリンクしようとするから全体化につながるような気がしますが
たとえばゴラン高原あたりで行われる存在者たちの無益な殺生と
渋谷や五反田のラブホで行われる
乱痴気騒ぎとの間に全く関係がないとは言いませんが
そういう個別的存在者たちが世界全体に対して責任を負えるんですかね? 吐瀉物はサルトルとペドロコスタであっているのかな?運動神経がいいなあ。 武蔵野美術大学は2019年4月に造形構想学部が新設されるようだ。ということは・・・ 森進一・・・は息子が好きじゃないから書きたくない。 首都大学東京、2020年「東京都立大学」に変更だって。
筑波大学もレベルが低いから「東京教育大学」にもどしてほしいな。 東京教育大の古典文法の本あるけど、レベルは相当低くない。その時代の方が
良かったという評判も当り前だね。でもあくまで東京の教育大であって
上越や鳴門などの下請け産業だということを、忘れてはならないし、
東大も下部組織という自覚から辛酸をなめる度胸もない。 兵庫にも教育大学があって、文部大臣教育長委員などを歴任されてる方は良いけど
未だならそういったキャリアおお勧めします。文学を継ぐ者にはね。 原因より結果って優れてるものかな?
そうとは限らないと思うけど
てか創造主が仮にいたからって、自分が愛されてると思うってのもなあ
偶然の産物とは考えないのか
例えば産業廃棄物とか飯食った後に排泄されるうんことか
ビッグバンは実は創造主のビッグベンだったのさw /⌒彡:::
/冫、 )::: また…秋が…
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/ 丶' ヽ:::
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/ /へ ヘ/ /:::
/ \ ヾミ /|:::
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(_,,/\ >>322
>てか創造主が仮にいたからって、自分が愛されてると思うってのもなあ
被造者感情というのは自分を虫けらのような
とるに足らないものだと自覚することから始まる
つまり、絶対的な存在に対する畏怖の感情が源泉であり
そのような恐怖を愛情という形で解消する
これがいつしか自分が愛情を捧げているので
相手もそうだろうという転倒につながり
やがてどのような苦痛でも愛ゆえに受け入れるという倒錯に変貌する
独裁国家の独裁者への忠誠心やDV配偶者への忠誠を誓う妻とかも
似たような心理であり、それゆえに解決が困難です
簡単に言うと「狂信」だからね
しかし、この「狂信」ゆえに不安や恐怖を感じずに済むわけです たとえば暴力や恐怖で妻を支配する暴君のような夫がいたとして
その夫を殴りつけたり法的制裁を加えても
一種の洗脳状態にある妻を解放することは非常に困難です
かえって支配の不安定さから恐慌状態に落ちります
支配というものの本質はそういうものなんですね 暴力や恐怖で支配されるのは夫の方だよ。ボーボワールは女性がマゾになっている
分の東京が変だというね。ほかしていかないと。性差、特性をわきまえて、
動詞の属性を考えるべき。 暴力に対抗して非 暴力であらがうのがオトコってもんだよ。 洗脳状態の方がある意味幸せなのかもね
自由の刑は怖いなあ 『実存主義とは何か』(サルトル著) ・・・ ヒロシマ・ナガサキヘの原爆投下、アウシュビッツ
でのユダヤ人の大量虐殺、ベトナム戦争での殺し合い、太平洋戦争での日本軍の愚行・・・
これらも人間の「実存」の領域の一つ。「人間とは何々である」といったそれまでの哲学や
文学での定説が、第二次世界大戦とその後の世界各地での戦争で崩れてしまった。
「実存は本質に先立つ」、既成の 「人間とは何々である」への「嘔吐」。 『嘔吐』で公園のサボテンを見てゲロった理由が分からん
実存、すなわち偶然の存在は想定外ゆえに気持ち悪いってことでOK? 嘔吐とか文庫にならないな。
もう少し主著みたいなの文庫化してほしい。 あんま関係ないけど
できちゃった婚で生まれた子供って常に実存を意識しながら生きているんだろうか Seyn フォレスト YouTube篇 11 尾崎豊の晩年と我々の知の停滞
https://youtu.be/uanLKZ4XAQI 『嘔吐』の邦訳版権、人文書院が持っているから、文庫化は絶対ない
『自由への道』岩波文庫があるから我慢しよう 嘔吐、途中まで読んだけどさっぱりわからなかった
訳が悪いのか、読解力がないのか?
どうもサルトルの作家としての能力の所為としか思えん 小説は人間同士の関係を描くのが基本だが、『嘔吐』は自分と世界の関係を描いている
つまり小説より詩や哲学に向くテーマといえる
文学的に重要な作品ではあるが、面白い小説とはいえない 文学で何が映るかが大事であって理解して意味を取るということは特別な場合においてしなくていい。誰が書いたかわからない多人数の散文のように受け取る。
時間をおいて繰り返し読んでみて自分の成長により文学は高くなる。 嘔吐では実存主義がなんたるかを庶民向けに分かりやすく書いただけであって、サルトルも読み手を楽しませてあげようなんていうサービス精神まではないと思うわ
楽しく本を読みたいなら大衆文学で充分では >>351
谷川渥美の気取った薄っぺらな書評をさっき読んだよw
いい年をしてああいう恥ずかしい文章を書けるのは、谷川が
これっぽっちも肉体を知ろうとしないからだろうね。 >>348
庶民向けに分かりやすく書いた?
俺は庶民だけど最初からまったくわからなかったぞ
庶民でわかるやつは1000人に1人だと思う サルトル研究者のほとんどが年収1千万のブルジョワ大学教授なんだから
そもそも庶民なんか相手してねえんだよ 庶民には理解できないと思うなら最初から読まなければいいのに
難しい内容をわかりやすく庶民向けに小説で教えてあげてるのに、それが分かりにくいってどんだけバカなの
100回読み直せハゲ 図書館から引っ張り出してボードレール論を読んだわ、
今どき誰が読むのだろうかと思いつつ。
章分けも区切りもなしに150頁程度を最後まで書き継げる
あの透徹した文の持続力に驚いた。 >>360
遊んで暮らしながら読むサルトルは鞭ですなあw アンガジュマンなどいらぬ
実存主義って突き詰めたら、虚無的楽観主義に行きつく気がする
遊んで暮らしながら読むと、逆に開き直っちゃうのでは なんか順番逆になってた
楽観的虚無主義でした
失礼 名著37 「枕草子」清少納言
名著38 「菜根譚」洪自誠
名著39 「ハムレット」シェークスピア
【スペシャル】日本人論 「『いき』の構造」九鬼周造、「死者の書」折口信夫、「中空構造日本の深層」
河合隼雄、「日本的霊性」鈴木大拙
名著40 「茶の本」岡倉天心
名著41 「フランケンシュタイン」メアリー・ジェリー
名著42 ブッダ最期のことば
名著43 「荘子」
名著44 「オイディプス王」ソポクレス
名著45 「日本の面影」小泉八雲
名著46 「種の起源」ダーウィン
名著47 「斜陽」太宰治
名著48 「実存主義とは何か」サルトル この人とマルクス主義との関係で日本の戦後左翼運動の核心は語れる。と言える
ほどにその関係は濃密だったはず。『存在と無』からして世界の状況すべからく
〈私〉は責任がある、だから。政治に参加するしかない。実際は、状況と〈私〉
といっても媒介があり、関係性にも段階や層がある。そこをほぐしてくれたのが
吉本で、個人幻想ー対幻想ー共同幻想の3つだったわけでしょう。サルトル哲学
の強迫性を解毒するのが吉本の思想。だからスガ秀実が自著でサルトルと
吉本を並べてるらしいけど、実際はサルトルの強迫性を解毒するのが吉本思想で
、どっちも政治の季節のカリスマだと同じように並べることはできない。実際
新左翼党派からは吉本は目の仇にされて講演で大揉めにもなってる記録があるし
ね。 文学の次の課題が政治だとしたらな。哲人政治、文人政治。文民統治。 サルトルは血統古いな源氏平家ボボワールは言論など暴力に苦しんだだろう。 超越的能力自体が暴力なんじゃ。人種間でもあるけど。
黒人男性が白人女性と付き合って時間が違うから子供が成功しないで力落として滅んでいったり、
白人男性が黒人女性と付き合って、時間など敷居こえれずに子供が成功しないで沈んでいくこともよくある。 kemofure
ちなみに実存哲学五人衆(キルケゴール、ショーペンハウアー、ニーチ
ェ、ハイデガー、サルトル)で、音楽を実存と結びつけて重視したのはシ
ョーペンハウアーとニーチェ。ただ、ショーペンハウアーと後期ニーチェ
は音楽の捉え方が正反対だけど(前者は生の苦痛を癒す鎮痛剤、後者は生
を高揚する興奮剤)
2024年3月31日 読売新聞オンライン
『竹内芳郎 その思想と時代』鈴木道彦/海老坂武監修
/池上聡一編
2024/01/12
評・郷原佳以
竹内は、流行としての実存主義とは別の文脈で、また、ポストモダンによって実存主
義が死んだとみなされた後もサルトルの可能性に拘った。それはあくまで、サルトル思
想が、「この日本的現実のなかにあってその愚劣さと闘うための武器としてそれを生き
る以外にはない」存在だったからである。「日本的現実」とは、戦争体験を思想形成の
原点とした竹内にとって、集団同調主義のことであり、それを竹内は「天皇教」、「神
道的精神風土」と呼んだ。ここには、京都学派の哲学者が自ら戦争を肯定したように、
哲学が戦争を明確に否定することができなかったという現実に対する哲学としての闘い
がある。その意味において竹内は、自分は「いちども実存主義者たることをやめたこと
はない」と言う。
竹内の「実存主義」とは、「生活と思索の結合」である。しかしそれは、思索が生活
に役立つ便利な道具だなどということでは断じてない。「生活を単に追認するだけの思
想なぞ、思想の名に価しない」という竹内の警句は耳に痛い。 温泉マーク ♨オートチューンがかかるゆるキャラ/マスコットVTuber🍉
今日買った本だぜ
西村紗知『女は見えない』
中村達『私が諸島である カリブ海思想入門』
黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』
赤阪辰太郎『サルトル 風通しのよい哲学』
松井理恵『大邱の敵産家屋 地域コミュニティと市民運動』
https://pbs.twimg.com/media/GK-BKUMbMAAs1xS.jpg
2024年4月12日