フランツ・カフカ Franz Kafka 10
審判ならオーソン・ウェルズの映画の方が好きだな、最後クソ笑える。 カフカはドイツ語で作品を書いたけど無国籍、無宗教の極めて現代的な作家なので よほど酷い翻訳でさえなければそれによって真価がそこなわれはしない作家だと思っている。 >>652 自分はあのシリーズの文庫、カフカとバルザックのみ買った バルザックは『ゴリオ爺さん』の新訳(全訳)が評判よかったので ただ、いくつか書店を回ったが、あのシリーズあまり置いてない 抄訳がなければポケット世界文学全集として売れたと思うんだけどな 手に入りづらい本の抄訳だけやってハイ後はご自分でってのはな 「ラテンアメリカの文学」シリーズの扱いもだが集英社文庫は中途半端よな ディケンズなんか3つとも抄訳だな おれは3つとも全訳あるからいいけど あのシリーズだとカフカ・ポー・スティーヴンソン・ルイスキャロルは買い ブロンテ姉妹も一番手に入りにくいアンの作品が全訳だしトルストイも戦争と平和のダイジェスト+短編集でなかなかいい ダメなのはディケンズとドストエフスキー、よりにもよって一番魅力的な作品(「ステパンチコヴォ村」と「骨董屋」)を抄訳にして読みたい人は絶版本を探さなきゃいけなくするという キャロルってもしや「シルヴィーとブルーノ」かよ即買いじゃん と思って尼見たら完結編収録!(抄録)っておいおいおい テレビ的な引き伸ばし商法なの? カフカのように未完の夢を追い続けろと? 決定版カフカ全集全12巻を買ってあっちこっち読んでいるが、 カフカはじつに興味深い人物だね 日記や厖大な手紙も読まないと、小説の魅力もわからない >>660 日記や厖大な手紙も読まないと、小説の魅力もわからない 当たり前の話だがそんなことはまったくない。とはいえカフカの日記は作家の日記と云うジャンルで最高に知的な部類に入るでしょうね。 決定版カフカ全集の日記はオススメ 高くても是非買うべし ここにいる皆さんは「強いカフカ」についてどんな意見をお持ちですか?最近そんなことが書いてある本を読みました。「強いカフカ」とはつまり社会に上手く順応できるカフカのことです。カフカにはそういう面もあったとか。社会をうまく欺きます カフカは絶望的な性格で日記も創作態度も厳しいが、朗読会ではおふざけしながら自作朗読して皆を笑わせてたぞ 池内紀の講演がyoutubeにある カフカの場合なんか朗読して見せたら突然みんなが爆笑したので引き攣り愛想笑いで場に合わせて それがカフカのキャラっぽいよね〜っていつの間にか定着してしまった って勝手に想像してしまう どうしてもそっち方向に行っちゃう カフカを読んでみようと思うんだが なんかおすすめとかないかな とりあえずふたつの短編集 長編のほうがいいという人と短編のほうがいいという人がいるからめんどくさい でも短編が気に入らなければ長編も気に入らないだろう ふたつて言うても、いまは池内訳(白水社もあるよ)とか ちくま文庫のとかたくさんあるから分からんと思うよ 短編は短すぎてよく分からない ある程度長いほうがいいかと 皆さんおすすめありがとさん 一番入手しやすそうな変身の名前が挙がっていないけど 初めて読むひとには難しいのかね >>676 文学オタにありがちで通ぶりたいだけ 変身と岩波文庫のカフカ短編集を読んでおけば間違いなし ぶるーむふぇるとは、現代的だよ 未婚の中年男性の幻想 少女の描写とか 20歳年下の女性と付き合ってたロリコンのカフカらしい 城を再読して、これは凄い小説だと思ったよ。 どこが凄いって、ここでは書ききれないくらい凄い傑作だ。 カフカの人気高いなー これから本屋さんに行っていろいろ見てくる たぶん私には難しいだろうから みんなにいろいろ教えてもらうね よろぴく カフカの門は出世待ちのことかと思ったらユダヤ教の戒律と解説されてた 返信は面白かった。しかし、それ以外はイマイチだな 田舎医者はヨウツベデアニメも見たが理解不能 人生の苦難、絶望描いた作品って言うけど、俺には分からなかった ヨウツベだって、古くさくて恥ずかしい表記だ 今はYOUTUBEでいいだろう 村上春樹は中学生で城を面白く読んでたらしいからさすがだね。 カフカの短編で 「最初の悩み」だっけ。 空中ブランコ乗りのやつね。 あれなんか俺の強迫神経症の発症の様子に感じが似てると思った。 >>693 決定版カフカ全集第1巻だね 3ページの掌編だ >>691 高校生の時 ペーパーバックでドストエフスキー読んでた 角川文庫版『変身』が新訳になったのか 知らなかったな ちなみに旧訳は持っている 川島の『訴訟』ひどかったので期待できないが読んでみるか 城は子供の頃読んでもわからない 退屈な人生だったと悟った時読んで初めて あの状況が心地よいと感じる 最近手に入れた作品集で気に入っているのはエール大学が出しているフランツカフカの最近発見されたドローイングの学習である。私はフランツカフカに関しては普通の日本語訳の読者の域を出ないが30数年間プラハに住んでいたと言う関係もあり、町の東のはずれにあるユダヤ人墓地に行った事はある。ユダヤの掟に従って0-01カップみたいなものは頭につけないと入場させてもらえない。ビルクリントンが高校訪問した時もまさにその通りだった。 フランツカフカは人気者の作家であるから世界中から観光客がわんさわんさと来るのであるがお供え物もすごく多くてワンカップ大関がお墓の前に置いてあるのには思わず笑ってしまった。しかし私が不思議に思ったのは41歳で肺病で亡くなったフランツであるがその墓碑銘が肩書がドクターで始まっているのである。オーストリアハンガリー帝国でドクターの肩書を普通に名乗っている人はかなり性格が歪んだ人が間違った上昇志向の人である。だからフランツカフカ本人は自分の墓石にドクターの称号はつけてもらいたくなかったのではないか? カフカの偉大な研究者であり翻訳がである池内紀先生は私のエッセイ屋根裏プラハを文芸雑誌に紹介してくださったのであるが当時のプラハは言うまでもなくドイツ語圏である。カフカはドイツ語の文学者である。記述によればヘブライ語も勉強したらしいがものにはならなかったらしい。 それでカフカはなくなる前に彼の親友のマックスブロートに未発表の原稿を全て渡してこれは焼き払ってくれと頼んだのだがマックスブロートはそれを出版してしまったわけで我々はカフカの世界に触れることができる。そしてフランスがもう一つマックスに依頼したのは書きかけのスケッチブックであった。 1968年にマックスブロートが亡くなった後にそのスケッチブックは彼の遺産相続人に受け継がれそのままずっと保持されていたのである。それが数年前にその遺産相続人がこのスケッチブックを1,000,000ユーロで売りたいと言う案内広告を出して、まさかクリスティーズオークションではないと思うが、それでイスラエルの国立図書館がそれに文句をつけて訴訟騒ぎになった挙句フランツのスケッチブックはイスラエル国立図書館の所有物になったそうである。 それで今年になってそのドローイングがエール大学から刊行されたわけだ。最近刊行されたエール大学出版部の仕事で私がこれも高く評価してるのはJonas Makasの作品をまとめた本である。これも素晴らしいがカフカの本には比較にならないと言うのは映画作家の本は彼の人生をトピックしたものであるが、フランツカフカの仕事は我々にとって全く未知なDrowningの世界を新しく我々に対して開示してくれたものであるからだ。 そのレイアウトの方法がなかなか気にいっていて例えばこれがその一例なのであるがアッシリア時代の古代の布が発見されてそれが破れているからそのままに印刷物として掲載すると言う考古学的なメソッドがここではうまく生かされている。たかだか100年前のアーティストの仕事であるからそこら辺はもっといい加減で良いなどと私は考えるのであるがこのレイアウトの仕方は完全に考古学の方法なのだ。そこが素晴らしい。 カフカは、今日「ブルシットジョブ」と呼ばれるような、官僚的な手続きが要求される場面を設定し、無駄に神経症的な思考をいちいち書いていくことで、量を稼いでいると言える。そこでは、いつまでも完了しない無駄な手続きという「増えるもの」が、文章のエンジンになっている。 「無駄」のことを、理論的には「冗長性」と呼ぶことができる。書ける人になるとは、自分の体質に合った「冗長性発生装置」を自分の中に見つけることだ。 長々とした文章とは、カフカにおいては、無駄な官僚的手続きそのものである。カフカの作品は、作品を書くということそれ自体の本質を示すような、「小説についての小説」だとも言えるだろう。 ああだこうだと無駄口を叩くこと。それをそのまま書いてしまえばいい。おそらく人によって、無駄口が溢れてくる元にある「泉」のあり方が、異なっている。そこを分析する必要がある。 大昔だが、映画監督のフェリーニはインタビューで「嫌いなもの」として、カフカの批評、カフカの影響を受けた作品、カフカ的なもの等々といっていたな。 これはクリエーターの戦術の楽屋裏での打ち明け話のようなものだ。あからさまにカフカの影響が露呈しているのは二流だな。 今年末ようやくS. Fischer VerlagからKritische AusgabeのBriefe 1921-1924が出ますね。新しく決定版の翻訳全集を期待してますが、池内紀が翻訳してから、まだ権利を白水社が握ってるままなのできっと絶望的ですよね。 皆さんはどの訳者が好きですか? わたしは吉田仙太郎です。 「この世界はハイデガーを忘れ、カフカを歪め、現代芸術最後の巨人であるフェリーニを軽んじている」(ミラン・クンデラ) 「君よ!俺で変われ!」は、筋肉少女帯の8枚目のシングル。1993年5月21日にトイズファクトリーより発売。 作詞:大槻ケンヂ 作曲:本城聡章, 筋肉少女帯 編曲:筋肉少女帯 カフカ フェリーニ マザーグース それより不思議な彼女 フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini, 1920年1月20日 - 1993年10月31日) インテルビスタ Intervista(1987年) イタリアの映画撮影所チネチッタ創立50周年を記念して、フェリーニがチネチッタと映画への思いを綴った一編。 夜の人気のないチネチッタ撮影所。ここでフェリーニ(本人出演)と彼のスタッフたちは、 カフカの『アメリカ』に着想を得た新作の冒頭シーンを撮影しようとしている。 そこへ日本のテレビ局の取材班が、撮影を見学にやって来てフェリーニにインタビューする。 フェリーニは初めてチネチッタにやって来た時のことを語っていくのだった・・・・。 インテルビスタ(INTERVISTA)とはイタリア語でインタビューの意味。 カフカ『審判』もしくは『訴訟』 家に4種類も翻訳がある 原田義人訳、中野孝次訳、飯吉光夫訳、川島隆訳 「城」で主人公が合流して仕事をする予定だった2名の技師(だっけ?)が一切出てこないんだよな 村人に始末されたのかな >>715 『城』の異様さは、現れない二人の助手と、古くからの助手を勝手に名乗る見知らぬふたりの男の存在が不気味さを醸し出す 前者は、少なくとも到着すればKはひとりぼっちではないし村人からも測量士という職業に信頼を置かれたはず。でも現れないし連絡もない 後者は物語後半で城からの命令でそう名乗ったと白状するから、その点は世にも奇妙な物語ではなかったわけだけど、結局じゃあ『本当の弟子』はどうしたのか?という謎が残るのはたしか なんど読んでもモヤモヤするんだよなー 城の娘も気になるし、紳士亭の女将の服の仕入れ先も気になる(個人的にはアマーリアにこっそり縫わせてる気がする) 馬車の老人は仕事の話を持ちかけるんだろうけどそれも気になるし、オルガとKのロマンスがあるのかも気になる 測量師であること自体がKのでっちあげという論もあります。その場合はでまかせで言ったはずの、いわば存在しない二人の技師が現実になるという不気味な展開になりますね。「言った(思った)から本当になる」のはカフカの長編にでてくる気がします。 映画のシャッターアイランドのようにそう思い込んでいるkに付き合ってあげている状況も面白いかもしれない >>719 たしかにKは嘘ついてる描写あるしなー 冒頭で「地元に妻子がいるからこの村で金を稼ぎたい」と言ってた次の日には酒場でフリーダと盛って婚約w 地元の妻子の話は二度と出てこないし、村を出たいというフリーダに対して少なくとも数年はこの村に住み着くみたいな覚悟を言ってるから妻子はいなさそう 新しい場所で舐められないように虚勢をはるタイプか、嘘吐きタイプなのか Kとフリーダが出会ってすぐイチャつくところなんかは モテ男カフカの実体験が反映されている 文学血統論。男性は男から過度に現実逃避しない方がいい。 >>721 >冒頭で「地元に妻子がいるからこの村で金を稼ぎたい」と言ってた次の日には酒場でフリーダと盛って婚約w 言われてみればおかしなとこだよな。 読んだのはずっと前のことだから忘れてたが、確かに色々と矛盾した点があるし Kafka Projektという催しがあるそうです。 6000字のショートストーリーコンテストがあるんですが、この選考委員のことをみなさんはどう思いますか? https://www.kafkaprojekt.com エエェエエェェΣΣ(゚Д゚;)ェェエエエェェエエエ頭2:50 みすず書房から出るカフカ素描集13000円! 高いが皆さんは買いますか? 買うわけない 新潮社の決定版カフカ全集全巻持っているから他は要らない 『審判』(訴訟)はこれまでいろんな邦訳が出たけど、 どれが好まれているのかな? 批判版からの翻訳は有難いが、訳者の池内紀の文体が嫌いだ。 >>737 おお、新潮の原田訳と中野訳、ちくまの飯吉訳を持っている あとは集英社の川島訳だね 岩波の辻訳も欲しいなあ 『審判』に比べると、『城』は翻訳が少ないね 大昔のを除くと、前田訳と池内訳だけか 角川文庫の新訳『変身』はどうなんだろう 読んだ人いる? 『変身』には、全体の解釈を左右する非常に重要な一文があって、日本では、ナブコフの指摘により、その訳が変わった しかし、川島編集の集英社版の多和田や角川版の川島は、陳腐な元の解釈に戻してしまった War er ein Tier , da ihn Musik so ergriff ? 普通にグレゴールは人間だって意味だろ つまり人間なのに家族から疎まれる存在になってしまったんだよ 虫になった描写もグレゴールの幻覚かもしれない ナボコフは人間には音楽が理解できない 動物だからこそ理解できるって解釈だっけ? そんなの『変身』って作品からは読み取れないな ナボコフがちょっと上手いこと言いたかっただけだろ だから川島も多和田も無視してんだろ ナボコフはカフカをNRFの対訳で読んだと書いてるからな 英仏露に比べて独語は文学作品を読めるほどではなかったみたいだし 文学講義も思い込みが激しい部分(私が変身したのは甲虫だと言い張ったりとか)があるから話半分に聞いた方がいいと思う グレーゴルが、妹のヴァイオリンに魅了されてリビングに出てきてしまい、3人の間借り人が激怒、妹も切れてしまって破局が訪れるクライマックスシーンだが なぜ、グレーゴルは、へたくそな妹の演奏にそれほど捉えられてしまったのかが問題になるのである 単純な理解では、体は虫になったが、心はまだ人間で、音楽に感動する力が残っていたというものだが、ナボコフは、そうではなく、動物の方が音楽に対する感覚が強い 人間であったときのグレーゴルは、妹のヴァイオリンにさほど感心しなかったが、動物になったからこそ魅了されるようになった、という解釈である A)音楽に感動したのは、完全には動物になっていないから B)音楽に感動したのは、動物になってしまったから 高橋義孝 『変身』 新潮文庫、1952年 A)「音楽にこれほど魅了されても、彼はまだ動物なのであろうか。」 中井正文 『変身』 角川文庫、1952年 A)「これほど音楽に感動しているのに、それでもやっぱり彼は一匹の虫にすぎないのか、」 山下肇 『変身 他一編』 岩波文庫、1958年 A)「これほど音楽に感動しているというのに、彼はやはり一介の虫けらなのだったろうか。」 原田義人 筑摩世界文学体系58 1960年 A)「音楽にこんなに心を奪われていても、彼は動物なのだろうか。」 辻ひかる 世界の文学39 中央公論 1966年 A)「これほど音楽に心をうばわれているというのに、それでも彼が動物なのだろうか?」 高安国世 講談社文庫 1971年 A)「こんなに音楽が心を動かすのに、それでも彼は虫なのだろうか。」 城山良彦 世界文学全集30 集英社 1974年 A)「これほど音楽に心を奪われても、彼は動物だろうか?」 川村二郎 決定版カフカ全集1 新潮社 1980年 B)「これほど音楽の力に捉えられるとは、やはり彼は動物なのか?」 池内紀訳 『カフカ小説全集4 変身ほか』 白水社、2001年 B)「獣だからこそ、それで音楽がこんなに身にしみるのか?」 山下萬里 『変身』改版 岩波文庫 2004年(息子による改訳版) B)「こんなにも音楽に感動させられているからには、ぼくは獣なのだろうか。」 丘沢静也訳 『変身、掟の前で 他2編』 光文社古典新訳文庫、2007年 B)「こんなにまで音楽に心をつかまえられるとは、やはり動物なのだろうか。」 浅井健二郎訳 「変身」ちくま文庫 2008年 A)「こんなにも音楽に心がとらえられるというのに、俺は虫けらなんだろうか?」 多和田葉子訳 「変身」 集英社文庫 2015年 A)「音楽にこんなに心を動かされているグレゴールは、本当に虫獣だったのだろうか。」 川島隆 『変身』角川文庫 2022年 A)「こんなにも音楽に感動しているのに、それでも動物なのか?」 [未読] 高本研一訳 ドイツの文学 第7巻 三修社 1966年 川崎光隆訳 旺文社文庫 1973年 立川洋三訳 世界文学全集33 学習研究社 1977年 では、何故AB二つの解釈に分かれたかを考察してみよう 川島隆は、「da」は、やや古い用法では、「〜したとき」という意味があり、認容文になるから、理由と認容の2通りの解釈ができ、ナボコフが前者、自分は後者をとると言う しかし、「da」ではどうみても認容の意味にはならない、認容なら「trotzdem」を使うはずである 次の4つの文章を比較してみよう @ Er war ein Tier, da ihn Musik ergriff. (音楽が彼を魅了したから、彼は動物だった) A Er war kein Tier, da ihn Musik ergriff. (音楽が彼を魅了したから、彼は動物ではなかった)(否定) B Er war ein Tier, da ihn Musik doch ergriff. (音楽が彼を魅了したのに、彼は動物だった)(相反) C Er war ein Tier, trotzdem ihn Musik ergriff. (音楽が彼を魅了したにもかかわらず、彼は動物だった)(認容) 問題は、ABCはロジックとして普通に意味が通るが、@は常識と逆であり、翻訳者を戸惑わせる そして、まさしく、カフカの文章は、@を疑問形にしたものだというところにある 主文と副文を入れ替えてみると、@のロジックのおかしさがよくわかる @ Musik ergriff ihn, da er ein Tier war. (彼は動物だったので、音楽は彼を魅了した) A Musik ergriff ihn, da er kein Tier war. (彼は動物ではなかったので、音楽は彼を魅了した) B Musik ergriff ihn, da er doch ein Tier war. (彼は動物だったのに、音楽は彼を魅了した) C Musik ergriff ihn, trotzdem er ein Tier war. (彼は動物だったにもかかわらず、音楽は彼を魅了した) したがって、文法通り訳すと@になり、文意を優先するとBやCになる 初期の翻訳家たちは、文意を優先したが、 ナボコフの指摘によって、@がロジックとして正しいことになり、文法通り訳すようになったと考えられる 実際、鈴虫や松虫は自分の体で美しい音色を奏でるからな 人間だけが音楽を理解できるというのは人間中心主義にすぎない 動植物や物の立場にたって思考せよとは埴谷雄高も言っていた read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる