絓 僕はもう少し志が低くて、アジビラを書くようにして批評を書きたいと思っていたんですね。
そして、そのような批評から最も遠いように見えたのが戦後派文学の批評だったし、戦後派は小林秀雄とそんなに変わらないんじゃないかとも思ったんです。
花田清輝の初期なんかは、いい意味でアジビラじゃないですか。
 そういう意味で、僕にとって一九三〇年代と現在は連続していますし、その意味では僕は未だに、柄谷さんにバカにされる全共闘なのです。
『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』を読むと、ああ、これはアジビラ集だと思ってしまう。
それは、たとえばベンヤミンを読んでも変わらない問題ではないかと思います。

新潮1996/5 20世紀の批評を考える 柄谷絓福田和也

本書は一冊にまとめるに際しては、全体にわたって、ある程度の加筆・訂正がなされてはいるが、「時評」集として読まれれば、これに過ぎる喜びはない。

『小説的強度』あとがきhttp://d.hatena.ne.jp/YokoiMoppo/20080411

思想家もジャーナリストも、活動家となる途上の過渡的な在りかたにほかならない。

ガタリ『闘争機械』の書評 文学界1996/4

訳者・山本光久による異様なまでに情動的な訳注や、パセティックな響きをたたえた後書き「ラポルト、または限りなく《貧しいもの》へ」からも、これは単に、
ロジェ・ラポルトという日本では余り知られてこなかった批評家(作家)の翻訳紹介の書ではないかと知られる『プルースト/バタイユ/ブランショ』を読みながら、
ラポルトの「師」ともいうべきブランショが『踏み外し』以来、一貫して、語の最もプリミティブな意味でも、「時評家」であったことを、改めて恐ろしいと思った。

JUNK的なものをめぐって『JUNKの逆襲』所収