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大江健三郎と古井由吉 [転載禁止]©2ch.net
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0001吾輩は名無しである
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2015/05/04(月) 17:01:36.87
大江健三郎が左なのはいいとしても、古井由吉は最近西部邁が出している
雑誌「表現者」に鼎談で出席。出版された。
文学と人間、そして時代〜現代と文学〜
ゲスト古井由吉、富岡幸一郎
https://www.youtube.com/watch?v=GPIINdwi20Y

古井由吉は右あるいは保守なのだろうか。浅田彰が古井文学を衰弱文学の究極として評するのは正しいのか。
それを解く鍵は最近出された「大江健三郎+古井由吉『文学の淵を渡る』」
にあるに違いない。日本文学者右と左の頂上決戦となるか。
0198吾輩は名無しである
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2016/02/16(火) 06:06:45.82
日居月諸 @das_unheimliche 2015年10月25日
『槿』の第一章に、主人公である杉尾が献血に訪れた際、採血の手順の取り違えを振りかえるくだりがある。彼は献血について、採血をするには真空装置でもって一定の力で刻々と吸出していると推測し、看護婦が見回りを忘れればずっと血を採られ続けると思い込んでいた。

実の所はビニールの四角い袋があって基準量に達すれば自動的に止まる仕組みだとわかって拍子抜けするのだが、ここで杉尾の行きつける病院では採血の間、患者は自らの血がパックに収まる様子を見て取ることができないと読者に知らされる。

一方で、「他人の血の溜まりぐあいばかりが見える」。杉尾は同席した女の血がパックに流れるのを観察しつつ、彼よりも先に採血を始めたというのに血の出がよろしくないらしく、看護婦が首をかしげている様子を見せられる。

この女、井手伊子は献血を終えると、病院から出た先の表通りで棒杭のように立っていて、横を通り過ぎようとした杉尾の腕をつかんで助けを求める。貧血ではないというが、具合が悪いらしい。
駅前まで送ると二折れの献血カードを渡され、というか押し付けられ、女は人込みに紛れた。

杉尾はそのカードを病院に落し物として届けるつもりだったが、届けそびれたあまり、名と所と電話が書いてあるのを頼りに、女を呼び出す。ここまでは、まあ普通の恋愛小説の仕立てだ。が、カードの行方に注意を向けると、事態は変わってくる。

カードが女に返されたという叙述はない。電話で呼び寄せ、また女の具合が悪くなり車で送る、という一連の流れが時系列を交錯させつつ描かれるだけだ。
別にそれだけなら気に留める必要はない。書かなくてもわかるところは省くという、修辞上の手続きが行われているだけなのかもしれないのだから。

しかし、先に記した、患者には自らの血がパックに流れる様子が見られない、という描写を踏まえると事情は違ってくる。
ここには杉尾の許にあった物がどういう形にせよ始末される様子が曖昧になる、という符号があり、そしてここから『槿』には似たような文章が頻出しているという特徴が照射されるのだ。
0199吾輩は名無しである
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2016/02/16(火) 06:08:51.92
日居月諸 @das_unheimliche 2015年10月25日
たとえば井手を車で送ろうとしたものの、吐き気を訴えたがために途中で降りざるをえず、杉尾は背負って彼女のアパートまで送り届け、
礼とばかりに朝顔の鉢植を受け取って帰る場面があるのだが、物理的にも心理的にも持ち重りのする鉢植を彼は農家の庭先に置いていく。

ここで物理的に鉢植を始末したことになるが、当然具体的な始末は農家の住人にゆだねることなるのだから、心理的には粘りつき、庭に咲く木槿が「目につらく」写ったりする。
こうした譲渡物の曖昧な処理は、旧友の葬式に出た際に再会した旧友の妹、萱島國子から預かった物についても当てはまる。

萱島は自らの泊まるホテルに杉尾を呼び寄せ、そこで兄が自殺したことについて気に病んでいることを訴え、かつて死者が狂ったあまり、杉尾と寝たのだろう、と決めつけたことも打ち明ける。
萱島は部屋に杉尾を招き、抱かれることはなかったものの、故人に申し訳が立ったとでも言いたげな口振りをする。

元々体調の芳しくなかったがためにそのホテルに泊まっていた萱島は部屋から出られず、かわりに駅のコインロッカーから鞄を取ってきてくれと頼む。
杉尾は先約があった友人と落ち合ったり、行きつけの店にハシゴしたりしながらも、その鞄をホテルのフロントに届ける。

とはいえ彼は心理的な形で鞄を処理しきれていない。鞄の処理はフロントの男にゆだねられ、杉尾はそれが女の下に戻るのを見ることなくホテルから去る。
「季節はずれの槿(あさがお)か木槿か、白い花が揺らぐのを浮かべて」――鉢植のくだりが重ね合わされているのは明白だろう。

その他、先程触れた行きつけの店に杉尾はシガレットケースの忘れ物を預かってもらっていた。萱島の鞄を携えつつも遠回りをしたのは、直接ホテルを訪れるのを疎ましく思ったからでもあるが、
「忘れ物を取りに参」るためでもあった。だが、このシガレットケースが戻ってきたかも曖昧である。

店の女将は杉尾がやってくると剣呑な素振りを見せ、先刻まで人殺しが店にいたと訴える。人相を訊いていると、突然電燈が消え、何事かと思えば窓に男の影が立っていた。
慄く女将をなだめながら家まで送るのだが、この騒動に叙述が集中するばかりで、シガレットケースの所在は明らかでなくなってしまう。
0200吾輩は名無しである
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2016/02/16(火) 06:11:04.11
日居月諸 @das_unheimliche 2015年10月25日
もっとも、これが単なる省筆、あるいは書きそびれではないことは、いくつかの符号を踏まえれば明らかだろう――迂遠な羅列もこのあたりで留めて本題に入るが、
こうした持ち物の始末が曖昧にされることの重複は、『槿』の本筋である杉尾の記憶の不明瞭さとそのまま重なり合うのだ。

先述したが、萱島は兄に杉尾と寝ただろうと咎められ、妄想を引き取ってしまう。杉尾が大学三年、萱島が高校二年の時だというが、杉尾に覚えはない。
とはいえ彼女と何度か話し合っている内に朧な記憶が立ちあがってくる。萱島が兄に指弾され記憶が蘇ったように杉尾は萱島と話すことで記憶を呼び起こす。

彼は自分の手で記憶を処理することが出来なくなってしまう。
むしろ萱島と話している時の方が記憶が浮かんでくる。自分ではなく他人に記憶の在り処を求めてしまう。それこそ、献血の際に自分の血が溜まっていく様子は見られなかったのに、「他人の血の溜まりぐあいばかりが見えた」ように。

これを踏まえた上で改めて先程の羅列を振り返ってみれば、献血カードなり、鉢植なり、鞄なり、シガレットケースなりが、人から人へ預かったり預けられたりするのは本筋の効果を高めることにつながるだろう。
『槿』では小道具同様、記憶や妄想も人から人へ預かったり預けられたりするのだから。

杉尾の旧友にはもう一人、森沢という男がいて、突然電話をかけてきたかと思うと、更にもう一人の旧友である石山が入院したと知らせてきた。
病院という気詰まりな場所で一対一になるのを厭って助け船を求めたこの旧友は、いざ病人を目の前にすると、目を伏せっぱなしにして頼りにならない。

病院にいながらにして職場に電話して説教をしたり、見舞客に対しても抹香臭い喋り方をする石山のような男を、森沢は苦手にしていた。必然、杉尾が代わって相手をしてやらねばならなくなる。
0201吾輩は名無しである
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2016/02/16(火) 06:13:48.03
居月諸 @das_unheimliche 2015年10月25日
見舞から少し経つと萱島から電話が来て、石山から病的な電話が来て困っている、と訴えられる。なんとかします、
と請け合ったものの良い手が浮かぶわけでもなく、かといって、人をあいだに入れないほうがいい、と女から言われたからには助言を求めるわけにもいかず、先延ばしにしてしまう。

当然、石山のことは粘りつく。病人の様子を空想で補いつつ思い浮かべたり、娘に対してあたかも石山の真似をするような説教をしてしまったりする。
その後、ふたたび病院から電話が来た、と萱島から訴えられるが、ここまで来ても彼は石山への忠告を先延ばしにしてしまう。

やがて、石山は精神科に転院したとの知らせが森沢からもたらされる。見舞った森沢いわく、病人は加害妄想に苛まれている。
なにかの事件を起こしたのでここに入れられていると思い込んでいる。どうやら二十代の頃の事柄らしい。そして、杉尾を呼んでくれ、と言った。

友人の機転によって病人と見えることは避けられたが、それから少しして森沢と会う道すがら、駅のホームで井手伊子と鉢合わせたかと思うと、彼女が萱島と知り合いであると告げられる。
また、森沢からも(萱島と思しき)女から電話があったと知らされる。杉尾は一切を報告するために萱島に電話をかける。

萱島いわく、石山は二人の過去について何かを知っているらしい。杉尾と萱島が通夜の後逢い引きしたのではないか、と疑っている。もちろん妄想である。杉尾が記憶している限りでは一度だけ、彼が高校生の時、そして萱島が中学生の時、彼女の家を訪ねたことを覚えている。

そして、門を開けて少女の手首を手繰りよせた感触を思い出す。おぼろな記憶を確かにするために、門の内に押し入ったのかしら、と訊くと、入って来たではありませんか、と返される。
杉尾の回想は鮮明になっていき、庭の隅の植込みで少女と共に低くしゃがみ込み、唇を合わせたところまでたどりつく。
0202吾輩は名無しである
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2016/02/16(火) 06:16:37.11
日居月諸 @das_unheimliche 2015年10月25日
が、萱島は粘りつく。その夜、兄は寝ていた。兄ははっきりとした確信があったように自分を責めていた。その夜のほかに(お互いが大学三年、高校二年の頃)家に来たことはないか、と。
来てません、と杉尾は言い切った。しかし、言い切った分だけ記憶は確かになっていく。

少女が濡れた下着をおろして足の先から抜く様子が浮かんでくる。もう一つ、白っぽい寝間着姿が浮かんでくる。萱島の記憶も確かになっていく。
兄が蒲団に入ってことんと眠っていたと知らされたのを思い出す。杉尾との情事は見られていなかったと知って、申訳のない気持で安堵したのを思い出す。

微妙な食い違いを残しつつも話は終わるかに思われた。が、その後森沢との電話で、学生時代に仲間内で杉尾が萱島の身体を奪って捨てたとの悪評が流れていたと知らされる。
庭先での出来事から四年経った頃の話だそうで、萱島が最初に持ち出した過去の時点(大学三年、高校二年の頃)と一致する。

また森沢との会話では、石山が学生時代のころ萱島に執心だったとも知らされる。
萱島は石山のことを知らないかのように話していたではないか、と電話を切ったのち萱島に電話すると、何も告げないうちに、彼女は一転石山に付きまとわれていたと明らかにした。

それを契機とするように、萱島はふたたび杉尾から抱かれたと思い込んでいる、と井手伊子を通じて知らされる。やはり大学三年、高校二年の頃だという。
杉尾は改めて否定するが、井手が萱島にそれは妄想だと指摘して依怙地にさせてしまったために、直接引き会わされる羽目になってしまう。

萱島とホテルで引き会わされる際、杉尾は井手から二つの鍵を受け取る。一つは萱島の部屋の鍵、もう一つは井手の部屋の鍵。
井手は自らの部屋に閉じこもって、萱島と決着をつけたら、自分の部屋に来てくれるよう求めているのだ。

萱島の部屋に入ると杉尾は鍵を卓の上に返し、自分の記憶を取り戻すために話を始める。杉尾は以前の食い違いを無くすために萱島の兄が情事を見ていたのだと告げる。
兄の妄想には根拠があったのだと認める。すると萱島から、石山が自分と寝たと言い張っている、と知らされる。
0203吾輩は名無しである
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2016/02/16(火) 06:18:43.68
日居月諸 @das_unheimliche 2015年10月25日
石山が二十代の頃に罪を犯したという妄想と、石山が萱島に付きまとっていた事実がここでつながる。実際には兄と取っ組み会った末に逃げただけで、妹の身に危害は及んでいない。当然、杉尾とも寝てはいない。
すべてを了解した萱島は「ありがとう……故人はもう、夢にもあらわれません」とつぶやく。

杉尾は井手の部屋にも寄り(こちらの鍵の所在は文章の上では明らかでない)、それから石山を見舞に病院を訪れた。そこで、石山が萱島宅から逃げた後、弁明のために電話をかけたのだが、
妹が出たため咎められているような気持になり、とっさに、杉尾です、と名乗ってしまったと告げられる。

整理しよう。杉尾が高校生の時、萱島が中学生の時起こったとされる出来事は事実である。一方、杉尾が大学三年の時、萱島が高校二年の時起こったとされる出来事は、妄想が積み重なった末に出来上がったフィクションである。
実際は萱島につきまとっていた石山が兄と取っ組みあった末に逃げただけの話だ。

なぜ妄想が生まれたのかと言えば、まず杉尾が高校生、萱島が中学生の時に起きた情事が下敷きになった。それから、情事を見ていた兄が四年越しに妹を責めたことが下敷きになった。
妹は兄に隠れて杉尾と情事にいたってしまった自責の念と、兄の自殺を止められなかった自責の念を混ざり合わせ、

罪を償うかのように妄想を(歪んだ形で)引き受けた。更に、電話で執拗に繰り返された石山の妄想が女に乗り移り、犯されたという誤認につながった。そして、石山が萱島宅に電話した際に杉尾だと名乗ってしまったことで、杉尾が犯人だとされてしまった。

以上が萱島兄妹が言い募っていた、大学三年および高校二年の時に起こったとされる妄想の構成要素である。こうした人から人へと妄想や記憶が伝播する様子が、初めに述べたような小道具の行き交いによって支えられつつ描かれることで出来上がるのが、『槿』という小説なのだ。

極めて複雑に成り立っている小説のため、萱島と石山の妄想にだけ焦点をしぼったが、実際には萱島の妄想が井手に乗り移ったりもするし、あるいは女将の殺人鬼についての妄想が杉尾に乗り移りそれが無意識裡に萱島や井手とのやり取りに影響を及ぼしたりもする。
0204吾輩は名無しである
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2016/02/16(火) 06:21:53.93
日居月諸 @das_unheimliche 2015年10月25日
あるいはこうした妄想や記憶の伝達という主題を印象深くするために、留守中に届いた電話を妻が伝えそびれるシーンだったり、無言電話が届くシーンだったりがはさまる。そもそも萱島の兄の葬式の知らせも、杉尾の留守中に妻が受け取ったのだった。

登場人物が徹底してタクシーや電話といった代行的なものを重用するだとか、先延ばしや遅延が全体にわたって頻出するだとか、語るべきことは山ほどあるのだが、
あますところなく語ろうと思えば全文を引用して、逐一注釈をつけるような真似をしなければならないだろう。

そのような怠惰な読者の代行をするような真似をして一体何になるのか、という疑問も浮かんでくるところだが、ともあれこれだけは銘記しておいても損はないだろう。
『槿』は極めてたくらみに満ちた小説であり、読者は全文を注意深く見つめ、一文一文の連関を小説を作るように組み上げなければならない。

そして、古井由吉の本当の凄みは、こうした凡人には到底たどりつけない頂点に登りつめておきながら、この達成を放棄し、古今東西の天才にさえ及びもつかない地点を目指し始めたところにある、
と勇み足を踏みたくなるところだが、果たしてそう断言できるのだろうか?

このように書き付けたのは講談社文芸文庫版の解説を担当した松浦寿輝だが(彼の作品分析は明察に満ちているものの)、彼に倣って『槿』が私小説的な仕立てに複雑な技巧をさりげなく混ぜ込んだ鮮やかな達成だというのなら、
物語を放棄したとされる『槿』以降の作品群にも同じことが言えるのではないか?
0205吾輩は名無しである
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2016/02/16(火) 06:23:48.67
日居月諸 @das_unheimliche 2015年10月25日
松浦ただ一人を責めるわけにはいかない。古井が『槿』以降作風を変えたというのは文芸界にとって定説であり、何より古井自身が作者あとがきにおいて、もう小説は書かない、と20年前を振りかえっているのだから。
しかし、これだけ技巧に長けた作家の言葉を、そのままに受け取っていいのだろうか?

――まあ、そうしたことは実際に『槿』以降の小説を読まなければわからないことだ。無駄口をたたいている暇があったら『槿』とのにらめっこを止めて、次の作品に移るべきかもしれない。だが、だからといって『槿』を放棄するような真似は慎まなければいけない。

『槿』以前の作品で用いられた技巧や主題は『槿』でもって完成を見た。一方で、『槿』によってもたらされた収穫は『槿』以後の作品に息づいているかもしれない。
通説に逆らってこそ、そうした発見は成り立つ。古井由吉はあらゆる意味で未だに読まれていない。未だに読まれ足りていない。

ちなみに松岡正剛が『槿』を取り上げた際、井手伊子をアパートまで送り届けたシーンを献血で同席した日に起こったものと勘違いしていたりするので――実際は献血の後は駅で別れ、
そこで受け取った献血カードをもとに井手とは再会する――『槿』は読めないのが当たり前の小説と思っていいです。

古井由吉とまともに取っ組み合って四年になるがその間に「先導獣」から『槿』まで15年分の仕事を追っ掛けられたから、この調子なら35くらいには2013年までの仕事を一通り扱える計算になる。
まあ、上等じゃないか。もっとも、依然古井由吉が生きていて仕事を積み重ねている可能性もあるが……。
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