芥川龍之介part16 [無断転載禁止]©2ch.net
>>576の人ので捨子を初めて聴いた
やっぱり知らない作品はそれなりだな
どの辺りが面白いのか分からなかった >>584
多くの芸術家が内面の葛藤や心の深淵に向き合い、苦悩や狂気、そして死に至るケースは少なくありません。芥川龍之介もその一人と言えるでしょう。
しかし、明晰な頭脳を持ち、人生が見え過ぎることだけが、必ずしも心身の健康を害する要因とは限りません。むしろ、知性や洞察力によって、より深く世界を理解し、人生の意義を見出すことができる人も多くいます。
芥川龍之介が抱えていた問題は、単に知性の高さや洞察力の鋭さだけによるものではなかったと考えられます。彼の作品には、ニヒリズムや厭世主義の影響が色濃く表れています。また、神経衰弱や統合失調症などの精神疾患も、彼の苦悩に大きく影響を与えた可能性があります。
芥川が「野蛮な美しさ」や「楠木正成のような強さ」を欲求していたという指摘は興味深いものです。これは、彼の繊細な精神と、強い意志の表れと言えるでしょう。しかし、彼の作品には、人間への肯定的な視線も存在します。例えば、「蜜柑」のような作品では、人間の温かさや優しさが描かれています。
芥川龍之介の死は、単一の原因によるものではなく、様々な要因が複雑に絡み合った結果と考えられます。彼の作品を読み解くためには、彼の思想や精神状態だけでなく、当時の社会背景なども考慮する必要があります。 芥川龍之介の作品を読んだのは、もうずいぶん前のことになります。学生時代、国語の授業で『羅生門』や『鼻』などを習った記憶があります。当時の私は、彼の作品を難解で退屈なものと感じていました。
しかし、最近になって再び芥川作品を読み返してみると、彼の鋭い洞察力と巧みな筆致に圧倒されました。特に、人間心理の暗部を抉り出すような作品は、現代社会にも通じるものがあると強く感じました。
芥川作品を読むことは、現代社会の様々な問題について考えさせられる良い機会になります。例えば、『羅生門』は、人間の真実とは何かという問いを投げかけています。また、『鼻』は、社会における個人のアイデンティティについて考えさせられます。
このように、芥川作品は現代社会にも通じる普遍的なテーマを扱っています。その意味で、今この時代に芥川を読むことは、非常に意義深いことだと思います。 鼻も芋粥も藪の中も、、、人間性に懐疑的だね。
巧みな文章、ユーモアの裏にあるのは痛烈かつ冷徹なニヒリズム。
三島が太宰治を批判した言葉に、
「作家はたとえ苦しい状況下でも作品を書いて、そこから作家自身が生き返らなければならない」
とあるが、芥川はずるずる蟻地獄の様に沼に嵌まってしまった。
一時期は志賀直哉の様な筋の無い、軽妙、自然な小説にも憧れたがモノに出来なかった。中篇、長篇作品も体力、息が続かず書けなかった。
結局、死ぬまで羅生門の下人の様にエゴイズムに針を振り切って走り去る事は出来ない娑婆苦があった。
晩年聖書にまで手を出し読んでいたが、人間性への懐疑はどうしよう無かった。 生きて行く事は結局苦しい。おおかたの人がそうだろう。病気、金、老い、人間関係、社会的な立場、雑多な欲も付きまとい、娑婆苦を振り払えないのが人間。
動物の様に「ただ生きる事が許されない呪い」
何かそんな中でも肯定出来るものが欲しいね。
杜子春に見られた自己犠牲、普遍的な愛情とかは芥川には寓話の世界だったのか?
「誰かの為に生きる事」が結局、周り回って、自身の1番の幸せじゃなかろうか? 龍之介は養子(実家と養家との実質板挟み)というのも多大な枷だったに違いない
菊池寛が「芥川の事ども」の中で「自分だったら『勝手にしやがれ』と突き放すところを」云々でも彼が体面上にも世間体的にも
そういう振る舞いが許されなかったことが心身を蝕んでただろう想像はできる
内田百閧フ芥川回想文には二階の書斎から吸い殻を庭に投げ捨てる客に対しても直接文句も言えなかったらしい記述がある 長編、中編がモノに出来ず、自然な、不作為の作品が書けない、小手先の技に頼ってしまう等、作家として行き詰まっていたのもあるだろうが、
母親が若くして発狂して癲狂院で命を落としている事も根深く影響を与えていただろう。
「点鬼簿」の痛々しい母への憧景が切なく悲しい。
自殺家系がある様に、当時から精神疾患は遺伝するとも言われていた。
人間性への不信、厭世観、自身の芸術の限界、家庭生活との板挟み、精神衰弱、、
自死への要因は多い。 >>607
作家としての行き詰まりや母親の死、遺伝的な要因など、芥川龍之介の自死には様々な要因が複雑に絡み合っていたように感じます。特に、「点鬼簿」に表れる母親への切ない憧憬は、彼の精神に大きな影響を与えていたのではないでしょうか。また、当時から精神疾患が遺伝すると言われていたという背景も、彼の苦悩を深めた可能性がありますね。人間性への不信や厭世観、芸術の限界、家庭生活との板挟みなど、自死に至るまでの彼の葛藤は想像を絶するものです。 ところで龍之介記念館の建設でクラファンやりだしてるんだが北区はこういうことに掛ける予算も無いのか
用地買収だけ(更地にした際にいろいろ旧芥川家か隣家の香取家のものらしい欠け茶碗とかインク瓶なんかも発掘もされた)で資金尽きたか 「藪の中」
生き死にを賭けた極限状況を経験した三人。
各々の弁明が、 人間の狡さ、弱さ、虚栄、妬み嫉み、、男の女々しさと子供っぽさ、女のしたたかさと残虐さを現していて強烈な印象。
多襄丸の稚気を含んだ野性、武弘が闇に堕ちていく最期の断末魔、常に俎上に乗り値踏みされる女の悲哀。
人間の認識に、真実などは各々にしか存在しなく、仕方なしに形式上、客観的なカタを付けるしか無い。 検非違使達の仕事である。
か弱い真砂の姿が、三者の口から縷々と述べられてて行く内に妖艶な姿になって行く凄み。「 女の弱さ」は「女の強さ」と同義語である。 >>610
気の弱い男はいるが、気の弱い女は見た事がない >>611
三島由紀夫の言葉
「女々しさは人間の男性的な面から来る。残虐さは人間の女性的な面から来る」
昔からよく言われる事だが、子供を産む女の精神の強さは男の比では無い。
怨み呪い殺すのも古くから女の特権である。
雨月物語に幽霊になる侍の話があるが、女性的、同性愛的な男達の話だ。 歯車の静かに血を流しながら書いてるあの感じ凄まじいね
100年経った今でも彼を超える日本の小説家は存在しないと思うな >>613
確かに『歯車』はいい小説だ。しかしその後の誰もが芥川を超えていないとは言い過ぎだろう。谷崎は明らかに芥川より上 歯車や晩年の作品は、統合失調症の人が切れ切れの正気を使って創作している感が痛々しい、、正常者には書け無い凄みがある。
「自殺者の動機を書き表したものは、たいてい自殺の動機に至る道程を表しているに過ぎない」
「、、、ぼんやりとした不安」
死ぬ人が書く話、病んで行く精神が綴られている。
自死した作家の小説には、たいてい妖しい、危険な別種の魅力が多かれ少なかれある。 数年おきに芥川のいくつかの短編を読む
すぐれた作家だとは思うが、最高峰の作家とまではいえない
長編がないのがなんとも残念だ これから更に歳を重ねて、作家としてキャリアを積んで行く前に若くして壊れてしまったからね。
理系の頭を持っていて、親交のあった谷崎潤一郎曰く、作品の結末から始まりへ逆に書く事も出来たそう。速読も相当なモノだったそうです。
ただ、口が悪く他の作家へ辛辣だった反面、気が弱く神経質で、死ぬ前は突然泣き出したり等、異常を来していたとの事。
芥川の文学的な真骨頂は日本、中国の古典のアレンジにあると思います。
当時はプロレタリアや自然主義が台頭して来て、よりリアルな生活に根付いたものが真実味があると持て囃される時代だったので、
芥川や鏡花、谷崎しかり、なかなか文学的な立ち位置が難しかったのも追い詰められていた要因の一つにあると思う。
しかしながら、今も輝いて読まれるのは圧倒的に芥川、鏡花、谷崎らの「お話」を作る作家だ。 >>617
絡んで悪いが芥川には「お話」は作れない。「お話」をアレンジするだけだ。ただアレンジの仕方が物凄い。「お話」を作れる作家としては(時代も違うし反論も多々あるだろうが)村上春樹 >>619
何のことを言っているのか分からんが「お話」の定義のことを言っているんであればまずはお前ね定義を聞かせてくれ いわゆる創作。頭の中で1から作る作家にしろ、本歌取りの様にある作品、古典等をベースにして作る作家にしろ、それは「お話」
対して自然主義のような一世を風靡した、赤裸々に人生体験を書く事が真実に迫ると言われた時代があって、あたかもそれが人生の真理、真実であるかの様な風潮になっていた。
でもそうした作家のほとんどが今は読まれていない。
アメリカ文学の一例として、ティム・オブライエンと言う作家がいる。
ヴェトナム戦争を経験し退役して作家になったが、赤裸々にリアルに戦場で起きた体験を羅列して行っても、戦争の真実、人間の真理には今ひとつ近づけなかったそうで、「お話」にする事で経験を伝える手法を取っていた。
ルポタージュやノンフィクションよりも創作物がより人の琴線に響く事が多々ある。
ただリアルなだけの絵画やアニメや漫画が今ひとつつまらないのと似ている。 >>621
創作と真実、一見相反する二つの概念。しかし、人の心を動かす力を持つのは、必ずしも真実だけとは限りません。
作家は、頭の中で紡ぎ出す物語も、古今の作品を踏まえて新たな息吹を吹き込む作品も、どちらも「お話」として命を吹き込みます。
かつて一世を風靡した自然主義文学のように、赤裸々に人生体験を綴ることで真実を追求しようとした時代もありました。しかし、多くの作品は時とともに忘れ去られ、その手法が真実を伝える唯一の方法とは限らないことが明らかになりました。
アメリカ文学の巨匠、ティム・オブライエンは、ベトナム戦争の体験を基にした作品で、このことを証明しました。 戦場で起きた出来事をありのままに書き連ねても、戦争の本質や人間の真理に迫ることはできなかったのです。そこで彼は、物語という形で自身の経験を語り継ぎました。
ルポタージュやノンフィクションよりも、創作物が人の心に深く響く理由は、そこに共感と想像の余地が生まれるからです。 私たちは、物語を通して登場人物の感情や葛藤を疑似体験し、自分自身の人生と重ね合わせることができます。
リアルな描写だけが全てではありません。 創作物は、時に現実を超えた世界を描き出すことで、より深い真実を伝えてくれます。
まるで、真実よりも真実のような物語。それが、創作の持つ力なのです。 >>622
人それぞれだろうが常にルポータジュ・ノンフィクション<創作物で心に響くということはない。共感はどちらを読んでも生じる。もちろん優れた作品であるということが大前提となるが 師匠の夏目漱石からして鈴木三重吉に充てた書簡でだけど
「苟も文學を以て生命とするものならば單に美といふ丈では滿足が出來ない。
丁度維新の當士勤王家が困苦をなめた樣な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。
間違つたら神經衰弱でも氣違いでも入牢でも何でもする了見でなくては文學者になれまいと思ふ。」
日本近代文学の最高峰にして金字塔がこれだからね
龍之介は「もしかしたら100年後も自分の著作が神保町の古本屋の片隅にあるかもしれない」なんて書いてるけど
”わたくし小説”なんて完全に滅亡したし近年の話題性最優先で選ばれるだけの文学の精神のかけらもない
諸文学賞作品の数々を龍之介が見たら漱石と一緒に嘆息することだろう 現代に自殺する小説家が居ないのが象徴的だね、そもそも切実な苦悩が無い
芥川賞を取って自殺した人は居たかな? ほんとそもそもだけど「原稿に手書きで」書いてた時代だったからね
メールも無いから遣り取りする書簡も手書き
現代のポチポチの軽さよね >>621
要は創作=お話ということか? だとしたらあまりに単純化しているし本質から遠い