【漱石】「坊ちゃん」を改めて考える【ごめん】 [無断転載禁止]©2ch.net
坊ちゃんはよく分からん。
DJあおるが言ってる様に文学的価値は低いような気がする。
http://tinpoji.blogo.jp/archives/6758258.html
そもそも清はいるの? 漱石は「猫」と「坊ちゃん」を読み込むだけで、偉大さがわかる。
「猫」は二版を含む古書、「坊ちゃん」は番町書房の復刻原稿を購入
し、愛読してます。
「坊ちゃん」の原稿の復刻は、文庫でも出てるのでおすすめ。
最後の一行で、清の墓が「小石川」→「小日向」・・・なんて、実筆で
読めて、感動もの。
今年になって、坊ちゃん列車製作
→http://i.imgur.com/t7d3tbO.jpg
マドンナも乗ってるよ。 本を読むのがメンドーな人へ。
原作とはかけ離れているが、昔の雰囲気の映画でもいかが!?
見たこと無い俳優たちだが・・・。
↓
https://www.youtube.com/watch?v=Ygrhk4mJhXY 江戸っ子や旗本後家人の当時の気分というのは、実際こんなようだったの
だろうなあと思います。たんにオトナとコドモ時代の衝突を描いたと
いうだけでない、失われた時代や美徳価値観を懐かしむさびしいさびしい
心持ちがあらわれていて、読むたびにしみじみとしてしまう。
で、わかっているはずなのに最後は必ず泣く♪ 世の中が一新してしまって、幕臣の裔たる「おれ」を坊っちゃんと呼んで
旧時代の使用人の一途さで愛してくれるのは、広い世界に清ひとりしかありません。
新時代の教育界や社会にとって「俺」は、分別もなく見識もしらぬ
「生意気なる某」でしかない。
おそらく、おれは何も一新のために成り上がった人々の出たことを嘆いて
いるわけじゃない。服を着替えるように合理主義に模様替えして、今まで
馴染んでいたはずの情義や、旧弊にも確かにあったはずの美徳が、古いと
いうただそればかりのために愚かで馬鹿げたものみたいに棄てて顧みられない
ことへのやるせない怒りがあったのだと思う。
同時にコドモでもあったおれは、明治オトナ社会から一旦逃げ出して、
昔の日本の象徴たる清のもとへ逃げ帰ります。
そのご街鉄の技手となって明治社会で生活者として生きた俺が、最後に
清を看取ったとき、かれはまだ跳ねっ返りで融通の利かない江戸時代の
「坊っちゃん」だったでしょうか。私はそうは思わない。
ただ、守護者にして盟友だった清との別れは、どんなにか寂しく心細いもの
だったでしょう。自分を坊っちゃんと呼んで、愚かしくも無条件の愛情を
注いでくれる女性は、江戸時代に遅れること暫くにして、とうとうこの地上から
いなくなってしまったのですから。
物語は終わっても俺の生活はまだまだ続きます。いつか寿命の尽きて、
清のいる墓に入るその日まで、精神的に孤立無援な新時代をひとりで
生きなければならないのです。 サリンザーのらい麦畑で〜から着想をえてるんじゃないかな
偽善な大人に対してはき捨てるような主人公の独白調がなんか共通するものを感じる …それから清はおれがうちでも持って独立したら、一所になる気でいた。
どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。…
すると、あなたは欲がすくなくって、心が奇麗だと云ってまた賞めた。清は何と云っても賞めてくれる。…
いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寝ていた。
おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃんいつ家をお持ちなさいますと聞いた。
卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。
そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。
おれは単簡に当分うちは持たない。
田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子で、胡麻塩の鬢の乱れをしきりに撫でた。
あまり気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」と慰めてやった。…
清の事を話すのを忘れていた――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、
革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、
早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、
もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、
家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが
気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。
死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、
坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。
お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。
だから清の墓は小日向の養源寺にある。
---
墓ってのは血縁が大前提。他人を入れるのは夫婦関係にあるものだけ。
夫婦は二世の縁、と言って現世と来世の縁。
坊ちゃんってのは面白おかしいユーモア部分と有情諧謔の意味のユーモア部分が
輻輳して描かれている。有情のほうは上記のように一種のラブ・ストーリーだ。
昨今のように毎日売春婦もどきの露出を見せられてうんざりだけれど、例えば葉隠の
忍ぶ恋や、この坊ちゃんのような、恋とは言えないような沁みて来る関係もありうる。
愛とか恋が、ズッコンバッコンやるだけじゃ、犬猫と変わらん
九十夜から抜粋 このラストを読むと、わかっているのに最後の行を読んだ瞬間に
ドバーっと涙が出ます。新書版全集では、この段落がちょうど左下ピッタリで
終わってて、それが三巻の収録作品のケツなんですよね。涙をボタボタ落とし、
鼻をすすりながら本を閉じるので、この巻の解説をいつまでも読めない。
この全集を買って30年以上ですが、いまだに解説を読んでいない♪
次こそは読も…いやダメかもしんない。 愚劣の意味がわからないが、キミの言う、愚劣でない人間関係とはいかなるものかね。 ↑挨拶の意味もわからない子供は来るんじゃありません 坊ちゃんって短すぎるよね
もっといろんなエピソード詰め込んで3倍くらいにすれば読み応えあるのに
マドンナだって散々騒いでおいてワンシーンしか出てこないしw >>31
文学を含む「芸術」って奴は「何か感想を持つ」ンじゃなくて、「感じる」
だけで良いんだと思う。 お感じの無い奴は二度とタッチしなくて良い。
目や耳からの情報が脳(心)にビンビン響いて来る快感に身をゆだねる。
・・・これに尽きる。
漱石に関して言えば、文学的には「猫と坊ちゃん」が至高だと思われ
何度でも読みたくなる。
高校生くらいにでもなれば、当然猫や坊ちゃんは読んでいるって暗黙の了解でこころを読ませるのはありかも
知れないと思うんだけど、はじめて読むのがこころってのは、漱石を誤解させそうな気がする。 >>33
高校生じゃあー「猫、坊ちゃん」の面白さは無理でしょ。
ジュブナイルとか言って、コンサイス版を小中校生に読ませるのは無意味。
返って「もう読んだよ」となってしまって、勿体ない。
「心」でビンビン来る人は、スゲーなとは思うが残念な人生を歩むと思われる。
>>26や小生等は幸福だとも思う。 >>34
たしか猫は新聞連載。評判がよかったんで連載化したわけで。
明治の代物といっても、ムリってことはないでしょう。
ルビもふってあるものがあるんだし。 >>35
「猫」ハ 「ホトトギス」
昔は知らんが、戦後の17〜18才の脳みそじゃあ「猫、坊ちゃん」の描く
世界は想像出来ないと思う。
早熟なら可能性は有るが、これもその後の人生は不幸カモ。
高校生はクラブ活動でクタクタ、勉強は二の次が吉。
読書何ぞするのは凶。 36です。 連投スマソ。
小生19で大学生になり。 なんか本よまにゃー、とヘッセの文庫本を
薄い奴から始めて全部読んだ・・・が「ガラス玉演戯」でGIVE UP。
さっぱり分からんかった。
・・・で「猫、坊ちゃん」に出会い、初めて「この世が生きるカイのある物」と
感じられ、生きるのが楽しいと思えた。
あれが青年期だったと、後で分かった。 >>36
あ、そうだっか。ありがと。
読書の考え方なんだけど、基本的に面白いってことが重要だ。
自分にとっては面白いものもあればつまんないと思うものもある。
特に多作な作家だと、中にはつまらないと思うものがあるのはむしろ当然で、しょうがない。
漱石はあまりトーンが変わらないので、いくつか読んで見て面白いと思ったら、大体は当りになる気はする。 虎造「石松金比羅代参」で、三ヶ月の道中酒を飲むなというならこの使いは
わっちにゃつとまらないから断りますよと口返答した石松に、次郎長がカッとなり、
「生かしておいて為にならねえ。命はもらった。覚悟しろ!」と長脇差の
鞘を払うと、面白がった石松が唄いだします。
「親兄弟に見放され…てんだい、…赤の他人のお前はんの……てんだ♪
…乾分になったのはね、わっちはあんたに惚れて乾分になったんだ…」
落語講談浪曲を聞かなかったり、習い事をしなかったり、むかしのお話を
読まない人ってのは、この「赤の他人のお前はん」云々を知りません。
この続きは何なんだろう…とネットで探しても出てこないのではないかしら。
ところが、現代平成の若者でも、「猫」を読んでる人は、虎造のこれを
聞いただけで続きがわかる。赤の他人のおまはんに…
「かわいがらりょうはずもない」
これ、虎造好きな人でも意外に知らなかったりするんです。でも猫を読んだ
人はちゃんとわかる。
漱石だって役に立つことはあるんです♪ 浪曲は聞いたことがないけれど、
「親兄弟…」を聞いてあああれか、と思うなら、それは角兵衛を見たからだろう。
猫にはそのまんま引用されているから、「親兄弟…、とある以上は」と書かれて入れば、
ああ、なんらかの、周知されている、そういうフレーズが存在するのね、
ってことまでは、日本語が読めればわかるはず。
それで一応文字面の理解はできているわけだから、猫を読んだと言えるだろう。
歌舞伎や浄瑠璃の趣味がなくても、猫は楽しめるけれど、知っていると理解の巾が広がる(かも知れない。
助六を見た事があれば、駒子の台詞もああ、あれかと思うのと一緒だ。
伝統文化に接すると、外国もそうかも知れないけれど、奥行きや深みを感じざるを得ない。
だから伝統文化、特に日本の文化は多岐にわたっていて、すばらしいものがある。
まあ、漱石と同じ素養がなければ、以上のような意味で作品に肉薄できるはずもないわけだから、
学問とか向上って意味では、永遠に勉強だね。 >>33
調べたら、「こころ」が高校の教科書にのってた(今でも?)らしい。
文科省・出版社もアホとしか思えん。
もしかしたら、中学では「坊ちゃん」?
ウーーーーーーン。 国語、現代文の教科は無くても良いんじゃないのか?
なんか教えようとすると、漱石くらいしか無いんだろうナー。
小生の高校時代で記憶に残って居るのは、「漢文」。面白かった。(今でも漢詩好き)
少年期最終盤の「漢文」は時宜を得てると思う。 国語で文学作品、ってのは定番のような先入主があるけれど、
科学の啓蒙書や、産経新聞、八重山日報など、あまり赤くない新聞、通常出くわす日本語の文章、などを題材にする
のもいいかも知れない。
どうしても文学、と言うなら、
村上春樹は取り扱い説明書レベルに表現が浅い(無論いい意味で)から、ああいうのもいいかも知れない。
漱石、谷崎、三島、なんてのはレベルが高いヤツが読めばいいんで、未熟者に読ませても役にたたない。
まして、川端なんて、ほとんど無駄だろう。
太宰は自殺者を増やすから不可。 以下私見。
文学って奴は何がしか読者に感銘・人生指針を与える物と定義出来、
喜怒哀楽を含み、涙し、大声で笑える物で無くてはならん。
この意味で>>39 ,>>40氏の「浪曲(浪花節)」に近いものがある。
坊ちゃん以降(漱石の著作も含め)文学と言える著作物は「無い」と思う。
田山、谷崎、三島、太宰、芥川・・・・。 読む気もしない。
ヘッセもヘミングウェーも勘弁。 笑えそうに無いから!
海外物で今後長く残るのは、シェークスピアとマーク・トウェイン位だろう。
芥川賞、ノーベル文学賞・・いい加減辞めた方が良いと思う。
駄文小説の出版はやめろとは言わないが、学生さんには古典良書
が有る事を教えた方が良い。
国語じゃなく「文学」を! ・・・「現代文」は不要! 他者の視点から眺めて「人間一般」「存在あれこれ」に触れる、てのが
読物文芸をコドモに鑑賞させる値うちのひとつだと思うんです。
報道論説における正確さや、算術計算的の確実さとは少し違う
感覚的なぶぶんでの推論。
学習能力や社会的成熟度、国語能力の発達発揮はコドモそれぞれで
違うものですけれど、坊っちゃんのような一見単純合理的の青年と
学校世界のオトナたちというものがたり要素は、読解への意欲を引き出し
やすいのだろうなって気はしますね。
擬人化した身近な畜獣である猫というのも、まんがや寓話にふれて育った
コドモにとっては感情移入がしやすかろうと思われる。
わがこく人民の平均的なコドモたちが、全国教室でひとしく読むものとしては
ちょっと他を思いつかないくらいもってこいな材料だと思いますよ。 >>44
だから・・・、高校までの授業で「猫、坊ちゃん」の一部紹介位は良いが、
教科書に乗せるのはダメだって。
乗せるべきは「草枕の」冒頭で、これは暗記させて、試験に出すべし。 さらに・・・
マークトウェインと比較すると。
「とむ」の序文が参考になる。
「大人のために書いた。」とある。
漱石も「猫、坊ちゃん」は大人むけに書いたと思う。
子供が読んだって無意味。 大人になってじっくり・・が大吉。
案の定、「とむ、はっく」も子供の頃に存在を知っちゃうから、読みゃーしない。
まったくもって、勿体ない事である。 >>43
>文学って奴は何がしか読者に感銘・人生指針を与える物と定義出来、
私見だけど(笑 文芸書は、面白いから読むだけ。単なる娯楽の一つ。 >>47
「草枕」の最初の一頁の再読をお勧めします。
文芸書の定義は何か分かりませんが、「芸」は芸術を意味してはいない、
と思われます。
おっしゃる通り「面白い読み物は」一杯有りますが、涙が流れる「読み物」は
「娯楽」とは一線を画す物とかと。
古本屋に叩き売らず、書架に死ぬまで置ける本に出会えます様に。 >>48
そこで一線を引いてしまうのは視野を狹めるだけかと。
涙腺は緩むものだから、若い時には涙しなくとも年寄ればそうあることもあるだろうし。
定義がお好きなようなので、これも一言。
文芸書⊇文学書、でしょう。一般に。
読書の取り組み方の視点の一つとして、没頭するのと、客観的に読む、の二通りがある。
漱石絶対、ほかは漱石以下、と言うのと、漱石よ、肩に力が入りすぎじゃないか?などと考えながら読むのと。
とは言っても、読み方はそれこそ千差万別なので、あまり一致点を模索するのは徒労かな。 1989年改版(第77刷り以降)の「坊ちゃん」では平岡敏夫の解説がある。
最後のしめくくりに・・・
「坊ちゃん」の前作「趣味の遺伝」中の以下の一文が紹介されて居る。
『滑稽の裏には真面目がくっ付いている。
大笑の奥には熱涙が潜んでいる。雑談(じょうだん)の底には
啾々たる鬼哭が聞こえる』
「趣味の遺伝」は少しく難解だが、シェークスピアをよく引き合いに出してる。
漱石はシェークスピアを研究した位であるから、「文学」とはどんな
者であるかが骨の髄まで染みこんでいた者と思われる。
第77刷り以降の平岡氏解説の再読をすすめます。
>>26 文学論なんて不要ですよね。
昭和2年頃の絵地図上げます。 (初三郎、鳥瞰図)
http://i.imgur.com/1oWupOl.jpg
漱石が住んだ時代とは違いますが、小町の停車場、愚陀佛庵、
山城屋・・・を地図で楽しんで下さい。
絵地図元。→http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/002233054_o.html
(クリックで拡大できます )
三津港は大分発展しちゃってて、この時代、艀なんてもう有りません。 スレの趣旨とはずれますが、敗戦より昔のわがこく人民は実によく歩きます。
漱石鴎外二葉亭の作品だはもちろん、のちの文芸作家や登場人物もも
じつによく歩く。寅彦や井伏の随筆を読んでると足がいたくなる。久保万の
芸人は当然、里見トンのお坊ちゃん主人公も実に健脚です(材木座から稲村ヶ崎
まで平気で歩くんだから。現代人ならタクシーや江ノ電に乗る距離です)。
私の家は川端が死んだマンションの近所で(わけあっていまは単身都会で
暮らしています)、ここへは今はただのバスが走っていますが、近所の住民は
鎌倉駅まで奥方の運転か、片道200円のバス、900〜1200円のタクシーを
使って通勤しています。
川端「山の音」には、主人公が毎日鎌倉駅から歩いて帰宅する風景が描かれて
いますが、現在この距離を毎日歩くのは、貯蓄に熱心な若夫婦か、出席して
あとは健康にしか興味のない重役出勤の人くらいです(どうせ鉄道は毎日
グリーン車で座りっぱなしなのだ。歩いて当然)。
東京て町は、鉄道やバスタクシーが発達して随分街どうし離れているようですが、
車を運転する方ならおわかりの通り、下町はたいした大きさではありません。
こんにち私たちは、本郷駒込上野浅草や、世田谷渋谷青山赤坂から麹町四谷
内藤新宿かいわいを回るのに、かんたんに都バスや地下鉄、タクシーを
利用します。私は都内に住んでるとき、晴れた日は専ら自転車で通学通勤
していました。で気づいたのですが、わがこく現代文芸や、近代を扱った
娯楽読み物を楽しむのに、この自転車や徒歩きでうろつくということがじつに
役に立ちました。今と違って、書籍や資料の地図は縮尺も方角もまちまち。
高低差がわかるのは国土地理院の地形図だけで、読み物を鑑賞しながら
勉強机の前で総合的な土地勘を想像することには限界がありました。
今は、江戸図の縮尺を読み替えて現行の住宅地図に対比することのできる
資料がたくさんあります。衛星航法と実写を使った検索もタップリある。
ずいぶん便利です。それでもなお私は、谷中から上野を抜けて吉原まで、
または新宿四谷や青山から赤坂へ、そして見附の坂を昇るのを体で感じることを
お勧めする。作者や時代との距離が一気に縮まり、馴染みが生ずるのです♪ 文学論をもう少し。「文学は大衆の物」←→日本の劇作。
シェークスピアに比するものとして考えられるのは、藤山寛美の
松竹新喜劇かなと思う。
喜怒メイン、楽と哀少々で笑い中心。
楽・哀を盛れば、日本型芸術劇が完成すると思うが、ハナトコバコ以降の劇作家に
良い人居ないんだろなー。
「坊ちゃん」は、テレビドラマ化は続いて居て望ましいが、「子供向け」から
脱する事が無い。
原作に近づけた者を、二年に一度くらい、お正月にテレビで見たいものだ。 ようつべで「マンタン」なる動画が面白い。 日本人女性がマンチェスターの
日本びいきを紹介してる。
今日初めて、マンタンのHP(@)を見たら、あらびっくり。
漱石研究者のダミアンさん(ブログ・・・A)が紹介されてた。
(彼女が翻訳してるとの事。)
そして、ダミアンさんが言うには・・・・・
「日本文学で、100回読みたいのは『坊ちゃん』だ。 ヤッパリナー!
@マンチェスター探検隊 → http://mantan.org.uk/
Aダミアンさんブログ → http://damianflanagan.blogspot.jp/ 54続き
更に以下も参考にして下さい。
Bはダミアンさんの「漱石とシェークスピア」講演。
Cはマンタン女子とダミアンさんの対談。
色々漱石を深く知る事が出来るので、お勧めします。
B https://www.youtube.com/watch?v=DWqMSlZAbkQ
C https://www.youtube.com/watch?v=bmdAW_msf38 54続き#2 大いにスレチだがこれも良い話。
まんたんーー「マンチェスターで、日本の和尚さんから袈裟について学ぶ!」
欧州の座禅・・・
https://www.youtube.com/watch?v=xZ-i7Q7HNgM 43の続き
文学=芸術・・・論考。
「美術」、「音楽」、「文学」は「芸術」だと思う。
・・・・・がなぜか「文学」は「学」で、まなぶ者として表記してる。
まあ、「芸術」って言葉も、芸人を見下していた時代の産物で、変てイヤー変だが、
美術は「術」であり、音楽は「楽(しい)」・・であれば、「文学」は
「文楽(がく)」、「文芸」、「文術」・・どちらもシックリ来ない。
少なくとも、我々一般成人には「学ぶ」ものじゃあ無い。
(「文楽(らく)」は何故にブンラク?)
Literature を日本語に旨く変換した外国人が居たら、教えて下さい。 河原乞食って知らないか?
昔は芸人ってのは、さげすまれる存在だった。
吉本興業だって、ヤクザが作ったのを知らないのか?
芸人ってのは、今でもカスのほうが多いんじゃないのか?よくは知らんけど。
漱石の時代だと、美学ってのはまだ普通に使われた言葉だろう。
音楽は音学とは言わないけれど、音響学や物理などで、学問的に扱われている。
論考と言うなら、もうちっと学問的なデータくらいは漁ってから書けよ。 >>58
57です。 貴方の論が分かりません。
>河原乞食・・・よく知らんけど。
「芸」という言葉は(ヌケ)芸人を見下していた時代の産物・・・同じ事言ってる。
>漱石の時代だと、美学ってのはまだ普通に使われた言葉だろう
美学は学問で、小生は「芸術としての絵画、工芸品・・」を美術(品)と言ってる。
>音楽は・・・・学問的に扱われている
その通り。だが小生の言ってるのは、芸術としての音楽、という言葉。
そして、言いたいのは、「文学」という言葉についてです。
これに関して、ご意見が有ればお聞かせを? >>60
そんな辞典持ってない。
ところで、「坊ちゃん」と貴方はどんなご関係で? >>62
え!?
「文学モドキ」ー「笑(ユーモア)」=純文学・・・・って
勘違いして無いだろーなあー。
純文学・・・って、何? 考えたこと事、無い。 63です。
純文学と言う言葉を知らなかったので、調べた。 WIKIによると・・・・
「純文学は、大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている
小説の総称」
そんで、芥川賞は純文学で、直木賞は大衆小説が対象だそうだ。
何だかナーーー。 日本人はこんなバカだったのか!
「(純)文学」も大衆の物だし、所謂大衆小説との間に「芸術性」,「娯楽性」
だのの境界を設ける必然性は無いと思う。 約100年前の文章から
なぜ働かないかってそれ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。(中略)そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。
だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。
牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が避けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌(ろく)な仕事は出来ない。
悉(ことごと)く切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えてやしない。
考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴っている。
のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。
その間に立って僕一人が、何と云ったって、何を為たって、仕様がないさ
1909年 夏目漱石「それから」 >>67
漱石関連スレに、多く出没してる貴君。
「坊ちゃん」はお好き? 南が丘文庫
http://www.minamigaoka.info/BOOKS/
Official Homepage
横浜市立南が丘中学校の母体である、平成研究会、通称、経世会とは、自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む、鉄の軍団と呼ばれた保守本流集団である。
横浜市立南が丘中学校OB会 IPv6何チャラで書き込みできなかったが・・(5ch移行の影響?)
「コントロールパネル⇒ネットワークと共有センター
接続のプロパティの中で IPv6のチェックをはずす。 IPv4の
チェックは残す。」・・・↑のTEST書き込みで来た。
ただし、小生のPCの場合・・「コントロールパネル→ネットワークとインターネット→
ネットワークと共有センター→左欄の「アダプターの設定の変更」→
ローカルエリア接続のプロパティー・・の中の「インターネットプロトコルバージョン6・・の
チェックを外した。 5ch もIPv6に対応したようで、これまで通りでOK. 以下のWEBより・・・井上ひさしも中々気の利いた事を言ったらしい。
68. 井上ひさしは『坊っちゃん』の最後の 1行の「だから」は
日本文学史上最も美しく最も効果的な接続語と評した。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171002-00190991-toyo-soci&p=1 また大いにスレチでごめん!
GYAO トム、ハックのちゃんちゃか映画。上映時間:1時間半
原作の1800年代の良き面影も薄いが、本読むきっかけ位にでもなれば・・・。
ぐうぐるで見てね。yahooはだめ。
↓
https://gyao.yahoo.co.jp/player/00603/v12310/v1000000000000000676/ 最後にぼちゃーんがstorm of mountain と赤シャツに振るった
暴力は明らかに刑事訴追に値する。明治は無法国家だったのだなあ!
障害罪は親告罪ではないよ。 >>76
>明治は無法国家だったのだなあ!
基本的に文明開化にまい進する明治国家と国民を蔑視する
昔気質の無頼漢を描いた作品で
作者本人も主人公を正義派とは考えていない
ただ、開化の啓蒙対象とされる地方の土民や
啓蒙者たる当時の紳士階層も是とはしない
「乱暴者」の主人公の唯一の倫理的担保として
「清」が設定されるのはそのためだが
当然、そのような存在は実在しない
「だから」お墓の中にいる、と最後に明かされる
この墓は将来主人公が入るべき場所であり
主人公が倫理的に救われるのは死によってでしかないことも
暗示されて物語は終了する
「坊ちゃん」もその精神的伴走者たる「清」も
旧時代から新時代への過渡期に生まれたバグに過ぎないし
それは作者もよく分かっていた 日清製粉ぐらいだよ。目からうろこ。賠償金ふんだくってるノリじゃあなあ。 >>76,78
斜め上から読んで、評価・分析しちゃうから、何時まで経っても
文学が何かが分からんし、自分に自信が持てないんだと思う。
「手放しで、感じる」事が出来るようになった方が人生断然お得。
絵画を見る・・なんて若い頃には良い訓練になる。
「どんな色にビビっと来るか」とか。
そして、三十才手前であれば、「自分の好きな事百」を書いてみると良い。
小生、大学に入った時の自己紹介にこの「百」を書いた。 百もあれば、大体どんな人間かは推測できる。
自分が「誰だか分からん!」76,78の様な人に是非お勧め。
ちなみに、上の「百」の最初と最後はビートルズだったのを覚えてる。 ↑
×「自分の好きな事百」
○「自分の好きな物事 百」 80 続き ・・・好きなモノ
サウンドオブミュージックの My favorite thingsのモノには賛同しづらいが、
清少納言の「春はあけぼの・・・!」なんて書いてみたいよね。 74 続き
井上ひさしは「最後の 1行のだから」を絶賛したが、
小生グッ・・と来るのが・・・
「しかしもう少しで泣くところであった。」・・である。 85 続き
続いて 「何だか大変小さく見えた。」で涙がツツーーーー。
そんで、「ぶうと云いって汽船がとまると、・・・」へ展開。
この映画の様なテンポ・・・明治のあの時代で・・・、天才だね。
今日は脚韻について・・・・。
坊ちゃんの↓の 「た」の韻が本当に心地よい。
随分ご機嫌きげんよう」と小さな声で云った。
目に涙なみだが一杯いっぱいたまっている。おれは泣かなかった。
しかしもう少しで泣くところであった。
汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だいしょうぶだろうと思って、
窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。
何だか大変小さく見えた。
西洋(中国はもちろん)の詩の韻律は規定だが、ポールのイェスタデーも見事・・
I said something wrong
now I long for・・・・ 漱石の漢詩
題:無題 (横書き 勘弁 良い詩らしい)
の脚韻 ●印 ジン、コン、シン、リン、ギン・・七言律詩の規定
眞蹤寂莫杳難尋 ●
欲抱虚懷歩古今 ●
碧水碧山何有我
蓋天蓋地是無心 ●
依稀暮色月離草
錯落秋聲風在林 ●
眼耳雙忘身亦失
空中獨唱白雲吟 ● 坊っちゃんの英訳は "Botchan"なんだそうです。
他スレで猫のタイトルが "I am a cat"はおかしいと書いたが、
さすがに、英語に坊ちゃんは無いらしい。
↓ 参照 たいして、面白いことは書いては居ないが・・・。
http://bungaku.matrix.jp/comparison/botchan.html
彼我を比べると、いかに我々が豊かな言語を持っているかを思い知る事が出来る。
我々はハックを堪能できるが、彼らは猫も坊ちゃんも我々ほどは楽しめないのだろう。
私、わたくし、アテクシ、わし、おい、おいどん、オイラ、みども、拙者、わい、あて、
うち、あたし、それがし、小生、小職、あて、吾輩、・・・みんな違うワタシ。
これが 英語では I !
昔読んだ井上ひさしの本で、京都では、〜して欲しい・・を表す言葉が二頁にわたって
書いてあったのを思い出した。
(〜してくれはらしまへんかcf) 結局、坊ちゃんは、赤シャツや野だいこに勝てなかったんだよな。
暴力振るって憂さ晴らしをしただけ。そして、事実上クビだ。
赤シャツは卵ぶつけられひどい目にあうけど、坊ちゃんを退職に追い込み、きっちり報復している。
赤シャツは相変わらず教頭の椅子にふんぞり返ったまま、「フン、ばかなやつだったな」とせせら笑っていることだろう。
坊ちゃんは、松山の地に、何を残したのだろうか?
せめて教え子たちの心に何かを残していたら救いになるのだが、作品からはそれもあまり感じられなかった。 漱石が坊ちゃんで何をやろうとしてたかは、逍遥の「小説神髄」を読んでると分かりやすい
要するに、脱・勧善懲悪をやりたかったんだと思う
赤シャツを倒してめでたしめでたしになってないのも、たぶんそのせい >>91
>>92
モナリザを見て、後ろの山を論ずるがごとし。
坊っちゃんは水墨画の味わい・・・で読む人の心を映す。 漱石が書いたんだから凄い作品に決まってるって態度は一番良くないよ
まさに愚の骨頂 立春大吉
>>94
漱石好きの古今東西の人々を代表して、
申し上げます。
おとといきやがれ! ・・・・・パラパラ :豆の音 一日遅れ。 ほしゅ
以前上げた松山の古地図に漱石・坊ちゃんゆかりの
中学校、蕎麦屋等を書き入れて見ました。
WEB版古地図(昭和2年)で追認しながら楽しんでください。
例の団子屋は遊郭の入り口に書かれてます。
中学、山城屋、愚陀仏庵、蕎麦屋(坊ちゃんで郵便局の隣とある)
↓
https://i.imgur.com/VEi6VCF.png
WEB 松山古地図
↓
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/002233054_o.html
松山の現在と比べると蕎麦屋の位置がちょっと変。 郵便局の位置が違ってるのかも。
漱石が学校に通ったり、蕎麦食ったり・・・・、道後温泉には裁判所前から汽車に乗った
ものと推測できます。 普段小説読まない人間だが最近40年ぶりに読んだ
子供の時読んで感じた、正義感の強い坊ちゃんの痛快な話というイメージと全然印象が違うのな
親父にも兄貴にも疎まれ、それを開き直って受け止めるような坊ちゃんの独語が哀れで、前半だけで悲しくなってきた
ラストも赤シャツを改悛させるでもなく論破するでもなく、暴力で一時的に溜飲を下げるだけというのも虚しい
清と、想像される松山の美しさだけが救いの話; 坊っちゃんほど人間関係の醜さ(真実)を表現した本を知らない。 みんな似た印象をもつんだよな
清々しいと思いきや独り善がりっていう
その闇がいいんだけど >>97
あなたの
こころが
きれいだから
なんでもきれいに
見えるんだ
なあ
みつを
やっぱり坊ちゃんは読む人の心を映すね 98,99さん! >>100
世の中にはこころの汚い、悪い奴がごまんといるという真実 みんな一生懸命に生きているんだもんなあ、大変なんだよなあ…ってこと、
コドモを持つくらいの歳になって、人にさんざんひどいことをしたり
言ったりしたあとにならないと、なかなかわからなかったりしますものねえ。
でも、コドモのころに読んで、分別がついてからまた読む、っていう風に、
何度でも読める、いろんな切り取りかたで読める、ってのは、いいもんですよ♪
そういう意味で、全年齢向きの、素敵な中編だと思いますね。 ボチャーンとmoutain storm の最後の暴行事件
刑法に触れる問題、どうなった?
暴行罪は親告罪ではないよ
東京に帰って市電の技手に採用されたそうだが
前歴は詐称したのかな?
応募の時に教員(明治の中学教員)なら高給で
なぜやめたのか聞かれるはずだが 明治だからいい加減だったは通用しないね。
すでに法が整備されていた。(地方)公務員の採用も
きちんと明文化された規定があった。
だから
帰ってからある小さな出版社に採用された
とすればよかったw 帰ってから清と菓子やを開いた。越後の笹もちだけは
置かない。団子と汁粉はある。 はせを 古池や蛙飛び込む水の音
こりゃ大嘘、かえるは「そろり」と水の中に入る
藤村 、、、、、、、、元の樹は生いや茂れる枝はなお影をやなせる、、、、
椰子の樹に枝があるかよ
文学は大嘘のかたまり、ぼっちゃんが暴力をふるって、結果、
東京に帰り東京市の技手に採用されたってありえない話
それでいいのだw >>103
辞めた理由は不便な田舎暮らしが嫌になったからでいいんじゃないか。
本当は田舎の人間関係が嫌になったからだろうがこれはチトまずい。
都会でも人間関係のわずらわしさはあるからね。 >>107いよいよ真相に近づく。
金ちゃんは江戸育ちで米がイネから採れるのを知らなかった
という子規のはなし。 てんから「田舎」を馬鹿にしていた
東京人の小説、ぼっちゃん。バカにされていたのも知らず
坊ちゃん電車なぞ走らす松山の田舎の馬鹿どもw >>108
坊ちゃん電車てwwww
坊ちゃん読んでねーだろ!? トンチキ!
宮澤喜一の父親である宮澤裕が
旧制中学卒でやっとありついた職が市電の車掌で
これが中学を卒業した1906年から数年間の経歴だから
ちょうど「坊ちゃん」の時代と同じころ
「坊ちゃん」はそれよりも10年前の愛媛県尋常中学校赴任時の
経験をベースに書かれているが発表は
日露戦後の好景気から恐慌に突入する1906ー1907年
あの当時としてはエリート層に属する中学教員が落ちぶれて
車掌になってもおかしくはない、のかもしれない >>112
今の坊ちゃん列車はディーゼルだわ! まぬけ! そしてヂーゼルの一等の切符をかった。油のにおいが強い。 >>115
なんだー、露伴の信者じゃ無いじゃん!
単なるアンチ漱石かーー。
薄気味悪りーー。 暑いけど。
>>117 クーペさんへ
「坊ちゃん」を改めて考える・・で鴎外が出てきたら誰でも
背筋が凍るよ。