1950年以降の海外文学で最高傑作を選ぶなら2 [無断転載禁止]©2ch.net
日本文学ならなんだろうな
と思って候補を適当に挙げてみる
苦海浄土、枯木灘、万延元年のフットボール、砂の女、神聖喜劇、豊饒の海、ねじまき鳥クロニクル その面子なら万延元年かな?
苦海は文学としてはそこまで凄くないし中上や安部公房はページ数的にどうかと 安部公房が大長編を書かなかったのはつくづく惜しい
まあ大作は不向きな作風なのかもしれないが もし安部公房があと10年生きていたとして
重力の虹を超えるものを作れた可能性は何パーセントだろう 安部公房は短編の名手って大江が言ってたけど、短編で良いと思ったのないな 晩年の作品が「カンガルーノート」や「さまざまな父」だから作家としては終わっていた。
「方舟さくら丸」も安部公房ブランドで売れたようなものだから
小説家としては「箱男」や「密会」まで。 筒井康隆はもう真面目な純文学に行かないのかな
あの人書こうと思えば>>63レベルの作品は書けただろうに
基本エンタメで純文学書いたかと思えば実験系だもんな >>72
あれはエンタメ的面白さであって
「箱男」で提示した「語り手」/「読み手」
といった現代文学の問題設定から撤退した。 ドリスレッシングってどうなの?
ノルウェーのベスト100には入ってるみたいだけど 草は歌っているは良かった
生存者の回想はなかなかの曲者 筒井は日本のヴォネガット見たいなもんだからなあ
どれだけ高い評価を受けても硬派()厨がSF上がりだから〜とか言うし
春樹とかもその類だろ1Q84の高評価と低評価のレビューの質が違いすぎるわ
前者は社会システムや宗教のメタファーを理解して書いてるのに対し後者は文学なのに重さ(笑)が無いだのキャラに感情移入(笑)出来ないだの
そろそろ純文学=モダニズムって時代遅れな考えを廃した方が良いんだよな誤解が生まれる
と言う訳でトマスピンチョン『ヴァインランド』に一票 重い文章や内容は地道な調査や技術がないと書ききれないだろうから軽視する必要はないと思うな でもだからと言って京極夏彦が町田康より文学的に格上とはならんだろ 感情ってナニ
本読んだ感想でなんか感動したとか、主人公の生き様に感銘を受けたと言われても理解できん
本読んだだけでそうなれるのすほい そこまで否定しちゃうと
もはや文学を読む意味がなさそうな気が… 関係あるかは知らんが漂流より筒井の愛読書
唯野教授のサブテキストではフォークナーやピンチョンを挙げてたけど2011年にもなると飽きるのか
あとハルヒも無いな、クリスティやのらくろが有りなら行けると思ったが
田川水泡『のらくろ』、江戸川乱歩『少年探偵団』、弓館芳夫訳『西遊記』、ボアゴベ『鉄仮面』、謝花凡太郎・画『勇士イリヤ』、手塚治虫『ロスト・ワールド 前世界』、マン『ブッデンブロオク一家』、
サバチニ『スカラムッシュ』、ウェルズ『宇宙戦争』、宮沢賢治『風の又三郎』、坪田譲治『子供の四季』、江戸川乱歩『孤独の鬼』、デュマ『モンテ・クリスト伯』、夏目漱石『吾輩は猫である』、メリメ『マテオ・ファルコーネ』、バイコフ『牝虎』、
アプトン・シンクレア『人われを大工と呼ぶ』、イプセン『ペール・ギュント』、イバーニェス『地中海』、アルツィバーシェフ『サアニン』、ショーペンハウエル『随想録』、ケッラアマン『トンネル』、
チェーホフ『結婚申込』、ズウデルマン『猫橋・憂愁夫人』、飯沢匡『北京の幽霊』、高良武久『性格学』、福田恒存『堅壘奪取』、ヘミングウェイ『日はまた昇る』、
クリスティ『そして誰もいなくなった』、フロイド『精神分析入門』、井伏鱒二『山椒魚』、メニンジャー『おのれに背くもの』、横光利一『機械』、ハメット『赤い収穫』、
カフカ『審判』、カント『判断力批判』、フィニイ『盗まれた街』、三島由紀夫『禁色』、ブラウン『発狂した宇宙』、シェクリイ『人間の手がまだ触れない』、メイラー『裸者と死者』、
ディック『宇宙の眼』、セリーヌ『世の果ての旅』、ブーアスティン『幻影の時代』、生島治郎『黄土の奔流』、リースマン『孤独な群集』、川端康成『片腕』、
東海林さだお『トントコトントン物語』、ル・クレジオ『調書』、オールディス『地球の長い午後』、つげ義春『ねじ式』、ビアス『アウル・クリーク橋の一事件』、阿佐田哲也『麻雀放浪記』、新田次郎『八甲田山死の彷徨』、山田風太郎『幻燈辻馬車』、コルタサル『遊戯の終り』、
大江健三郎『同時代ゲーム』、トゥルニエ『赤い小人』、イーグルトン『文学とは何か』、ディケンズ『荒涼館』、フライ『批評の解剖』、マルケス『族長の秋』、ドノソ『夜のみだらな鳥』、丸谷才一『女ざかり』、ハイデガー『存在と時間』 ヴォネガットとかドストエフスキー、小林秀雄はどっかで好きと言ってたはずだが入らんのか 筒井 康隆(1934年9月24日 - )
『言語姦覚』(1983年、中央公論社)
オールタイムベスト10(各年代別)
3歳〜10歳頃
「のらくろ」「蛸の八ちゃん」「タンク・タンクロー」「火星探険」「孫悟空」
「西遊記」「怪人二十面相」「少年探偵団」「孤島の鬼」「吾輩は猫である」
10代
「ロストワールド」「宇宙戦争」「スカラムーシュ」「ブッデンブローク家の人びと」「人我を大工と呼ぶ」
「サーニン」「最後の一線」「日はまた昇る」「誰がために鐘は鳴る」「精神分析入門」
20代
「ペール・ギュント」「おのれに背くもの」「夢判断」「ツァラトゥストラ」「審判」
「城」「そして誰もいなくなった」「盗まれた街」「宇宙の眼」「発狂した宇宙」
30代
「幻影の時代」「嫉妬」「砂の女」「授業」「ねじ式」
「共同幻想論」「動物園物語」「ダム・ウェイター」「地球の長い午後」「キャッチ=22」
40代前半
「百年の孤独」「巨人たち」「失われた足跡」「エペペ」「同時代ゲーム」
「吉里吉里人」
筒井康隆のヴォネガット・ベスト3
毎日新聞1993年9月20日
スローターハウス5
スラップスティック
猫のゆりかご 筒井康隆はSF作家としてそれほど評価されなかったけど
純文学に擦り寄ると途端に評価されるようになった人だからな
でもヴォネガットレベルの代表作は一つとして書いていない
話題になるのは直木賞に歯向かった「大いなる助走」とか
「日本沈没」をパロった「日本以外全部沈没」とか
「時をかける少女」のようなジュブナイルとか
「文学部唯野教授」でアカデミズム文壇小説とかであって
本質がパロディ作家 1950年以降の海外文学で最高傑作を選ぶ作業にもどろう これから大傑作を書きそうな作家三選
リチャード・パワーズ
ウラディーミル・ソローキン
ミシェル・ウエルベック 数理系の文学から百年の孤独や重力の虹レベルのが出てくる可能性は無いの?
前スレ曰くアメリカでは流行ってるらしいしロシアにもターボリアリズムなるのかあるらしいし日本だと円城塔とか居るし あと4chのトップはデヴィッドフォスターウォレスのインフィニティージェストだっけ?
英語読めんから良く分からんから教えて欲しいがこれどういう作品なん、ジョイス見たいな言葉遊び系なのか重力の虹見たいなひたすらな羅列なのか 傑作とかじゃなくて、普遍的なものの方が受け継がれやすいのは自明だろうね
老人と海とか、90年代以降ならマンゴー通りかな 百年の孤独、いま読み進めてる最中なんだがこれって、ひたすら家系と街の話が続くのか?
今のところ楽しく読めてるが高評価な要の部分を知りたい ピンチョンやジョイスは普遍性の欠片も無いけど
今後一世紀は忘れられそうに無いな ほんと普遍性ってなんなんだろうな
どういう基準で普遍性があるとかないとか言ってるんだろう そりゃその人が読んだものの範囲で言ってるんじゃね
なぜ未来のことまでわかるのかは不思議だけど 個人が普遍性をうんぬんするのってどうなの?
判断出来るのは歴史と大衆だけだと思うんだが ドストやカフカ見たいな、哲学的な主張があるかどうかじゃね
文体重視やメタファー重視は普遍性が無いとみなされやすい
ジョイス、ピンチョン、バロウズ、日本で言うと村上春樹とかかな 多くの人が共感できること=普遍性だろ。
個々よりも、より大衆的なものに訴えるもの。
文学においては更に、"時事やゴシップ性が少なく、時代に左右されずに多くの人の中にある共通意識に訴えるもの"が大事。
読み継がれるためには、歴史を突き抜けるような普遍が必要で、例えばその時代には多くの人から共感されても、
時が経つとともに"空気"は流されて行くから、読まれなくなる作品はあると思う。例えば宮沢賢治と同じ時代に書かれたプロレタリア文学を読んでる人なんて少ない。
文体や表現方法の革命も風化しやすいから普遍性は少ないよね。 普遍性ってやっぱ「物語」なんじゃ
つまりディケンズやサッカレーが至高
これからの時代はドナ・タートか 多くのひとに共感されるというのは普遍性ではなくどちらかといえば大衆性では?
すべての物事に共通する性質のことを普遍性と呼ぶわけでたとえば物理で扱う自然法則なんかは普遍性があるという
ただ時代や地域を越えてたくさんの人達が面白いとおもう物語には普遍的な”面白さ”があるとはいえるかもしれんな
物語でもその取扱う主題が普遍的とされることもあるし構造が普遍的とされることもあるから何処に普遍性を見出すかによるけど あと厳密にいえ正真正銘の普遍性なんてものはないだろうけどな
だからこそ人間には普遍性に限りなく接近したがる傾向がありとりわけ西洋圏の人達はそういう理想に憑かれていたような印象
ただ近代以降は「普遍的な何か」に対する憧れだけでなく現代的・今日的(コンテンポラリー)なものに価値を見出しはじめている ちょっと日本語間違えたな
"時代を超えて多くの人に愛される"
という(陳腐なキャッチコピーのようだ)が普遍性だと思ってる。
大衆性との違いは、あげたように例えば時事的なもののような、不安定な主題に物語が寄りかかってないかどうか。 多くのひと(大衆)の感覚は何よりも移ろいやすいもので普遍性からは最も遠いようなきもするけどな
でもあれか……だからこそ”時代を超えて多くのひとに愛されるもの”には普遍的ななにかがあるともいえるのか たいがいのものはギリシャ神話に揃ってると思う
だからメタファーにしてもプロットにしても神話の下敷きが見え透いてたら俺は萎える
逆に新鮮な読み方教えられたり全く新しいものだったりすると天才かよ!と思う
老人と海やカフカの凄さって個人的にそこだな >>96
人間を描いている以上其処には普遍性があるんじゃないの?
人間の中の普遍的じゃない部分てなんだ? 個人的には芸術作品に関しては「普遍的な何か」というのは本当はないようなきがしてる
仮にそれらしきものがあったとしてもそれが明確化された時点で乗り越えられてしまうから
それにどうしても乗り超えたくなるのが人間というものでいつもその「何か」から逸脱しようとする変人こそが作家だろう
つまり普遍性を求めつつも既知の普遍性から逃れようとするのが人間の性でありそういう気質が面白いものを作るという事
尚且つ明確化されてしまうとその時点で芸術作品としての魅力が半減するようなきもするしな、分かると退屈するし飽きるというか
だから
もし芸術作品に半永続的(普遍的と言いかえてもいい)な価値を与えるものがあるとすればその「何か」というのは「謎」だとおもう
要するに魅力的な謎であり続けることこそ芸術作品が半永続的あるいは普遍的に時代を超えて人々を惹きつける戦略……みたいな 確かに人間にしてもなんにしてもすべての物事に普遍性は内在しているはずなんだよな
ただそこから普遍的な何かひとつを取りだして提示しようとすると突然偽物のようになる
普遍的な美とか普遍的な真理とかそういうの提示されても「うそだ」と言いたくなるのよ
仮にそれが疑いようのないものだとしてもそれが周知の事実となれば今度は芸術作品としての魅力がなくなる
例えば分析されたり手法化されたり言語化されたりするとすぐに真似されてしまうし結果的には飽きられてしまう
分かりやすさというのはある意味で賞味期限の早さを意味しているようなきすらする、分からなければずっときになるから また言葉を書き直す。あくまで普遍性というのが世の中にはあるとぼくは思ってる(真理はないと思うが)。
普遍というのは、どの場合にもその理論が当てはまるということ。
そして、読み継がれる文学は、理論の普遍性を発見したもののことか?
例えばE=mc^という相対性理論の方程式も、それまでは誰も発見してなかったけど、それ以前にも在って、物質世界はその方程式の内に支配されていた。
ダーウィンが進化論を唱える前から動物は進化してたわけだし、みんな気づかなかったけど普遍文法というのがこの世には存在する。
多くの人が気づかなかった、あるいは薄々感じてたけどうまく表現できなかった精神的な、内心的なことを言葉で表すことに成功した文学が読み継がれる文学だ。 いい作品ってのは作品と読者のコミュニケーションの中にあるんだと思うよ
それは科学的な真理と別なものだと思う
でもなかなか表現しきれない精神的なものを取り出せたのがいいものなんじゃないかというのは同意 話題変えるけどヘミングウェイとフォークナーってどっちが凄いん?
影響力の観点から見て 影響力ってことならヘミングウェイじゃない?
文体とかの部分で影響を受けている作家が多そう。 短編作家が得意な作家はヘミングウェイ、長編はフォークナーって印象。 ヘミングウェイは村上春樹
フォークナーは村上龍
何かこんなイメージあるわ 影響力はフォークナーでしょ
ガルシア=マルケスをはじめとするラ米文学に影響与えてるし、そういう作風が日本でも流行ったし(中上健次とか) 中上健次ってそんなに凄いか?
マジックリアリズムなんて同年代なら大江や筒井、寺山もやってた気がするが 影響って言われてもいろいろあるからな
116も119も正しい
どっちが後世に有意義だったかを推し量るにはまだまだ時間が経ってなくてむずかしい カルチャー全般で見るならヘミングウェイ
文学に括るならフォークナー
こうじゃね ぶっちゃけディックやヴォネガットの方が文学的寿命は長いと思うんだよな>ピンチョン
SFを純文学に対抗出来るレベルにまで引き上げたのは大きい
まあそれでもフォークナーと肩を並べるレベルだと思うけどね 最高な文学は1920年代30年代までだろうな
1950年代なんてコーラとかオレンジジュースみたいなもんだろ
1930年代のはウイスキーのような酒だ、1950年代以降はたんなるジュースってこと まーた意味不明なことを
突っ込まれると逃げるくせして… 正直20年代でもプルーストやカフカは残ると思うけど
ジョイスとかあの時代にあの文体をやったから残ってるようなもんであと1世紀位したら消えてると思うわ 同意
普遍性以前にジョイスは一貫したテーマも話の面白さも無いから文学者以外誰も読まない
カフカ、プルースト、ピンチョン、フォークナーはまだ一般人でも読めるけど 普遍性云々マンと50年代以降をくさす奴(わざわざこのスレ来てw)は、大して考えないで書き込んでる感がある プルーストは岩波でダラダラ読み続けているけど正直もう惰性で読んでいるだけ
面白いか?これ
ドストエフスキーやマルケス読んでる時のような高揚感もないし
意識の流れというのならウルフの灯台への方がよほど面白かった 源氏物語、イリアス、オデュッセイア、失われた時を求めて
ここら辺は同一線上にあるイメージ 後世に残る文学って、話の面白さはまだ除外出来るにしても最低限「社会に伝えたいもの」が無きゃダメなんじゃねえの
少なくとも罪と罰とか百年の孤独はそういうテーマ性が明確だし話もそこそこ面白いから200年位は残ると思う
あとプルーストは毎朝50P〜100P読むのを日課にすれば数ヶ月で読み切れる 村上春樹も言葉を濁すピンチョン
まだ分からない、時代が追い付いてないみたいに言ってたな ジョイスのフィネガンズ・ウェイクは
やっぱり小説はここまでやっちゃいかんよな
とみんなに知らしめした記念碑として文学史に残っているわけで 優れた作品が残るのではなく
後世に文学史に書かれた優れた作品として残るだけ
作品の価値を決めるのは後世の歴史家(文学史家) そういや村上春樹はまた例の賞の最有力候補になったらしいな 1世紀そこらでジョイスが忘れ去られるほど
小説が変化するとは思えないね。 文体の面白さって結構長持ちするぞ
面白い寓話だとか感情だとかを発見したとかいうよりマニアックになるかもしれんが
テーマも普通の人の死生観に寄り添ってて王道だと思うな プルーストつまんねって言った者だけどさ
翻訳者に最大限の敬意も払い、原文厨の誹りも甘んじて受けるとしてさ…
「失われた時を求めて」ってその文体と言うことも含めフランス語原文で読まなきゃ
面白さを半分も理解できないんじゃないの? 日本におけるプルーストの不幸は、訳者がみな学者先生ってゆうこと、
語学的には正確かもしれないが、文学の馥郁たる香りはどうか…
オレはフランス語原文は読めないけれど、日本語版プルーストは
気の抜けたビールみたいなものかもしれない、中村真一郎とか吉田健一とか
しっかりした日本語の文体を持った作家が訳しておけばまた違ったものに
なっただろう、 英語圏でもアーサー・ウエリーの源氏とかモンクリフのプルーストとか
文学的にも非常に価値が高いらしい、日本でもかっては鷗外、敏、荷風とか
そうだった、プルーストは何種類も訳があり註や図録を競っているが、
本体は大同小異じゃなかろうか、 1950年代
ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン(1892年 - 1973年)
クライブ・ステープルス・ルイス(1898年 - 1963年)
アンリ・ミショー(1899年 - 1984年)
ウラジーミル・ナボコフ(1899年 - 1977年)
マルグリット・ユルスナール(1903年 - 1987年)
グレアム・グリーン(1904年 - 1991年)
サミュエル・ベケット(1906年 - 1989年)
ドミニク・オーリー(ポーリーヌ・レアージュ)(1907年 - 1998年)
アルチュール・アダモフ(1908年 - 1970年)
イアン・フレミング(1908年 - 1964年)
ウジェーヌ・イヨネスコ(1909年 - 1994年)
ウィリアム・ゴールディング(1911年 - 1993年)
アルベール・カミュ(1913年 - 1960年)
クロード・シモン(1913年 - 2005年)
ロジェ・カイヨワ(1913年 - 1978年)
マルグリット・デュラス(1914年 - 1996年)
ウィリアム・シュワード・バロウズ(1914年 - 1997年)
アーサー・チャールズ・クラーク(1917年 - 2008年)
ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(1919年 - 2010年)
アイリス・マードック(1919年 - 1999年)
アイザック・アシモフ(1920年 - 1992年)
レイ・ブラッドベリ(1920年 - 2012年)
ボリス・ヴィアン(1920年 - 1959年)
パトリシア・ハイスミス(1921年 - 1995年)
ジャック・ケルアック(1922年 - 1969年)
イタロ・カルヴィーノ(1923年 - 1985年)
アレン・ギンズバーグ(1926年 - 1997年)
ギュンター・グラス(1927年 - 2015年)
アラン・シリトー(1928年 - 2010年)
コリン・ウィルソン(1931年 - 2013年)
フランソワーズ・サガン(1935年 - 2004年) 小説をぶっ潰したというなら裸のランチもそうだが
城の中のイギリス人とかはメタ的に小説家を殺しに行ってる
人間の想像力の可能性...いや、エロの可能性は無限と知らしめたな ディランは好きだし、受賞も面白いけど
なんか今の文学にダメ出しされた感もあるね 詩人が受賞するんだから
シンガーソングライターも対象でしょ
俄然興味ないけど 日本からは2冊ランクイン!目利き書店員が選んだ死ぬまでに読みたい世界の本25
http://tabizine.jp/2016/10/15/95568/
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(Chimamanda Ngozi Adichie、1977年9月15日 - )
『半分のぼった黄色い太陽』2007年(ナイジェリア)
スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチ(1948年5月31日 - )
『チェルノブイリの祈り』(1997)(ベラルーシ)
ジョルジェ・アマード(Jorge Amado, 1912年8月10日 - 2001年8月6日)
『丁子と肉桂のガブリエラ』(1958年)(ブラジル)
ミハイール・アファナーシエヴィチ・ブルガーコフ(1891年5月15日(ロシア暦5月3日) - 1940年3月10日)
『巨匠とマルガリータ』 (1967)(ロシア)
イタロ・カルヴィーノ(Italo Calvino, 1923年10月15日 - 1985年9月19日)
『見えない都市』1972年(イタリア) 張 愛玲(1920年9月30日 - 1995年9月8日)
「傾城之恋」1943年(中国)
ジョン・マックスウェル・クッツェー(John Maxwell Coetzee, 1940年2月9日 - )
『マイケル・K』(1983年)(南アフリカ)
フリオ・コルタサル(Julio Cortázar、1914年8月26日 - 1984年2月12日)
『石蹴り遊び』1963(アルゼンチン)
Elena Ferrante (Napoli, 1943)
『私の素敵なお友だち(未翻訳)』(2011)(イタリア)
ボフミル・フラバル(Bohumil Hrabal,1914年3月28日 - 1997年2月3日)
『あまりにも騒がしい孤独』1976(チェコ)
エドゥアルド・ウヘス・ガレアーノ(Eduardo Hughes Galeano, 1940年9月3日 - 2015年4月13日)
『鏡(未翻訳)』2008(ウルグアイ)
Keri Hulme (born 9 March 1947)
『骨人間たち(未翻訳)』(1984)(ニュージーランド)
トーベ・マリカ・ヤンソン(Tove Marika Jansson、1914年8月9日 - 2001年6月27日)
『少女ソフィアの夏』 (1972年)(フィンランド)
ジャメイカ・キンケイド(born May 25, 1949)
『アニー・ジョン』(1985)(アンティグア)
ハルドル・キリヤン・ラクスネス(Halldór Kiljan Laxness1902年4月23日 – 1998年2月8日)
『独立の民』 (1934)(アイスランド) クラリッセ ・リスペクトール(December 10, 1920 – December 9, 1977)
『ニア・トゥー・ザ・ワイルド・ハート(未翻訳)』(1943)(ブラジル)
ハビエル・マリアス(Javier Marías, 1951年9月20日 - )
『白い心臓』(1992年)(スペイン)
Rohinton Mistry CM (born 3 July 1952)
『絶妙なバランス(未翻訳)』(1995)(インド)
Abdel Rahman Munif (May 29, 1933 – January 24, 2004)
『塩の都市(未翻訳)』1984(サウジアラビア)
ジョルジュ・ペレック(Georges Perec, 1936年3月7日 - 1982年3月3日)
『人生使用法』1978(フランス)
ジョゼ・サラマーゴ(José de Sousa Saramago, 1922年11月16日 - 2010年6月18日)
『白の闇』(1995)(ポルトガル)
ブルーノ・シュルツ(Bruno Schulz, 1892年7月12日 - 1942年11月19日)
『肉桂色の店』(1933年)(ポーランド)
W・G・ゼーバルト(W・G・Sebald、1944年5月18日 - 2001年12月14日)
『土星の環』1995(ドイツ)
芥川 龍之介(1892年3月1日 - 1927年7月24日)
「羅生門」1915年
村上 春樹(1949年1月12日 - )
『羊をめぐる冒険』1982年 春樹はともかく芥川って意外だな
三島谷崎大江川端のどれかかと思ったが