本や読書について [無断転載禁止]©2ch.net
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線を引く・角を折る・記録を付けるなどの初歩的なことから
遅読速読や蔵書の仕方までなんでもどうぞ 三島大江安部って、アバウトすぎて好みが全く分からんから適当に勧めたんでしょ >>330
ごめん
>>331
わからないのに薦められるってことを言ったんだよ
結局は自分の嗅覚で探すんだし
その後、明治以降の日本文学史に出てくるような作家は読んで、
なかでも芥川龍之介、坂口安吾、井上靖、安岡章太郎とかは居心地良かった
共通するのは、作家と読者の距離感のような気がする
でもそれは人と共有できる感覚とは限らない
ってことだ まあ要するに読書好きに気軽にオススメなんてすんなってことだろ? 長年にわたって本が好きなやつは
まあどんな趣味でもそうだろうが自分の嗜好に確信を持ちだす
だから他者からの紹介という時点でハードルが相当に上がっている
俺の場合本や雑誌での紹介でも面白かったのは1割ぐらいだし
直接の知人からだとほぼ0と言って良い
逆に紹介した場合にも口だけでなく本当に良かったといわれたことはない
面白さを力説すればするだけ同じように感動する凡庸さが嫌になってくる 小説や読み物の「面白さ」ってのはいろんなものに支えられていると思う。
因みに日本語だと読んでも全く興味ないようなものでも英語で読むとおもしろいと
言うこともある。それとか、作家の講演を聞いた後だと、その作家の作品が面白く
読めたりすることもある。これは解読する楽しさみたいなものだな。
自分の場合は集中して本が読めないタイプなので、面白く読める方法を見つける
工夫がいる。取り掛かりは丁寧に読むとか、作家の情報を集めるとか、いろいろ
工夫はしている。 村上春樹はピンチョン原書で読んでも面白くなかったけど日本語で読んだら良さが分かったとか言ってたな 村上春樹の小説って夢想した通りに書くから
本能のままに美男となって美女とセックスするんだろうな
文学的必然性を求めても無意味で、ただ夢のままに進行する
ならば、そこに書く必然性はあるのか、それを考えて数十冊読んでみた
処女作?の風の歌を聴けに溢れる自己否定
それを救済する作品群
ま、ここで私論を書いてもあかんな ショウペンハウエルの読書のほうが、自殺連より好きだなあ。 セックスにたよって売っているとは思わんな
作者の性欲のままにセックス描写が出てくるのを
物語と称してそのまま書いている
現実のどろどろとした自分ではなく
クールでオシャレな夢の中の自分 >>344
誰か他の作家では?
セックスで売っているのは渡辺淳一かな
私にとっては村上春樹も渡辺淳一も純文学作家ではないがね 俺はどこまで読んだか記録付けてるから作品のテイストに飽きても忘れた頃にそこからまた読む
でもなんか新しい感動に出会うみたいな意欲はなくなったな
気に入った作品再読する時期かな >>346
女流作家の9割は性で売っているイメージ
というかそれ無しでは何も書けない 村上春樹が読者サイトで「国境の南 太陽の西」を自薦していたことに驚きました
この作品で主人公は女と寝てばかり、どこに中身があるのかと思っていましたから
暴投で一人っ子の生き様について強調していましたが、一人っ子の話はその後何の関係もありませんでした
つきあっていた女性を裏切り、妻を裏切り、次々と寝る
最後に思いかけず妻から自分を言い当てられた主人公の動揺が描かれますが、
それは芥川龍之介が「歯車」で、自殺しようとしていることを妻に言い当てられ動揺するシーンの二番煎じです
村上春樹がこの作品を気に入っているとしたら、私の読書に何が足りなかったのやら >>350
確かに自薦はちょっと驚きだね
ただ、一番自分に正直に書いた、みたいな自負があの作品にはあるんじゃないかな
似非私小説風だし 似非私小説風な作品は多いですが、
「トニー滝谷」のTシャツからのインスピレーション含め、
結局夢想で展開しているんでは?
あとは本能のまま、書くという性行為をする主人公はクールでおしゃれ
妻の親から投資してもらってジャズバーを経営し
「やれやれ」と言うだけでそんなに悩まない 作品に性行為が出てくることはそんなに重要なことなの? >>354
そんなことはありません
村上春樹の作品を読むのに
美男美女のセックスシーンがあきれるほど出てくるので
そこに何か意図があるのか、と意識して読んでいくと
夢のまま、願望のまま、物語を書くと本能的に出てくるのかと感想を述べたに過ぎません
彼はそういう物語を書くことにどんな価値をおいているか解りませんが
まさにセックスばかりの作品「国境の南・・」を自薦していたのが驚きだった、そう申しているのです セックスが少ない作品のが名作じゃない?
世界の終わりとか 新しいのは読んでないけど春樹のにそんなに性描写出てくるかな?
主人公が簡単に性行為する ようするにもてるってことを示す記述は多いけど
行為の描写自体はそうないんじゃないのかなあ
描写が多いのは大江でエロ本並みの描写が1箇所は必ずあった
これは登場人物に生々しい存在感をもたらす効果があるように感じた 描写というよりセックスに対する姿勢だよ
アブノーマルな姿勢で本を読まない純な学生たちをドキッとさせる
まあそこも大江が先行してたけどね ノルウェーの森でも「その年齢で経験人数それってやばくなーい?」みたいなのあったね笑 >>356
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は面白い作品ですね
「私」には性的な、「僕」には清純な恋が進行していく2元的な世界を描いて行き着く先は、
心の表層と奥底を貫くアイデンティティなのか
あの作品で作者は、読者をして自分自身に導く物語を始めます宣言をしているのでしょうか >>357
村上春樹は大江健三郎の影響を受けた、と思いました
文章構成やレトリック、存在の記号化に
おっしゃる通りセックスに対する姿勢は大きく違いますね
大江健三郎は行き詰まったどうしようもない自己を描き、嗚咽のようなセックスになります
「個人的な体験」に出てくる火見子とのセックスとか
「万延元年のフットボール」で主人公の妻が主人公の弟と抱き合うシーンで妻の足が弟の尻を離さぬように締め付けるところなど
大江健三郎の方が文学的に読めます >>359
「ノルウェイの森」って
実は‘愛されてもいなかった’恋人との恋愛小説ですね
いつかは直子が言葉に表現してくれるであろう、彼女の内面を、愛を、
主人公はずっと待っているつもりでいたのだけれど、彼女が残した答えは、空白
それはとても文学的なのだけれど
疑問だったのは最後に出てくるレイコさんとのセックスでした
まるで作者の性欲で書いたかのように意味不明でした ハルキムラカミ〜いってる外人も大江のサイレントクライ読めばいいのにな 海外でも文学界のすごい人たちに読まれてノーベル賞とったんじゃない?
国内での大江健三郎といえば、重鎮たちにこっぴどく批判され、特に安岡章太郎には怒られていたけども
わざと小難しく書いてじゃないかって
村上春樹はライトノベル感覚で読まれ、それがきっかけで日本語を学ぶ人たちまでいるそうなんだけども 何でもまとめて教えてもらおうとするな。
端的な例えやレトリックを相手に要求するな。
根拠からちゃんと説明すると長くなりすぎる。
だからスレ立ててるのかも知れんが、おまえらふつうに馬鹿だよ。
決めつけと感じるのは「自分と違う意見を前提にしてる」ことを理解しないって事なんだ。
それを受け入れられないんだから、理解のしようがない。
成長もないんだよ。 一日外に出て帰ってくると、一日が長い
ツイッターに何か起こってるんじゃないかと思う
実際は何もないけど 読書感想は自分を写す鏡
スケベなことばかり考えてるからテキストの1%にも満たないセックス描写が強烈に印象に残るんだよ 噛み合わないコメントがあるのは仕方がないです
村上春樹の作品に描いてあるセックス
これに果たして書く必然性があるのかという意図をもって数十冊読んだ、と言っているのです
考察した結果はここには書ききれませんが、誰かと共感できることがあれば幸いです
「自己否定」というテーマで村上春樹を読んだこともありましたよ ノルウェイの森で言えば主人公と彼を取り巻く女性の親密度や相互の信頼度の表現として機能しているから、もちろん必要だと思うよ。セックス描写はそこに至る経緯も含めて男女の関係性を最も簡潔、的確に表現できるのだから、恋愛小説に用いられるは当然だよ。 井上靖の「通夜の客」に
「白鳥座の星がくっきりと罪という字に読まれたのは、その夜の私の感傷の仕業であったろうか」
という箇所があるが
白鳥座が罪の字に見えたらもう自首した方がいいんではないか 村上春樹の「風の歌を聴け」に
「海ばかり見ていると人に会いたくなるし、人ばかり見ていると海を見たくなる」
という箇所があって
北川景子がこの文章に反応してました
読書する女優はいいですね 梶井基次郎の「檸檬」
冒頭の文章は、
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧へつけてゐた。
です。
京都を歩く、金も寿命も持ち合わせていない学生。
音読していくと、「不吉」「塊」「心」に含まれるカ行(かきくけこ)が不整脈のように心臓に記憶を残していきます。
カ行は、革命・危機・駆動・啓蒙・行進など、行動的で革新的なイメージを伴い、読む人のアドレナリンを上げますが、梶井基次郎の言葉の美しさの中にあっては、止まっていては刻めない文学衝動の駆動力のように音のリズムを引っ張ってくれています。 生活がまだ蝕まれてゐなかつた以前の私の好きであつた所は、例へば丸善であつた。
赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持つた琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。
カ行でリズムをとっている感がますます。
また、温感でいうと、この作家は常に自分側に熱を保っていて、目線の先には反対に冷たい印象を置きます。檸檬もそうですし、香水や小物、更に言えば 『桜の樹の下には』、の桜も。
その冷感が言葉に詩の美しさを保たせるのでしょうか。この作家は言葉の魔法を使いますよ。 その檸檬の冷たさはたとへやうもなくよかつた。その頃私は肺尖を悪くしてゐていつも身体に熱が出た。
事実友達の誰彼に私の熱を見せびらかす為に手の握り合ひなどをして見るのだが、私の掌が誰のよりも熱かつた。
梶井基次郎の文章の何処が美しいのか。
そこがこの作家の魔法で、実は“書いてない言葉”に依って読者は既に美の先入観に襲われています。
熱を帯びる自分、冷感を帯びた視線の対象、この温感の差が瑞々しい結露を生み、沈黙していた檸檬は朝露に輝き美しい光を放ち出します。
彼が描いた物体は彼の三十一歳の死後も、読者が自ずと命を吹き込んでしまいます。 読んでみるか、という気にさせる文章やね。(いや、檸檬ぐらい読んだことあるはずだが) 評論できる人って言葉が豊かだよな。感情移入をしても、そこまで感想が沸いてこないよ。 堀辰雄 「美しい村」〜「風立ちぬ」
堀辰雄を読むとき、いつも感じるのは、言葉が脳に残留しないことです。
言葉が残留しないほどに透き通る文章は、バッハのフーガをヒントに成し遂げた芸術なのだとか。
以下は『美しい村』のノオト。
いつか君に話した題材はすっかり諦めてしまったように書いたけれど、実は、まだあれは少し未練がある。
ただ、それを直接に描きたくないのだ。その点で、僕は音楽家が非常に羨ましくなっている。
音楽はそのモチイフになった対象なり、感情なりを、少しも明示しないで表現できるんだからね。
だから、今度の作品をそんな音楽に近いものにして、僕のそんな隠し立を間接にでも表現できたら、とてもいいと思うんだ。
プルーストやリルケの詩情を取り入れた文体は、読む端から透明になっていきます。 そんな風に、私は彼女と暮方近い林のなかを歩きながら、まだ私が彼女を知らなかった頃、
一人でそこいらをあてもなく散歩をしていたときは、あんなにも私の愛していた瑞西式のバンガロオだの、美しい灌木だの、羊歯だのを、彼女に指して見せながら、私は何だか不思議な気がした。
それ等のものが今ではもう私には魅力もなんにも無くなってしまっていたからだ。
そうして私は彼女の手前、それ等のものを今でも愛しているように見せかけるのに一種の努力さえしなければならなかった。
それほど、私自身は私のそばにいる彼女のことで一ぱいになってしまっているのだった。
・・・そうしてそんな薄ぐらい道ばたなどで、私は私の方に身を靠せかけてそれ等のものをよく見ようとしている彼女のしなやかな肩へじっと目を注ぎながら、そっとその肩へ私の手をかけても彼女はそれを決して拒みはしないだろうと思った。
そして或る時などは、その肩へさりげないように私の手をかけようとして、彼女の方へ私の上半身を傾けかけた。
私の心臓は急にどきどきしだした。
が、それよりももっとはげしく彼女の心臓が鼓動しているのを、その瞬間、私は耳にした。
そしてそれが私に、そういう愛撫を、ほんのそのデッサンだけで終らせた。
・・・私はまだその本物を知らないのだけれど、それが与えるのとちっとも異わないような特異な快さを、そのデッサンだけでもう充分に味わったように思いながら。
文章は翻訳調でもあり、読んだ後に言葉が残留しない、音楽になりきるような透明感で、読者の心を切なく揺さぶり、読後にはその波紋だけを残していきます。 人の心に残留するような言葉を書きたいと思う物書きが多いのに、音楽になりきる言葉を追求するとは。。。
堀辰雄とは逆に残留する言葉とはどんなものか考えると、
食べ物の話、、、これはかなり残留します。
性表現、、、。
比喩が攻撃的、、、落差の大きい比喩を使われた時かなり残留します。(安部公房や大江健三郎など)
カ行、、、啓発的、行動的な音声、特に横で「きーきー」言われるとアドレナリンを分泌してかなり残留。
他にもありますけども、とにかく堀辰雄にはこういう要素がありません。
比喩表現は人と自然を行き来するだけの落差の小さいものばかりです。
カ行が少なく、サ行(浸透感)・ハ行(飛翔感)が特徴的です。 サ行の浸透感
「さしすせそ」が基底になっている言葉のリズムです。
「水」を「清水」、「ゆり」を「さゆり」と言うなど、同じ言葉でもサ行を含むと自然な優しさや浸透感が出てきます。
「ささやき」「しずけさ」「すすぐ」「せせらぎ」「爽快」、サ行の浸透感って魔法のようでしょう?
サ行作品の代表格と言えば、芭蕉の「しずけさや いわにしみいる せみのこえ」。
これほど浸透感溢れた芸術を知りません。 夢野久作 「ドグラ・マグラ」
時計のボーンボーンという音で目覚めてみると、精神科の隔離病棟に記憶を失った自分がいて、
壁の向こうから、自分に向かって女のすすり泣きが聞こえてくる。
その声が言うには、女は自分の妹(実際には、従妹)で、しかも挙式を目前にした自分の許嫁で、
さらに自分によって絞め殺されたけど、生き返ってそこにいるのだと。
今も愛していて、助けを求めてくる自称許嫁。
そんな内容で始まる奇怪な小説です。
本のカバーには<日本一幻魔怪奇の本格探偵小説>と紹介され、
これを読む者は、一度は精神に異常をきたすと伝えられる、一大奇書、
などとセンセーショナルな謳い文句が
本のカバーの絵が上下巻ともにエッチで、読んでいると周囲に誤解されそうです 主人公に犯罪を犯させるキーとなったのは、千年前の巻絵でした。
その巻絵の物語は、
唐の玄宗皇帝の時代に、宮廷画家として召し抱えられた呉青秀は、皇帝が楊貴妃にたぼらかされて、国が堕落していくのを諫めるため、自らの妻を殺してその死体が腐敗していく過程を絵にし、皇帝にさしだす決意をします。
国はこのように腐敗していくとの暗喩です。妻は夫の正義のためにその申し出を受諾し、夫に絞殺され、呉青秀は、6枚の連続絵巻を描き上げました。
しかし、安禄山の乱によって皇帝は亡き者にされ、せっかくの妻の差し出した命も絵も、無駄となってしまいます。
ところが呉青秀が描く絵の目的は、もはや変態性欲にすり替わっており、墓場から死体を掘り出してはスケッチして、妻の絵を補足していきます。
妻の双子の妹は、そんな呉青秀を愛し、彼の子供を身ごもったまま、狂った彼とともに船で遭難し、九州にたどり着きます。
その後も呉家の菩提寺に隠された巻絵が、子孫に不幸をもたらすという設定です。主人公、呉一郎は、この千年前の巻絵を見せられて、呉青秀となり、明日結婚する従妹を絞殺して、絵を描き始めるのです。
まあ奇書といえるかも 豊かなスレですね
「檸檬」の分析は感覚的なものを丁寧に言葉におこしていて、なかなかに唸らされました
コピペじゃないよね? 自分の読書ノートを修正しながらペーストすることはありますが
オリジナルです
やはり掲示板で共感してくれる方を見つけると嬉しいです
でもあまり連投もいけないし、ぼちぼちにしておきます 外見がかっこいいと言うのは服や格好
を含めてのことなんだろうか?
じゃあ服買う金がない人は不利じゃん
そもそも外見で他人と差別化を図ったり、
差をつけようとするのはよくない
みんな同じ格好をすべきである 一昔前の中国みたいに国民服とか?
歴史の必然だったのか、自由への本能的欲求だったのか
人はいつか社会主義の虚構を暴き
国民服を脱ぐ
その後資本主義や格差社会の壁にぶつかって
再び自由がないと叫ぶが
与えられた社会構造が幸福をもたらすのではないと気づき
哲学を模索する 与謝野鉄幹・晶子の生涯
渡辺淳一 『君も雛罌粟我も雛罌粟』
与謝野晶子の「みだれ髪」は
文学的に熟した彼女が人生の集大成として出したものとばかり思っていました
だから、あの情熱的な歌集を目にする時
何故生涯をかけて恋の歌ばかりを歌えるのだろうかと不思議にも思いました
だって、長い人生は恋以外にいくらでも考えることが多いではありませんか
しかし、ほとんどの歌は、鉄幹に恋した1年のうちに詠まれ
1年のうちに発刊されたものだとわかり、納得
歌の舞台は、鉄幹と晶子の逢瀬を知っている者ならば
いつ、どこの旅館で、とまで判明してしまう程具体的に詠まれていて、周囲は赤面ものだったとか 鉄幹の女性問題について
いい男を自認してもいたらしいですが、女性に対して言葉でいい気分にさせる天才。逢うごとに女性をいろんな花に喩え、白芙蓉の君とか、衆人の前で憚ることなく語りかけ
君も私も選ばれた星の子です、などとこそばい話ができるのですからすごい。しかも相当に筆まめ
しかしその鉄幹の言葉巧みな誉め言葉に、女性は恋をしてしまうだけでなく、女流歌人としても精進することになり
雑誌明星に出てくる数人の女性を世に出すことにもなるのです。山川登美子もその一人。3番目の妻とした与謝野晶子もその一人。
鉄幹の女性関係については辛辣な評判が飛び交いました。
まず、兄の経営する女学校で教師をしていた頃、教え子の浅田信子と恋仲に
教師の鉄幹が17歳で、信子は20歳という妙な二人でしたが、ロマンを語ることに言葉巧みな鉄幹にかかれば、おぼこい田舎娘は忽ち撃沈
二人は大人たちによって引き裂かれますが、信子の親が資産家であることから上京後もつきあい、鉄幹は最初に創刊した文芸雑誌「鳳雛」の出版費用を出させました
鉄幹はこれ以上信子の実家からの資金援助が不可能と見るや、正式な結婚ではなかったものの、信子に離縁を迫りました
傷心の信子が実家に帰るや否や、それが噂にならぬうちに、女学校の別の教え子林滝野の家に結婚を申し込み、養子縁組であることを条件に承諾を勝ち取る。滝野の実家からまたもや資金援助を得ます
二人目の妻、と言ってもこの人も正式に婚姻していませんが、林滝野を娶った時期に鉄幹は雑誌「明星」を創刊し、一躍短歌の世界の第一人者となります 鉄幹は天才なのです。彼の文学上の業績は、最終的に数人の女流歌人を育てあげたことだけでも確かなもの
ただし天才にはお金がない。まわりの女性は不幸になりがち
滝野も彼女の実家も浅田信子に対する鉄幹の仕打ちはもう知っており、更に養子になると言う約束も反故にする鉄幹に愛想を尽かします
しかし鉄幹は、引き続き滝野に雑誌編集の業務をやらせ、実家からは資金援助を引き出そうとします
林滝野が雑誌明星の編集をする元に、来るわ来るわ、大胆な女性たちの私信や恋の歌
山川登美子と晶子とはその時点で鉄幹と体の繋がりもあり、他の女性同人も鉄幹のロマン溢れる言葉に酔わされていて、その思いを大胆に歌にするわ、私信においては滝野があきれるほどの言葉が書いてある
滝野という妻がいるのである
滝野の、唖然とした思いを、のちに彼女を追い出して妻の座を勝ち取った晶子も、同じように知ることになります
鉄幹の企画力が素晴らしい
与謝野晶子の「みだれ髪」、何より鉄幹が名付けたこのタイトルが当たったと思われる
写真を見ても晶子の髪は多い方だが、男性の体の下で髪をほどいた映像を喚起させ
なによりリアルタイムで若い女性が女の情念を心のままに歌っている歌集
二人の出会いは浪漫主義の一時代を築いた
鉄幹に初めて肌を晒した日のことをこう歌う
歌にきけな 誰れ野の花に 紅き否む おもむきあるかな 春罪もつ子 私は、恋の歌以上に風物を詠んだ歌にいいものを感じます
清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢ふ人 みなうつくしき
鉄幹とお泊まりした後デートした祇園だから
桜も月も、今宵逢う人も、みんな輝いて見えるのでしょう
鉄幹は日清戦争の前後は戦争賛美の詩も書いていましたが
日露戦争の頃から、文壇の使命は反戦であるとの気流ができ
鉄幹の主義主張も反戦へと大きく舵を取っていきます
その頃既に鉄幹の妻であった晶子には特別な政治的思想は見受けられぬものの
鉄幹に同調し、反戦の歌も詠みます。
ただし、この有名な詩は、その語調の美しさによって反戦詩の代表格にまで押し上げられ、政治的圧迫を受ける心配まですることになりましたが、お咎めはなかったようです
むしろジャーナリズムより、反戦思想とはほど遠い身内の無事だけを祈る卑小な歌とつつかれ、そういう批判によって、かえって晶子は有名人となっていったようです
君死にたまふこと勿れ
あゝをとうとよ君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや
(以下略) 企画は素晴らしい鉄幹。しかし計画性の無さから挫折を繰り返し女性問題も相まって世間の信用を失っていく彼
雑誌が鉄幹のスキャンダルをセンセーショナルに書き立て、作品への評価もなく、ついには妻にした弟子の晶子にまで名声で逆転されてしまう
晶子は、落ちぶれた鉄幹にヨーロッパへの遊学を勧める。鉄幹は妻に感謝してパリに遊ぶ
その夫に会いにフランスまで追いかけようと言うのは、晶子の肉体的欲求にも依ったと、作者は書きます
渡辺淳一って、いつもそっちの方向ばかり目がいくようだけど
とにかく晶子は、遠い異国の鉄幹に人生二度目の恋心を抱き、逢いたくてたまらず旅立つのです
「みだれ髪」で見せた狂おしいばかりの恋心が、ふたたび炎となって彼女を包む
新婚のようなパリの日々。彫刻家のロダンに会った感動で、帰国後に生んだ8人目の子供に、アウギュストと名付けるから驚く
ある日、夫婦はツールの郊外で丘の斜面一面の雛罌粟(ひなげし)を見る
「雛罌粟よ・・・・・」
「フランス語ではコクリコというんだ」
二人は一瞬立ち止まり、その真紅の絨毯を敷きつめたような斜面を見下ろしていたが、突然、晶子がその赤い花のなかに駆け出し、それを追って寛も走り出す
花飾りのついた帽子をかぶった晶子が、長いスカートの裾をひるがえしながら赤い花々のなかに吸い込まれ、それを追って寛の白い服が蝶のように追っていく
下り斜面のせいか、晶子の足は意外に早く、小さな窪みの先のところで、寛がようやく捕まえる
「もう、逃がさない」
寛とは鉄幹の本名です
この本のタイトルは、この時の浮かれる自分を詠んだ晶子の次の歌に依ります
ああ皐月 仏蘭西の野は 火の色す 君も雛罌粟(コクリコ) われも雛罌粟 >>394
俺は国民服こそ至高だと思ってる
民族衣装とかもみんな似てるよな
まぁその界隈では同じでも、世界全体から見れば
特色がすごいけど 峰なゆかとかの漫画であっただろ、「メンヘラ女子ワクチン打った?」とかいうやつ。オラオラくんと大衆くんが
俺は中二のときかなー俺は大学生のときかなーなんて言いながら文系くんがいままさにメンヘラ女子にはまってる
最中だと気づくみたいなかんじの。あれだな。オラオラくんと大衆くんも最初は文系くんみたいだったかもしれな
いぞ。だけどいい加減あほくせえとぶっちぎれてそれぞれのやり方で諦めたとかな。はっきり書くがそういう女は
親の育て方に問題がある。こういう世の中だからって箱入り娘的に甘やかしすぎだ。自己愛強すぎなうえに依存的
なうえにその二つがミックスされて見捨てられ不安が強い。そのうえ性欲が強いから本来やるべきはずの男とやら
ずそこらのテキトーな男とやってしまう。ファックというのはスピリチュアル的に大きな意味を持つ。ファックと
いうのは本質的に結婚の契約だ。キチガイとやるとキチガイの魂が入り込んで契約を解消出来なくなるし、比較的
まともな男とやったとしてもそいつがキチガイになると嫁もキチガイになってしまう。メンヘル女ってそういうか
んじなんだよ、元々メンヘル的性質があってさらに本来やるべきでない男とやってしまった女、それでメンヘル的
性質に拍車がかかっている女だな。まあだからやった男がまだキチガイになっていなかったりするとその女もまだ
キチガイになっていなかったりするんだけどな。カップリングすればいいんだけどその気もなかったりして俺がい
ま書いてることも知らなかったりするからな、そのあいだに違う男と出会ったりして。お前らほんとめんどくせえ。 峰なゆかとかの漫画であっただろ、「メンヘラ女子ワクチン打った?」とかいうやつ。オラオラくんと大衆くんが
俺は中二のときかなー俺は大学生のときかなーなんて言いながら文系くんがいままさにメンヘラ女子にはまってる
最中だと気づくみたいなかんじの。あれだな。オラオラくんと大衆くんも最初は文系くんみたいだったかもしれな
いぞ。だけどいい加減あほくせえとぶっちぎれてそれぞれのやり方で諦めたとかな。はっきり書くがそういう女は
親の育て方に問題がある。こういう世の中だからって箱入り娘的に甘やかしすぎだ。自己愛強すぎなうえに依存的
なうえにその二つがミックスされて見捨てられ不安が強い。そのうえ性欲が強いから本来やるべきはずの男とやら
ずそこらのテキトーな男とやってしまう。ファックというのはスピリチュアル的に大きな意味を持つ。ファックと
いうのは本質的に結婚の契約だ。キチガイとやるとキチガイの魂が入り込んで契約を解消出来なくなるし、比較的
まともな男とやったとしてもそいつがキチガイになると嫁もキチガイになってしまう。メンヘル女ってそういうか
んじなんだよ、元々メンヘル的性質があってさらに本来やるべきでない男とやってしまった女、それでメンヘル的
性質に拍車がかかっている女だな。まあだからやった男がまだキチガイになっていなかったりするとその女もまだ
キチガイになっていなかったりするんだけどな。カップリングすればいいんだけどその気もなかったりして俺がい
ま書いてることも知らなかったりするからな、そのあいだに違う男と出会ったりして。お前らほんとめんどくせえ。 有名すぎるよね。学術誌の面々よりは。
アウト オメガ ソーサー の方がファックときちがいよりいいよ。 海峡へ舞子をよぎる竜雷夜今宵会う人皆濡れりつつ
のほら。
PK ビーム よりファイヤー よりサンダーも。フリーズ? 通行人は 情報をかいでるってことじゃないかな。
ゲームのおじさんになって る。 お泊りですか。大輪田の泊のほうが。兵庫当たりの花街。 ヤリマンなんかほっとけよ。
さっきすーぶーエンジェルが道歩いてたが(俺はまったく興味ない)、まだ相手決めかねてるようだったな。
いつまでも前の女のことばっか考えてると相手してもらえねえぞ。
一応書いとくと俺が好きなのはヤリマンビッチ風であってほんとのヤリマンではない。当たり前。
https://youtu.be/V8YQIq8xs2g
https://youtu.be/l7ncomke8lc 今日キチガイになったばかりだと世の中楽しいだろうな。
前にお前の親戚がやってたバー、あそこまだやってるかな。 横浜横須賀当たりの高架下のバーか 広尾のバーがおもしろいと思う。 オリコン 2017年 上半期本ランキング
文芸(小説)ランキング 1位〜10位
http://www.oricon.co.jp/confidence/special/50011/13/
01 騎士団長殺し−第1部 顕れるイデア編−|村上春樹
02 騎士団長殺し−第2部 遷ろうメタファー編−|村上春樹
03 ハリー・ポッターと呪いの子 第一部・第二部 特別リハーサル版|(著)J.K.ローリング,ジョン・ティファニー,ジャック・ソーン/(訳)松岡佑子
04 蜜蜂と遠雷|恩田陸
05 コンビニ人間|村田沙耶香
06 コーヒーが冷めないうちに|川口俊和
07 君の膵臓をたべたい|住野よる
08 か「」く「」し「」ご「」と「|住野よる
09 よるのばけもの|住野よる
10 結物語(著)西尾維新/(イラスト)VOFAN ヤリマン救うために学者になったのにって?
そんなぼくの苦労をどうしてくれるって?
知るわけねーだろ。文句はヤリマンに言え。
今頃お前らから巻き上げた金で新宿のホストとやりまくってんだろ〜な〜。
お前らのメンヘル女のヤリマン彼女。
まあ変なメール来ても気をしっかり持て。
ようするに金だけ払えってことだろ?わかりやすい世界じゃねえか。俺に文句言うな。 これから三十分以内にお前らのはるか上の人間からのお達しでお前らの上司からお前らへと連絡が入る。
言い訳用意しとけ。役にたたねえだろうけどな。 守中のくそもそれで黙り込んでいるというわけなんだよくず学者ども。 司馬遼太郎 「項羽と劉邦」
漢の劉邦はもともと田舎のちんぴらやくざに過ぎなかったが、不思議な魅力に魅せられて大勢の仲間が集まり、項羽のライバルにまでのし上がる。
劉邦はいろんな角度で見て無能だったという。
ただ秀でていたのは、本質をつかむ能力だったと書いてあります。
−−幕僚や武将たちは、劉邦の無邪気すぎるほどの平凡さを見て、自分たちが労を吝むことなく、
かつは知恵をふりしぼってでもこの頭目を補助しなければどうにもならないと思うようになっていたし、
事実、劉邦陣営はそういう気勢いこみが充満していた−−
劉邦が本質をつかむのは戦況だけではありません。
人を本質で見ることができる。
部下たちは、劉邦が自分のことを他の誰よりも知ってくれているということだけで、命をなげうちました。
劉邦に自分を知ってもらっているということが、彼らの生きた証になるのですね。 私がこの作品を読んだのはサラリーマンだった20代半ばの頃。
当時私は仕事の面白さから常に前傾姿勢で突っ走っていましたから、愚鈍そうな同僚を見ると嫌悪するばかりでした。
私はまだ本当の意味で仕事の仕方を分かっていなかった。
そのとき、この作品の中で「黥布」という登場人物の描写を読んだんです。
黥布は怪物のような体格で、土木工事の飯場生活をしている者でした。
−−項梁は酒肴を用意して黥布と一夕をすごした。
黥布は無口で、ただひたすらに物を食い、酒を飲み、陪食する諸将の談論をむっつりした顔で聴いていた。
項梁は、これは馬鹿かな、と不安になったが、しかし話のかんどころで、沁みとおるような笑顔をつくった。
(ばかではない)
と、項梁は安心した。
人の話のどういう場所にユーモアを感ずるかということで、その人の格調が察せられる、というのが、項梁の人間観察のやりかたの一つだった。
項梁は、黥布を大いに優遇し、項羽とともに先鋒大将のひとりに任じた−−
この黥布という男に対しても司馬遼太郎はペンで愛を降り注ぐ。
私に欠けているのはこういうところだと思いました。
私には黥布のような大将としての能力もなければ、彼を登用した項梁のような、人を見る眼もありませんでした。
そして更に司馬遼太郎のように、どんなタイプの人間にも愛情を注ぎ込み本質を描いてやるという観点を持ち合わせてもいません。
司馬遼太郎は、頭でっかちな自己中人間ですら愛して描いています。
石田三成を主人公とした『関ヶ原』や江藤新平の『歳月』など、知略が盛んで嫌われがちなアンチヒーローをも魅力的に描く作品群が、また余りにも素晴らしいです。 クライマックスの一戦だけで劉邦が勝ったとはわからないし、項羽はまだまだ人気出ていいのに。 >>422
どちらかというと項羽中心の物語です
四面楚歌という言葉も、妻の虞美人の物語もあり、項羽こそ滅びのヒーローです
司馬遼太郎だからこそ、劉邦サイドの人間達の魅力も引き出していると思います
司馬遷の「史記」までは読んでないんですけど そうなんだね。だけど主人公を追っても連戦連勝とはいかないから、
勝率より、敗北率を意識してるといずれの側も、兵失うこと少なし、
士気低下もなし。統率も成長すると思います。現代において軍訓ととるなら。 項羽は鬼神のごとく勝ち進むのだけど、それは類い稀な才能のなせる技であり美学であったのでしょう
美学は人に頼まないから、必然独走の道をたどります
鴻門の会で宿敵劉邦の首を取る決定的なチャンスを得ながら、逃してしまい、参謀に愛想をつかれ、もう誰も忠告するも者もいなくなります
自分では何もできない劉邦との違いをくっきり見せています 「四面楚歌」wwwww
あの場に誰が居合わせたというのだ?
お涙頂戴の三文小説がシナの歴史書だ!
碌に読書もしていない学術が、高校漢文の知識で語っていてまったく笑止w あの場に誰が居合わせたかですか?
珍しい反応ですね
史記も日本書紀も歴史検証の重要な資料ではありますが、内容の信憑性だけが価値ではないと思いますが
四面楚歌が漢文の知識?
楚とは項羽の国で、項羽軍が包囲されたときに敵兵の中から楚歌が聞こえてきたことから、自国の民まで敵に回ってしまっている状況を表した言葉ですが、それがやや違うニュアンスで使われ、現在のように「周囲が全て敵=自分が孤立している」という意味で教えられているのかな
とにかく学術が漢文の知識で表現しているのではなく、項羽と劉邦の物語が四面楚歌の語源であることは大丈夫ですか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています