本や読書について [無断転載禁止]©2ch.net
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線を引く・角を折る・記録を付けるなどの初歩的なことから 遅読速読や蔵書の仕方までなんでもどうぞ 本を読んでもあんまり集中力が続かないな。1時間も読んだらつかれてしまう。 本を大量に読む人って集中力って切れないの? 人生の時期にもよるし、読む速さにもよると思うけど。 >金あったら本買いたい 嘗ては自分のなかでは本は最も価値があったけど、ブックオフにたたき売りされてるのをしってから その感覚が薄れてしまった。 >474 マラソンの練習をしていて思うのだけど、苦しい時の壁ってのがいくつかあって、その壁を超えると 楽になる。最初は10kくらい走るのに3つくらい壁を越えていたけど、練習を重ねているとその 壁に気が付かなくなるほど壁が低くなる。読書なんかもそういうふうにして壁を低くしていくのだろ うかなとは思う。そうすると集中力もついてくるような気がする。でもそこまで読んだことがない。 >本を読むことと同じくらい >「本について語ったもの」を読んだり聞いたりするの好きだわ 作家の講演が面白い。講演を聴くと身近に感じることができて、そうすると全然興味がなかった作品 が面白く読める。 Amazonのオーディブルにも講演録がいくつかあって結構楽しめた。 自分はまだ文字を読むのがあまり得意ではない。よほど面白い作品でないと入っていけない。でも 朗読だとエリアが一気に広がる。朗読を聴くのは面白いね。 >>473 読むの解釈によるかも。 誰だか教授が自分は年に一冊も読めてるだろうか?とか書いてた。 理解して初めて読んだことになるし難解な本を読んでんだっけかな。 外国語文学や古文漢文の大著、作家の全集を読むとき、 単位時間あたり自分が消化できる情報量、資料を参照しながら 読み進められるのはこのくらい!って思い込みで決めて、 予めペース配分みたいなのを決めると楽しめないことが 多いような気がする……。 子供の時の数学とか英作文の問題集も、クラスや塾で 「1日1章進みましょう」「夏休みに2回解いて点数を記録しよう」 みたいに言われて解いた本は、あちこちやり残しがあったり 前半は真っ黒だけど途中で飽きて後半は答え合わもいいかげん、 みたいに半端なのが多かったように思う。 「全問解いて、○回目で大体わかった。これはおしまい!」 ってなるのは、配られたり買ってきた日から とにかくワーって解き始めて、勢いで最後までやって、 どんどん2回目3回目って使った本だよね。 勢いでやらないと間違えたとこ忘れちゃうし。 読書もそうだと思う。 全集も、一巻からわーって一度最後まで 読まないと、日記や書簡だけいつまでも残ったりする。 芥川賞とかあるし読む人は多いだろうけど。 俺も小説は基本読まないという… 自分も文学は意味ないと思っていたが、英語で小説を読み始めてから少し変わってきた。 少なくとも英語をある程度マスターしようと思うと文学を読まないと駄目だな。語彙の 豊富さが全然違う。表現力もレベルが格段に高い。子どもの小説でも一般書に比べると 表現力が豊か過ぎて読むのが難しい。 日本語の場合は気が付きにくいが本当の意味では小説が読めない人が多いと思う。 なぜかと言うと読むように訓練されていない。 例えばコミニケーションの下手な人はやはり表現力がない。表現力がないと自己主張が できない。表現力というのはあらゆる仕事の根幹部分で必要な気がする。自分はエンジニア だけれども、やはり表現力がないと思考力にも限界が出てくるように思う。ロジカルな 推論ができれば表現力は関係ないように思えるが実が違うと思う。特に粒度の荒い 仕事になるとかなり関係してくると思う。 あーおれオースティンとか好きよ 社会に意味あると思うし でも一般的な名作は置いといて自分のためのブックリスト作るのってとても大変だよね 何事も結局そうなんだけどさ すこし変かもしれないけど読みにくい小説が好き。 なぜ難解なのか自分なりの答えを出すのが楽しいからかな。 一年間の図書館利用者の延べ数は1億8千万だという http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2017/04/28/1378656_03.pdf 仮に一年で48回利用するとして375万人ということになる もちろん図書館へ行かずに読書する人もいくらかはいるだろうが それを加味しておよそ400万人ほどが日本の読書者人口ではないか 2014年の出版実売金額が約6000億円というから http://www.ajpea.or.jp/statistics/ ざっと一人あたり年間15万円くらい使ってる計算か 毎月1人1万円ほどの勘定になるのかな 家は4人家族だが妻子から回ってくる小説は月平均 十冊前後。一冊千円として総額約一万円だから、 かなり節約してる計算。 まあ、子供は勉強や部活だけならともかく、 マンガと電話にやたら金がかかるからなあ。 夏休みはバカみたいに飲み食いするし電気代は使うし どっか行くからお金ちょうだいばかりで、 赤字になる一方なんだが。 毎日図書館でおとなしくタダの本読んで、水だけ飲んで 過ごしてくれたら家計も助かって、旅行だって 遊園地だってぜいたくな外食だってできるのに… ああイライラするぜ 子どものころに読書習慣をつけておくといいよな。読書しないと世界が広がらない。 そういう意味では読書はあまりしなかったな。でも小学校の3,4年くらいの頃親戚で貸本屋 をやってたところが店を閉じた時に、段ボール箱に詰めた本を山のようにもらったことがある。 殆ど読めない本ばかりだったけど、冒険図鑑とかがあって夢中で読んだのを覚えている。 >>484 まあかくいう自分も約半年、事情があって断・小説してるんだけどね 振り返れば、確かに無益だったと感じることもあるかな >491 気が付かないだけでは? というかあるところまで到達してマンネリ化しているのかも。 マンネリ化してしまうとTVドラマや漫画を読んでるのと大差なくなるのかもしれない。 で思うのだけど書いてみると解ることがいろいろあるような気がする。一度小説を書いたことがあるけど とんでもなく大変だった。でもそれで少し目が開けた気がする。しかし相変わらず小説は読まなかった けれども、ゆったりした時間が持てればかなり難解な小説でも読んで楽しめそうなそういう自信というか 理解というか共感というか、作家の作品を鑑賞する態度としてかなり注意深くなれるようになった気がする。 俺って言うのは文化人みたいな知的な雰囲気が漂ってて、 あんまりイケてる感じというのがしないんだなぁ 図書館で本を借りても読まないまま期限が来て返すことが多い。だから一度にたくさん借りないように した。それでも読まないまま期限がくる。要するに読みたいと思った時にすぐに読んでしまうということ が大事だと思う。だから図書館で読んでしまうことにする。ここでしか読めないと思うとそこで真剣に読む。 図書館は読むのに良いしな。自分ちはテレビやネットやゲームやといろいろあるしな 女との出会いがないけどどうしたいいんだ? 俺の田舎本屋には女はいないな 図書館にはいないことはない。中高生はいる 20代の女はほとんどいないな 娯楽の少ない田舎の住人こそ 本でも読めばいいと思うんだが、 車やパチンコやカラオケやSEXに行っちゃうんだな。 まあ、地方の人間が小説読んでも日本の小説って 東京が舞台のやつばっかで面白くないんだろう >>498 電車が出ると辛い 省略精神で路線が名前だけのやつ 内容も面白くないしまだ時刻表トリックの推理小説の方が勉強になる 田舎の馬鹿どもが本なんか読むはずない 工場労働やって土日はパーっと遊ぶのよ 馬鹿には馬鹿向けの人生が用意されて いい世の中だなぁと思うよね。そういう人間もちゃんと生きていけるの インテリぶるところから始めてもいいと思う。本は読まなくても買って飾るだけでもいいと思う。 100冊買えばそのうち2,3冊は読む。 なにができるかじゃなくて誰と知り合いかで法人や団体に受け入れられたり 追放を恐れて黒を白にしてたら都会も田舎もどこも変わらないと思うよ 現に都議会にはヤクザの手下上がりがいたし 都民も石原慎太郎とかいう神奈川のボンボンに政治を任せていたじゃない 東京の人間関係がさっぱりして見えるのは 誰が誰とつながっているかわからなないのと 本社や本庁などがあるからで無学な田舎者成分は全くのゼロじゃない ただ都会的な人が多くてそんな人が生きやすいのは事実だし否定はしないけど スレに即して言うと文学的人格の敗北は特に場所を選ばないんじゃないかな >>502 都会ってさ 一見すると1人の意見や教養があんなに無力な土地なんてないはずなのになんで文筆家は自信満々なんだろって思ってたんだけど 住んでみてわかったのは感化したりカモに出来る読者の数がはるかに多いからなんだね >>506 お前みたいなのどこにでもいるなあ 単語で全て知ってる面してる無能を今までどれだけ見てきたことかw 文学に関しては皆驚くほど幼稚だと思うよ。ピアノが弾けなくても無能とは言われないが 読書に関してはというか特に文学に限っては日常的な表現力と密接に関連しているので もしそれが欠落していると他人から悪しざまに無能といわれることがないにしろ、内心では 馬鹿にされていると思う。 文筆家が多くの点で有能だとは思わないし、寧ろ無能をさらけ出している人も多いが 彼らが自信をもっているのは、少なくとも表現力については自信を持っているからだと思う。 >>505 メディアの力っていうのもあるんじゃない あと人前に出てくる人間は、世間の多くの人より優れてはいることが多い 年収1000万あろうが、3000万あろうが、大都会じゃ 社会に対してそれ程影響力があるわけじゃないが、 有名人なら影響を与えられる。まぁ年収3000万あっても 都会じゃただの人だが、自分の生活は結構忙しいかもしれないね 文筆家が自信あるじゃなくて自信のある人間が文筆家になってるんじゃ ラインに限った話ではないが、表現はできるだけ簡素でスピーディーに伝わるものがよしとされる時代だからね それが一面的に幼さに見える場合もあろう 自信がないと公に向かって語り掛けるというようなことはできない。 「私は正しいし物事をよく知っている。だから教えてあげよう」というのが一般的に本を書く人の感覚だろう。 ただ書くというのは自分で思っているほど簡単ではなくて、「試しに小説でも書いてみるか」と挑戦してみる とわが身の能力の無さを思い知ってズタズタになる。 そこからさらに書けるようになるまで書き続けるかどうかではないだろうか? 遠藤周作が小説を書き始めた ころ小学生でも知っているような漢字が書けなくて大恥をかいたというような話を読んだことがある。大江健三郎 も学生時代に書いた小説があって少し読んだことがあるけれども、読む方が恥ずかしくなって読めないほど稚拙な ものだった。誰でもそういうレベルから苦労して作家になっていくのだと思う。 >>512 書いている本人がまず小説の力を信じている(または騙されている)という可能性はないだろうか あ〜〜〜、もう、夏が終わっちゃう〜〜〜〜〜〜! お山のオカルト置いとく。 ちょっと気色悪いけど・・・ ★山霧の巻くとき(山岳ホラー)★ http://slib.net/71604 上松煌 作 (プロフィール) http://slib.net/a/21610/ 最後のほう、グロ注意?! 自分で思うほどには読書はできない。まず第一に読見たい本が大量にある。第二には読もうとしても理解できない本が大量にある。 第三には読んでも遅々としてすすまない。第四には読んで理解しても片っ端から忘れる。 つまり読書はいつまでたっても憧れのままなのだ。 多くの観光地へ行って思うのは何故こんなつまらないところに大勢の人がくるのだろうか?ということだ。 有名な本も観光地と同じで、「行ったことがある」というだけにすぎない。その本は「読んだことがある」 誰だっけ「私は、その本を読んだと言うためだけに本を読む」的なこと言ったの 「読むべき本リスト」みてダンテとか三島とか太宰とか古典系頑張って読んだけど、何も覚えてないw ノート取りながら能動的に読んだ本はかなり残る 読むだけで覚えてなくても教養として残るってのは大嘘だと思う もう一度読みたいと思うかだけでも重要 主体的に読書をする、という点で読書感想文とかは結構重要だと思う 自分で小説を書いたり翻訳してみればいいんだよ そうしたら全体の構成や技術がわかって作家が何をしているかがわかりやすくなる 下手くそでいいからやってみてもっとよくするためにはどうすればいいか考えてみる そういう経験のあとで小説を読むとつまらない小説でさえおもしろくなるよ とりあえずアウトプットするのが大事じゃない? 小説を話して語って盛り上がれる女子ばうらやましいよ。 まあ一様う文学板は小説もOKだと思う。 昔は娯楽が少なかったから小説にのめり込み安かったんだろうけど、今はネットに2chとかツイッターとか刺激的な情報が山ほどあって、小説読んでてもついついネットの更新情報が気になって、今こうして書き込んでゐるのである。 集中力がないやつがネットのどーでもいい情報に流れる。 今日太宰治の斜陽を読んだんだけど、別に面白い話でもなかったなあ。1年後には内容すら忘れてそうだ。しかし斜陽を読んだ事は明日から自慢出来るw ノートをとると疲れるし、読み返すこともそれほどないと気づいたので 線を引いて思いついたことや疑問点は余白に書き込むことにした それであとからその部分を読み返すと初読時とは感想が変わったのが分かる 結局、読んだ時の状況や関心で左右されるわけで 特に小説のようなジャンルは哲学小説や心理小説のように学問的評価軸が入らない場合 読後感はコロコロ変わる >>531 自分もノートを取るのは下手だし、小説を読むのにどうやってノートをとるのかいまいち方法が分からない。 しかし綺麗なノートが取れる人が羨ましい。綺麗なノートが取れるようになればそれ自体が楽しみになるだろう。 自分の場合は難しい仕事の時はこまめにノートをとるようにしている。こまめにノートを取ると解決のアイデアが 浮かぶのが速いし、壁にぶち当たった時にそこで長くたち止まるということが無くなった。しかも ノートをとることで仕事に疲れなくなった。これが一番大きい。疲れというのは、どうすればいいのか悩んでいる 状態が最も疲れやすい。ノートをとるとそういう宙ぶらりんの状態が無くなるので疲れが一気に減る。 >>523 読書は有害ではないだろうか? 読書とは多くの場合は通読を意味すると思うが、通読で吸収できるにはかなりの 背景が必要だと思う。しかし最初から通読でよしとするなら、その背景が育たない。つまり字面をたどることは できてもいつまでも読めるようにならない。 小説を読むような場合にはどうやってノートをとるのだろう? ノートをとると疲れるのはなぜだろうか? 小説から何を吸収しようとするかによると思うが、その根底には読書感想があるからではないだろうか? 思うに通読だけで読書感想を書くのは、かなり難しいのではあるまいか? たぶん小説の最後によくある解説などがその典型 なのかもしれないが、通読だけではとてもそういうレベルのことを書くのはできない。かりにこのレベルのものを書くとする なら「研究をする」というような意識で臨まない限りは無理だと思う。つまり周辺の数十冊も読み込んで資料を集めて 準備する必要がある。 読書とは完成された人が取れる手段であって、未完成な人には寧ろ有害かもしれない。あれこれと大量に読書すべき 推薦書を挙げられても、一つとして読むことができなくて焦ったり気落ちするだけだろう。 第一から第四まで全部そんな僻むような話じゃないと思うんですが…特に読みたいけど読んでない本が大量にあるのは素晴らしい \  ̄ヽ、 _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ `'ー '´ ○ O _,,t-‐‐-、,-‐‐-、 三'::::::............... .....::::::`y,. ナ::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::ヾ | ̄| V::::::::::::::::_{{ ({∫∬ノノjヾ:::::{ | ̄| | ̄| ナ::::::::::::::i`__,,,,,,,ァ_ _,,,,,_ t;;:ヌ | | | | イヘ::::::(ヾ~!,ャt、 !'''i ィtン )=f }f | | | | i {t)テ" ヘ' '___,イ ヽ_/ 介' | | | | _,rヘ_,j|!' /ー--''! |' |,.ィ―'''' ̄ /| | /二ク ! /;;:::'';;::''::;;:/ { ! 、 ヾニン ノ\ /'''::::;r|''':::;;;| | ! \ _,,./|::;;'''\ /:;;/ |;;;''::;;| 丶\ `__>-ー´ !;;;:'''::iヽ、 i/ |'::;;;;''| 三 ―''" !''::;;;;| /ヽ /⌒ヽ |;;''':::;| \ !;;::''|/ i / \{'';;;::''}  ̄二ニ= !::;;| | /ヘ |;;:::::;{ ‐- !/ | / i |:::;;;''! ー ! / | / l |;;'';イ } {、 〉、 ∧テ{ ヽ _ _,,,,;;;;;:::-==ニ;;;_ ノ __,イ´ / \_ //レ!  ̄  ̄ { ̄ | / `ー::v'´/ | i i | i / ̄ | | i、 | i / || ヽ | >>533 長いなぁ 別にノートとって読書が面白くなるから取るんであって、ノート取るのがつまらなければ取らなければいい 作家が使う言い回しがどういう文脈で使われるか、先駆者や同時代の作家の扱ったテーマをどう変奏しているか、あるいは作品中で響きあう描写がどう構成されているか あるいは後進の作家がテーマを引き継いだ描写はどうだったか 登場人物・焦点人物・筋・物語・対話・情景と要約の移り変わり・時制・文彩といった小説の要素のどこに注目して読んだか 最初から作品解説を目指してそれができなければ読む価値がないとか極端なことじゃなくて、よい小説読むと既読の本を何冊も読み直したくなるし、時として未読の本を紐解くこともある 本来、作品解説を書く人はそうやってその小説を楽しんで読んだ人が書くものであって自分が楽しんだ本は数十冊関連する本をイメージしながら読むのは珍しいことではないと思う 通読というのが、一度読んで読み返さないというのもよくわからない 読み終わったら気になった箇所を読み直したりしてると思うし、それがこれまでの読書体験につながりそうな引っ掛かりだったら引っかかった別の作家の本のタイトルを書くだけでも読み直す指針になる 何を悩んでいるのかよくわからないけど、複雑に多面的な観点から小説を読みたければ一読でできるはずがないし、精読と積み重ねる読書をするしかないと思う まずは好きな、何度でも楽しめる本に出会うことなんじゃないかと思うけど 69 : ◆Dq0510MAKI :2017/09/10(日) 10:53:51.67 ID:CICsvzVC 全てに酉付けないと意味ないですよ スレ汚しと遠慮してましたがそれではダメのようですのでいる事をコピペします 174: ◆Dq0510MAKI @無断転載は禁止 [] 2017/09/10(日) 04:16:57.48 ID:kjyh2TeCO >>165 せっかく今日は幸せいっぱいで終わるかと思ったのにそうはいかないようだ 人とは持ちつ持たれつで成り立つと思ってて ぶんどるだけの嫌みじじいを否定する事がそんなにいけない事なんかね スレも前後も全ての流れを語らず断片を貼られたものからどうこう言われてすげー迷惑だわ 不愉快 愉快から超絶不愉快に おやすハゲティ 保守をよろしく( ・_・)ノ 175: ◆Dq0510MAKI @無断転載は禁止 [] 2017/09/10(日) 04:28:43.03 ID:kjyh2TeCO 私は奢る為だけに存在しない 利用される為だけに存在しない 2ch2chと特別なようにいうから2chのルールによって規制してもらったのに 地下住人に尻尾を降ったから狼の事をいうなという人に利用されたくない それのどこが悪いのか全く理解不能 『読書百遍意自ら通ず」 絶対に100回も読まんよな。自分は2回読むのだって滅多にない。ほぼ皆無。 一つの文章を繰り返して読むことはある。意味が分かるまで何度も読む。2,3度読むと意味が分かることが多い。 そうやって繰り返して読みながら進んでいく。その方が正しいと思う。 『1行百遍意自ら通ず」 脳には賢い部分と間抜けな部分がある。賢い脳(前頭葉)は高度な判断ができる代わりに大量にエネルギー をつかい疲れやすい。間抜けな脳(大脳基底核)は変化を嫌いルーチンワークを延々とやりつづける。しかし 省エネで疲れにくい。読書は賢い脳で全部やらないで大半は間抜けな脳に任せるのがコツだろうと思う。 例えば「英語ができる」というのは間抜けな脳の働きが大半だろうと思う。現実にも英語ができる人はどちらかと いうと馬鹿な人が多い気がする。それはやはり語学の習得がルーチンをたくさんこなさないとマスターできない という性質からくる。だから常に英語に囲まれているような特殊な環境にいない限りは間抜けな人にしか 英語はマスターできない。スポーツ選手もやはりこの傾向が強い。 逆に賢い人の学習方法は一気に大量に読み込んで本質を理解するというのが多い。高度な内容を 理解するにはこのような戦略が非常に有効に機能する。しかし賢い人はルーチンが苦手だ。それに直ぐに 疲れる。 読書の大半はルーチン作業で鍛えられる。速く読むとか大量に語彙を知っているとか、そういうことは 自動化してしまうべきだ。それを上手くやり遂げた人が知識人といわれる。間抜けな脳を上手く コントロールすることができなくては大量に情報を扱える知識人には成れない。つまり知識人の本質は 賢い脳ではなく間抜けな脳にあるということになる。 >>543 賢い人や知識人にコンプレックスを持っているのかな もちろん生まれつき賢い人もいるけれど、ほとんど全ての賢いと言われる人は努力を積み重ねていると思うよ 要領がいいことと地道なルーチンの努力をしていることは両立する 自分は頭が悪い、要領が悪い、と言い訳を作ってなまけないこと 決して遅くはない、地道にがんばれ! 「○○な脳」や「IQ」という自分を甘やかしてくれるメタファーに踊らされるな! 『読書百遍意自ら通ず」 意味を理解するために100回も読む価値のある本はないだろう。とすると100回も読むのは何故なんだろう? それは意味を理解するためではなくて、修練するためだ。文字を素早く読んで素早く理解する訓練の為になら 100回読む意味がある。だとすると特別な本を読む必要などない。それに嘗てのように本は高価ではないから 100回も同じ本を読まなくても、次々と読み漁ればいい。それでも同じような訓練になる。 何にせよ、コンテンツを理解するためではなくて、理解力を高めるのが目的でなくてはならない。 『読書百遍、理通ず」 片岡鶴太郎は元はどちらかというと間抜けなタイプだが、次々と才能を獲得して俳優としても絵や陶芸でも 非常に優れた才能を発揮している。間抜けな脳(大脳基底核)の使い方の上手い人だろうと思う。地道な 努力が結局は成功をもたらす。 脳は東西南北で考えると解りやすい。前後のバランスは前頭葉と大脳基底核で左右は左脳と右脳でバランス する。片岡鶴太郎は東南型だ。サンマは北西型だろう。タモリはバランスがいいが南欠型だろうな。 >要領がいいことと地道なルーチンの努力をしていることは両立する あれもこれも、両立というのは混乱のもとではあるまいか? 「地道な努力」という言葉が微妙に間違っている。努力が必要なのは前頭葉の場合であり、「地道さ」とは 自動化であって、努力はいらない。間抜けな脳を巧みに使えば、努力はいらない。 >>547 「頭のいい」と「間抜け」みたいに、二分法的思考にとらわれているんだね 血液型占いみたいな印象を受けるなぁ 大脳基底核と前頭葉を「対立する」ものとして捕らえると、「あれもこれも」が気に入らないんだろうね AとnotAを両立させようという話じゃないんだよ 本をたくさん読むことと一冊の本に時間をかけることを対立すると考えているんでしょう しっかりと時間を使って、深く、たくさんの本を読むこと、ということをあきらめちゃ駄目だ 怠けるな! >>544 賢いのう。地道に頑張るぞー(*^。^*) 自分にとって、一級品を繰り返し読むか、二級品以下を一度だけどんどん読んでいくか、は永い課題。 図書館にはほとんど行かないので、週刊誌の書評や、書店で題名とぱらっと見た感じ、で、購入するのだが、 最近はほとんどはずれ。なるべくはずれのない書物を求めると、辞書類とか、学術書に偏ってしまう。 どうしても書店に足が向くのがなさけない。 一級品と二級品以下、ってのはあくまで自分基準なので、ベストセラー作家の春樹だろうが、 つまらなければ二級品以下。 だから、川端を二級品以下とする人がいても、不思議とは思わないが、バカだとは思う。 やっぱり、漱石、露伴、川端などの全集と、古典だけを読書範囲とすべきか、と思う。 まあ、一級品はほとんど読める環境なので、金はかからない(笑 川端は本当に日本語がきれいだよなあ。繰り返し読める。三島は旧字旧かなでじっくり読むと贅沢な時間が過ごせる。テーマも深い。太宰はいろいろとグダグダで無理だ。 東京高校の方がおすすめ。東大作家群より。そもそも出版物を読めと言われても 地方の文学賞と可の方が興味あるしね。 小説はあまり読まんのでわからないが、川端や太宰、志賀直哉のような名声のある作家でもいまいち視界が狭い 感じがする。確かに綺麗だし丁寧に書いてあるとは思うが、ダイナミックさがないから文章の中に発想のような ものを感じない。例えば川端の雪国の冒頭部分にある駅長さんとの会話とか、ガラス越しに駒子を観察している 島村様子とかでも描写が沈み込んでいて、読んでいても広がりを感じない。そういうものを書いたからそういう表現に なっていると言えばそれまでではあるけれども、ジェーンエアとかと比較すると視点の操作とかが格段に違う ものがある。同じような暗い風景描写でもジェーンエアにはダイナミックな発想を感じる。読み方の違いかも しれない。知り合いの読書家の彼女は外国の小説は文体が嫌いらしくて読む気がしないといっていた。 好みってわかんものだな。 ありふれた二番煎じをする。そういうシンガーソングライターが多い。二番煎じでも最初にに出会った人は新鮮 に感じるのかもしれないが、聴いたことがあるようなメロディーを恥ずかしげもなく歌う人を見ると目をそむけたくなる。 実際に何が足りないのかというと、ユーモアではなかろうか? もしユーモアがないならそれに代わる知的な 驚きが必要だと思う。そういうものが日本の小説には欠けている気がする。 >>554 雪国は、ジェーンエアーのような大河小説じゃないからな(笑 雪国の冒頭に、夜の底が白くなった、と言う短文がある。 これを素直に読むと、夜には底があり、その底が白くなったと言う事だが、 これは、夜には現代のような照明がほとんどなく、つまり真っ暗で地面は雪で覆われており、 まるで風景は底を持つ容器のように捕らえられている。 境界のない容器を想像するのは難しいが、夜の風景を、円筒形、あるいは立方体のようなものと考えてみると、 底面が白いそんなものは想像ができるだろう。 家々の屋根や木々はすべて、夜の白い底の部分なのだ。 サイデンステッカはこの部分の翻訳を自慢していたと聞いたことがある。 まあ、私は英語は得意ではないのでよくはわからんがな。 雪国は十年かけて書き継がれた、日本文学の最高峰の一つといっていいだろう。 さらっと読む大河小説には、こういう描写で考えさせるところはないのかも。むしろさらっと読ませるのが趣旨だから。 だが、川端の名品と呼ばれる作品には、助詞一つの重みも感じさせる描写がいたるところに転がっている。 小道具や明示暗示される引用と、情景の関連など、日本文学のお勉強にはかなりいいテキストだと思うけどね。 自分の問題意識にひっかからない本と面白くない本は内容忘れるよな。 サンプリングや フックの始まり、DJ技術の進化なんかに思いをはせてみてください。 >558 読み方があるんだろうな。凝った内容になっているとある程度解説をしてもらわないと解らない。 聖書のような眠たい本でも解説してもらいながら読むと面白くなる。一旦読み方を教えてもらえば後は 自力で読み進めることができる。 「夜の底〜」は、前の文を受けて夜の底のような重苦しい長いトンネルを走ってきたからじゃないの? それがトンネルを抜けて白くなったけれども、まだ夜の底に沈んでいるような余韻が残っている。 そういう感じだと思う。 まあ感じ方は人それぞれ。 そういうモノを引き出す力があると言うことだ。 文脈を見るなら後ろもみないとな。 ここで雪国という言葉の選び方は失敗だろうな。雪国にはかなりステレオタイプな強烈なイメージがあって 真っ白な雪原だとか、静かで寂しいけれども開けた場所をイメージするんじゃないだろうか? だから 長いトンネルを抜けて、パッと急に雪国に場面が変わった感じを受ける。 それを「夜の底は白かった」ともう一度夜の底に沈め直そうとしているけれども、雪国というイメージが強すぎて この部分のイメージが立ち上がらない。 まあ散文だから別に問題は無いけれど、詩的な印象を出すのであればもう少し違った語彙を選ぶ必要がある と思う。 長いトンネルを抜けると厚く積もった雪が夜の底を白くしていた。 Passing through the long tunnel, the snow piled up thick made a night bottom dimly white. もし俺がサイデンステッカならこんなふうに書き換えるとおもう。 サイデンステッカーの英訳 The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. これは人が離れた場所から俯瞰的に眺めていてカメラワークが全く違うな。 >>565 残念だけど、passingの部分とthe snowの部分で主語が違うでしょう そのままだと厚く積もった雪が長いトンネルを通り抜けながら、「ナイトボトム」をぼんやりと白くした。というわけのわからない文章になるよ 翻訳はうそつき、って有名な言葉がある。 日本人は多くの外国の作品を、翻訳によって吸収してきたわけで、それはそれでよかったと思うけれど、 あくまでもそれは翻訳でしかない。原書を原書の文化の中で読むのが多分ベストだと思う。 サイデンステッカーの翻訳は、一応名訳とされているけれど、 彼の日本語の師匠だった吉田精一氏は、間違いがいくつかあるようなことを言っていた。 川端がノーベル賞を獲得できたのは、三島の推薦文と彼の翻訳のおかげだ、と言われるけれど、逆に、 The earth lay white under the night sky.なる英語の文章から、夜の底が白くなった、と言う日本語の文章 が出てくるか、を考えると、かなり悲観的にならざるをえない。 翻訳の限界は常に念頭に置いていないと、翻訳を読んで分かった気になってしまうのは、特に文学では危険だと思う。 英語話者が雪国の翻訳を読んで、我々日本人と同じ感想を抱くだろうか、とはムリな注文だとは思うのだが…。 なるほどな。翻訳はパックンが日本語しゃべってるみたいですね。言葉って奥が深い。 >>567 なるほど。正しく翻訳するとどうなるん? dimlyを覚えたばっかりで使って 見たかったんだが、ここに入れるんは不味いのか? Passing through the long tunnel, then the snow lay thick on the bottom of the night made dimly white. Weとか主語使いたくないなー、これならどう? でも世界の偉大な作家がみんなドストエフスキーをロシア語で、セルバンテスをスペイン語で読んでるわけじゃないからな >>571 違う部分よりも、同じ部分の方が圧倒的に多いから翻訳からでも十分理解できる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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