文学理論 10 [無断転載禁止]©2ch.net
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文学における批評や理論について意見や情報を交換するスレッド。 記号学、テクスト論、ナラトロジー、精神分析批評、受容理論、マルクス主義批評 ニュー・クリティシズム、ヌーヴェル・クリティック、テマティック批評、新歴史主義、認知論 などなど。 前スレ 文学理論 9 http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1473726035/ 文学理論 8 http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1456876313/ 文学理論 7 http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1428940593/ 文学理論 6 http://peace.2ch.net/test/read.cgi/book/1411222847/ 文学理論 5 http://peace.2ch.net/test/read.cgi/book/1398531661/ 文学理論 4 http://peace.2ch.net/test/read.cgi/book/1306120505/ 【Literary】文学理論・文学批評V【Theory】 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1189092029/ 【Literary】文学理論2【Teory】 http://pyon.2ch.net/test/read.cgi/book/1111258919/ 文学理論 http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1034435329/ ※入門書 テリー・イーグルトン 『文学とは何か―現代批評理論への招待』 田辺保〔ほか〕編 『文芸批評を学ぶ人のために』 ジョナサン・カラー 『文学理論』 ラマーン・セルデン 『ガイドブック現代文学理論』 ピーター・バリー 『文学理論講義』 フランク・レントリッキア、トマス・マクローリン『現代批評理論―22の基本概念』 フランク・レントリッキ、トマス・マクローリン『続:現代批評理論―+6の基本概念』 フランク・レントリッキア『ニュー・クリティシズム以後の批評理論』上下 廣野由美子 『批評理論入門』 西田谷洋 『学びのエクササイズ文学理論』 >>193 彼はより形式的な分析方法を念頭に 置いているのだろう そしてストーリーの分析を扱うメソッドとして 整備された基準の話をしている だからジュネットが提示したような枠組みは 物語論の基礎になっているだろうというまで クレクレ君はどっかいけよ >>186 「ナボコフの文学講義」リョサの「若い小説家へ宛てたの手紙」「嘘から出たまこと」 みたいなものは読んだ? このスレで出てくるような本とは毛並みが違うけどこういうのがもしかしたらいい入口かも知れない ナボコフはちょっと特殊な人だけどきみは慎重な読者のようなので大丈夫だと思う >>194 全ての有名な分析方法やスクールには 成功した有名な分析が必ずあるじゃん 例えばポーの大鴉分析は成功例で その後、手法がメソッド化している なんで部外者の君がゴタゴタ言ってるのさ 今後話しかけてこないで >>196 ナボコフは既読だけどリョサは未読。 今度読んでみるよ ありがとう >>195 内容がないと指摘すると、クレクレかw 知的底辺の、精一杯の見栄かな? >>197 自分の無知と無内容を指摘されると、ヒステリーを起こすのかw 心配するなよ、ちょっとからかっただけだから。 ああこの人は例の 「君の意見を書いてごらんよ」の人かあ 粘着趣味に付き合うつもりはないですよー >>201 例の、というのがわからないが、自分の意見でも他人の意見でも、中身を書きなよって言ってるんだよ? 日本語が通じない底辺の人とは議論しないから、安心してよw >>188 ありがとうございます! プルーストの物語の革新性について、という事ですね?それとも革新性、すごさとはなにか、という事ですかね?ひとまず読んでみます >>189 分析手法のみコレクションするな、対象から有意義な知見を発見しえる手法は対象ごとに異なる。みたいな感じでしょうか。 未知なる魅力的な知見が見つからなければその分析はあんま意味ない、でしょうか。 >>196 どちらも未読です>< 慎重というよりは判断基準となる知識がなさすぎてみんな信じられないだけですねたぶん… ナボコフ、リョサ調べてみます。色々ありがとうございます。 若干荒れてきたのでオススメ本読んでまたきますね みなさまありがとうございました(´∇`)ノ >>204 そういうことだね それから対象を無限大に広げた結果 体系然としてはいるけど旨味もない、 自分が鑑賞を通して得た物語に関する疑問を 全然説明してくれない、分析を施したけど これでどうすんの、じゃあ意味がない >>207 『ジキルとハイド』の原題が、“The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde”。 「世界文学集」のものを読んだことはないが、同じだと思う。 話題に乗り遅れたけど 「化学における元素周期表に当たるような原理的な分析をした「物語の素」一覧」 なら「5W1H」があるじゃないか >>178 が考えてる、世界観、対象、時間、対象が変化した物っていうのも5W1Hみたいなものだし 結局のところ、物語に原理があるわけじゃなくて、 人間が物事をどう認識してるかってだけの話なんだけどね >>210 レスありがとう嬉しいです。 物語の素が5w1hという話好きです(僕ごときが正解判定できないので好き嫌いでしか言えませんが)。物事の認識という事も。 最近だと5w1h1r(結果)とも言われるようですね。これだと時間=変化も含めてて正に物語って感じがします。 これが物語の素であるっていう証明ができたら面白そうですね。 といっても化学元素についても水素が元素だって証明はできてないとおもいますけど(曖昧) 水素を見ていくと陽子中性子電子があって終わったかと思ったら素粒子が出てきていい加減にしろと思ったら実は世界はホログラフィックなんじゃないかみたいな事になってるようですし… 物語論ももっと砕いていく事が出来るかもですよね。 兎に角ありがとナス(˘ω˘) >>210 211に追記です。 証明しろって言ってる訳じゃないです。証明ってできるんだろうかってちょっと思っただけです。気分悪くしないでくださいね >>211 ユングやフライのアーキタイプについてはどうコメントされますか 横だけど古典読めばいいだけ 分類されたところで漏れ出る要素がありすぎる 生活世界的、身体世界的な範囲からかけ離れた世界はもはや文学の世界とは無縁ではないのか 巨大な観測機器を用いて計算上考えられるような理念の世界はむしろ人間の感覚を無力化し 結果的に文学の持つ力を破壊無効化する力として作用するのではないのか ニュークリティックたちが科学を恐れた理由もそこにあったはず >>781 :吾輩は名無しである:2014/03/15(土) 13:45:59.61 本当はエントロピーではなくネゲントロピーで説明したかったがネゲントロピーは否定されているようだ。 文学は食物であり排泄物でもある。作者と読者がいると仮定すると、作者が生み出した食物を読者が食べて排泄する。作者が読者の排泄物を食べて排泄したもの、それが作品である。 突然すみません。781氏の説を読み、「本はうんこ、論文はおしっこ」と昔どこかにあったのを思い出した。 一家言であると思いますが、このようなことを主張する文学理論はあるのですか。 あれば、誰がいつ頃となえたどんな説なのですか、 ご存知の方教えてください。 文学的構造になってない長文はなあ。 僕は書く量を合わせると長文ぐらいはね。 体制順応主義者からは 追っかけからからは 革命的な文学理論は誕生しないよ >>218 基本は筒井康隆で、ドイツ系文学理論(文学システム)とシュレーディンガー(生命とは何か)。 説明不足だし、現在は2者ではなくてエネルギー論・量子論からの要請によって3者で考えている。 文学という現象について 色々と考えることができる文献 - 広島大学(Adobe PDF) - htmlで見る home.hiroshima-u.ac.jp/.../listofotherbooksonliterature-3.pdf Imposing value judgments on literature belongs only to the history of taste, and therefore follows the vacillations of fashionable prejudice. イーグルトンの『文学とは何か』の岩波文庫版をこれから読み始める。 文学理論の関連書は初めてなので、楽しみだ。 一つの作品には全ての文学理論を適用できる ツギハギのキメラがフランケンシュタイン 理論的には既存の批評理論の どれでも噛み応えのある物語を 書くことは可能だな ロッジあたりができそう しかしフランケンはすごい 批評理論で物語が書けるんならこの板で書いてごらん 最高の批評理論をつかえば最上の物語が書けるんだろ >>232 蓮実とかいう批評家が物語り書いて、なんとか文学賞をもらってたね・・・ >>232 最高最上の話じゃないよ 各理論のその理論が好む 要素をまとめて盛ることはテクある作家なら できそうだってだけだよ もちろん相互排他的なものは 難しいだろうけど リチャード・パーマー・リラックマ『ヘンリー・ジェイムズとぶよぶよぶくぶくモンスター、 小説における潜在的古典様式について』を今から読みます 読んでよほどのひらめきがあれば、後で報告しにきます セカチューの片山恭一でしたっけ、デリダを論じてたことがあるとかいう それとこれとは別だよな でなきゃシェークスピアやモーツアルトはとうの昔にのり越えられちゃってるもんな シェーンベルクなんかバチバチに理論武装したけどモーツアルトの天才を打ち破ることはこれっぽっちもできなかった 理論の前に天才の作品があるってわけだ イーグルトンがどこかで発言していなかったっけ 「批評行為とは自慰行為である」と 文学理論というのは、文法と同じで後付け理論だからね。 分析したらこうだった、ということだろう。 文学に限らず、ほとんどの学問がそうじゃないのかな? >>238 話の根幹が主観と直感あるいはアンケート(多数決、主観の集合)だ 今の作品より昔のシェイクスピアの方がいい、というのが主観、 それを元にすると他者は「はいそうですね」としか言いようがない 昔の作品よりも今の作品がいいと感じている人には、それ以上の説得力はない この説得力の根幹は主観が構成する つまり、「わたしはシェイクスピアの方が優れていると思う」との主観だ もしここで大規模なアンケートをとっても、それは主観の集合体に他ならない なので「わたしはプロ読者なので、面白さの順番に作品を並べることができる、 それだけの見識と直感をもっている、つまりはわたしは天才的な読者である」との開陳になる 序列や優劣を直感的に決定できる何かしらの『読者』の能力をもっている、との宣言になる なので作品AとBがあるとき、「BよりもAの方が優れている、だから文学理論は成り立たない……との理論が成り立つ」、との理論が生まれる あとはその自身の主観や直感や判断を逐一説明するだけで、なぜ作品Aの方が優れているか、その判断基準などを延々と他人に説明することになる すると、その優秀たることの説明が、そのまま文学理論になりうる つまりは、「シェイクスピアの方が優れている、だから文学理論はいらない」という理論を構築するために、 実はシェイクスピアの優秀性について延々と論じた別種の文学理論をもってくるしかない なので、これは、文学理論の否定に別の文学理論をぶつけていることに他ならない シェイクスピアの方が優れている事に関しての説明が無く、主観と直感による即時的な判断なので、言説の有効性が高いように見えるが、 自分自身の主観・直感の説明を始めてしまうと、それそのものが文学理論になる ちなみに、わたしの信念では、文学理論は 「わたしはこの作品が優れていると思う、なぜならば……」 で始まる、自身の主観や直感の説明だ 期待して読んだが長レスの割に 月並みで損したわ〜 つまらない理由も理論になるし 洞察が足りなすぎ >>240-243 人それぞれの意見があるのは当然だが、文学理論というのは、評価の基準を定めるための理論であることが多い。 主観ではなく、客観的な評価が可能になるのではないかというアプローチだ。 いくつもの基準が設定される場合もあるし、一つの基準を目指す場合もあるが、主観を並べるだけのものはないともいえる。 「価値」とは、過渡的なものを指す言葉だ。 さまざまな時代が、その目的に応じて「さまざまな」ホメーロスやシェークスピアを作り出し(てきた。) 文学理論全盛期に生まれたかったわ 読みだした頃 出たばっかの本に今は下火だとか書いてあって なんだと〜ってなったわ とりあえずアドレスを貼るのみで、当スレからは立ち去りますが、 たとえ暇つぶしででも、 もし興味ある方は読まれて下さい。 『救済的真理の伝達・証明』 《神・転生の存在の科学的証明》 http://message21.web.fc2.com/index.htm >>246 過渡的というより、その時代と地域での価値じゃないかな? 貨幣の価値が、その時代と地域によるものであるのと同じように、その時代と地域では、客観的なもの。 「文学理論」を学ばずに小説読んでる奴って何なんだろうな 定番の入門書教えてやるから理論を学べ より深く小説を味わえるようになるぞ [無断転載禁止]©2ch.net [511393199] https://hitomi.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1491144438/ 文学理論なんか学ばなくても小説は「読める」だろ 理論は読む事の条件じゃねーよ勘違いすんな >>250 このスレよりまともに語ってんな… つか以前にスレにいたナラティブの人か? 戻ってきてほしいものだ >>250 >>252 宣伝乙、で構わないんだが、いきなりこんなのに出くわしてはなあ・・・ >「勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っている」 >『文学理論講義』は、文学における一つかみの砂金に相当する 上段の言葉をまったく理解してないのが下段の言葉だってことに気が付かない人が、文学理論を語ってもなあ・・・ "the past should be altered by the present as much as the present is directed by the past” これさえわかっていればあとは全てこのバリュエーシォンじゃない 批評りろんだt理異論だって書き手は自分が書く内容を解かったつもりになっているがいかんせん解かっちゃいない 訂正 "the past should be altered by the present as much as the present is directed by the past” これさえわかっていればあとは理論も個々の作品も全てが」このバリュエーシォンにすぎない 文学作品の価値基準を作るんだと理論家は気負っているけど しょせん批評理論も読書の楽しみの一つに過ぎない 我々が思い入れするほどの価値はない 価値を保ちうるのはアリストテレスの『詩学』ぐらいかな >>255 我々、じゃなくて、我、にしときなさいね。 速読について 【読書】「速読」は科学的に不可能だと証明される…真の速読は「飛ばし読み」の技術に過ぎず [無断転載禁止]©2ch.net daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1491455829/ 【読書】「速読」は科学的に不可能だと証明される…真の速読は「飛ばし読み」の技術に過ぎず★2 [無断転載禁止]©2ch.net daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1491465002/ 「詩的機能は、等価の原理を、選択軸から、結合軸へ投影するもだ」 ヤコブソンの言葉らしいですが、具体例をもってどなたかわかりやすく説明していただけませんか。 >>258 それだけ読むと、訳者が悪いのか著者がバカなのかとしか思えないね。 >>258 等価の原理とはA=Bであること、表現されるAと表現するものBがある価値基準において同じということです。 このとき、Aという表現されるものを表現するものは通常は辞書的な意味から選択されます。 B1、B2、B3・・・という事前了解の範囲から選択されます。 しかし詩的言語においては価値基準を新しく作り出します。その時AとBは別に作られた価値基準で結合されます。 人はAをBという言葉で表現されたとき、普通は辞書的な価値基準を受け入れてAはBなんだな。と理解します。 しかし、AとBをなぜ結合したのか?その根拠となるあたらしい価値基準(等価とみなす理由)を探し求めるような言葉が存在します。 そもそもAとBは=では表せません。にもかかわらず、等価としている価値基準・言語的約束事を露わにしうる言語をヤコプソンは詩的言語と言います。 ミシンは機械である。 このときミシンは=機械でありません。ミシンの属性の一つを機械とし、その属性を全体を代表するものとしています。 A<Bにもかかわらず、A=Bとする。これは一部分を全体とみなす換喩です。 王の冠を王自身と表現する、あるいは国全体を王で表現する、このようなA<BをA=Bとする。 ミシンは私の手である。同じ構造を持ちますが、詩的機能性は機械よりも手の方が連結性が少ない分増えるでしょう。 A≠BであるのにA=Bとする、そのような比喩も存在します。「のような」をつける暗喩とつけない直喩。 ミシンは私の手のようなものだ。 「私」はミシンを扱う主体であり、「手」は体の一部ですが行為の主体を代表し、さらに道具の体の延長としての一体化を経ていることになります。 そこで伝達されるのはミシンと私の手の同一性の説明ではなく、別の事態の説明です。 ミシンは私の命である。 すこしずつ抽象度が増しますが、詩的機能としては私の手と変わりません。 詩的機能とは喩をどれだけ重ねたかではなく、どれだけ選択肢にない結合を起こすかにあり、できる限り遠い物を近づけることを目指す人が現れます。 >>258 それの説明、意味論の本で読んだ記憶がある 確かに巧みな論法だった気が 本棚見てみる Money makes the mare to go. が例 その意を伝える言葉を選ぶときに 色々ある。類義語を選ぶという 意味で等価の選択。 それを並べ、語を結合する際に それらを束ねる等価的な操作が現れる 例の場合はm頭韻 これが詩的機能...かな まあなんでも当てはめることができる理屈では ないですね <<260-61 恋人の魂を魂を金箔やコンパスに喩えたダンの比喩を念頭に読みました。 おおまかな意味はつかめたように思います、丁寧な説明をありがとうございました。 日常の会話等にあって言葉の選択にあたって無意識のうちに用いられる等価基準が 詩作等においては言葉を結びつけるための技法として暗黙の前提、即ち「言語的約束事」として(意識的に)使われるということですね。 つまりもう一歩踏み出して理解すれば、これは「だまし絵」の原理でもあるわけですね。 山川が正しいかどうかなんて問題にしてないんだが? 俺は山川を批判する姿勢として間違いだと言ってるだけで その点では仲正にも興味が無いこのスレのアンチが 仲正に同意するスタンスには批判的だがな 詩は、三代目魚武の詩が好き、癒されるし、元気になる。 あとは猪木とか。 谷川俊太郎? まったくこころが動かない 谷川俊太郎? 僕は、ネロとか20億光年の孤独とか、けっこう良い詩が沢山あると思う だがこの感覚が西欧の有名な詩には当てはまらないと思うことが多いのはなぜだろ? 西欧人の詩の評価軸の中心には論理性が顕著に機能し、日本の場合はそれほど顕著ではないということか? 哲学だって同様だ、日本の場合だと「無の境地」とか「霊性」とか、なにかしら仏教的な悟りの境地を目指すことになってしまう、 なぜだろう? 西欧語に比べ論理的でないとされる日本語の言語構造が日本人の精神構造になっているということか? 西欧の詩の評価軸に論理性が重視されるとか、まったくわからん理屈だな。 言語は皆論理的であって、その多寡は比べられるものじゃないからね。 >>269 日本人の精神構造が、日本語の言語構造になってるんじゃない? 精神論構造 って体育会系のノリかもなあ。 言語というと 芸術や体育のほうかもね。 それなりな。 精神分析時代よりも。若い時代の仕事。 日本文学論いいます 自然に帰る=破滅派、調和派の文学者等。雪舟、西行的。本音で生きて破滅するのもこれ。 自然が来る=かぐや姫、遠野物語、rewrite、小林さんちのメイドラゴン等。 おもに日本文学の構造はこの二パターンではありませぬか。 アメリカ文学論いいます ポーは詩の原理で、もっとも美しいのは、愛する女性の死だと言っている 伝記を見ると、ポーは若い奥さんをなくしていて、その経験がしばしば詩のモチーフになっている その個人的な経験から詩の原理を作っているきらいがある。 それはともかく、自分の悲しみを浄化するために悲しい物語を読む、みたいな、ギリシャ劇的な構造が やっぱりアメリカ文学の構造ではないかしらん 日本は現実を捨てる。アメリカは現実と向き合う。そんな傾向が一般にあると思う。 しかし、勿論それだけが文学の全てだと言っているんじゃありません。 日本語はクレオール言語だという説があるが、たとえクレオールではなくとも日本語は北方系や南方系 など複数の民族の言葉の混合から成り立っていると考えるのが当然であり、そのような日本語が日本人 を作ったというのは極めて自然なの話。 また同様のことは例えば英語についてもいえることで英語はゲルマン語やラテン語、そしてフランス語が 等が核になっておりイギリス人もやはり英語によって作られたのだといういい方は正しい。 まともな根拠のないことを当然だの自然だのと言われても…。 語彙の借用すなわち混合ということなら、日本語は中国語と英語の混合言語ということになるよね。 >>269 つまり西欧の言語は、古代ギリシャにあってはギリシャ哲学の、それ以降においてはキリスト教の強い影響下に 置かれ、哲学論争や異端論争において言葉の持つ論理の力が党派の盛衰を大きく左右する結果になった。この典型 的な例がゼノンの「アキレスと亀」や「飛んでいる矢は止まっている」のパラドックスであろう。この黒を白と言い くるめる論理の力を、現代においてはアメリカ等の訴訟社会に如実に見て取ることができるのだ。 ところが日本においては「理屈を並べ立てるな」という日常語が示すように年配者とりわけ権力者は筋道立てて 抗弁されることを極力嫌う。中村元は『日本人の思惟方法』の中で記す、「日本語ほんらいの和語は・・・感性 的あるいは感情的な精神作用を示す語彙には豊富であるが、理知的・推理的な能動的思惟の作用を示す語彙が非 常に乏しい。・・・・・純粋の和語をもって思想を表現する哲学は最近にいたるまでついに発達しなかった。」 「(日本人は)仏教を、なんらかの社会的・政治的目的のための一つの手段あるいは道具として(都合のいい部分 だけ)採用したような傾きがある。」日本の権力者は民衆の中に論理的批判力が育つのをうまくかわしたのであった。 はたせるかな法務省の訴訟社会到来を見越した法科学院の制度はいまや曲がり角を迎えている。 ギリシャは西欧じゃないしアメリカはアメリカ大陸だろ。 基本的な地理知識が欠落してるぞ。 日記論でも、ベアトリス ディディエはいいと思うよ。 日本の日記文学の論を集めたものも見たことある。 日記はカテゴリーで名随筆にも入っていたけど、今の子らは海外言語で日記をつけることに コンプレックスがないしなあ。昔よりたぶん。 和語で法律も科学論文も書けないからな 英語がOE語彙だけじゃ無理なのと一緒 古文の規範が 女房文学だからな 書き手イコール読み手イコール登場人物 という閉ざされた世界の助動詞体系の世界 >>286 女房文学を以って日本古典文学を代表させるのはどうかと思うぞ。 俺もどうかと思うが実際そうなんだから しょうがない。 散文の規範は源氏物語だから その後は基本的にこの時代の 模倣を和文脈と呼んでいる 規範と呼べるほど女房文学は流布したのか? スレチな話題かもしれんが なんか物凄くスレの水準が下がってきたな。 誰か上方修正してくれ >>293 文学理論に関していえば、下は確かにヘドロのようなものだが、上は上であぶくのようなものだからなあ・・・ だからといって中間があるわけでもない。 下じゃできない上でもできない、中途半端じゃ、なおできない。 これが、文学理論というものだろうな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる