文学理論 10 [無断転載禁止]©2ch.net
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文学における批評や理論について意見や情報を交換するスレッド。 記号学、テクスト論、ナラトロジー、精神分析批評、受容理論、マルクス主義批評 ニュー・クリティシズム、ヌーヴェル・クリティック、テマティック批評、新歴史主義、認知論 などなど。 前スレ 文学理論 9 http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1473726035/ 文学理論 8 http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1456876313/ 文学理論 7 http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1428940593/ 文学理論 6 http://peace.2ch.net/test/read.cgi/book/1411222847/ 文学理論 5 http://peace.2ch.net/test/read.cgi/book/1398531661/ 文学理論 4 http://peace.2ch.net/test/read.cgi/book/1306120505/ 【Literary】文学理論・文学批評V【Theory】 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1189092029/ 【Literary】文学理論2【Teory】 http://pyon.2ch.net/test/read.cgi/book/1111258919/ 文学理論 http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1034435329/ ※入門書 テリー・イーグルトン 『文学とは何か―現代批評理論への招待』 田辺保〔ほか〕編 『文芸批評を学ぶ人のために』 ジョナサン・カラー 『文学理論』 ラマーン・セルデン 『ガイドブック現代文学理論』 ピーター・バリー 『文学理論講義』 フランク・レントリッキア、トマス・マクローリン『現代批評理論―22の基本概念』 フランク・レントリッキ、トマス・マクローリン『続:現代批評理論―+6の基本概念』 フランク・レントリッキア『ニュー・クリティシズム以後の批評理論』上下 廣野由美子 『批評理論入門』 西田谷洋 『学びのエクササイズ文学理論』 日本文学論いいます 自然に帰る=破滅派、調和派の文学者等。雪舟、西行的。本音で生きて破滅するのもこれ。 自然が来る=かぐや姫、遠野物語、rewrite、小林さんちのメイドラゴン等。 おもに日本文学の構造はこの二パターンではありませぬか。 アメリカ文学論いいます ポーは詩の原理で、もっとも美しいのは、愛する女性の死だと言っている 伝記を見ると、ポーは若い奥さんをなくしていて、その経験がしばしば詩のモチーフになっている その個人的な経験から詩の原理を作っているきらいがある。 それはともかく、自分の悲しみを浄化するために悲しい物語を読む、みたいな、ギリシャ劇的な構造が やっぱりアメリカ文学の構造ではないかしらん 日本は現実を捨てる。アメリカは現実と向き合う。そんな傾向が一般にあると思う。 しかし、勿論それだけが文学の全てだと言っているんじゃありません。 日本語はクレオール言語だという説があるが、たとえクレオールではなくとも日本語は北方系や南方系 など複数の民族の言葉の混合から成り立っていると考えるのが当然であり、そのような日本語が日本人 を作ったというのは極めて自然なの話。 また同様のことは例えば英語についてもいえることで英語はゲルマン語やラテン語、そしてフランス語が 等が核になっておりイギリス人もやはり英語によって作られたのだといういい方は正しい。 まともな根拠のないことを当然だの自然だのと言われても…。 語彙の借用すなわち混合ということなら、日本語は中国語と英語の混合言語ということになるよね。 >>269 つまり西欧の言語は、古代ギリシャにあってはギリシャ哲学の、それ以降においてはキリスト教の強い影響下に 置かれ、哲学論争や異端論争において言葉の持つ論理の力が党派の盛衰を大きく左右する結果になった。この典型 的な例がゼノンの「アキレスと亀」や「飛んでいる矢は止まっている」のパラドックスであろう。この黒を白と言い くるめる論理の力を、現代においてはアメリカ等の訴訟社会に如実に見て取ることができるのだ。 ところが日本においては「理屈を並べ立てるな」という日常語が示すように年配者とりわけ権力者は筋道立てて 抗弁されることを極力嫌う。中村元は『日本人の思惟方法』の中で記す、「日本語ほんらいの和語は・・・感性 的あるいは感情的な精神作用を示す語彙には豊富であるが、理知的・推理的な能動的思惟の作用を示す語彙が非 常に乏しい。・・・・・純粋の和語をもって思想を表現する哲学は最近にいたるまでついに発達しなかった。」 「(日本人は)仏教を、なんらかの社会的・政治的目的のための一つの手段あるいは道具として(都合のいい部分 だけ)採用したような傾きがある。」日本の権力者は民衆の中に論理的批判力が育つのをうまくかわしたのであった。 はたせるかな法務省の訴訟社会到来を見越した法科学院の制度はいまや曲がり角を迎えている。 ギリシャは西欧じゃないしアメリカはアメリカ大陸だろ。 基本的な地理知識が欠落してるぞ。 日記論でも、ベアトリス ディディエはいいと思うよ。 日本の日記文学の論を集めたものも見たことある。 日記はカテゴリーで名随筆にも入っていたけど、今の子らは海外言語で日記をつけることに コンプレックスがないしなあ。昔よりたぶん。 和語で法律も科学論文も書けないからな 英語がOE語彙だけじゃ無理なのと一緒 古文の規範が 女房文学だからな 書き手イコール読み手イコール登場人物 という閉ざされた世界の助動詞体系の世界 >>286 女房文学を以って日本古典文学を代表させるのはどうかと思うぞ。 俺もどうかと思うが実際そうなんだから しょうがない。 散文の規範は源氏物語だから その後は基本的にこの時代の 模倣を和文脈と呼んでいる 規範と呼べるほど女房文学は流布したのか? スレチな話題かもしれんが なんか物凄くスレの水準が下がってきたな。 誰か上方修正してくれ >>293 文学理論に関していえば、下は確かにヘドロのようなものだが、上は上であぶくのようなものだからなあ・・・ だからといって中間があるわけでもない。 下じゃできない上でもできない、中途半端じゃ、なおできない。 これが、文学理論というものだろうな。 白痴も天才も、秀才も鈍才も、ホモもヘテロも、金持ちも貧乏人も皆が同格 これがデモクラシー、日本もようやくデモクラシー社会 人間皆平等、犬だって猫だって人間と対等のこのご時世 難しいことを言うのはよして、陽気に浮かれ騒ぎましょう 「時には娼婦のように、男娼のように、みだらな女に、くだらない男に、なりな」って調子にね そうです、「きれいは汚い、汚いはきれい」「高貴は下劣、下劣は高貴」のご時世です 名高い中村真一郎の文章読本を読み始めて2行目 「電話が発達したからといって、手紙を書くことは全然、 しなくなったわけではありません。」 なんぞこれw 「手紙を全く書かなくなったわけではありません。」 くらいだろ ラノベの文学理論、あるいは文学理論としてのラノベ。 ライトノベルとラノベを区別するかどうかということは差し置いて、とりあえず長いので『ラノベ』。 ラノベという手法で文学理論するとしたら。。。 しかし、その前に『文学理論』と『文学批評理論』の違いを考察する必要もある。 『文学の理論』と『文学理論』と『文学の批評理論』と『文学批評理論』、まで対象にするとわけがわからなくなる。 『読むということ』と『批評』の違い。『文学』と『文芸』の違い。考えねばならないことが多すぎる。 『批評』を『読み方』のひとつと考えるならば、とても頭の悪い読み方である。 「なにさまだよ」といいたい。(もちろんこれも『誤読』という手法によってもたらされる) 『文学』の読み方にはひとつしかなく、それは『誤読』である。 『文学批評理論』とは『文学をいかに誤読するかについての理論』であり、 その『誤読の手法』を語ることで『文学(作品)』として成立している。 >『文学』の読み方にはひとつしかなく、それは『誤読』である。 分かったようなことを書き込んでいるが、結局何も分かっちゃいないんじゃない 『誤読』というからには『正しい読み方』というものが想定されているはず だが読み方は一つしかないという ぼくには矛盾としか思えんがね だけど矛盾なんて論理はあり得ないとでも言うんだろうか 『正しい読み方』というものも『誤読』の一種でしかない。 「『誤読』というからには『正しい読み方』というものが想定されているはず 」 そうではなく、すべてを『誤読』に落とし込もうという(ブラックホール)戦略。 >>302 ところで、鍵括弧を使えばいいところ、わざわざ二重鉤括弧を使ってるのは何か意味あるの? >>295 を読んで現代日本は「自由だ!」と言ってる老人想起した。 「自由競争」社会とかなら正しいにしても……。 勿論>>295 は釣りかユーモアの心算かもしてないが 『社会契約論』J.J.ルッソーを確りと読み込んでみて損はないよ。 (……近代以降における「民主主義」の定義の解釈が全く間違っている) 「」と『』で存在の違いをあらわそうとしたのだが、成功してない。 >>305 「自由競争」のはずなのに、大企業の救済は税金で、とかねw >>307 さん。ご存知のように、日本国では、 政府は経済の成長を、日銀は経済の安定を一般には目指しているからね〜。 色々思惑が異なったり複雑ではあるよね。 あれ? >>306 さん 論文とかの類を書いたことないのかな? ↓この辺りは知っておいて損はないよ〜。 http://web.ydu.edu.tw/ ~uchiyama/ron/ron_14.html >>308 複雑というより、目的を隠したがるということだね。 ま、文学理論とは、なんの関係もないがw >>306 >>309 もちろん、絶対的な決まりはない。 括弧に限定すれば、こんな感じが普通。 「」 会話、引用、強調、項目名など 『』 かぎかっこの中のかぎかっこ、書名やなにかのタイトルなど () 年号や作者名を補足する場合など 〈〉 強調や通常の意味と異なる使い方など 業界では『』を書誌名に使うってのは知っているんだが、 「誤読」では一般用語になってしまうので『誤読』にしてみたけど、あまりよくない。 ミ誤読ミ みたいにしたほうがよかったかもねw 本筋はそっちではなくて文学理論としてのラノベ理論なので、考え中。 >>302 正しい読みかたと誤読を対にするのは正しいのだろうか? 正しいと誤りを対にする鈍感さはさておいて、読は読み方と同じであろうか? 誤読とにおける読とは動詞であり、漢文の作法に従えば誤が後を修飾するため副詞となる 誤リテ読ム 正しいとは名詞を修飾する形容詞である 副詞として読み直すなら 正シク読ム これは正読となり、字義通りに読むということになるだろう 正しい読み方、とするならば読むこと正し、読正あるいは読而正、読於正とすべきである 誤読と正読を対比させるならば、すなわち解釈学と注釈学、字句に対する姿勢の違いとなろう そこには著者の意は著者の字に正シク著されたかどうかへの姿勢となる 字よりも意を重視するならばそれは誤リテ読ム事を避けられない 意は字に尽くされている、とするなら正読は常に著者の意を誤リテ読ム 正読が存在するのは意を誤ラズ著シた特権的書物、聖書・コーラン・そして経に他ならない さにあらずんば誤読にあらざる読はなし >>312 そういう場合は、〈〉とか、””が普通。 ””の方が多いかも知れない。 うーん。バベルの図書館にある書誌名としての『誤読』を想定していたので『』を使ってしまったのだが、 いまいちだった。 モノポールを表現する記号ってあったかなぁ。 >意を誤ラズ著シた特権的書物、聖書・コーラン・そして経 思弁的な根拠づけをしましたね だけど聖書・コーラン・そして経も一つのテキストに過ぎないよ 正読も誤読もあるもんか テキストの読みは一つのテキストを読んだ人の数だけ 読んだ人の読んだ回数の総計分だけある 将来の読者を含めば無限の読みが可能だ もし正読があるのならそれは正読を争うのが正統と異端の差 多数の人からもより納得が得られる読みの近似値が正読に近いとすればそれは感覚の差 >>315 他人の指摘が気に入らなければ、好きにしてくれw 誰も止めない。 誤読の話は、カントの「物自体」を思い出すね。 誰も正しいものに触れることができない、だな。 >>316 いや、そうじゃなくて定義からして誤ることのない書物なのよ 経というのは仏教の経典も中国に入ってこう訳されたんだけど、「経」というのは聖人の教えなわけ インドの数百年のさまざまな学派が全て「経」として一度に流入した結果、垂直的に構成されていたさまざまな教えがばらばらになってしまった だから中国に入って分裂した宗派は全て中心となる「経」を選択し、教義の根本においた そのような思考圏においては正読というのは重要なのであって誤読してはいけない 場合によってはなんで仏陀はマントラについて一言も言っていないのですか?なんてのをマントラにのっとって解釈したりするのよ 意を理解できなかったら読み飛ばしていいよ もちろん誤読してもいい >>319 麻原の書いたものが正しい、と言ってるの? いえいえご指摘感謝いたします。 とりあえず文脈からの断ち切りには失敗したので、普通に「」を使うこととして文脈依存でなんとかしますw まあ、本を書いてくれといわれたときに執筆者マニュアルはもらっているので基本的なことは知っているけど、 ざっと読んだあとにどこかにやってしまった。 >>321 本を書く以前に、担当教授や友人から論文の書き方を教わらなかったの? いや、どうでもいい余計なお世話なんだが・・・ ん。論文を書こうとしているわけではないので、表現を模索していますw 一時は思想で「」が流行ったが その概念を自明視してませんよっていう宣言として こんなかんじで 「桃太郎」の誕生 <日本人>の歴史 今は随分抑制されているように思える かっこだらけが異常だったので 『骰子一擲』だと行き過ぎだけど、ネット時代の表現として記号あるいは装飾タグについての研究論文を探してみるっか。 その手の思想系ではやった括弧は現象学由来の括弧に入れて先送りするということをそのまま適用してしまったという恥ずかしい歴史の一部ですよねw 神様の御言葉だ 間違いはない しかし人間はバカだからね 神意は何人にも通じることなし これって誤読? 結局その万能をもってしても人間に神意を伝えられない神もバカってことに帰結しない 条件付きの正しい読みならあるに決まっている。 そうじゃなきゃメールで予定すらやり取りできない 対象の評価が連続体だからクソミソ一緒論法は 俺もよく使うからわかるけど、得るものは少ない 前にも書いたが 京大出の現象学学者に 還元を題材挙げてやってみてといったら やってくれなかった ほんと馬鹿馬鹿しいわ >>326 違うんじゃない? 現象学では、カッコに入れる、という言い方はあるけど、カッコを多用するわけじゃない。 つまるところ、「」や『』を適切に使うべきだ、というのは正字法が存在する、という信仰をしている 論文における作法はほかの場所でも適用可能である、という 正字法とは体系化を必要とする。もともと偉人の教えなるものは矛盾が存在しないようにする圧力など存在しない 中国に三蔵法師などが仏典を持ち込んできたとき、互いに矛盾していることに気づいた 経典、とは誤りがないゆえにそこに体系が作られるものである だから矛盾のない仏典を選択し、それをとりまく仏典をサブ経典とし、体系化することで宗派が分かれる 正しい読み方などない、と主張するならば正字法の根拠も否定しなくてはならない 正字法とは字義通りの解釈を容易にするための便法に過ぎないのだから このようなことは歴史的仮名遣いにおいても定家や契沖がおこなっているし、ドイツにおいてもニーチェの同僚たちが行っている イギリスでは王政復古期、フランスでは選考するアカデミー 彼らは常に正字法、字と意の不一致が根本に存在していることを捉えたゆえに、既存の正字法を改革することを選んだ アルス・コンビナトリア 論語に天命を知るとかいうのがある これは やるべき使命を見つける と 限界としての運命を悟る という読みがある これはどちらも根拠があって 双方意味的なつながりがある なので正解がわからんからクソミソ なんでも優劣がないというのは安直 多用したのは(現象学的に)カッコつけたかったからでしょうw それよりも今日 解釈意味論と生成意味論を 英語学大系で読んだけどイミフだったわ 形容詞ひとつのかかり方の説明に 文を変形しまくるのは馬鹿げてるだろ 俺的には滅びた理論好きとして関心あるのだが 入門書ないのか? 標準的な読みを前提することは不可能 たとえメールであっても読者の受容レベルは千差万別 使用者のレベルに応じてメールが読み込まれているだけ まあ私的言語の話は Wが捨てたように 解説不可能なので どうしようもない つまり言葉遊び ノースロップ・フライの著作を読んでいて体系についてこう書かれていた コスモロジーには二通りの、理解するためのコスモロジーと変形させるためのコスモロジーが存在する 前者に含まれるのはネオプラトニズムやニュートン・デカルト、神学でありそこには対象を解読するものとして扱う このような読解には誤読は許されず正しく読むことを要求する mysteryとは正しく読むために隠されているのであり誤読を許すものではない 一方で変形させるためのコスモロジーにおいてはエゼキエル書のchariotが例に挙げられる それは象徴ではなく寓意であり、parabelとは傍らに投げられたもの、神秘主義とは異なるものなのだ 解読されることを待ちながら、誤読に開かれたコスモロジーは根底という確固たる根拠を措定しなくてはならないネオプラトニズム・神学・自然科学と実に相性が悪い 変形させるためのコスモロジーは誤読が許されない、なぜなら著者の意図が明確に存在し、体系化を指向しているからだ それは文字を誤読することを許さないのではない、意図がない言葉として受容することを許さないのだ 彼はこのような文章を第二次世界大戦の最中に書き付けていた これが後に批評の解剖に連なることになる 理解する、ことは表象への信頼が必要である 人は信頼していないものを理解することはできない そして理解ではなく変形への手段として読解を行うことを要求する体系もあるのだ 恐ろしいほどの対称性 mysteryとは隠されたものであり、しかしそれは理解される必要のないものには使われない 理解しなくてはならないけれども現時点では理解できないこと、そこにmystery、mystic、隠蔽が生じる これは暴かれることから隠すsecretとは異なり、あくまで理解という到達を目標とし、理解をあきらめないために隠蔽する だからこそ、神秘主義は科学と実に相性がいい 聖人の言葉を理解できないとき、聖人が間違っていると主張することは科学的ですらない 棚上げにすること、自分が理解できないことを括弧に入れること、それは敬意である この敬意を欠いて理解は存在し得ない 言語を使用するときには常に相手のいうことを理解する、という最低限の敬意が介在している ここに言語が規範的な、ルールに従うという特性を最初からインストールされているゆえに哲学の問題となるのだ、とクワインならいうだろう このルールに従うという特性を言語から追放しようとしたのが完全言語、バベル以前を取り戻そうとする試みだった ウンベルト・エーコ、ボルヘス、カフカ、そしてアルノ・シュミットはこのようなジョイス的試みを横目に見つつ、共感しつつ自らの道を歩もうとした 炎上する図書館、響き渡る哄笑、本を売ろうとするものに本の価値を説教して金を与え、本を大事にするように、と説教する狂人 たとえば科学論文とは理解するための世界観を提示する手段である そこでは誤読は許されていない 著者の意図を誤読して利用しようとするものは、それが科学的ではないことを忘れている 著者の意図は明確に手法に依存しており、手法を意図と切り離して引用することは科学論文という手法を裏切っていることになる 人文学の論文においては議論の論証の手法を切り離して引用することがまかり通っている しかし、意図と論証の方法(科学では実験)を切り離せない、とする昨今の科学哲学はレトリックとは論証から切り離せない、とした大陸哲学に非常に近い 科学論文においては、引用される先駆者の論文は敬意を持って利用される。同時に注意深く批判される 批判もまた、そこには引用するに足るものがある、という信頼を有するという点において、神秘主義・神学に共通する あえて、自然の解読を離れたとき、誤読や別の文脈で野放図な利用が行われる しかしそれは厳密な論文を引用したとしても厳密から程遠くなることを理解していない この歪曲を最初から織り込んだ書物を書き、その歪曲を期待された書物をきちんと歪曲して変形すること、それは異なること この論文には何ができ、何ができないかをきちんと織り込んだ論文は、おしつけがましくおせっかいだ、と思いながらも楽しめる システム学から逆システム学へ ニュートンよりデカルトの方がいいんじゃないの。 たとえばリンゴ酒と落下実験では、当たり前に酒飲みにならなきゃ。 リンゴを落とすセンスがよくわからないよ。タバコのポイ捨ても止めたし。 ノースロップ・フライは文学批評家である前に神学者であると思う 彼の根本にあるのは、宇宙は神の摂理に支配されている、とする近代的な、否、前近代的ですらある世界観でしょう そして「理解する、ことは表象への信頼が必要である、人は信頼していないものを理解することはできない」 という主張は、神を信ずる者のみが世界を理解できる、と言うに等しい つまり聖書の世界を理解するには虚心、つまりバカになりきり、心を聖書の作者と同化する必要があるということです フライはブレイクが神に向かうのと同等のレベルまで降り立つことでブレイクの世界を理解できたのでしょう ブレイクの“If the doors of perception were cleansed every thing would appear to man as it is: infinite” とはこの虚心の心の状態を述べた言葉ですし、Wikipediaの"Fearful Symmetry"の解説にある "As Frye himself acknowledges, Blake's work is not to be deciphered but interpreted and seen within its specific historical and social contexts."も同様です だが究極の理解の方法の一つとされるこの同化(一体化)は現実にはあり得ぬことです あるのは支配体制の(なんらかの)価値への無批判の盲従のみでしょう 鑑賞の際の一体化は個人の気持ちの問題なので 何も言えんわな "Fearful Symmetry"『恐ろしいほどの対称性』 支配するものが上位だろうか。オフェンスのやり合いが野放図のほうがいいよ。 筆記体と誤読の関係について 第二次世界大戦後、世界中で筆記体は教えられなくなり、日本でも指導要領から姿を消して10年以上たつ しかしそもそも筆記体とはなんで教えられていたのか、といえばまさに誤読の成立し始めた19世紀からといえる アメリカ独立宣言は筆記体で起草され、そして筆記体で印刷された 1800年ごろには読書人口が爆発し、そしてそのときに正しく読むことは同時に正しく書き方を学ぶことであった ホフマンの例を挙げるまでもなく、当時の少年少女はアルファベットを分解して半円、半楕円、止め方、繋げ方を分解して学んだ ここでは読むこと→書き写すこと→書くこと→頭にあることを書き出すことがカリキュラムとして夥しい文章読本が出版された 美しい字を書くことは、個性を表現することであり、連続した美しい字を滑らかにつなげることであった 公式文書が活字体であったにもかかわらず、いかに滑らかにつながる文字を書くかを徹底的に学ばせていた そのためには背筋を伸ばし、光は左側からあて、正しいペンの持ち方を矯正し、背筋矯正バンドなるものが大ヒットした時代だ こうして作り上げられた文具と筆跡は個人を証明するものとなる インクの濃淡、線の太い細い、は愛用のペンとインクでなければ違うものとなってしまい、欧米では筆跡による占いが誕生日占いと同レベルで存在している 身体を全体として管理する時代から、各部分に分割して細部ごとに規律・矯正が始まったのがまさにこの時代であり、書き方・読み方においても細部の権力機構が出現した時代 19世紀の近代小説を作った作家たちはみな、このような筆記体の習得という規律のもとで自分だけの筆跡を習得した人間たちであった 本来断片的なテキストをまるで連続したものであるかのように欠落を埋めるものとして、筆記体教育は自伝と同時に現れた joint-up styleとはその名の通り字を続けて書くことであり、前世紀に隆盛を極めた私的な「日記」が断絶を前提としているのに対し、自伝とは人生をシームレスに連続するものとして著す虚構である 日記には寝ている時間が書かれていない、といえば当たり前だが、自伝は「私は生まれた」と書き付けることから始まることの矛盾をはらむ この矛盾を解決するために枠物語は採用されるが、「私は書く主体となった」という瞬間を書いてしまうという断絶は拭い去ることができない 自伝とは本来断片的なmemoryをある一本の糸でつなぎ合わせたものである(ロックは内省と感覚を分けたが、内省とはmemoryに過ぎないと反駁されたのはこの時代だ) その糸は主体と名づけられ、自分が生まれる前、書く主体となる以前のことから平然と語り始める この糸をまるで自分のことのようにたどっていくのが近代的読書であり、あえて横道に入ることを許容する これは自伝と日記を発表したルソーの告白の魔力によって若者を自殺に追いやり、ルソーの性癖の告白は詐欺ではないか、とわずか10数年後には反省的フィクションが出現するにいたった すると、本来ばらばらなテキスト群であったものがあるひとつの意思によって統括されているがごとく作者の意図を読むことが意識に上り始める 自然や聖書という、確かに唯一の意図で記された(それは本当か?互いに矛盾するテキストではないのか?)書物と同じように小説においても意図を読み始める すると、アイデンティティーは旅をして形成されるものだったが、図書館でアイデンティティを探す転倒が生じる いずれ薄れ行く、旅のぶつぎれの思い出などよりも、図書館に行けばまるで自分が考えていることが連続した自己意識として表現されているのだから 自伝の恐ろしさ、教養小説の恐ろしさに気づいた作家たちが不慮の事故で切り刻まれる自伝を書いたのは偶然ではない 近代的誤読とは作者の意図(主人公の心情)に過剰適応したあげく、いまや(人間となった)作者の意図を崇拝しなくては出現しない 作者の意図に敬意を払わぬ読解は必ずしも誤読ではない、何が語られているかを読み取りもせずに、引用の引用で自己流の解釈をする自意識過剰は最初から読解とは違う何かを指向している ポール・ヴァレリーはフライと同じく、もはや自然や聖書が必然性を有していないことに直面した 自然には意図がない、ならば心情(ハート)によって読み取ることは悪ではなく、人間は心情を持たない即物には耐えられない しかし、ハートを自然や聖書に読み取ることは本来ないものを付け加えることである 彼らは、このような、(現代からすると)秩序がないかもしれないテキスト群を、統一したテキストとして受容し、引用していた時代があったことを指摘している フライに言わせればランガージュが変貌しているにもかかわらず、前世代のランガージュのコードを理解せずに読解しようとするよりは前世代のランガージュを理解せよ、ということに他ならない 近代的思惟は公理・公式Axiomを要求するがこの公式は二重の意味を有し、把捉することと産出することの意味を持つだろう 公式は現実的なものを記号体系に至らしめ、もって随意にほかの現実性を形成しようとする ゆえにヴァレリーは方法を、或る物を作ることよりも或る物がいかに作られうるかを重要とし、方法を実証する意義として作品をみなす 詩とは知性であり、思考であり、神秘ではなく、聖書の世界に混じりこんだ換喩から隠喩へ戻す試みもまた再評価されることになる それはネオプラトニスト、錬金術師から形而上詩人を分離する試みとなるだろう 同時多発的な、戦間期に活字によって筆記体のフォントが節約され、画一的なブロック体の前にスタイルが消えていかざるを得ない時代に消長する思考 日記には極限の精神状態になる不思議な魔力があるよな。ふりかえると。 Then you have done a braver thing Than all the Worthies did; And a braver thence will spring, Which is, to keep that hid. 文学理論って「それらしく見えればいい」んでしょう? 自然科学が抜けた後に残った屑集めて こしらえたキメラだからしゃーない 俺はそういう嘘くさい人工物が好き >>364 蓼食う虫も、だが、人の好みというのは、文学的にはどう分析するのかな・・・ 好みで殺人したり戦争したりする連中がいるんだから、文学の課題ではあると思うんだ。 だからソーカル論文もイケてる あれでいいじゃんいい論文じゃん 掲載してもいいじゃんて いう批評家がいないのはヘタレだな And yet, these images of the future mathematics must remain but the haziest glimmer: for, alongside these three young branches in the tree of science, there will arise new trunks and branches -- entire new theoretical frameworks -- of which we, with our present ideological blinders, cannot yet even conceive. メッチャノリノリで好き 夢が広がナントカ >>369 デスメタルバンドの歌詞を解釈すればいいの? まず君の意見を提示してみてくれよ 文系のための教養としてのプロレス入門とか メタル入門ないの? >>373 プチ鹿島の教養としてのプロレスを読めばええんでないの? メタルは、バーン周辺のシンコー関連で事足りないのかな? 文系のためのヒップホップ入門みたいなノリが欲しくて聞いてるんですかね? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる