文学理論 10 [無断転載禁止]©2ch.net
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文学理論 http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1034435329/
※入門書
テリー・イーグルトン 『文学とは何か―現代批評理論への招待』
田辺保〔ほか〕編 『文芸批評を学ぶ人のために』
ジョナサン・カラー 『文学理論』
ラマーン・セルデン 『ガイドブック現代文学理論』
ピーター・バリー 『文学理論講義』
フランク・レントリッキア、トマス・マクローリン『現代批評理論―22の基本概念』
フランク・レントリッキ、トマス・マクローリン『続:現代批評理論―+6の基本概念』
フランク・レントリッキア『ニュー・クリティシズム以後の批評理論』上下
廣野由美子 『批評理論入門』
西田谷洋 『学びのエクササイズ文学理論』 >「聖書が事実かどうかなど・・・
>>408にはそんなこと何も触れてないんじゃない
>>407・408共に、過酷な現実から目そそらし想像の世界に目を向ける彼らの傾向を指摘してるだけじゃない? かつての「柔道」とJudoの関係のようになった日本文学研究 - Togetterまとめ
https://togetter.com/li/1113506 大衆がフルコースで文学を味わう時代はもうとっくに終わったよ。
今や記それは憶の痕跡、
スーパーの片隅で昔懐かしの味を売る店の埃をかぶった一品。
しかもそのスーパーさえ廃業を余儀なくされている
大衆って何だったっけのこの時代、
文学はオタク族にとっての嗅ぎたばこ、あるいは毒キノコ。 ナラティヴとテイルの違いがよくわからないな
同じもの? 【脳】成人期の読字学習で脳が変容、研究 [無断転載禁止]©2ch.net
ttp://egg.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1496074239/ http://goo.gl/RQMz9Z
私はフランツ・カフカも海辺のカフカも好きなもので、このカフカと名乗る青年実業家の始めたビジネスに妙な縁を感じ、彼のビジネスパートナーとなりました。
結果、今ではいつでも好きな場所で生活できる経済力と、自由な時間を手に入れました。最初のインスピレーションを信じることって結構大事なんだな、と思いました。
文学好きの皆さん。
ハワイのビーチでピニャ コラーダを飲みながら、あるいは雪深い山奥の別荘で暖炉の火に照らされながら、思う存分読書に耽りたいと思いませんか?
このビジネスで結果を出せば、そんな生活が夢ではなくなります。 文学部って、詩や小説だけじゃなくて、データとか統計資料を読むっていう方向には行ってないの?
今はテクストよりも、データを読める人のほうが必要とされてると思うんだけど 先のNHKでのクソみたいな因果関係の分析は要するに人間が納得するストーリーか否かという話だろ
因果話がどのように人間に受容されるか、あるいは、風が吹けば桶屋が儲かる……的な話はなぜ胡散臭いのか 人間抜きで文学が成り立つか。
RNAやDNAは文学か。そこに(人間による)文学性をみいだせるか。
応用文学は可能なのか?
文学的対象が「書かれたもの」であるなら応用文学は可能だろうが、
文学的対象を「人間というもの、その存在」とするなら、その主体は文学(先の「文学」とは意味が違う)の向こう側にある。
後者の文学の向こう側を考えるなら、こちら側もある。第三者の側もある。4人称以上を考えるならもっとあるw
「書かれた」ということに重点を置けば、DNAもプレ文学として。。。扱えるかもしれない。
「プレ文学」こそが今世紀の文学(との各種境界分野)の主題かもしれない。などという妄想。 ビット文学と文学の違い、差異。
人工的な機械による文学と自然による文学の違い。
単なる出力・結果ではなく、「読む」ということが「文学」が「文学」である根源とするならば、
「読む」という行為は「再構築」あるいは「記録・記憶」を含む。
そこから「表出・表現」へ進めば「文学」になる。
そう考えると「プレ・プレ文学」としての「読む」ということから、「取り込む」というところまでが「プレ文学」かもしれない。
「取り込み」まではいかないけど「読む」という行為の前段階的な現象。そこからか。 うー。「が」〜「が」を排除しわすれた。「を」〜「が」だろうな。
そこは括弧でくくってから...ということは、内部表現と表出は分けるべきか。
内部表現までが「プレ文学」ということなんだろう。
イーグルトンを「プレ文学」までの段階で解体すると。。。おもしろそう。
イーグルトンには吐き気のするような本が多いし、吐き気の原因が明確になるかも 落語の口演本なんかに影響を受けつつ、明治の作家が言文一致体を完成させたっていうのは有名だけど
実際、その頃出てた口演本を見てみたら、「浮雲」なんかよりもよっぽど現代の日本語に近くて驚いた
http://i.imgur.com/ZpjSpHh.png
速記法が西洋から入ってきたのが言文一致体の誕生に一番大きかったんだろなあ >>435
>>431は、「文学」の定義がおかしいだけなんだよ。 人間抜きの文学とは、
スタニスワフ・レムの『ビット文学の歴史』からの発想だったのだ。
対象が文学作品でない場合でも、「文学として読む」という行為だけで「文学」が成立するのではないかと。
そうすると、文学作品であっても「文学ではないものとして読む」という行為が成り立つw
文学であるかどうかという判定の主導権は読み手側にある。
もはや「文学」の定義はおさまらないけど、いまのところ(わたしが)「文学」としか表現できない何かがあるのではないだろうか。
それが何と呼ばれているのか/それを何と呼ぶべきなのか。
などと超弦理論の本を読んでいる合間に「ぼんやり」と考えた。 >>437
理論を考えるときには、まず定義を決めること。
その定義だけで、大半の疑問は解消する。 機械に文学行為をさせるのが主目的であって、そのような場合の「文学とは何か」を探っているわけです。
人間の「文学」とは違っていてもいいw 明治・大正くらいには、文学研究は突き詰めれば心理学と社会学って言われてて、
そのあと、いろいろあったけど、
言語学や記号学、物語論も心理学の一分野になっちゃったから
結局、文学研究は心理学と社会学に戻っちゃったなぁ 斎藤美奈子が言うには、私小説の流れは今はタレント本が受け継いでいる
有名人・著名人の美談や実話が珍重される世の中になっている
相対的に、専業作家が書いた虚構には、価値が無くなる
社会的な知名度による書籍流通において、金銭を稼げなくなっている
イベントの摂取あるいは国民の創出と言う点で、サッカー・ワールド杯を同時に経験するのと、
売れている本なり映画なりを摂取するのは、行為の中核が似ている
共同体とは同じイベントを同時に経験した人間集団だ
その内部で流通する共通の「神話」によって繋ぎとめられている集団だ
昔は神話そのものがその役割を果たしていたが、現代ではTVから垂れ流されるタレントのバラエティ番組がその神話の役割を担っている
むしろ、一般消費者からしてみれば、どこか遠い天上で繰り広げられている神話そのものだ その「今は」って10年とか20年とか前でしょう?
私小説的な意味なら、まずブログがあって、今はSNSがあるからさ 私小説作家も、「インスタ映え」みたいな感じで、
私小説映えを考えて、わざと無頼な生き方をしたりしてたんだろね それらは日記文学を形成する
古くは紀行
現代は消費社会における購入の度合い・消費の度合い(ポトラッチ)を競う、絵だけの絵日記
まさに神話
その画像がどんなキャプション(説明文)を持っているか、読み解く為のお約束は全世界共通
なので、それらの記号を意図してか知らずか写せば、ただの写真であっても簡単に読解出来る
図像学での事物と同じ
で、画像の背後に控える文脈(キャプション)を読み解けるので、画像の再生産が起こる 今も文學界(雑誌名)とかで、作家同士の技術論的な対談とか、インタビューってやってる? ソシュールって、日本でも1928年に「一般言語学講義」の翻訳が出てるのに
作家で読んでた人、少なくとも話題にした人が全然いないのが不思議だ テレビは双方向性がない 多衆においても だから完璧なメディアじゃないよ。
一方通行だから インターラクティブなインターネットの方がいい存在だ。
テレビの人なんて策略人事で落ちていくただの人じゃないの。
テレビで信仰をつなげるかというとまだ本の方が多いし、予後を考えると危険が多い。 >>449
読んだのならわかると思うが、ソシュールの理論は、いわば文法のような言語規範が言語表現の前提としてある、というもの。
文法や言語規範に縛られつつ、文法や言語規範から抜け出そうとする作家にとっては、価値を見出すことができそうもない。
それ以前に、言語理論というものが、作家にとってなにかの指標になることがあるのだろうか? >>451
チョムスキーとごっちゃになってないか? >>454
ソシュール理論のどこを
>ソシュールの理論は、いわば文法のような言語規範が言語表現の前提としてある、というもの。
って要約してるのかがよく分からない
そもそも、言語規範はラング、小説の文章はパロールだから、
文法や言語規範から抜け出すも何も、ソシュールの言語学では最初っから別物として扱われてるような >>456
ソシュールはラングを前提にしてパロールがあるとしているよ?
そしてパロールは言語学の対象としないとも言っている。
ラングというのは、「いわば文法のような言語規範」のことだよ? どう考えても創作には屁の役にも立たないだろうなw
文学評論や唯野先生ならともかく >>457
「言語規範」っていう言葉に誤解があるような気がする。
規範っていっても、ルールという意味ではないし、それに従う必要もない、というのはOK? >>459
ソシュールの言語規範とは、それなくしては表現が成り立たないもの。
ルールのことでもあるし、従わなければならないもの。
ルールとか従うというのを、人為的なものとしてみるのではなく、いわばアプリオリに前提するのがソシュール。 >>460
お互いに同じことを違う言い方で言ってるだけのような、すれ違ってるような……
辞典の引用を貼っておくから、これで問題ないなら終わりにしよう
【ラング】
ソシュールの用語。彼は複雑で混質的なランガージュ (言語活動) を,ラングとパロールに識別し,
ラングを本質的,等質的,社会的な言語体系として規定した。
たとえば日本人が日本語を用いて意志の伝達が可能なのは,成員すべてに等質で共通な日本語の規則が了解されているからであるとする見方である。
ソシュールのラングとパロールの区別の説明には,曖昧な点,修正を要する点はあるが,
言語現象において,繰返し現れるものと,一回的なものとの区別を指摘しようとした功績は大きい。
【パロール】
ソシュールの用語。彼は複雑で混質的なランガージュ (言語活動) を,本質的,社会的,等質的,体系的なラングと,
副次的,個人的,非等質的,遂行的なパロールに分けた。
これは言語研究上,非常に大きな意味をもつが,必ずしも明確に説かれていない部分もあり,数々の論争を引起した。
パロールについていえば,
(1) 「個人的」という概念が,個人の発話とか,ラングの個人的使用といった,
そのなかに社会習慣的特徴を含んだ意味での「個人的」なのか,社会に対立するばらばらな意味の「個人的」なのか,
(2) これと関連して,単語はラングに属するが,文はどちらに属すると考えているのか,
(3) 「遂行的」という言葉はほぼ発話にあたる面をさしているようであるが,了解活動は含まれないのか,などの問題がある。
出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 >>461
君と僕では、あきらかにラング(言語規範)の捉え方が違う。
辞書の説明なら僕の指摘どおりだが、君の考えとはずれている。
ソシュールを語るなら、ソシュールを読んでからにして欲しい。
その上で、ラングとはなにかについて議論しよう。 >>458
アマチュア作家の中には、未だに文章の役割が「伝達」だと思ってる人がいるから、
そういう人がソシュールを読めば目からウロコかもしれない。 >>465
ってことは、作者が小説を書く目的は、言いたいことを読者に伝えるためってこと? あれ作者は書きたいことを書いていないの?
遠回しなだけで具体性がないから
どうしようもないな
例えば主人公がいて、そのイメージを
思い浮かべながら描写する。それは
文章で視覚的な情報を伝達するためだよ。
伝達じゃなくて何なのだ
なお俺は「伝達のみ」とは述べていない。 >>467
「伝達のみ」ではないなら、あとはなに? デリダの差異とエクリチュール読んだが、みごとにしっぱいした。 南が丘文庫
http://www.minamigaoka.info/BOOKS/
Official Homepage
横浜市立南が丘中学校の母体である、平成研究会、通称、経世会とは、自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤栄作派)・木曜クラブ(田中角栄派)の流れを汲む、鉄の軍団と呼ばれた保守本流集団である。
横浜市立南が丘中学校OB会 >>468
文学以外のものではないものである
小中学生みたいな循環論法だが、こういう考えから形式主義的な評論が書けないか試行錯誤中 ほんとに今更ながらソンタグ「反解釈」読了。面白い。
もう少し形式主義を突き詰めてくれるともっと楽しめたとも思うがそれでも感想は変わらない。
映画と演劇の違い、非視覚的体験(サイレントよりあとのものは音声を含むから)。この辺りから発想したい。 >>474
確かにそれは文学じゃないなw
自分の定義で語るなら、まず定義を確立してもらいたいものだ。 物語の要素って、「各要素が互いに影響を及ぼしあっている」っていうふうに、
システム的に捉えたほうがいいと思うんだけど、
ネットなんか見てると、未だに、各要素が単体で取り替え可能な部品であるかのように
記号論的に捉えてる人多いなぁ。
プロップ的な、記号論的な物語解釈って、機械時代の発想だなって思った。 >>476
「各要素が互いに影響を及ぼしあっている」か、「各要素が単体で取り替え可能な部品である」かは、作者しだい、物語しだいじゃないの? >>477
物語構造が極めてシンプルな場合は、取り替え可能な場合もあるかもしれないけど、
現実的には、物語のなかの何かの要素を取り換えれば、
取り替えた部分と直接的には無関係に見えるところにまで影響を与えちゃうだろうねえ
むしろ、変えてもほかに何も影響を与えないようなものは、最初からなくてもいいとも言える 変えても他に影響がない部分こそ物語の醍醐味だろ細部に神は宿るとか知らないのか 何も宿ってないから変えても問題ないんだろ、たぶん削除しても何も影響ないぞ >>480
何も宿ってないと思うのは読者だろ編集前の原稿の方がいいとかあるだろ旧仮名とかさ >>478
シンプルでも複雑でも、作者しだいだろ。
『吾輩は猫である』という小説は、誰がどこで登場しても消えても、物語には然したる影響はない。
誰ということではなく、連載小説などは、作者自身が部分的な物語を忘れていることさえあるw それは、あんまり良い作品じゃないってことなのでは……。
俳句だって、「季が動く」って言って、季語を変えても成り立つような句は駄句ってことになってるし。 プロップの分析は順序があるからね
単に入れ替え可能とは違う
物語論に単純な拡張は無理だが
この手の洗練された議論は統語論にある >>483
それは記述のスケールによって自ずと
美的判断が変わってくるということではないのかな
聖書とオリエント急行殺人事件は
構造も読み進め方も違う 『吾輩は猫である』を例にあげたのがよくなかったのかな。
僕は名作だと思うけど、ただのユーモア小説だと思う人もいるんだろうから。
誰でもが名作と認める『源氏物語』なら、わかりやすいんじゃないだろうか。
どこを変えても削っても、物語全体には、なんの影響もない。
書き始めるときになんとなく全体の構成はあったんだろうが、狭い世界の読者の要請によって書かれた部分もあるだろう。
実際に読んでみると、「各要素が互いに影響を及ぼしあって」いたりはしていない部分は多い。
たしかに、推理小説のような作品では、「各要素が互いに影響」してないといけないし、「各要素が単体で取り替え可能」であっては、駄作といわれるだろうが。 構造が物語を要求する、ということもあるのじゃないかしら
つまりさ、長いもの(ノヴェル)を書こうとすればするほど、型にはまっていく、型の方から要請してくる
ということはあるんじゃないかな 短いほど言語的な形式感が増すことが多いけど
構造というのが何を指すのか
分量があれば沢山の内容を統一しようと
する意図が部分を超えて出てくるから
多層的にはなるとは言える
だけどこれは当たり前の話で プルーストの「失われた時を求めて」なんかは、物語論的にはどうするのかな?
埴谷雄高の「死霊」とかはどうなんだろう? まずは登場人物と
人称/視点と
時間のスパンと
独白/回顧量を
調べてってなるんだろう
あとは動作動詞の分布とかかな 構造というのは小説の外観とか形式、あるいは骨子の配分率みたいな意味
自分が言いたかったのは良い小説の形式は大まかに1種類しかないのではないか、ということです
だからプロップの言ったのは解釈ではなくあくまで解説で、そこからの逸脱は物語である限り不可能なのではないか?と思った
だから古いも新しいもないだろうと
定型 具体的な例をあげて
配分ってなんの配分
で良い小説の一種類が分かった後に
それに当てはまらないと小説は
良いとは評価できなくなるのかな
ガバガバに思えてしまって >>496
千夜一夜物語、うつほ物語、チャンドラーの作品群、アーヴィングの作品群
だから骨子です
理屈が緩いってこと?
そりゃそうです、バックボーンなしの個人的な感想ですから なんだ思いつきか
それなりの根拠があると思ったわ
ごめんな 根拠はないけど思いつきとは違うのではないか
橋本陽介やフォースターの『小説とは何か』は読みました
これで満足か 理論的に説明出来て実践出来るなら誰でも小説家になれるわな書けたとしても面白いとか別問題だしさ 読者を得るのは大変だよ
面白そうなテーマを
面白く書けないといけない
構造じゃなくて人の気持ちを
掴む文章書けないと
話術と一緒 批評は読んでるけど肝心の小説読んでない奴が昔から多いそうな ちょいと図書館によったら俺を読めとばかりに目についた本があったので借りてきた。
「東大で文学を学ぶ ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ」辻原登
当たりだった。
「小説は散文である」。あたりまえすぎて気づかなかったw
もちろん散文から逸脱してもよい。なにをもってして文学なのか。
読みながら考えるとしよう。ボジョレーヌーボーを飲みながら。
ヌーボーでなければいけないんだろうなぁ。 最近偶然読んで没入しちゃったのは
http://p.booklog.jp/book/89414/read
これだな
オウムの教義を「結果的に」
準備したと言われる80年代に死んだ人についての回想
技術や教養があれば悟浄出世みたいになるわけだが
そうでなくても面白いものは面白いわけだ よくよく読めば、プロットに対する解釈・認識が食い違ってたのかも知れんね 文三理Vにも呼ばれたけど、東大の組織構造は受験者には難しいね。 読むという行為は「参加」なのだろうか。
その物語世界への参加であれば、構造とは世界のことだろう。
イマ風にいえばセカイ。
それがノンフィクションであっても語られるセカイがあり、虚構のセカイである。
東大で文学を、といっしょに借りてきたのが
「物語論 基礎と応用」橋本陽介
買っていたような気もするが読んでいる途中でどこかに埋もれてしまったのだろうw
借りてきたあとに気づいた。
このようなリアルな出来事であっても、そこに物語をみいだして虚構セカイへ突入してしまう。
単に酔っているだけか。 >>508
その手の本がお好きなら、大塚英志もお勧めですよ
読みやすくて 大塚かぁ。大塚による物語論の「使い方」にはいまひとつなじめない。
わたし自身がそのようなたぐいの小説にキャラクタのモデルとして出演しており、
大塚がやるように、コマであるわたしが動かされるのはイヤだw 読むという行為は祖先の足跡を頼ることなのだろう。
虚構にはたどり着けないが、虚構を媒介するものがあれば
本の球にでも、読むことも面白くなるかもしれないねえ。 絵画は100年前に抽象を通過したのに文学はなぜそうでないのか
物語のない小説は可能か
話のない小説論争を読んで考え中 負荷が違うからな
抽象画でも
同じ作品を毎日1時間見続けてください
なんて不可能
また絵と違い作品そのものはインテリアにはならない 受容者の負荷かなるほど
掌編短編なら可能性があるか
インテリア説についてはまた考える 読むことが参加になるのかとか、物語のない小説がどうとか、全部言葉の定義の問題に過ぎないな。
文学理論が理論として自立できないのは、定義が人それぞれだから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています