文学理論 10 [無断転載禁止]©2ch.net
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※入門書
テリー・イーグルトン 『文学とは何か―現代批評理論への招待』
田辺保〔ほか〕編 『文芸批評を学ぶ人のために』
ジョナサン・カラー 『文学理論』
ラマーン・セルデン 『ガイドブック現代文学理論』
ピーター・バリー 『文学理論講義』
フランク・レントリッキア、トマス・マクローリン『現代批評理論―22の基本概念』
フランク・レントリッキ、トマス・マクローリン『続:現代批評理論―+6の基本概念』
フランク・レントリッキア『ニュー・クリティシズム以後の批評理論』上下
廣野由美子 『批評理論入門』
西田谷洋 『学びのエクササイズ文学理論』 >>480
何も宿ってないと思うのは読者だろ編集前の原稿の方がいいとかあるだろ旧仮名とかさ >>478
シンプルでも複雑でも、作者しだいだろ。
『吾輩は猫である』という小説は、誰がどこで登場しても消えても、物語には然したる影響はない。
誰ということではなく、連載小説などは、作者自身が部分的な物語を忘れていることさえあるw それは、あんまり良い作品じゃないってことなのでは……。
俳句だって、「季が動く」って言って、季語を変えても成り立つような句は駄句ってことになってるし。 プロップの分析は順序があるからね
単に入れ替え可能とは違う
物語論に単純な拡張は無理だが
この手の洗練された議論は統語論にある >>483
それは記述のスケールによって自ずと
美的判断が変わってくるということではないのかな
聖書とオリエント急行殺人事件は
構造も読み進め方も違う 『吾輩は猫である』を例にあげたのがよくなかったのかな。
僕は名作だと思うけど、ただのユーモア小説だと思う人もいるんだろうから。
誰でもが名作と認める『源氏物語』なら、わかりやすいんじゃないだろうか。
どこを変えても削っても、物語全体には、なんの影響もない。
書き始めるときになんとなく全体の構成はあったんだろうが、狭い世界の読者の要請によって書かれた部分もあるだろう。
実際に読んでみると、「各要素が互いに影響を及ぼしあって」いたりはしていない部分は多い。
たしかに、推理小説のような作品では、「各要素が互いに影響」してないといけないし、「各要素が単体で取り替え可能」であっては、駄作といわれるだろうが。 構造が物語を要求する、ということもあるのじゃないかしら
つまりさ、長いもの(ノヴェル)を書こうとすればするほど、型にはまっていく、型の方から要請してくる
ということはあるんじゃないかな 短いほど言語的な形式感が増すことが多いけど
構造というのが何を指すのか
分量があれば沢山の内容を統一しようと
する意図が部分を超えて出てくるから
多層的にはなるとは言える
だけどこれは当たり前の話で プルーストの「失われた時を求めて」なんかは、物語論的にはどうするのかな?
埴谷雄高の「死霊」とかはどうなんだろう? まずは登場人物と
人称/視点と
時間のスパンと
独白/回顧量を
調べてってなるんだろう
あとは動作動詞の分布とかかな 構造というのは小説の外観とか形式、あるいは骨子の配分率みたいな意味
自分が言いたかったのは良い小説の形式は大まかに1種類しかないのではないか、ということです
だからプロップの言ったのは解釈ではなくあくまで解説で、そこからの逸脱は物語である限り不可能なのではないか?と思った
だから古いも新しいもないだろうと
定型 具体的な例をあげて
配分ってなんの配分
で良い小説の一種類が分かった後に
それに当てはまらないと小説は
良いとは評価できなくなるのかな
ガバガバに思えてしまって >>496
千夜一夜物語、うつほ物語、チャンドラーの作品群、アーヴィングの作品群
だから骨子です
理屈が緩いってこと?
そりゃそうです、バックボーンなしの個人的な感想ですから なんだ思いつきか
それなりの根拠があると思ったわ
ごめんな 根拠はないけど思いつきとは違うのではないか
橋本陽介やフォースターの『小説とは何か』は読みました
これで満足か 理論的に説明出来て実践出来るなら誰でも小説家になれるわな書けたとしても面白いとか別問題だしさ 読者を得るのは大変だよ
面白そうなテーマを
面白く書けないといけない
構造じゃなくて人の気持ちを
掴む文章書けないと
話術と一緒 批評は読んでるけど肝心の小説読んでない奴が昔から多いそうな ちょいと図書館によったら俺を読めとばかりに目についた本があったので借りてきた。
「東大で文学を学ぶ ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ」辻原登
当たりだった。
「小説は散文である」。あたりまえすぎて気づかなかったw
もちろん散文から逸脱してもよい。なにをもってして文学なのか。
読みながら考えるとしよう。ボジョレーヌーボーを飲みながら。
ヌーボーでなければいけないんだろうなぁ。 最近偶然読んで没入しちゃったのは
http://p.booklog.jp/book/89414/read
これだな
オウムの教義を「結果的に」
準備したと言われる80年代に死んだ人についての回想
技術や教養があれば悟浄出世みたいになるわけだが
そうでなくても面白いものは面白いわけだ よくよく読めば、プロットに対する解釈・認識が食い違ってたのかも知れんね 文三理Vにも呼ばれたけど、東大の組織構造は受験者には難しいね。 読むという行為は「参加」なのだろうか。
その物語世界への参加であれば、構造とは世界のことだろう。
イマ風にいえばセカイ。
それがノンフィクションであっても語られるセカイがあり、虚構のセカイである。
東大で文学を、といっしょに借りてきたのが
「物語論 基礎と応用」橋本陽介
買っていたような気もするが読んでいる途中でどこかに埋もれてしまったのだろうw
借りてきたあとに気づいた。
このようなリアルな出来事であっても、そこに物語をみいだして虚構セカイへ突入してしまう。
単に酔っているだけか。 >>508
その手の本がお好きなら、大塚英志もお勧めですよ
読みやすくて 大塚かぁ。大塚による物語論の「使い方」にはいまひとつなじめない。
わたし自身がそのようなたぐいの小説にキャラクタのモデルとして出演しており、
大塚がやるように、コマであるわたしが動かされるのはイヤだw 読むという行為は祖先の足跡を頼ることなのだろう。
虚構にはたどり着けないが、虚構を媒介するものがあれば
本の球にでも、読むことも面白くなるかもしれないねえ。 絵画は100年前に抽象を通過したのに文学はなぜそうでないのか
物語のない小説は可能か
話のない小説論争を読んで考え中 負荷が違うからな
抽象画でも
同じ作品を毎日1時間見続けてください
なんて不可能
また絵と違い作品そのものはインテリアにはならない 受容者の負荷かなるほど
掌編短編なら可能性があるか
インテリア説についてはまた考える 読むことが参加になるのかとか、物語のない小説がどうとか、全部言葉の定義の問題に過ぎないな。
文学理論が理論として自立できないのは、定義が人それぞれだから。 >>517
それもは無意味な空論。
意味があるかないかは、その内容しだいだから。 文学板にありがちな流れだね
>>517みたいなのが出てくるのって 自立すると内容が無くなるという論旨
なのだが、これがバカには分からないw >>520
他律的な精神分析帝国主義に対して
自律したフォーマリズムには内容がないっつーか内容の否定が自律したフォーマリズムっつーこと? それは違うかもしれんが、精神分析帝国主義的な外部勢力というか超越的な理論と、内在的な文学理論との勢力争いのパラドックスかと、>>520の短いコメントから曲解してみたw いろいろ目配せしつつ体系的に読むしかない
これに尽きる 文学理論が文学に先行するということはない。
であれば文学理論は常に文学の後追いであって、自律であっても自立と呼ぶには微妙だ。
どちらかというと文学理論は文学のストーカーであるw
しかし、文学理論も文学のひとつなのだとすれば、文学集団の中で最先端に立つことはできる。
それは自立であろう。文学理論が他の文学を振り切ってトップを独走するとしたら...
そんな文学理論はイヤだ。 マルクス主義的文学理論にそぐわない文学は粛清されてしまうだろうか。 >>527
文学の定義が問題になる。
詩、小説、伝承、語り、歴史、社会科学、劇、映画、落語、漫才、踊り、音楽、等々。
どれが文学でどれが文学じゃないのだろう? 蔓延る帝国主義的な精神分析てのは確かにその通りだし、いい表現だと思うけど、その逆の文学に立脚した廣野由美子風の分析理論もまたダメだろ 精神分析帝国主義という語はドゥルーズ=ガタリの著作から バズワードみたいなやつね
そういうのに浸れる人はおめでたい バカだなぁ
文学理論を使って今一番求められてるバズワードを産み出すんだよ
おめでたいのはどちらなんだか ネット見てると、なぜか、小説の醍醐味は細部にあるみたいなことを
言ってる人を良く見るんだけど、あれは何の影響なんだろう
細部の良さっていうのは、小説以前の、文章の良さであって、
まぁ小説の良さの一部ではあるけど、小説特有の良さではないよな
むしろ、小説の醍醐味は、文章を10万字なら10万字積み重ねていかないと
生まれないものにあると思うんだけど >>269
西欧だって主意主義、ロマン主義、象徴主義はあるだろ >>541
ひとつは逆張りの金言
野球の本質は「守備」とか
長いからこそ「実は」部分が大事と
言い出すことができる 細部を読まずに読んだ気になっている人が多いからね
たぶん細部を誤解している、というか理解できていないようだけど
読み飛ばしでなく、丁寧な読解をしなくては分からない作家と言うのはいるんだよ 細部が不要ならあらすじだけか解説だけ読めばいいそういう書評家いそうだなまだ細部を誤解して読んだ方がマシ >>545-546
「神は細部に宿る」という細部の意味が違うんじゃないかな?
普通は作品の細かいところにも、作者の感性が表れるという意味で使うだろ。
だから、ことさら読むとか理解するとかいうことじゃなくて、読者は自然に引き込まれていくということになる。
作る側からすれば、小さな部分にも自分の感性が表れるということを自覚して作らないといけない、ということになる。 細部と全体をどうやって切り分けるんだ
ホーリズムじゃないのか どこを細部と認定するかはそいつの直感と感性で決まる
逆に言えばどこを細部と言っているかでそいつの感性が分かる >>545
そんな誰でもできるようなことを特殊技術みたいに言わんでもw
まるで自分にしかできないと思ってるみたいな言い方だ >>550
文脈理解しようね
小説の醍醐味が細部だ、なんて夏目漱石の頃から言われていることを「最近ネットで読んだんだけど」という疑問
逆張りなんじゃない?とこれまたうすっぺらい回答
きちんと細部を読むことは誰にでもできる、というのはそれこそ「細部」を狭くしている
それなりに労力使わないと楽しめない小説がある、という話と「誰でもできること」というのは別の話だよね
細部にこらした作者の趣向が発見されるような能動的な読書と誰にでもできる受動的な読書は違うよ、というお話
「読んだ」と称して薄っぺらい書き込みする人が多いけれど、きみはそうは思わないってことなら「あっそう」で終わる話 フランコ・モレッティの作品の邦訳が一冊も出ていない現状は何なんだ?
なんちってw 丁寧な読解しないと分からない作家の名前を
挙げないと意味ないな 最近では、モダニズム以降、ポスト構造主義に至るまでのイコノクラスム的な考え方に対する批判が世界的に増えてきてるわな。世界的読書離れの張本人だから。
イコノクラスムの代表がクリステヴァのテキスト論、ラカンのミラーイメージなどとされてる?
クリステヴァはフェミニズムに逃げ込めるから、おおっぴらに批判する人はないけど、
とっくに死に体だろ。フランスの曽野綾子、瀬戸内寂聴だよ。 というか西欧のスノッブな左翼がクソだからな
ベルナール=アンリ・レヴィとか
頭良く見られたいだけの難解さで
自己保身なんてそれ以下 >>551
だってここ、文学板で、しかも文学理論のスレだし
精読もできない奴なんか来ないよ >>556
お前の中でずいぶんこのスレの住人は評価高いんだね
知ったかぶりや無知なやつだらけだと思うけれど
繰り返すけど
「読んだ」と称して薄っぺらい書き込みする人が多いけれど、きみはそうは思わないってことなら「あっそう」で終わる話
ネットで最近「小説の醍醐味は細部」って知った馬鹿とかも「精読」できるのかね
なんかきみの「精読」のハードルは低そうだね 精読ってゆうか、俺はナラトロジーについて書かれた50枚ぐらいの一つの論文を2,300回読んだなw
まだ、これからも読むだろうな。
読むたびに新しく気づくことがある。 >>558
なんだ、ただふざけているだけか
頭悪そうだね 金井美恵子が柄谷との対談で「柄谷さんの読みは面白くない」と、言ったのは全く正しい。
柄谷はこれに対して、「正確に読んでるつもりなんだけどね。」と、返してるんだが、正確に読んでることすら、全くうたがわしい。
この柄谷の面白くない読み方と、蓮実の面白くない映画の見方が相まって、評論も小説も映画も廃れた。 自分語りの内容もうすっぺらい
頭悪いという自覚はあると思うけれど、頭のよさそうな批評好きなだけでしょう
コンプレックスすごいね 読むことの研究というのはあまり多くないのかな。
同じ言葉を読んでも(聞いても)、書いた人が書こうとした内容をそのまま受け取ることができないのは自明のことだ。
言葉というのはそういうものだとしか言いようがないが、だからこそ、架空の物語や想像上の愛や恋や恐怖を、読む側は自分の体験であるかのように受け止めることができる。
面白くても面白くなくても、やっぱり読み方というのは、個人的な関わり方に過ぎないだろう。 小説や映画が廃れたというのは意味不明だな
評論家にそんな影響力はない まぁ、どんな分野でも「自分だけが、本当に○○を理解している」っていう
ファンの思い込みが、マイナーなものを支えてるから、
自分だけが本当に精読ができると思ってる人がいてもいいんじゃないかな >>565
それ柄谷の正確に読んでるつもりと大して変わらないしそんな奴らに読まれる作家は大変だな 文学理論というのは、書くことと読むことの双方に関りがある。
フーコーが80年代に「我々の時代はスペースの時代だ」と、言ったとき、我々というのは無論、読者と書き手の両方を指していた。
だが、ナラトロジーでは古代からのスペースやプレイス、ランスケイプ、ボディ、フォーム、ムーブメントの意味が現代までに如何にダイナミックに、時に劇的に変容してきたか。
それを、主に読者の立場から考察する。
その中でナラティヴの条件とは何なのかを考える。 文学はクイズじゃないから、作者の意図や仕掛けに気づいても商品は出ないし、
明確に書かれてないことまで読み取れたと感じたなら、それは自分が勝手に想像しただけだ >>565
それはマイナーではなく、むしろメジャーを支えているんじゃないかな。
漱石、太宰、大江、春樹、等々。 >>566
「そんな奴らに読まれ」てこそ、一人前の作家だと思うよ。 結局偉い人が馬鹿にされている評論が好きなだけなんだよな
柄谷がどういう読解をして、どう可能性があるのかを読まずに「作者に気に入らない批評をされた」ということだけで柄谷をやり込めた気になっている
引用するときは必ずネガティブなことだけ
結論は非論理的に「正しく読めてなどいない」「○○だから小説や映画が廃れた」とつなげてしまう
そういうんじゃなくて好きな批評家がどういう点でよいのかをきちんと語れない
理論ってのは「他人の理論の攻撃」と「自分の理論の構築」がなくてはならない
なぜか「攻撃」の口真似だけして「理論」の肯定をしない
フランコ・モレッティも言うように「理論」ってのはヴァルネラブルで貧しいもので、その貧しさに耐えて居直るしかない
「攻撃」なんて誰でもできる
それは「精読」なんてことではないし、かわいそうだけれども、頭が悪い >>571
君は理解という言葉をどういう意味だと思ってるの? >>572
そうだねえ「廃れた」っていうくだりは間抜けだな
もし人と違う精読ならば具体的に読んだ内容を示して是非を問えばいいだけ。
それができないのに読めてる読めてるっていってもしょうがない。 中村真一郎の文章読本はおすすめだな
例えば志賀が異なった語り口でもいいところを
均質な文で突き通していることとか多くの実例を
もって理解できる
精読というと個々の語句の意味をしっかり
理解して読み飛ばさないことに力点があるが
こっちの方向も充実した鑑賞には重要 >>575
小説を精読したり鑑賞したりして、なんの意味があるんだろうね?
科学論文じゃないんだからw 鑑賞しないってどういうことかよくわからないな
科学論文を鑑賞するという意味もわからない
芸術作品を味わうことを一般に鑑賞と呼ぶはずだが
ケチをつけたいのか変わった事を言いたいだけなのか >>577
精読はどこへ行っちゃったんだよw
>芸術作品を味わうことを一般に鑑賞と呼ぶはず
呼ばないだろ?
鑑賞なんてのは、専門家を自称するために思い付きを並べることだよw なんだ適当に好き勝手なこと言ってるだけか
こういう人が精読うんぬんは笑えるな
専門家を自称もイミフ
そんな人どこにいるのかな 柄谷の読みを粉砕するなど、熟したトマトを地面に叩きつけるのに等しいぐらい簡単だ。
俺にとっては。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています