結局偉い人が馬鹿にされている評論が好きなだけなんだよな
柄谷がどういう読解をして、どう可能性があるのかを読まずに「作者に気に入らない批評をされた」ということだけで柄谷をやり込めた気になっている
引用するときは必ずネガティブなことだけ
結論は非論理的に「正しく読めてなどいない」「○○だから小説や映画が廃れた」とつなげてしまう

そういうんじゃなくて好きな批評家がどういう点でよいのかをきちんと語れない
理論ってのは「他人の理論の攻撃」と「自分の理論の構築」がなくてはならない
なぜか「攻撃」の口真似だけして「理論」の肯定をしない
フランコ・モレッティも言うように「理論」ってのはヴァルネラブルで貧しいもので、その貧しさに耐えて居直るしかない
「攻撃」なんて誰でもできる
それは「精読」なんてことではないし、かわいそうだけれども、頭が悪い