文学理論 10 [無断転載禁止]©2ch.net
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※入門書
テリー・イーグルトン 『文学とは何か―現代批評理論への招待』
田辺保〔ほか〕編 『文芸批評を学ぶ人のために』
ジョナサン・カラー 『文学理論』
ラマーン・セルデン 『ガイドブック現代文学理論』
ピーター・バリー 『文学理論講義』
フランク・レントリッキア、トマス・マクローリン『現代批評理論―22の基本概念』
フランク・レントリッキ、トマス・マクローリン『続:現代批評理論―+6の基本概念』
フランク・レントリッキア『ニュー・クリティシズム以後の批評理論』上下
廣野由美子 『批評理論入門』
西田谷洋 『学びのエクササイズ文学理論』 >>586
詩歌というのは、基本的には個人の感情の吐露。
文明の発展とともに個々人の多様性が拡大していくから、特定のジャンルに共感する層は分散する。
詩歌気質というくくりにするなら、当然ポップスなどのマス・ミュージックも対象となる。
全体として少なくなってはいないが、ジャンルは多様化している。 >>589
なにがどう違うと思うの?
一応理論スレなんだからさw >>586
>本来は、詩歌気質なのに、詩が好きだって気づいてない人がけっこう多いんだと思う
たとえば梶井基次郎や川端康成の短篇小説には詩歌のようなところがある
その一方で一部現代詩には批評的な傾向がある >>591
その詩歌というのは、自然詠ということかな?
自然の風景を描写すると詩的といわれることがあるけど、そういうときの詩とはなんなんだろう? 散文に詩的な面があるのは当然だろ詩の読者が少ないから小説がその代わりみたいな側面が出て来るどう読んでもいいだからさ それはおもむきがある
っていうような形容じゃないかな
もちろん詩のイメージでその内容も変わるが
落ち着いた情緒の見事さを指すことが多い
韻文性に対して用いられるよりも
something that is very beautiful or graceful
に近いと思う >>594
神といひ 仏といふも世の中の 人の心のほかのものかは
時により すぐれば民のなげきなり 八大龍王雨やめたまへ
実朝の和歌だけど、落ち着いた情緒とは真逆だ。
和歌には、こういった理念や情熱を内容にしたものが意外と多い。 まあ社会批判の漢詩とか怨念の篭った
和歌は普通にあるからな
でもそれは「詩的」の語感の典型ではないわな
どちらかというとそういった感情を
形式にまとめてある佇まいや比喩、表現の仕方が
詩的と呼びうるのであって >>596
実際にある詩歌から「詩的」概念を導くんじゃなくて、「詩的」概念を設定してから詩歌を当てはめるのか。
うーん、どうなんだろうねえ・・・ いや現実の詩と
詩的という現実世界の用法は概念的に密では
ないというだけのことで難しい話じゃない
例えば「詩的な絵」という場合
静謐な情景
抽象的な構成
シュールなもの
などが言えるがこれは
文学の詩の実態を映しとったものではなく
歴史的にそう使用されてきたというだけ
別に君自身の文学論にケチをつけているわけではないよ >>598
詩的概念が、少し俗っぽくなってきたね。
悪いという意味ではなくて、それはなぜなんだろうという意味なんだ。 小説は本来雑で俗じゃないのか上で言ってたけど定義も方向性も滅茶滅茶らしいじゃん >>600
俗っぽいというのは、言葉の定義がないという意味。
言葉を雰囲気で使うことが俗っぽいこと。
詩的だとか、心があるだとか、思いが強いとか、お互いに曖昧なまま使うから、まったく逆の意味でも平気だったりする。
関係ないけど、現代では、句読点も表現としての大きな意味を持つようになってきているから、できれば句読点を付けて書いて欲しい。 現実の使用を俗というなら俗なんだろう
自然の風景を詩的という際の用法は
美しくて穏やかな情感が漂うとかいう
語感だからね
これは「詩的な風景」とか
poetic landscapeで画像検索してみればいい
>>592はもっと深遠な哲学が欲しいのかな >>602
僕は理論が欲しいんだよ。
だから、理論スレに来ている。
絵画で詩的という場合、その意味ではイギリスの写実系なんだろうね。
フランスだと写実系でも、その意味での詩的というには、情感が強すぎるだろうな。 >>601
全く逆の意味というのは仕組みがある
詩的という場合
専ら視覚的な場合と
構成力を指す場合とがある
例えば街の活気や騒音を模倣した音楽を
詩的と呼ぶこともできるし
テーマ性を廃した構築的で切り立った
様式、ウェーベルンとかな
それを詩的と呼ぶこともできるだろう
これは対照的な様式といっていいがどちらも詩的と言える
し意味の仕組みがないわけではない
俗には前者だがしかし整理すればよくわかる話であって
別にぐちゃぐちゃに使用されているわけではない 自然美を前提とする場合は
ひとつには渾一感というものがある
優秀な自然の詩は
五感に訴えるような強い一体感を志向
する場合が多いだろう
鹿柴とかな
もうひとつ
客観的な事物描写を根底に置くからこそ
かえって喚起力が強いこともある
五月雨を集めてー
とかバシュラールみたいなセンスな >>606
要するに、自然の風物をその場にあるように提示するのが詩、という考え方なんだね。
定義としてはわかりやすいけど、現実の詩歌とはずいぶん隔たっちゃうんじゃないの?
詩歌には、恋も多いから。
元々詩歌というのは、宗教的な訴えと、他者に対する愛着の感情の発露がその底にあると思うんだけどな。 >>605
それは詩がなんであるかということだろうけど
俺の定義というのは、詩を独自に定義しろってこと?
それは結局散文との対比になるけど
まあ言葉選び自体が目的の文芸だな
言語操作を鑑賞可能にするというか
俺は大まかにはそう思っているし普通 >>607
ちょっとすれ違っているな
俺は自然を詠むことについて詩的って
なんだという話を美学的に整理しているんであって
詩芸術全般の話をしているのではないよ
不慣れな人だな 俺はそこが全然違うな
言葉の響きや意味ニュアンスリズムの連なりやら組み合わせ自体に気持ちよさを見出すタイプがいてその意味で586に同意した 君の個人の感情の吐露論には特に異論はないよ
いいじゃない >>608
詩という言葉の定義が明確でなければ、定義も方向性もバラバラという状態から一歩も進めない。
それぞれが、自分の詩的と感じる表現はこれだ、といっているだけになる。
君は、自然とは関係なく、言葉を選ぶこと自体を目的とする文芸がが詩だと定義してるようだけど、それだと、詩的な絵画とかいう概念が成り立たないんじゃない?
>>609
>自然を詠むことについて詩的ってなんだという話を美学的に整理
申し訳ないが、日本語として意味がとりにくい。
美学的な整理の前に日本語の整理をしてもらえないだろうか?
たしかに、君のような文章に僕は不慣れだ。 >>610
組み合わせ自体に
ってつまりは言葉選び自体に感興がわく
ということだからいいじゃん
もし造語一語でグッときたらそれだけで詩になるわけだ >>613
ドゥルーズ、デリダは最高の詩人?
どうかなあ・・・ 詩の定義は、美的な部分があれば詩じゃねえの。大雑把な定義で申し訳ないけどさ。散文でも、平板な展開でグダグダだとキツイな。 >>612
俺が散文との対比で詩を大まかに定義づける
ことと、美しいことを詩的と人が呼ぶ言語事実
とが一致しなくてもいいじゃん
「的」は似た性質を共有するということ
「詩的」と言う人の心のなかで詩が美しいものならば、
美しいものの形容として「詩的」を使うのはあり得る話
ただそれだけ
読めてないな 逆だな
たかが文字の集まりで細部があると錯覚させるのが文芸だ
そのテクニックが文芸論だ
細部に拘りたい人間がいるんじゃない >>614
それは読み手の意識の話
社会的には詩のジャンルに属していないとは言えるがな >>616
俺はああだが普通はこう、かな?
それだけなら、>>585に戻っちゃっただけだな。
文学理論なんて、もともと定義も方向もめちゃくちゃ。
ほとんどの文学理論は、ただの分類か感想。 >>618
彼らの論文をポエムだという人は一定数いるよ。
そういう人は、もちろん、バカにして言ってるわけだが。 論文も文芸の一種で現状の文学理論はポエムかどうか判定できないんだから
これはポエムですね と言われても返しようがないだろ >>620
その場合、バカにしている背後には学問と詩を対立させる図式があり、
その文脈では、詩は主に「非合理性」を担わされる。
つまりさ、君は理論理論というが、君に以下のような基礎力が
欠如しているから空振るのだよ。
ひとつは言葉の意味を冷静かつ通時的共時的に分析する力。
上の話でいえば、合理/非合理の図式は共時的に並置されるし、
また通時的にはロマン派を通過して定式化した代表的な通念だ。
ふたつめは個々の芸術様式をよく把握しているかどうかということ。
>>603はパッと「フランス」といっているが、たとえばフランス印象派は
だいたいは穏やかで詩情があると形容して問題ない。西洋近代の美術様式は
その枠内でインターナショナルなので、特定の国の風景画という場合、
より特定された文脈が必要。
でこういう基礎がない人間が理論理論言っても不毛。
定義が滅茶苦茶に見えるのは自分の見えているものが
混濁しているからであって、主に君の側の問題。 「ポエム」が批判の辞になる場合、
「詩」よりも幼稚で卑近というコノテーションも感じられるね。
無論この用法は「韻文性がある」という指摘ではなく、
いかにも思わせぶりな言葉で飾っただけで空疎な内容という
ための「ポエム」だろうな。 でも、実際俺らより頭の良い文学者批評家学習が、ちゃんとした定義付けは、出来てないから混乱してる部分はあると思うけどな。 >>624
それはないものねだりではないかな。
たとえば「詩は感情の吐露」論者はそれなりの理屈をもっているが、
別の論者が「ちがう、詩の本質はこうである」と言い出したら、
両者が話し合って統一見解を出すしかない。そし辞書の詩の項目に
「感情の吐露」と掲載するだろうか?でその定義を基に
客観的な理論が発展するのだろうか。
しかしこんなのがバカバカしいことは誰にでもわかる。 >>622-623
照れ隠しなのか負け惜しみなのか、ずいぶん並べ立てたもんだねw
>言葉の意味を冷静かつ通時的共時的に分析する力
>合理/非合理の図式は共時的に並置される
バカだろw
自分の記述能力と分析能力がないことを棚に上げて、相手のせいにする力だけは認めてあげよう。
>個々の芸術様式をよく把握しているかどうか
>フランス印象派はだいたいは穏やかで詩情があると形容して問題ない
君は、絵画について語らない方がいい。
モネの「印象・日の出」にすさまじいまでの激情を見ることもできないんだから。
見たこともない絵画について、「印象」という言葉だけで「印象」を語るのはやめておけw
>「ポエム」が批判の辞になる場合、「詩」よりも幼稚で卑近
>いかにも思わせぶりな言葉で飾っただけで空疎な内容というための「ポエム」
日本人だけが彼らをポエムと評してると思ってるのかよw
ポエムと評されるのは、論理ではなく、本人の感情のままに書いている、という視点からだよ。
君は負け惜しみでシッタカしたいばかりに、知らないことに言葉の切れ端だけを頼りに口を出そうとするから、そういう惨めなレスになっちゃうんだ。
言っても無駄だから勉強しろとは言わないが、知らないことに嘴を突っ込むのはやめておけ。 へえ
日の出のすさまじいまでの激情かあ
そういう解説のソースをくれよ
でそれがフランス印象派全体の基調だというソースもな
それともそれは君が思い詰めただけのポエムなのかな?
やっぱり基礎がガタガタだねえ 感情のままという意味が
学問としての論証や論理を欠くという
ならばやはりそれは非合理という意味を
ポエムに代表させているわけだ
そういう分別に無自覚なのは
あまりよろしくないし
君自身が気が付かないとな
例えば東山魁夷の作品の基調は静謐な雰囲気だが
後世に書簡で激情の意図が明らかになるかもしれない
で実は激情が秘められているんですよと
論じられるかもしれない
しかしそういった精神性と様式やモチーフの
視覚的な扱い方はいつも一致するわけではないし
画面の静謐感や彼の様式の雰囲気が一変するわけではない >>627-628
モネの「印象・日の出」が、印象派という名称の元になった絵画だということも知らないのか。
そこまでの無知が絵画を語るというのも、ある意味凄い。
他人の解説を頼らず、複製でも画集でも自分で見てみろよ。
もう、照れ隠しも負け惜しみもやめて、静かに絵画を「鑑賞」したり、文学作品を「精読」したりして、自分の心を見つめなよ。 俺は詩の定義にしろ
特別なことは言ってないのだが
幅広い芸術についての座談の経験が欠けている
であろう孤独な若者とやりとりするのは
骨が折れる
でぽっと名作だけ取り上げてこれこれを感情を
ここから感じ取れないならダメだ!とか爺さんかよw >>629
それとフランス印象派全体の雰囲気は別の話。
典型と言われるピサロの作品に激情を感じる?
印象派様式の基調が激情だという
ソースよろしくね
意地張るからおかしくなるだけで
難しい話じゃない >>630
僕は、孤独な若者なのか爺さんなのかどっちなんだろう?w
どっちでもいいけど、楽しいやり取りだった。
またね。 ちなみにサロン絵画へのカウンターが
まず印象派のコアなので
感情をタブロー上に表現するしない
というのは副次的
見る側が激情だとか崇高だとか感じるのは
自由だが >>631
続きがあったのかw
でも、バカバカしいから相手にするのはやめる。
最後にもう一度繰り返しておく。
照れ隠しも負け惜しみもやめて、静かに絵画を「鑑賞」したり、文学作品を「精読」したりして、自分の心を見つめなさい。 >>632
君くらい熱心でガバガバな人は文学好き
には結構いる
というのは他の芸術好きの場合全てを
語ろうとしないけど
文学好きは諸芸術を語ろうとするからね
無論知識と教養が追いついていればよいよ 結局ソース出せないのか
語学力がないとそういう基礎作業もできないしね
ひとつには君はロマン派的芸術観にどっぷり
浸かりすぎていて周りが見えないので薄っぺらになる
己の心を見つめろ!
感情の吐露だ!って
それを地に足つけた教養にするには
実作をすること
語学をすること
ロマン派を一旦離れてまた戻ってくること
を薦めたい。 >>632
孤独な爺さんだろうな。
読書家であるがそれだけだろう。 誰だったか忘れたが
翻訳出来る唯一の文芸創作が小説だから小説を書く
と言った作家がいたはず 言葉遊びで申し訳ないが、それの亜種で翻訳不可能な
文学的質を詩と呼ぶ、っていう意見をどっかで見た記憶がある。
で
別の話でこれはまっさらな私見だが、詩は音の繰り返しから
興ったと想像したい。最古の和歌と最古の漢詩には共通点があって
どちらも言葉の繰り返しから日常の言葉を越えるような調子が生まれている。
その繰り返しがどう形式化していくのかというのは個別言語の特性とも
大きく関係しているのだが、とにかくもリズムの起源のように反復が
根っこにあるという意味では、詩は小説よりも音楽的であるというのは
相当な説得力がある。 小説 は感動 詩は統率。
言語ゲーム → 言の葉遊ぶ。 詩歌は神話や伝承と地続きだと思うのね
無文字社会でも存在する口承芸術だから音楽的要素が強いし
もともとは音楽や演劇とセットだったんじゃないの? そのとおり
音楽の起源論というのは今は流行らない
観念的な話だがそういう点では知っておきたい
クルトザックスとかな で詩的という言葉がみんなバラバラで
どこにも行けないというのは間違いだ
概念そのものを精緻に論じたい場合
この論ではこういう意味であると書けばいいだけ
そうして個人でもってその枠内で理論構築すればいい
ひとりでやるのが大切
またたいてい具体的な文脈があるので
独善的でない一定の教養があれば
それほど意味把握に苦労することはない
例えばベケットの戯曲を語る際に詩的だと
言ったからといって芥川のいうような詩的精神とは
(物語性から距離を置く点を除いて)
方向性が異なることは明らかだ
もうひとつ芸術論ではズバリ意味の整理が
論述の中核である場合も多い
たとえばこういう内容だ
http://doshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/04603.pdf
この場合(「音楽的」)
複数の定義というものは混乱でもなんでもなく
理論化のタネであり
結局のところ芸術の生産力そのものを
反映しているに過ぎない >>643
無関係な人に触れるのも変だが、紹介されてる文章は、文学理論ではなく、作品鑑賞の手引きみたいなもんだね。
ひとつの視点にはなっても、論理性はない。
他人に頼らず、君「ひとりでやるのが大切」なんだよねw >>639
本当に堂々巡りで、キチンと翻訳されてるかどうか判定して確かめられる人間が少ない
逆に、ちゃんと翻訳されているかどうかで、詞かどうかを判定できる
要するに「詞か否か」から「それがちゃんと翻訳されているかどうか」とかの単語の運用に変わるだけで、この名詞は置換可能なただのお遊び、言語ゲームそのものになる
何をもって正しい翻訳とするのか、その文芸的ルールは
「何をもって正しい詞とするのか」を言い換えただけの
「何をもって正しい翻訳とするのか」という、見せかけのルールブックに過ぎない
要するに、単なる問題のスライドに過ぎない
だから『亜種』でもなんでもなく、同根の問題が根深く横たわっているただの言い換えになる >>646
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」というのは、言葉の遊びという意味じゃないよ。
レスの趣旨とは関係がないけど、一応指摘しておくね。 まあ自然科学研究には論理はないと
強弁してヘーゲルとか言い出す御仁だからねえ
まともな教養ある人で
会話が噛み合う人はいないでしょうね
言語ゲームも俺様定義なのでしょう 「印象・日の出」のすさまじいまでの激情
を感じられないヤツはダメなのかあ
哲学者志願の老人は厳しいなあ デリダとか弁証法とか
現代思想っぽいものを気分で散りばめると
頭が良くなった気になるんだろうねえ
それはそれで幸せかもしれない >>648-650
どうでもいいけど、相手を混同したりしてない?
君をぼろくそに言ってた相手のほかにも、君を批判的に見てる人はいるみたいだよ?
ちなみに、「弁証法」というのは、現代思想じゃないよ。
「まともな教養ある人」を自認するなら、基礎的な知識は勉強したほうがいいと思う。 それは申し訳なかった
弁証法そのものは当然現代思想とは呼べないな
単に思想っぽい、ということだ
そういう指摘を受け入れるのが教養人 詩と散文についてのエッセイで
印象的だったのはLe Guinの
「散文と詩の相互作用」だな
歩行とダンスなどの有名な定義を
軽快に相手していく 逆説的ではあるが、日本には詩しかな
いのではないか
谷崎がいうようなものを小説と定義
すれば、だが >>655
日本には短歌俳句和歌があるから谷崎の小説観はその通りだけど芥川の方が詩に近い 日本の詩は和歌で終わったという考え方もある。
俳句はすでに散文だし、西洋詩のまねごとは詩にならなかった。
詩と音楽を地続きとした場合の考え方だが。 散文というか文末の韻を踏めないからな
実践としては和製ラップで総合的な
パフォーマンスとして可能になったが 脚韻は必須のものではないよ
ラテン語詩には脚韻がない
フランス語でもアレクサンドランという12音を調えるだけで詩の体裁になる
英語は単語ごとにアクセントがあるけれど、これをきちんとつなげていくだけで韻律になる
弱→強→弱→強となればiambで、5音ごとに重ねると弱強5歩格になり謳いあげていく調子が生まれる
シェイクスピアには脚韻はほとんどないけれど無韻詩(ブランク・ヴァース)と呼ばれるが、実は無理やり5歩格にするために誇張表現なんかを取り入れていて、古典主義者には評判が悪かった
ミルトンの失楽園はあえて脚韻を排除しているけれど、これはまったく別のいくつかの理由をもっている
その後に生まれた戯英雄詩では四歩格の欠落なんかのカプレットが使われ、脚韻もわざとありふれたものを選んだりして滑稽味をだしている
日本語には「おはし」をどのように読むかで意味が違ってしまうように、アクセントが統一されていないのでアクセントをつなげていくような文章が作れなくて、関西弁のようなアクセントの強調された言葉になってしまう
アクセントの平板化は全世界的に起こっているものだけれど、音楽的な文章というのは英語やドイツ語では文字で見るだけで感じ取れるものがある
それは文章の意味が情景を想像させるからではなくて、流れる言葉が美しく統制されていることがわかるから
そのようなときに脚韻という縛りは不要だし、頭韻を効果的に使っていたりする
小説でも、突然調子が変わる箇所とかに技巧を凝らした文章が出てくることがあって、そのような箇所には作者の仕掛けがあることが多い 影響を受けたというとこと
言語ゲームに。
音韻に方がわりかし有名で、文学より進んでる分野だよね。 学術君は一服の清涼剤だな。
盛り上がったところで、冷静にさせてくれる。
横綱暴行事件の時にも、彼がいれば、なにごともおきなかったかもしれないw ホメロスの時代の韻は強弱じゃなくて長短だぜ
脚韻もない
全文が完全に韻を踏んでないといけない
だから枕詞みたいなので慣用句を多用
調べたことないがたぶんケニングも同じ目的 皆さんやけに韻律にこだわりますね、なんて傍観してたが、何だ単に辞書的な意味での観念に拘束されているだけか
コモンセンスがないな
小林秀雄も花田清輝も詩である、そういうところからはじめませんか >>664
せっかくレベルの高い話で盛り上がってたのに馬鹿がしゃしゃり出るな >>664
小林秀雄や花田清輝はなぜ詩ではないのか、というところからはじめれば、詩の本質が分かるかもしれないね。 しかしレベルとか言われるとただ唖然とするだけだな
どれだけ自分を高尚だと思ってるのかしら >>664も>>665もなぜか上から目線だね
他人をレッテル貼って見下すことに熱心な、会話をする価値のない性格の悪い方々
そんなに高いレベルの「やりとり」なんぞ発生していない、と思うが自分の書き込みは例外だと思いたがる
性格も頭も悪い人は相手にはされないよ
二人とも知識も乏しくて知らないことを罵倒する性癖を持つなら、なおさらのこと
そんなやつらだけが残っているね >>670
いやあ無視してもらって一向に構わないし、それにちょっとお茶を濁してみただけでしょ
その程度のことは包含してもらわないと困るなあ >>669
そうはいっても、顔が悪い人よりはマシだろう。
え?
お呼びじゃない? >>671
【お茶を濁すの語源・由来】
茶道の作法をよく知らない者が程よく茶を濁らせて、それらしい抹茶に見えるよう取り繕うことから あれも若いうちはリアクションよかったけど、
地方行脚も計画中。少しづつ。疲れを取って。 ネットのアマチュアの批評でも、プロの批評でもそうだけど、
批評としては定番の論法や書き方が、もう古くなって時代と合ってないなーって思うことがよくある
たとえば、「食事はセックスに似ている」とか、「食は性と繋がっている」
みたいな書き方って、
「食は性と繋がっている」というより、
「人は、食と性を似たもの、繋がっているものとして扱いたがる」って書いた方がたぶん正確だし、
そこから「なぜなのか?」っていう広がりがあるよね
なんかこう、人の心理作用でしかないものが、
まるで客観的な事実として存在してるみたいな書き方の批評を読むと、変なのって思う たしかに言ってることは共感できるけど
パンチのある図式をまず出さないと売れないからなあ
新書とか題名詐欺みたいなものが沢山ある
この前、高校中退で東大教授の独学法
とかいう売りの本があって手に取ったら
海外経験長くて大検取って日本の大学っていう
いや俺は大学行かなかった奴の独学法かと思ったよw >>675
>「食は性と繋がっている」というより、
>「人は、食と性を似たもの、繋がっているものとして扱いたがる」
>って書いた方がたぶん正確だし、
>そこから「なぜなのか?」っていう広がりがあるよね
性衝動と食欲は本能の一部で人間行動の中でいちばん動物に近いものだから
仮に食欲を捕食行為までさかのぼって考えると性衝動と同じ攻撃衝動が含まれる
そういう共通性はあるんじゃないの?
ただ、こういう考え方は単なる還元主義で
この図式で社会やそこで生きる人間関係の綾を描いた
文学作品を論じることはまず無理 ウインナーくわえてるのがエロい
肉食ってる顔がエロい
これだけのことよ >>677
精神分析はインチキだって言われて衰退しても、精神分析批評は残ってしまうっていう ベッテルハイムは居なかったことに
される勢いだが実際のところ彼で
物語の解釈は終わってしまった ブルーノベッテルハイムだよ
晩年詐称とか色々明るみに出て名声崩壊 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています