文学理論 10 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
文学における批評や理論について意見や情報を交換するスレッド。
記号学、テクスト論、ナラトロジー、精神分析批評、受容理論、マルクス主義批評
ニュー・クリティシズム、ヌーヴェル・クリティック、テマティック批評、新歴史主義、認知論
などなど。
前スレ
文学理論 9 http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1473726035/
文学理論 8 http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1456876313/
文学理論 7 http://echo.2ch.net/test/read.cgi/book/1428940593/
文学理論 6 http://peace.2ch.net/test/read.cgi/book/1411222847/
文学理論 5 http://peace.2ch.net/test/read.cgi/book/1398531661/
文学理論 4 http://peace.2ch.net/test/read.cgi/book/1306120505/
【Literary】文学理論・文学批評V【Theory】 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1189092029/
【Literary】文学理論2【Teory】 http://pyon.2ch.net/test/read.cgi/book/1111258919/
文学理論 http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1034435329/
※入門書
テリー・イーグルトン 『文学とは何か―現代批評理論への招待』
田辺保〔ほか〕編 『文芸批評を学ぶ人のために』
ジョナサン・カラー 『文学理論』
ラマーン・セルデン 『ガイドブック現代文学理論』
ピーター・バリー 『文学理論講義』
フランク・レントリッキア、トマス・マクローリン『現代批評理論―22の基本概念』
フランク・レントリッキ、トマス・マクローリン『続:現代批評理論―+6の基本概念』
フランク・レントリッキア『ニュー・クリティシズム以後の批評理論』上下
廣野由美子 『批評理論入門』
西田谷洋 『学びのエクササイズ文学理論』 俺は詩の定義にしろ
特別なことは言ってないのだが
幅広い芸術についての座談の経験が欠けている
であろう孤独な若者とやりとりするのは
骨が折れる
でぽっと名作だけ取り上げてこれこれを感情を
ここから感じ取れないならダメだ!とか爺さんかよw >>629
それとフランス印象派全体の雰囲気は別の話。
典型と言われるピサロの作品に激情を感じる?
印象派様式の基調が激情だという
ソースよろしくね
意地張るからおかしくなるだけで
難しい話じゃない >>630
僕は、孤独な若者なのか爺さんなのかどっちなんだろう?w
どっちでもいいけど、楽しいやり取りだった。
またね。 ちなみにサロン絵画へのカウンターが
まず印象派のコアなので
感情をタブロー上に表現するしない
というのは副次的
見る側が激情だとか崇高だとか感じるのは
自由だが >>631
続きがあったのかw
でも、バカバカしいから相手にするのはやめる。
最後にもう一度繰り返しておく。
照れ隠しも負け惜しみもやめて、静かに絵画を「鑑賞」したり、文学作品を「精読」したりして、自分の心を見つめなさい。 >>632
君くらい熱心でガバガバな人は文学好き
には結構いる
というのは他の芸術好きの場合全てを
語ろうとしないけど
文学好きは諸芸術を語ろうとするからね
無論知識と教養が追いついていればよいよ 結局ソース出せないのか
語学力がないとそういう基礎作業もできないしね
ひとつには君はロマン派的芸術観にどっぷり
浸かりすぎていて周りが見えないので薄っぺらになる
己の心を見つめろ!
感情の吐露だ!って
それを地に足つけた教養にするには
実作をすること
語学をすること
ロマン派を一旦離れてまた戻ってくること
を薦めたい。 >>632
孤独な爺さんだろうな。
読書家であるがそれだけだろう。 誰だったか忘れたが
翻訳出来る唯一の文芸創作が小説だから小説を書く
と言った作家がいたはず 言葉遊びで申し訳ないが、それの亜種で翻訳不可能な
文学的質を詩と呼ぶ、っていう意見をどっかで見た記憶がある。
で
別の話でこれはまっさらな私見だが、詩は音の繰り返しから
興ったと想像したい。最古の和歌と最古の漢詩には共通点があって
どちらも言葉の繰り返しから日常の言葉を越えるような調子が生まれている。
その繰り返しがどう形式化していくのかというのは個別言語の特性とも
大きく関係しているのだが、とにかくもリズムの起源のように反復が
根っこにあるという意味では、詩は小説よりも音楽的であるというのは
相当な説得力がある。 小説 は感動 詩は統率。
言語ゲーム → 言の葉遊ぶ。 詩歌は神話や伝承と地続きだと思うのね
無文字社会でも存在する口承芸術だから音楽的要素が強いし
もともとは音楽や演劇とセットだったんじゃないの? そのとおり
音楽の起源論というのは今は流行らない
観念的な話だがそういう点では知っておきたい
クルトザックスとかな で詩的という言葉がみんなバラバラで
どこにも行けないというのは間違いだ
概念そのものを精緻に論じたい場合
この論ではこういう意味であると書けばいいだけ
そうして個人でもってその枠内で理論構築すればいい
ひとりでやるのが大切
またたいてい具体的な文脈があるので
独善的でない一定の教養があれば
それほど意味把握に苦労することはない
例えばベケットの戯曲を語る際に詩的だと
言ったからといって芥川のいうような詩的精神とは
(物語性から距離を置く点を除いて)
方向性が異なることは明らかだ
もうひとつ芸術論ではズバリ意味の整理が
論述の中核である場合も多い
たとえばこういう内容だ
http://doshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/04603.pdf
この場合(「音楽的」)
複数の定義というものは混乱でもなんでもなく
理論化のタネであり
結局のところ芸術の生産力そのものを
反映しているに過ぎない >>643
無関係な人に触れるのも変だが、紹介されてる文章は、文学理論ではなく、作品鑑賞の手引きみたいなもんだね。
ひとつの視点にはなっても、論理性はない。
他人に頼らず、君「ひとりでやるのが大切」なんだよねw >>639
本当に堂々巡りで、キチンと翻訳されてるかどうか判定して確かめられる人間が少ない
逆に、ちゃんと翻訳されているかどうかで、詞かどうかを判定できる
要するに「詞か否か」から「それがちゃんと翻訳されているかどうか」とかの単語の運用に変わるだけで、この名詞は置換可能なただのお遊び、言語ゲームそのものになる
何をもって正しい翻訳とするのか、その文芸的ルールは
「何をもって正しい詞とするのか」を言い換えただけの
「何をもって正しい翻訳とするのか」という、見せかけのルールブックに過ぎない
要するに、単なる問題のスライドに過ぎない
だから『亜種』でもなんでもなく、同根の問題が根深く横たわっているただの言い換えになる >>646
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」というのは、言葉の遊びという意味じゃないよ。
レスの趣旨とは関係がないけど、一応指摘しておくね。 まあ自然科学研究には論理はないと
強弁してヘーゲルとか言い出す御仁だからねえ
まともな教養ある人で
会話が噛み合う人はいないでしょうね
言語ゲームも俺様定義なのでしょう 「印象・日の出」のすさまじいまでの激情
を感じられないヤツはダメなのかあ
哲学者志願の老人は厳しいなあ デリダとか弁証法とか
現代思想っぽいものを気分で散りばめると
頭が良くなった気になるんだろうねえ
それはそれで幸せかもしれない >>648-650
どうでもいいけど、相手を混同したりしてない?
君をぼろくそに言ってた相手のほかにも、君を批判的に見てる人はいるみたいだよ?
ちなみに、「弁証法」というのは、現代思想じゃないよ。
「まともな教養ある人」を自認するなら、基礎的な知識は勉強したほうがいいと思う。 それは申し訳なかった
弁証法そのものは当然現代思想とは呼べないな
単に思想っぽい、ということだ
そういう指摘を受け入れるのが教養人 詩と散文についてのエッセイで
印象的だったのはLe Guinの
「散文と詩の相互作用」だな
歩行とダンスなどの有名な定義を
軽快に相手していく 逆説的ではあるが、日本には詩しかな
いのではないか
谷崎がいうようなものを小説と定義
すれば、だが >>655
日本には短歌俳句和歌があるから谷崎の小説観はその通りだけど芥川の方が詩に近い 日本の詩は和歌で終わったという考え方もある。
俳句はすでに散文だし、西洋詩のまねごとは詩にならなかった。
詩と音楽を地続きとした場合の考え方だが。 散文というか文末の韻を踏めないからな
実践としては和製ラップで総合的な
パフォーマンスとして可能になったが 脚韻は必須のものではないよ
ラテン語詩には脚韻がない
フランス語でもアレクサンドランという12音を調えるだけで詩の体裁になる
英語は単語ごとにアクセントがあるけれど、これをきちんとつなげていくだけで韻律になる
弱→強→弱→強となればiambで、5音ごとに重ねると弱強5歩格になり謳いあげていく調子が生まれる
シェイクスピアには脚韻はほとんどないけれど無韻詩(ブランク・ヴァース)と呼ばれるが、実は無理やり5歩格にするために誇張表現なんかを取り入れていて、古典主義者には評判が悪かった
ミルトンの失楽園はあえて脚韻を排除しているけれど、これはまったく別のいくつかの理由をもっている
その後に生まれた戯英雄詩では四歩格の欠落なんかのカプレットが使われ、脚韻もわざとありふれたものを選んだりして滑稽味をだしている
日本語には「おはし」をどのように読むかで意味が違ってしまうように、アクセントが統一されていないのでアクセントをつなげていくような文章が作れなくて、関西弁のようなアクセントの強調された言葉になってしまう
アクセントの平板化は全世界的に起こっているものだけれど、音楽的な文章というのは英語やドイツ語では文字で見るだけで感じ取れるものがある
それは文章の意味が情景を想像させるからではなくて、流れる言葉が美しく統制されていることがわかるから
そのようなときに脚韻という縛りは不要だし、頭韻を効果的に使っていたりする
小説でも、突然調子が変わる箇所とかに技巧を凝らした文章が出てくることがあって、そのような箇所には作者の仕掛けがあることが多い 影響を受けたというとこと
言語ゲームに。
音韻に方がわりかし有名で、文学より進んでる分野だよね。 学術君は一服の清涼剤だな。
盛り上がったところで、冷静にさせてくれる。
横綱暴行事件の時にも、彼がいれば、なにごともおきなかったかもしれないw ホメロスの時代の韻は強弱じゃなくて長短だぜ
脚韻もない
全文が完全に韻を踏んでないといけない
だから枕詞みたいなので慣用句を多用
調べたことないがたぶんケニングも同じ目的 皆さんやけに韻律にこだわりますね、なんて傍観してたが、何だ単に辞書的な意味での観念に拘束されているだけか
コモンセンスがないな
小林秀雄も花田清輝も詩である、そういうところからはじめませんか >>664
せっかくレベルの高い話で盛り上がってたのに馬鹿がしゃしゃり出るな >>664
小林秀雄や花田清輝はなぜ詩ではないのか、というところからはじめれば、詩の本質が分かるかもしれないね。 しかしレベルとか言われるとただ唖然とするだけだな
どれだけ自分を高尚だと思ってるのかしら >>664も>>665もなぜか上から目線だね
他人をレッテル貼って見下すことに熱心な、会話をする価値のない性格の悪い方々
そんなに高いレベルの「やりとり」なんぞ発生していない、と思うが自分の書き込みは例外だと思いたがる
性格も頭も悪い人は相手にはされないよ
二人とも知識も乏しくて知らないことを罵倒する性癖を持つなら、なおさらのこと
そんなやつらだけが残っているね >>670
いやあ無視してもらって一向に構わないし、それにちょっとお茶を濁してみただけでしょ
その程度のことは包含してもらわないと困るなあ >>669
そうはいっても、顔が悪い人よりはマシだろう。
え?
お呼びじゃない? >>671
【お茶を濁すの語源・由来】
茶道の作法をよく知らない者が程よく茶を濁らせて、それらしい抹茶に見えるよう取り繕うことから あれも若いうちはリアクションよかったけど、
地方行脚も計画中。少しづつ。疲れを取って。 ネットのアマチュアの批評でも、プロの批評でもそうだけど、
批評としては定番の論法や書き方が、もう古くなって時代と合ってないなーって思うことがよくある
たとえば、「食事はセックスに似ている」とか、「食は性と繋がっている」
みたいな書き方って、
「食は性と繋がっている」というより、
「人は、食と性を似たもの、繋がっているものとして扱いたがる」って書いた方がたぶん正確だし、
そこから「なぜなのか?」っていう広がりがあるよね
なんかこう、人の心理作用でしかないものが、
まるで客観的な事実として存在してるみたいな書き方の批評を読むと、変なのって思う たしかに言ってることは共感できるけど
パンチのある図式をまず出さないと売れないからなあ
新書とか題名詐欺みたいなものが沢山ある
この前、高校中退で東大教授の独学法
とかいう売りの本があって手に取ったら
海外経験長くて大検取って日本の大学っていう
いや俺は大学行かなかった奴の独学法かと思ったよw >>675
>「食は性と繋がっている」というより、
>「人は、食と性を似たもの、繋がっているものとして扱いたがる」
>って書いた方がたぶん正確だし、
>そこから「なぜなのか?」っていう広がりがあるよね
性衝動と食欲は本能の一部で人間行動の中でいちばん動物に近いものだから
仮に食欲を捕食行為までさかのぼって考えると性衝動と同じ攻撃衝動が含まれる
そういう共通性はあるんじゃないの?
ただ、こういう考え方は単なる還元主義で
この図式で社会やそこで生きる人間関係の綾を描いた
文学作品を論じることはまず無理 ウインナーくわえてるのがエロい
肉食ってる顔がエロい
これだけのことよ >>677
精神分析はインチキだって言われて衰退しても、精神分析批評は残ってしまうっていう ベッテルハイムは居なかったことに
される勢いだが実際のところ彼で
物語の解釈は終わってしまった ブルーノベッテルハイムだよ
晩年詐称とか色々明るみに出て名声崩壊 >>686
読書感想があったので、そこから引用。
子供に理解できる物語の中で、昔話ほど、内面の問題を教え、その解決策を示してくれるものはない。
子供は、昔話の形と構成をまねて、自分の白日夢を作り上げることができる。それによって、(略)無意識の圧迫によって悪い影響が出る可能性が低くなる。
悪より善をではなく、憎たらしい者よりも同情できる者をである。主人公の立場に心を動かされるので、自分と同一視するのである。そして、主人公が善い人だから、自分も善い人になろうとするのである。
「二人はいつまでも幸せに暮らしました」という結末(略)は、他人と真の関係を築けばその不安から逃れられると教えているのである。
こんな感じ?
面白そうだね。 「昔話の魔力」自体は面白い本だけど
>>682がベッテルハイムを出したのは、精神分析批判の話題に絡めてだよね、たぶん 理論の怖いところは、
たとえば「この物語のテーマは主人公の『父殺し』がどうのこうの」みたいなことを言う人が
自分の言ってることはフロイトの言うエディプスコンプレックスが基になってるって知らない場合がよくあることで
ネットなんか見てると、死んだ理論の幽霊に取りつかれてることに気づいてない人がうじゃうじゃいる
(自分もその一人かもしれないけど) >>689
一応指摘しておくけど、フロイトの精神分析は、死んだ理論ではないよ。
むしろ、ドゥルーズなどの反フロイト理論が、生きたことがない理論だといえるんじゃないだろうか。 テマティスムって何で廃れたの?
テマティスム批判で読むべきものがあったら教えて フロイトは文学とつながりが強いけど焼き直せば売れるのかしらね。 >>689
>「この物語のテーマは主人公の『父殺し』がどうのこうの」みたいなことを言う人が
>自分の言ってることはフロイトの言うエディプスコンプレックスが基になってるって知>らない場合がよくあることで
それは単に無知なだけです
また、晩年のフロイトは父権性は
ユダヤ社会や全人類共通の文化基盤ではなく
アマルナの宗教改革における一神教が
「エジプト人モーゼ」を介してユダヤ社会に浸透した結果ではないか?
としているわけです
そんなのは旧約聖書のレビ記でも読めば明らかなことで
あの当時の非ユダヤ社会は多神教で近親婚が広く行われていたし
ユダヤ社会における祭祀でも乱交や男色、人身御供が普通に行われていた
フロイト自身は晩年に自説に修正を加えるような柔軟な人だけど
通俗フロイディズムを振りかざす人は物事を図式的に整理しているだけの話です
ここで取り上げられる精神分析批評にはそういう面がある テマティスムっていうと、蓮実重彦ってイメージしかないな
あと「テーマ批評とは何か」って本を読んだけど、面白くなかった気がする >>696
コピーできないから、代名詞で聞くけど、それは何?
説明できないの? >>697
>フロイト自身は晩年に自説に修正を加えるような
具体的に何を修正したの?
ちょっと思いつかない。
フロイトの父権性というのは、一般論として成立していると思うんだけど? 娘にとっての父権性であってほしいが。近親相姦や同族交配は繁殖には必須
と思えるけど。 近親相姦といても血統内でしか子供が授かれない場合限定といった風な意味。 >>691
『テマティスムって何で廃れたの?』
これな
文芸的に詰まらんし面白くないから廃れたんだよ
それに亜種を量産出来る母体じゃないから捨てられたんだ
その逆が例えば「推理小説ってなんで流行ったの」あたりの質問で、
それはそのジャンルの初期の文芸、例えばポーやドイルが面白かったからだ
だから批評の文章と文学の文章を同等にひとまとめにして文芸やらテクストやらと呼べばいい
とある批評のジャンルが流行るには最初期の批評本に文芸的な面白さがあるかどうかに懸ってる
文章の芸があるかどうかに懸ってる
零度のエクリチュールなんかは芸があった方で、レトリックと発想があった
おんなじような文章を再生産してみたいと思わせるオーラやら魔力やらがあった
無論、アートが持ってるような魔力な
だから芸術文/実用文という二分法での実用文に属するであろう批評文でもアートの風味をかなり注入しておかないとその批評ジャンルはいきなり廃れる >>703
推理小説が流行ったのは時代の要請
新哲学と言われるほど科学が持て囃されている時代で
博物学、発明に庶民の関心も強くて
ストーリー展開に論理性を重視した小説が求められてた
一方で精神の機械的理解がまだまだ未熟だったためオカルト的な心霊学も流行った時代
ポーのような天才が現れなかったら何十年も登場は遅れていただろうし
ドイルが居なければなかなか人気でなかったかも知れないが
推理を楽しむ小説というのは時代の要請
庶民も本を買えるようになったのも
このスタイルへの嗜好の変化の大きな要因
論理性は度外視したロマン主義が直前に流行っていたことへの反動もあった 推理力批判 続 犯罪暴力批判論 カントソ。ヘンヤミソ。 >>705
ポーがいなくても、ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』は生まれたと思うが。
その二つの作品は、、推理小説の側面も持っているから。
特に、『カラマーゾフの兄弟』は、謎解きも作品の重要な要素だ。 そもそも推理小説っていうのは、法治国家以外では成り立たないもんね
怪しいやつはとりあえず捕まえちゃえ殺しちゃえって国では成立しないっていう 別にポーが始めたわけじゃないよな
いなくても何十年も遅れたなんて事態にはならなかったでしょう >>705はいろいろ間違ってるなぁ
ポーは最初の推理小説を書いたといっても流行を作ったりはできなかったというか無視されていた
犯罪小説や煽情小説ってのが流行した時代ってのは庶民が本を買えるようになった時代とはまったく別
貸本制度というのがあって社会が求める犯罪や未解決事件への覗き見趣味が背景にある
「論理性を度外視したロマン主義が直前に流行っていた」とか時代も全然違うし読者層も違う
適当な知識で長文書くと恥かくよ〜 たしかにそれらしいことをそれらしく
繋げてみた感ありありだな >>711
小説家としてのポーが無視されたのはアメリカの話
それでも雑誌編集者としては当時の文壇の新興派を代表する人
欧州ではボードレールが多数の作品を翻訳し大きな影響を与えた
だからフランスとイギリスでアメリカより早く小説家として認められた >>711
ポーの作品群は自分の雑誌が初出で
雑誌の時代が始まった後だよ
ドイルのホームズも雑誌、今で言うムック本みたいなマガジンが最初
サロンに属さない人も小説を買うようになった時代
このあたりの事情については
雑誌編集者としてのポーや
先行する時代のイギリスロマン主義と職業作家の登場について論じた本が翻訳されてる 推理小説かどうか、謎解きになってるかどうかって、
ジャンルでもテーマでもない、単なる構成の問題で
「頭を打ってコブができた」を、
「コブができた、なぜなら頭を打ったからだ」に並べ替えれば
謎解きの形になるじゃんね あと関係がありそうなのが、西洋には、19世紀の終わりごろまで、
「原因があるから結果がある」っていう発想がなかったらしいよね
1861年にパスツールが、生き物が無から生まれないことを証明するまで、
生き物は自然発生するって考えられてたり
「原因があるから結果がある」っていうことを啓蒙してるだけの
「原因と結果の法則」っていう1903年に出た本が、未だに日本でも売れてるけど
「原因」と「結果」への興味っていう時代背景も、
謎解き型の構成がうけた原因の一つにはなってるのかも >>703
テマティスムの傑作蓮實重彦『夏目漱石論』って最初期に出たもので面白いし今でも言及されてるじゃん
「テマティック」でtwitter内検索すると文学研究者や批評家が「今さら」とか「懐かしの」って言ってるんだよ
テマティック批評とテマティスムは同じものなのかはわからないが
何でまず誰もやらなくなったのか知りたい
単に流行りの問題なのか理論的な問題があるのか個人の才能によるところが大きすぎるのか 手法が蓮實風に思われるからってのも
あるだろうけど軽いマウンティングじゃないのかな
単に俺は知っているって言いたいのかも
実際批評の切り口なんて沢山はないと思う
みんな記号論とか社会分析の組み合わせで 蓮實重彦のテマティスムは「20も32も52も、4で割れます」って言ってるようなもんで、
「4」つまりテーマが見つかれば他の人にも似たようなことはできるかもしれないけど、
「20も32も52も4で割れます」は、よくよく考えるとそんなに面白くないんじゃないか?っていう問題はありそう >>717
数十年先行する話として
地質学者ライエルの自然の斉一説がある
条件が変わらなければ自然は同じことを繰り返すという考え
斉一説はヒュームからの影響も強い
1838年にライエルが出した一般向けの「地質学の基礎」が大流行した
ダーウィンの進化論は斉一説の生物学への適用
ホームズを読んだことがある人には
ライエルの斉一説の言い換えである「現在は過去を読む鍵」は
ホームズのメソッドであることは明瞭だろう
精神史も考えないとこの辺りの文学史は解りづらく単なる流行に見えてしまう >>720
だから流行りではなくなったんだろうね
今や意味がないわけではないけど >>718
単純に、その理論ではなにも解明できなかったからじゃないの?
テマティスムってなんだか知らないんだけど。 >>724
役に立たない理論を抱え込んでもしょうがないだろ? テーマやモチーフというのは、要するに「何がくり返されているのか」ということで
そうなると反復が、そして差異が気になるようになってくるよね >>726
なんか音楽みたいだね。
文学だと、テーマとかモチーフとかいう捉え方自体が、そぐわない気がするんだけどな。 最近の文学理論で流行ってるのある?流行らないと理論自体も廃れるじゃね 狭義の文学理論はね、とっくの昔に廃れているんだよ
イーグルトンがアフターセオリーとか言ったのが2003年だし
広義の文学理論はなくならないだろうけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています