【フランス語】フランス文学総合Quatrieme【邦訳】 [無断転載禁止]©2ch.net
『パルムの僧院』を読んだ
小説の主題的にはハッピーエンドなのかもしれないけどクレリアもそのほかも悲しすぎるよ… ★ フランスの新型コロナ感染状況
フランスでの感染者数は減少傾向にあり、平均で1日53,261人の新規感染者が報告
されている。1日平均人数のピークだった1月25日の15%になる。
パンデミック開始以降、フランスでは感染者28,330,357人、死者146,142人が
報告されている。
https://graphics.reuters.com/world-coronavirus-tracker-and-maps/ja/cou... 20世紀のフランス文学における新教と旧教の扱い方がよくワカラン 二十世紀で新教と旧教が問題になったことってあったっけ 最近フランス映画は見てるが、フランス文学はとんとご無沙汰だな。 澁澤龍彦の高丘親王航海記の仏訳が出た。
リベラシオンの書評でドラゴンボール味がすると言われてる
凄い時代になったな 統一教会はフランスでどう報じられてますか?
統一教会はフランスにもあるんですか? ラヴェル「ピアノ協奏曲 ト長調」
ルカ・ドゥバルク (pf)
ロンドン交響楽団、
https://www.youtube.com/watch?v=PYvotxJqIbs
Piano Concerto in G major, by Ravel
Lucas Debarque (piano)
Mikhail Pletnev (conductor)
London Symphony Orchestra いま『赤と黒』を英語で読んでます
英検とTOEIC対策です 長井秀和によれば統一教会より文句悪質なのは創価学会
寄付金も桁が違う >>256
余計なお世話である事は重々承知だが、何故初めから英語で書かれた小説にしないの? 2022年のノーベル文学賞は、フランス人の小説家が受賞した。
アニー・エルノーさん、小説家
日本では知られていない。 Inconnue. Je ne sais si c'est un malheur pour le japonais ou non.
ところで、
Je ne sais quelle certitude fondamentale d'elle-meme,
quelque chose qu'il est impossible de chercher, de trouver
et peut-etre meme de perdre
てさ、「自分自身に対する或る確信、探すことも、見つけることも、
おそらく失うこともできない或るもの」ていうような意味だと思うんだけど、
これを「私はそのもの自体の根本的確信が何であるのかよく分からない。
それは、求めることも、見出すことも、またおそらく失うことさえも
出来ない或るものである」と訳した人がいる。引用は、ドゥルーズの
『ニーチェと哲学』に引かれた『善悪の彼岸』287の最後のところで、
「私はそのもの自体の…」は河出文庫に入っているE川氏のもの
(一部変更)。イディオムとしての je ne sais 〜を知らないとは、
おそるべき力量です。 >>266
誰のこと? 具体的に言ってくれないと説得力ない。 >>263
信太訳の『善悪の彼岸』や足立訳の『ニーチェと哲学』(P177)では普通に「何ものか」になってるな。
学生かなんかの下訳を見落としたんだろ。 >>268
見落としたにしても随分と程度の低い大学、学生さんですな。 訳文の誤訳をいちいち指摘する自称フランス語できます(笑)系のやつほど惨めなやつはいない
悔しかったらアカデミックな部分でここまであがってきたら?
どうせできないんだろうけど >>272
素朴な質問するけどあなたはフランス語どれくらい出来るの? それによってあなたの主張の重みが変わる 誤訳の指摘自体がなんか意味不明
何を問題にしているのか?
指摘する人の試訳みたいなものの方がピント外れに見える
フランス語は大して出来ないが、仏検1級、DALF C2、ソルボンヌで文学博士号ぐらいだったら持ってる >>275
5chではせめて画像で証拠出さないとただの嘘止まり >>275
>>フランス語は大して出来ないが、仏検1級、DALF C2、ソルボンヌで文学博士号ぐらいだったら持ってる
これは問題だな。色々と狡いことをしてるに違いない。275が蓮實自身である可能性も高い。 >>275
答えてくれてありがとう。誤訳の指摘だけに留まっていてはいけないという意見には賛成する。完璧なら翻訳など存在しないだけにあなたに良い訳でフランス文学を日本に紹介して欲しい。特にデュラスの『ラマン』ですら辞書使いながらでも原書読むのに苦労した私のような人のために 前後がわからないと適訳は不可能
研究書や研究発表用の和訳と書籍出版用の翻訳も求められるもの違うし
哲学用語は定訳もあるしねえ
見たとこ「私には根源的な確実性というものそれ自体がよくわからない。
それは探求することも見つけることも、おそらくは失うことすら不可能な何ものかなのだ。」
ぐらいでよくないか? >>277
お悔やみを申し上げます。教わったことはありませんが日本のフランス文学界への貢献は大きかったと思います >>281 D'accord.
>>263 >>280 「善悪」287の仏訳(Henri Albert.wikisource。一部省略)。
— Qu’est-ce qui est noble ? Que signifie aujourd’hui pour nous
le mot « noble » ? (…)ce ne sont pas non plus les « œuvres ».
On trouve aujourd’hui, parmi les artistes et les savants, un grand
nombre de ceux qui révèlent, par leurs œuvres, qu’un ardent désir
les pousse vers ce qui est noble : mais ce besoin de noblesse même
est profondément différent des besoins d’une âme noble, il est
précisément chez eux le signe éloquent et dangereux de leur manque
de noblesse. Ce ne sont pas les œuvres, c’est la foi qui décide ici,
qui fixe le rang, pour reprendre une vieille formule religieuse
dans un sens nouveau et plus profond : c’est une certaine connaissance
foncière qu’une âme noble a d’elle-même, quelque chose qui ne se
laisse ni chercher, ni trouver, et qui peut-être ne se laisse pas perdre
non plus. — L’âme noble a le respect de soi-même. —
>>263の je ne sais 〜は名詞のかたまり。上の訳ではune certaine 〜に当たる。
「私は…よく分からない」と訳すのは文法的におかしいし、文意が
まったく通らない。分かってなきゃいけないの。 >>282
280さんが正しいと思うけど
自分の訳載っけてみて >>282を見た上で改めて>>280に「正しい訳」載っけてもらったらいいじゃん
話はそっからだろ 訳すより映るものを目で追いなさい朗読もいいし。辞書や単語帳は間違い。 そういう意味で受験指導すらできないと、全文スリム暗記法。 どこをきかれても記述つまり論文に書けるということがポイント。
持込も可。記憶装置の。 そういういみで採点マニアの勉強法も否定されてくる面が多い。 勉強の内容と勉強の仕方では哲学と哲学するのように。後者が大事。 >>297
俺は横入りしただけだから訳せないよ
ただ手元の訳書を見ても>>280のように訳してないし、それだと意味が明らかに通らないから、間違っていると判断したまで
>>280に訳してもらったらいいじゃん、じっくり待とうよ ちなみに>>282の人も当該箇所については>>263で訳をとっくに提示してはいるから>>283はレスの流れも読めないただのアホな 横レスするけど
指摘の箇所は、ニーチェの「善悪の彼岸」からの引用である
引用文の場合、先ず翻訳者のすべきことは、このドゥールーズの仏訳が正しいかどうか原文のドイツ語と照らし合わせて検証することである
指摘の箇所の仏訳は間違ってはいないようだが、もし間違えがあれば、訳注でそれを指摘しなければならない
河出文庫の江川、あるいは手伝った立教の院生は、そのような検証を行っていないようである
もし、やっていれば、ドイツ語の「irgendeine Grundgewissheit,---,etwas,---」は、誤訳しようがない簡単な単語であるから、指摘のような誤訳は絶対のしなかっただろう
irgendeine Grundgewissheit 何らかの根本確信
etwas あるもの
ちなみに岩波文庫の「善悪の彼岸」の訳は
「(この位階秩序を確定するものは、)高貴な魂が自己自らについてもつ何らかの根本確信である。
求められもせず、見いだされもせず、恐らくはまた失われもしない或るものである。」 >>300 サンクス。
わたくし>>263です。>>282でもありました。
原文に就くのを面倒くさがっていました。
で、菅野先生、昨年の歌会始の召人なんてもの、おやりだったんすね。
その、「窓」を題にて詠みたまへる歌:
きはやかに窓に映えたる夕虹は明日の命の先触れならむ
三十一文字なんぞとはついに縁のないお方と思うておりましたが。
これ、ま象徴派風と言っておきましょうか。マラルメ風とは言わないけど。 >>301
ごめんマラルメ風出ないのは元よりどの辺が象徴派なのか分からない。ご教授願う それもいいけどはよ出てこいよ>>280
ダサい嘘だけかまして逃げたのこいつ? これ、フランス語訳はどう考えても江川が正しいよ
仏検4級レベルあれば解ける問題 誤訳以前の知性の問題
江川は名誉毀損で訴えていいレベル >>304
Je ne sais pas quelle certitude l'ame noble a d'ellle-meme.(アクサン省略)
Je ne sais quelle certitude me fait dire que tu n'as pas raison.
それぞれ正しく訳せます?
たまたまこの板に書き込んじゃったので、Ecce Homoから次の文(仏訳)を
引いておくね。
Je ne vois pas dans quel siècle de l’histoire on pourrait réunir,
par un plus beau coup de filet, des psychologues si curieux et
en même temps si délicats que dans le Paris actuel :
je nomme au hasard — car leur nombre est considérable
— MM. Paul Bourget, Pierre Loti, Gyp, Meilhac, Anatole France,
Jules Lemaître et pour en distinguer un autre, de ceux de la forte
race, un vrai latin que j’aime particulièrement, Guy de Maupassant.
Gypという人を調べてみると、ニーチェのここの一節で有名、
なんて書いてあった… Je ne sais quelle certitude fondamentale d'elle-meme,
quelque chose qu'il est impossible de chercher, de trouver
et peut-etre meme de perdre
えーっと、これの訳ですよね?
これだけ見たらどう考えても>>263は間違いで、江川や>>280が正しい
まず↑のどこを訳したら「自分自身に対する或る確信」という和訳がひねり出されるのか?
で、後からいろいろ補足情報が出てきて、単に『善悪の彼岸』翻訳書に引きずられて正しくフランス語を読んでいないのが原因だと判明した
>>300によれば『善悪の彼岸』の当該箇所の翻訳(ドイツ語から日本語)は
「(この位階秩序を確定するものは、)高貴な魂が自己自らについてもつ何らかの根本確信である。
求められもせず、見いだされもせず、恐らくはまた失われもしない或るものである。」
だそうだが、フランス語の引用箇所には「高貴な魂」も「自己自らについてもつ」は一切ない。 既存の翻訳書と江川や>>280の訳のギャップを
>>263や>>283は"Je ne sais~"という「名詞のかたまり」を知らなかったからだと結論付けたようだが、これも見当はずれ。
正しくは不定形容詞(朝倉文法)で、大学院受験で使用した大修館の『スタンダード フランス語講座 解釈』も引っ張りだしてきたが、
「一種の不定形容詞。「何か得体の知れない、私にはわからない…」とある(pp.158-159)。
もっともこれは日常で子供でも使うレベルの会話で、
冒頭で"Je ne sais quel~"ときたら「(話者である自分には)よくわからないけれども〜」ぐらいにしか訳しようがない
>>282によるとニーチェのドイツ語原文とその仏訳は区切りが微妙に異なるようだ
フランス語テクストが
L’âme noble a le respect de soi-même, je ne sais quelle certitude fondamentale d'elle-meme,
だったら『善悪の彼岸』翻訳書に近い内容になるし、江川氏や>>280の訳文も微修正する必要が出てくるだろう
もっとも内容の理解や哲学的解釈を大幅に妨げるものではないから個人的にはどうでもいいけど、こだわりたいんだったらこの部分こそ指摘する必要があった いずれにしても
Je ne sais quelle certitude fondamentale d'elle-meme,
quelque chose qu'il est impossible de chercher, de trouver
et peut-etre meme de perdre
これだけポンと出されて、「高貴な魂が」とか「自分に対する」とか訳されたら、立教の第二外国語レベルの授業でもかなり問い詰められるぞ
菅野昭正は自分の指導教授の指導教授にあたる人物だが、学生が既訳に引きずられて原文の読みをおろそかにしたり、テクストにない要素をでっち上げたりする暴挙には相当厳しかったそうだ
ただし内容を理解するためにドゥルーズが引いたニーチェにもきちんと目を通す態度は立派だし、
もし仮にこれがドゥルーズの論の根幹と密接にかかわる問題だったのであれば、江川某も訳注などで何らかの配慮があってもよかっただろう
アンチ江川訳を擁護するとしたらこのぐらいのことしか言えない
これ以上は私の手に負えないので、ご納得頂けなければ江川氏か出版社に質問状でも送って下さいな。 Ce qu'une volonte veut, c'est toujours sa propre qualite et la qualite
des forces correspondantes. Comme dit Nietzsche, a propos de l'ame
noble, affirmative et legere :"Je ne sais quelle certitude (…)perdre.”
Nietzsche et la philosophie, PUF, p.89
ちなみにibid.p.137は Je ne sais quelle certitude 云々という名詞のかたまりを、
"une certaine certitude fondamentale qu'une ame possede au sujet
d'elle-meme, quelque chose qu'il est impossible de chercher, de trouver
et peut-etre meme de perdre"としている。
むろんはじめの引用”Je ne sais quelle certitude fondamentale d'elle-meme”
だけで、これが文でないことは自明。 フランス語が堪能だという方は、まだ和訳のない新しいものを訳してみせたらいいのではないか。 ようわからんな
>>263が旧仏訳で>>282が新仏訳ってこと?で旧仏訳に関しては>>309のほうが正しいってこと?
じゃあ話は終わりじゃね? >>312
俺も>>313と同じ質問だ。フランス語初心者にも分かるように説明を したがって訳す必要ない。フランス人になりたかったら。 ドイツだけは独自の語学を持つ。第二外国語にとるならドイツ語。
ニュースなんてよくわかるけど。 言語を持たない言語 文学を持たない文学 それがドイツ語ドイツ文学。 仏と独の戦争、そういう歴史が見どころ、互いに影響しているようで仲が悪い。 俺は仏文学翻訳中心に読んだけどそれは独自の文学作品でで原書とは違うんだと。 海を渡って縫製されたほうが価値があるように思う。人を使えというか。 書き手の読者の想定というのは国や海を超えるものだ。 音韻でなく字韻というのもあるが中国語のほうがいいとか。 マラルメ バタイユ ボードレール ネルヴァル ブランショなどを読み漁った。 詩と文学、日記の境界あたりにいたな。読者として。
アミエルの日記 日記のようなものを付けていたが日本文学の金字塔との評でした。 書くということ自体激しい、死ぬ前に命を残すようなものだよ。 去る前にその世界のためにしたためておくというような。 平凡ぐらいの語彙だときついと思うけど、物を表現するのに指し示すものを
上手く表象でとらえていない。 感受性がやせてるから平凡に映るだけ、一流の読み手はよく反応する。 Was ist vornehm? Was bedeutet uns heute noch das Wort »vornehm«? Woran verräth sich, woran erkennt man, unter diesem schweren verhängten Himmel der beginnenden Pöbelherrschaft, durch den Alles undurchsichtig und bleiern wird, den vornehmen Menschen? – Es sind nicht die Handlungen, die ihn beweisen, – Handlungen sind immer vieldeutig, immer unergründlich –; es sind auch die »Werke« nicht. Man findet heute unter Künstlern und Gelehrten genug von Solchen, welche durch ihre Werke verrathen, wie eine tiefe Begierde nach dem Vornehmen hin sie treibt: aber gerade dies Bedürfniss nach dem Vornehmen ist von Grund aus verschieden von den Bedürfnissen der vornehmen Seele selbst, und geradezu das beredte und gefährliche Merkmal ihres Mangels.. Es sind nicht die Werke, es ist der Glaube, der hier entscheidet, der hier die Rangordnung feststellt, um eine alte religiöse Formel in einem neuen und tieferen Verstande wieder aufzunehmen: irgend eine Grundgewissheit, welche eine vornehme Seele über sich selbst hat, Etwas, das sich nicht suchen, nicht finden und vielleicht auch nicht verlieren lässt. Die vornehme Seele hat Ehrfurcht vor sich. けっきょく、↑の新旧の仏訳の何がどうだという話なのですか。 ≫話ずらして誤魔化すなよ
問題になっているらしいものの原文なのだが。 Traduction par Henri Albert.
287.
— Qu’est-ce qui est noble ? Que signifie aujourd’hui pour nous le mot « noble » ? À quoi devine-t-on, à quoi reconnaît-on, sous ce ciel noir et bas du règne de la plèbe qui commence, dans cette atmosphère qui rend toute chose opaque et pesante, à quoi reconnaît-on l’homme noble ? — Ce ne sont pas les actes qui l’affirment, — les actes sont toujours ambigus, toujours insondables ; — ce ne sont pas non plus les « œuvres ». On trouve aujourd’hui, parmi les artistes et les savants, un grand nombre de ceux qui révèlent, par leurs œuvres, qu’un ardent désir les pousse vers ce qui est noble : mais ce besoin de noblesse même est profondément différent des besoins d’une âme noble, il est précisément chez eux le signe éloquent et dangereux de leur manque de noblesse. Ce ne sont pas les œuvres, c’est la foi qui décide ici, qui fixe le rang, pour reprendre une vieille formule religieuse dans un sens nouveau et plus profond : c’est une certaine connaissance foncière qu’une âme noble a d’elle-même, quelque chose qui ne se laisse ni chercher, ni trouver, et qui peut-être ne se laisse pas perdre non plus. — L’âme noble a le respect de soi-même. — >>308の Je ne sais quelle certitude me fait dire que tu n'as pas raison.
(ある確信が私に君は間違っていると言わせる)ではJe ne sais quelle certitudeが
名詞のかたまりだよね。
ところで『ニーチェと哲学』の新訳は、同書に何度も出てくる
ELEMENT(アクサンの回避のための大文字)を「要素」と訳している。
うろおぼえだが旧訳では「境位」だった。
L’EAU EST L'ELEMENT DES POISSONS.を「水は魚たちの要素だ」と
訳せないように、例えば原書p.7の
LA VOLONTE(VOLONTE DE PUISSANCE) EST L'ELEMENT DIFFERENTIEL
DES FORCES を「(力能)意志は諸力の差異的な要素だ」とは
訳せないんじゃないかな。水があるから魚たちが生きられるように、
力能意志があるから諸力が存在するんじゃないだろうか。 足立役は、たしかに「境位」だったはずだ。
新訳は読んだことがないのでわからない。
魚のほうは、要素ではなく、生息場所とか、そういう意味でしょう。
力能のほうも、「要素」としてあるならば、
それよりは「境位」のほうがいい(というか「要素」は誤解に基づく訳の)ように思うが、
ドゥルーズの思想については、足立訳のでたころよりも
いろいろ理解が深まっていたのだろうから、
何か理由があって、ということはないのですか。 ちょっと調べてみたら、
ニーチェ思想における力能(Macht, puissance)と力量(Kraft, force)の質的差異という観点
ドゥルーズは、ハイデガーが論じなかったこれを強調した、という人もいるようだ。
ならば、「要素」という訳もありのような気がした。 たぶんネタはこれだと思う。
ベクトルに含まれるスカラーを成分(component)または要素(element)という。
そのドゥルーズ『ニーチェと哲学』の新訳の「要素」というのは、
おそらく↑からきているのだろう。 >>347
ネタ?釣り?
ことごとく間違いだらけなんだがwww >>347
この方の疑問は当然だと思う。
ニーチェ思想についての理解が正当なので、
(おそらくだが、)ドゥルーズがけっこうテキトウなことを書いたということに気づかず、
かつての訳者の足立氏とおなじく、ニーチェ思想に則して理解したのであろう。
知っての通り、ニーチェの「意志」というのは、ショウペンハウエルから来ており、
それは、ヘーゲルの「精神」やカントの(自己定立する実体又は主体としての)「物自体」と
その思想体系上はそれらと同じような、いうなれば「基体」的な位置にあるものだと思う。
そういうわけだから、しょうがないところがある。
江川訳のほうは、ドゥルーズのその種のテキトウさについて知れ渡ってからのものだから、
ネタであろうベクトル解析学などの用語に基づいて訳したものだと思われる。 足立和浩は、三島憲一に協力してもらい、当時のドイツにおけるニーチェ研究の成果を踏まえて
『ニーチェと哲学』を訳したということだそうだ。
それゆえ、かえってニーチェ思想を「正確」に理解していたせいで
「境位」と訳したのではないか。 Je ne sais quelle certitude me fait dire que tu n'as pas raison.
(ある確信が私に君は間違っていると言わせる)ではJe ne sais quelle certitudeが
名詞のかたまりだよね。
こんなありえんバカがニーチェだのドゥルーズだのなんのギャグなんだ Fランレベルの語学力でよくもいけしゃあしゃあと偉そうなことをw
おそるべき厚顔無恥です
・「イディオムとしての je ne sais 〜を知らないとは、おそるべき力量です。」
・「見落としたにしても随分と程度の低い大学、学生さんですな。」
「 je ne sais 〜は名詞のかたまり。「私は…よく分からない」と訳すのは文法的におかしいし、文意が
まったく通らない。分かってなきゃいけないの。」
・「ダサい嘘だけかまして逃げたのこいつ?」
・「Je ne sais quelle certitude me fait dire que tu n'as pas raison.
(ある確信が私に君は間違っていると言わせる)ではJe ne sais quelle certitudeが
名詞のかたまりだよね。」 「名詞のかたまり」=「名詞句」ね。
ところで原書p.25に Qu’un dieu prenne sur lui la responsabilité de la folie
qu’il inspire aux hommes, ou que les hommes soient responsables
de la folie d’un Dieu qui se met en croix, les deux solutions ne sont pas
encore assez différentes, bien que la première soit incomparablement
plus belle.とある。「人間たちに狂気を吹き込んだ責任を(小文字の)神が
みずから引き受けるという(ギリシャ的な)解と、みずから十字架に赴いた
(大文字の)神の狂気の責任を人間たちが負うという(キリスト教的な)解とは、
前者のほうがはるかにはるかに美しいとはいえ、依然としてそう異なっていない」
ってことだけれど、しかし新訳は(p.59)「(…)なこと、あるいは(…)なこと、
この二つの解決策はそれほど異なってはいないが、それでも前者の方が
比較不可能なほどずっと美しい。」とする。すごいね。
この直前の一節も大問題なのだが、長いのであとまわし。ないしカット。 「諸力」の力というのは、Kraft, forceであって「ベクトル」として扱われるべき概念であって、
つまりそれぞれの力が固有の方向をもっている。
たいするに、「(力能)意志)というのは、Macht, puissanceであって、
「スカラー」として扱われる、いわば「生命のポテンシャル」みたいなものであろう。
といったようなジル・ドゥルーズお得意のSF哲学だろうという理解があって、「要素」という訳語になったのではないか、
と思っただけのことですよ。
ちなみに、器官なき身体にしてもスカラー場みたいに書いていたのではなかったかな。
あるいは誰か理系っぽくしたがる人の研究論文に書いてあったのかもしれない。
そこは記憶が定かでない。
書き込みのそのほかの部分については、わたしとしては、なにも述べていません。 >>355
まわり全員同一の敵に見えてるとか必死やのうw
しかし目先のフランス語にだけ飛びついて
原文・訳書にも当たらずに口を挟むとかアカデミズムのかけらもおましまへんなあ
しかも手元に善悪の彼岸一冊も持ち合わせてないとか変わってまんなあ >>360
別にいいじゃない。語学力なければ黙っていればいいこと Jenseits von Gut und Böseの訳ではなく、Nietzsche et la philosophieの訳なのだから、
とうぜん、後者に書いてあるように訳すのではないですか。 >>353
ニーチェは糞
俺ははっきりとニーチェの思想を理解しているぞ
ニーチェの思想とは『何一つはっきりと物を言わず、バカを騙して賢く見られたい!』
これだけ 今読んでるけどデカルトも糞
糞とまでは言わないけど文学としてみると糞 >>356
ようするに、
[前者のほうがはるかにはるかに美しいとはいえ、依然としてそう異なっていない」
↑のように訳すべきなのに、江川訳では↓だ、ということなのね。
[この二つの解決策はそれほど異なってはいないが、それでも前者の方が比較不可能なほどずっと美しい。」 どっちも論理的には同じ内容だが、原文のニュアンスにより近いのは江川
残念ッ!(笑) ニーチェ思想的には、古代ギリシア文明も、キリスト教文明も、
どっちもルサンチマンだ、ということに重点があるのだろうから、
ギリシアのほうが「比べようもなくずっと美しい」にもかかわらず、
(実は)依然として代り映え在りませんでした、という方が伝わりやすいような気はする。
『ニーチェと哲学』では、ニーチェの古代ギリシア賛美のほうを強調するようなところがあっただろうか。 >>368
訂正
×古代ギリシア文明も、キリスト教文明も
〇ソクラテス・プラトンの時代には古代ギリシア文明にしても、キリスト教文明と同じく、 前者と後者が提示した解決策は大して異なっていない。前者の方が比較のしようもないほど美しいのにもかかわらず、である。
境域と要素はどっちでもいい
まずは丁寧に仏仏、独独辞書を引いて、語の広がりやふくらみをつかむ
最低限大きめの仏和、独和を引いて、例文を全部カードやノートに書き写して暗記する
そうすれば「水は魚の生息環境である」も「水は魚にとって必要不可欠な要素である」で議論するのが愚かなことに気づく
辞書で拾ってきた訳語コロコロ当てはめてあーでもないこーでもない言ったところでいつまでたっても本質的な理解には届かんよ
全体的に足立は力量不足をそれらしい衒学的な用語で逃げてる傾向
『グラマトロジー』なんて天下の悪訳だよ おそらく『善悪の彼岸』ではなく『悲劇の誕生』がもとなのではないか。
そういうわけでソクラテス・プラトン時代のアテナイはどうも関係ないようだ。
また、「異なっていない」のは、おなじく「ルサンチマン」なのではなく、おなじく「二ヒリズム」だということのようである。 Deleuze, Nietzsche
Par rapport au christianisme, les Grecs sont des enfants. Leur façon de déprécier l'existence, leur « nihilisme", n'a pas la perfection chrétienne. Ils jugent l'existence coupable, mais ils n'ont pas encore inventé ce raffinement qui consiste à la juger fautive et responsable. Quand les Grecs parlent de l'existence comme criminelle et « hybrique », ils pensent que les dieux ont rendu fous les hommes: l'existence est coupable, mais ce sont les dieux qui prennent sur eux la responsabilité de la faute.. Telle est la grande différence entre l'interprétation grecque du crime et l'interprétation chrétienne du péché. Telle est la raison pour laquelle Nietzsche, dans l'Origine de la tragédie, croit encore au caractère criminel de l'existence, puisque ce crime au moins n'implique pas la responsabilité du criminel. « La folie, la déraison, un peu de trouble dans la cervelle, voilà ce qu'admettaient les Grecs de l'époque la plus vigoureuse et la plus brave, pour expliquer l'origine de beaucoup de choses fâcheuses et fatales. ≫「水は魚の生息環境である」も
≫「水は魚にとって必要不可欠な要素である」で議論するのが愚かなことに気づく
魚が水に棲んでいる、ということと、魚の体が(七割くらい?〉水でできている、
というのは全然違うだろう。 >>371
足立訳の『グラマとロジー』のどこがどう悪訳なのか例示してください。 >>375
日本語の単語レベルで考えるからそうなる
上で書いたように辞書の説明と例文を何度も熟読しろ
そうすればサルでもわかる
まともな西洋哲学の研究者だったら誰でもそうしてる
訳語を決めるのはその先の話
横着して日本語だけで考えてるようではいつまでたってもスタートラインにすら立てないぞ
匿名掲示板で哲学ごっこ楽しむだけで終わりたいんだったらそれでもいいがwww >>376
一つ一つ例を挙げて説明すると膨大になる
ずいぶん昔に死んだけど、高橋允昭という人が確か『デリダの思想圏』で足立の誤訳についていろいろ書いていた
興味あるんだったらまずはそれ読んでみて、その上で何かあれば そんな膨大でなく、一つ、二つでいいから、例示してください。
別に手間ではないでしょう。 ≫日本語の単語レベルで考えるからそうなる
訳語の話なのだから、「日本語の単語レベル」なのではないの。 (差異的な)「要素」では、「権力への意志」が「諸力」を構成するものの一つになって、
他にも何かあることになるだろう。
ドゥルーズとしては、「権力への意志」について、それ自体が力能であるような「場」というせんで論じていたのではないか。 >>368
訂正
×(実は)依然として代り映え在りませんでした
〇(内実が)違うわけではありません ところで、問題になっているのは、
Nietzsche (1965)ではないのか。
江川隆雄訳があるのですか。 Il faut qu'un dieu l'ait aveuglé, se disait le Grec en hochant la tête... Voila la façon dont les dieux alors servaient à justifier jusqu'à un certain point les hommes; même dans leurs mauvaises actions, ils servaient à interpréter la cause du mal —en ce temps-là, ils ne prenaient pas sur eux le châtiment, mais, ce qui est plus noble, la faute. Mais Nietzsche s'apercevra que cette grande différence s'amenuise à la réflexion. Quand on pose l'existence coupable, il s'en faut d'un pas pour la rendre responsable, il s'en faut d'un changement de sexe, Ève au lieu des Titans, d'un changement dans les dieux, un Dieu unique acteur et justicier au lieu des dieux spectateurs et " juges olympiques". Qu'un dieu prenne sur lui la responsabilité de la folie qu'il inspire aux hommes, ou que les hommes soient responsables de la folie d'un Dieu qui se met en croix, les deux solutions ne sont pas encore assez différentes, bien que la première soit incomparablement plus belle. 昼夜逆転ひきこもりジジイ、Nietzsche et la philosophie (1962)もしらんのかよ >>378
俺もそれ読んだ覚えがあるけど、内容は忘れたな
悪訳というか用語に汎用性がなくて難があったとは思うが、
実際には読めてしまえるから特に問題ない
哲学専攻の人なんかはいらつくのかもな >>386
>>385
↑は、Nietzsche (1965)
これからの引用ですよ。 >>388
分かってるよ、>>383へのレスな
第一、お前ネットからコピペしてるだけだし >>356
と
>>385
は同じ文なんだけれどね。
これに江川訳があるのか、といったわけ。 力と身体ードゥルーズとニーチェ哲学
濱中健太
〈身体はあらかじめ決まった形をもつものではなく、多様な現象、多数の力の統一から構成される。
多様な現象、多数の力を統一するのが力能の意志である。力能の意志は、いかなる力が支配するかの方向を決定す
るものであった。力能の意志が多数の力を統一することで身体は産み出される。力能の意志が諸力の方向を決定し
統一することで、身体を産み出すことから「力能の意志は身体である」とされるのである。〉 >>390
あるよ
>>356にp.59って書いてんじゃん >>388
ところでこれ、ホントに『ニーチェ』(1965)からの引用か?
てめーはネットからテキトーに引用するばっかだから怪しいもんだ
『ニーチェ』に『ニーチェと哲学』と丸被りしてるところなんてあったっけ?
ちくまの『ニーチェ』捨てちゃって手元にないんで確かめられんけど >>393
では、江川訳『ニーチェと哲学』の59ページに、
>>385
これの訳があるわけね。 >>396
あるっつってんだろボケ
書き写すのはめんどいからやんねー
お前みたいなゴミ暇人じゃねーんで これは『ニーチェと哲学』なの。
1965年のだと思った。 >>396
でお前が言うには『ニーチェ』に>>385の訳があるわけね?
何pか教えてやれよwww >>398
お前がアホなのはいつものことじゃん
ドンマイ >>389
の「分かってるよ、>>383へのレスな」
これは間違いということですか。
なお、『ニーチェ』はもっていない。読んだこともない。 >>401
お前を信用したのが「間違い」だったってことやなw
お前のアホさをど忘れしてたわ >>402
あなたは、
>>356
で
>>385
と同じ文を引用した人なのでしょう? >>403
それは違うぞ
>>315でもう話終わりだろって言ってんのが俺
江川訳には不備もありそうだね、で終わり そうそう、見ればわかる
でも中にはふつーに見てもネットからの引用すらままならないアホもいるんだよ 402吾輩は名無しである2023/03/31(金) 07:45:37.58ID:Flj16len>>403
>>401
お前を信用したのが「間違い」だったってことやなw
お前のアホさをど忘れしてたわ
信用するもしないも、みればわかるわけよ、
>>356
の江川訳には不備もありそうだ、というのがわかるのならば。 >>407
だから、見れば誰でも分かるんだよw
後でお前の引用元のページを見てわかったから違うんじゃねーのって指摘したわけでw 389吾輩は名無しである2023/03/31(金) 06:54:25.84ID:Flj16len>>401
>>388
分かってるよ、>>383へのレスな
第一、お前ネットからコピペしてるだけだし アホヅラ下げて誤った書き込み垂れ流してんだから
間違いましたと土下座すればいいだけw
>↑は、Nietzsche (1965)
>これからの引用ですよ。
>↑は、Nietzsche (1965)
>これからの引用ですよ。
>↑は、Nietzsche (1965)
>これからの引用ですよ。 >>411
お前がネットのコピペしかしてないのはいつものことじゃんw
→ >>391
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww まさかコピペ元の文章がどこからの引用かすらも把握できないほどアホとは予想外っすわ〜www >>384、>>385は「と哲学」の方の原書p.25。ここでDはまず「ギリシャ人もまた、
キリスト教と同じく実存を罪深いものとしたが、キリスト教がそれは人間が悪いのだ、
人間に責任があるのだと言うのに対して、ギリシャ人は、神々が人間をたぶらかした
のだ、神々に責任があるのだ、とした」と言ってから「しかし後にNは考えてみれば
この大きな差異もそれほど大きくないと気づくだろう」とし、こう続ける:
Quand on pose l’existence coupable, ils s’en faut d’un pas pour la rendre
responsible(…)。さて新訳はこれを「罪ある実存が措定される場合、この実存を
責任あるものにするには後一歩が足りない」と訳すのだが(p.59)、むろんこれは
「実存を罪深いものと措定する場合、それを有責のものとするまで一歩が
足りないに過ぎない」「実存を罪深いものと措定するところからそれを有責の
ものとするまでは、ほんの一歩である」という意味。 けっきょくドゥルーズは、古代ギリシア人の文化にしても、
のちのキリスト教文化のニヒリズムとくらべれば完全さにはちょっと足りないので、
いわば、まだ「子供」なのだが、やはり、すでにニヒリズムの「段階」にはあった。
そして、悲劇がさらにそのニヒリズムを洗練させた、ということを重点に論じているのに、
江川訳では、古代ギリシアの文化はすでにニヒリズム(の子供段階)ではあったが、それでもすごく美しいのだ、
というように、あたかもドゥルーズがこの部分で、ニーチェの古代ギリシア賛美、それに重点を置いて論じているかのように
読まれてしまうのではないか、ということを言いたいわけですか。 ×けっきょくドゥルーズは
〇けっきょくドゥルーズはニーチェを通じて、 Title Deleuze-Nietzsche Et La Philosophie [PUF 1962]
↑はとうぜん無料。 >>416
あんたらの論争とは関係ないけど何言ってるのか一ミリもわかんね
なんだよ「キリスト教文化のニヒリズム」とか
「悲劇がニヒリズムを洗練させた」とか
そんな言葉使ってるとアホになるぞ クソゲー内の必殺技の話でもしてると思えばいいんだよ
やってることはキモヲタと変わらんし現実生活に全く関係しないから わたしは、単に質問をしているだけで、論争などはしていない。
ID:TLUCc6l1さんが、江川氏の訳のどういうところが大問題だと思って
あれこれ指摘をしているのか、その理由をたずねているのです。 >>421 そうです。bien que〜を素直に訳せば、Il s'en faut d'un pas
のここでの意味合いを誤解するはずはないのですが…。
ちなみに>>385さんが引いてくれた " juges olympiques"って、hellanodikai
のことなんですね。hellanodikaiは人間(神官)であり神々ではないのですが、
キリスト教の神を「アクター(役者=行為者)であり裁き手」とするその
対句として、ギリシャの神々を「見物人でありオリンピックの審判」と
言っています。 江川訳を読んだことがないので、たしかとはいえないが、
このスレッドに引用されたところをみるかぎり、もっともな批判のようには思う。 何言ってるんですか、違いますよ。
ID:DymAUBKkさんはただのアホです。
ID:TLUCc6l1さんはちょっとだけイタい人です。
どちらも年寄りなんでいたわってあげて下さい。 自演なんかしていませんよ。
わたしは、柄谷スレッドの8割がたを書き込んでいる者です。 その方は、ただの無職ですよ。
ニートと呼ぶには、年を食い過ぎています。 無職だからバカにする気は一切ないが、いろいろ足りてない。
基本的な語学力、読解力、論理的思考力、引用の仕方、論点の提示方法、質疑応答…。 > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 『ニーチェと哲学』においてドゥルーズはvolontlé de puissanceを
élémentでありprincipeだと言う。前者が「要素」でなく「境位」であるように、
後者は「原則」ではなく「本源」である。 ≫ドゥルーズはvolontlé de puissanceをélémentでありprincipeだと言う。
「本源」あるいは「根源」、ドゥルーズがそういうものだといっているのだとすれば、
ハイデガー『ニーチェ』のニーチェは形而上学の完成者であるという解釈と
ドゥルーズの解釈もそう違わないことになるのではないか。
ドゥルーズは、ハイデガーのニーチェ論をずいぶん批判していたわけだが、
けっきょくは、おなじようなことを言ってしまった、ということになるだろう。
反抗してはみたものの、実のところ、やはり先生のいうとおりでした、みたいなものでしょうか。 浅田と誰だったかの対話集『天使が通る』に、「ドゥルーズにしても
フーコーにしてもその[=ハイデッガーの『ニーチェ』の]決定的な
影響を受けている」とある(p.74)。ま、そりゃそうでしょうよ、って
話だけど。 フィリップ・ソレルス死去
『女たち』つまらなかったな >>437 クリステヴァの旦那さんだかパートナーだったとか。
どちらの言い方が正しいのですか? 旦那だろ。philippe joyauxがソレルスの本名で、クリステヴァはmadame joyauxとなってて、息子はdavid joauxとなっていた。
ソレルスはハンサムだから、クリステヴァが気に入ったんだろ。
小説がつまらんとか、クリステヴァには問題にならんw じゅわいよくちゅーるマキ、ってのがあったな。joyaux、宝石。 >>442
俺は子供の頃、「実はお前はうちの子じゃないんだよ。」と、家族に言われたもんだがw PCのclavierにtaperするときun peu échouerしたからといって
piedをleverしたやつをtenirしてはil ne faut pas.
ちなみに『新エロイーズ』を読もうと思うんだが、やっぱり翻訳が
手っ取りばやい。二種あるうち、松本さんのやつの方が文章がいいみたい。 ルソーは学問芸術論を読んで失望した、衒学趣味ぷんぷんの鼻くそみたいな論文
デカルトもやれ「真!」だ「偽!」だうるさいくせいに
こと「神がいる」という証明にかぎっては「いるっていったらいるんだもん!」という糞理論で自分に甘い
パスカルもやたらモンテーニュに張り合う癖に、人間の実例の中身すっかすかな議論で読む価値がない
反対にモンテーニュは人間を実によく見ていて、まっすぐで偉大
ディドロの小説もすばらしい
ヴォルテールも優しくて好き ジャズ・アンビエントから、じょじょにSF的な顏を出してくる流れ
なかなかオモシロくないですか?
//youtu.be/f0og1UrDFy0 いま、ポール・ブールジェ『宿駅』を岩波文庫の古本で読んでいる
もう廃れてしまった作家だから退屈だろうと予想したが、意外と面白い
『星の王子様』の翻訳もした内藤濯訳がかなりよい 自分はヴォルテールの『カンディード』を光文社古典新訳文庫で読んでる。
リスボン大震災に寄せる詩も収録されていてなかなか興味深い。
プルードンの『貧困の哲学』を訳した斉藤悦則訳が良い。 イジメを苦に自殺する生徒が多く社会問題となっているフランス。
マクロン政権は9月に「いじめへの予防策や加害者への厳罰を
内容とする総合対策を明らかにした。
過去3年間に、イジメを経験した生徒は100万人。
ボルヌ首相は、今年、イジメを受けて自殺した5人の
生徒の名前をあげた。
↑
いずこの国も同じで、イジメ対策はなかな進まない >>450
J'ai entendu dire qu'en France, on peut être arrêté pour harcèlement. Apparemment, la police arrive à l'école. Je suis allé dans un lycée à Orléans, où les filles fumaient pendant les récréations. >>458
Mais je me demande pourquoi la France ne légalise pas de fumer de l'herbe ? C'est rationnel. Les Français ont plutôt du bon vin et du bon sexe, contrairement aux Anglais et aux Américains. Contrairement à l’Amérique ou au Japon, la France est beaucoup plus libre en matière de relations sexuelles hors mariage. Si M. Matsumoto était né en France, il n'aurait pas perdu son honneur et l'hebdomadaire aurait été attaqué par la justice. J'aime toujours la femme du ministre sexy du Japon, même si je déteste le parti, parce que je suis de gauche. ウジェーヌ・ダビの『北ホテル』を何としても読みたい。復刊求む! いかにもめっちゃ無理してフランス語を書いてる日本人らしい文章ですな フランソワーズ・アルディの崇拝者としてはcomment te dire adieuを聴くばかりだな。 ★ ミシュリーヌ・プレールさん (フランス女優)
仏のメディアによると今年2024年の2月21日、
パリ近郊で死去されました、101歳。
40〜50年代のフランス映画、演劇界を代表する名優・
ジェラール・フィリップ主演の映画「肉体の悪魔」(1947年)
でヒロインで出演されました。謹んで哀悼の意を表します。
「肉体の悪魔」は数少ないラディゲ原作の映画でした。
プレールさんは1922年8月、パリ生まれ。
戦前からフランスを代表する女優の一人でした。
2017年、ダニエル・ダリューさんが100歳で亡く
なられた時はこの方はとても元気でした。
あれから6年経ちました。
昭和70年代まで日本で上映されたフランス映画関係の方々は
この方が最後で、もう居られないでしょう。 70才の阿川佐和子と相手の80近い爺さんは、アグレッシブな営みをやってるとか。 ラクルテルの『反逆児』が読みたいんだが。
あれほどの名作が、もう手に入らない。 >>470
読む前からなぜ名作と分かるのと突っ込んでおく シドニー=ガブリエル・コレットが20世紀の十大小説の1つに選んでいる。 >>473
なるほど。名作かどうかは自分で読んで見ないと分からないが読んではみたいな。因みに俺のググり方が悪くてヒットしないだけだと思うが残りの9冊にも興味がある 『反逆児』新本は売ってないが、古本なら安く売っている 旧字体だとちょっとね、読みずらいので。シムノンの『雪は汚れていた』
も名作と言われてるのに、古本でも手に入らない。 フランソワーズ・サガン『ブラームスはお好き』河野万里子新訳
新潮文庫刊行 サガンはいいよね。『悲しみよ〜』『ある微笑』に『ブラームス』が
3大傑作だと思う。最近は図書館でマルセル・エイメを読んでます。