〜野蛮さについて〜

繊細さと野蛮さと


浅田 実際、ある意味で野蛮そのものの唯物論的な問題というのがあって、映画で言えば、
    照明の問題であったり、カメラの問題であったり、唯物論的な細部においてこそ繊細さが
    問われるわけですよね。それは文章を書くにせよ何にせよ同じです。
    そこのところの判断基準っていうのが随分甘くたっているでしょう。これはやっぱり驚いちゃいますね。

蓮實 こうまで判断基準が甘くなっていくと、こちらが無意味に繊細さを気取ったりするという
    バカなことをしはじめるでしょう。これはどうしたらいいんですか?

浅田 しかし、具体的に言って、批評っていうのはその両方ないとどうしようもないんじゃないですか?
    たとえば音楽だって、ピアノなんていうのは大体誰が弾いても同じ音が出るはずなんだけれども、
    しかしやはり、技術的に指示入る角度と速度の関係で微妙に音色示違うんで、
    そこのところに感動できなければ、まず音楽について語り得ないですよ。

蓮實 資格がない(笑)

浅田 ええ。その辺を括弧に入れた人たちがどんどん音楽について書いてしまう。
    それにまず苛立ちますよね。しかしまた、そのような細部に関する好みが、
    ある文化的な共通了解を形づくってしまって。
    それが野蛮なものの突出を妨げるとなると、それにまた苛立つわけですよ。結局その二重の苛立ち、
    あるいはそれと裏腹になった音楽なら音楽に対するある種のドライヴでもって
    物を書くとしか言いようがないでしょう

蓮實 やっぱり「魂の唯物論的な擁護」でしょうか? (笑)それしかないでしょうねえ。
    但しそれは、到達すべき目的でも何でもなくって、そういう中間をわれわれがひたすら
    横切り続けていればいいわけなんですね。横切るというか、横断するというか、
    そこを通過しつつあるという実感に、皆もう我慢できなくなっちゃったわけでしょう。
    抜けないといけない、と。