>>518
三島中洲はこの時代に、洋学中心になっていくのを留めようとして漢学中心の塾を開いた
そんで、中学の認可を受けて生徒を集めた
で、漱石が明治14年4月に入学するんだけど、その年の7月には中学の認可が取り消されている
ここで漢学・儒学続けていても大学に入れないことがわかって進路変更している
二松学舎に11月まではいたことは二学期分の講義修了の書類が残っているが、いつまで通っていたか、漢籍を売り払ったのがいつかははっきりしていない
一年いたって主張するのは講義も取らずに2年後の成立学舎入学までのいつかまで通っていたという主張ね
否定もできないけど根拠もないんじゃないの
三島中洲の始めた二松学舎が300人くらいに膨れ上がったところで中学の資格を取り消された時期で、結構大変な時期なのよ

先生が漢詩の素人をもってみずから任じたことは、やはり「思い出す事など」に、言葉がある。
「余は年来俳句に疎くなりまさった者である。漢詩に至っては、殆んど当初からの門外漢といっても可い」。
吉川 幸次郎 漱石詩注 (岩波文庫)

調べて書き込むっていってもネットにはいろんな矛盾した情報があるから注意してね