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【独り言】文学板雑談スレ256【あり枡】
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0593吾輩は名無しである
垢版 |
2018/12/28(金) 01:02:02.33ID:RM6sSwmp
>>591
A is B, B is C ならば A is C.
三段論法はどんなに論理が嫌いと言いながらも利用せざるを得ません
あるいは、嬉々として三段論法で救済の論理を作ります
ここで、Aにイエス・キリストは入れていいのでしょうか?
イエス・キリストはJesus is Christ.救世主であるイエスという二つの属性を持ちます
Jesus Christは固有名詞のようでありながら、Jesusという人性とChristという神性が結合させられています
A is incarnated.
受肉するという動詞は、Aが固有名詞では成り立ちません
非人格的概念が擬人法的に実体化するという動詞で、主語に制限があります
一方で
A is resurrected.
復活するという動詞はAが固有名詞でも一般名詞でも成り立ちます
問題は、イエスとはキリストなのか、キリストとは何なのかです
ナザレのイエスが受肉した、あるいはイエス・キリストの人性が受肉したということはできません
イエス・キリストの神性が受肉したことになります
ナザレのイエス、あるいはイエス・キリストの人性が復活した、と言うことはでき、イエス・キリストの神性が復活した、と言うことはでき、さらにイエス・キリストの人性と神性が復活した、ということができます
ここで、問題なのは固有名詞、歴史性を引き受けた存在としてのJesus ChristはすでにChristという、人類の救世主(メシア)という属性を与えられた・受容した名詞でもあることです
メシア=キリストがユダヤ的な王や祭祀であること可能性は置いておいて、人類を救済しうる能力は神的である、ならばメシアは神的であることが要請される
問題はJesus Christという主語の中に、「受肉」と「復活」という動詞を切り分けるものがあります
A is perfectly human. A is perfectly devine.
AがJesusという人間であり、かつChristという神的存在であるとき、アリストテレスの論理学を使うとおかしな問題が生じてきます
0594吾輩は名無しである
垢版 |
2018/12/28(金) 01:18:20.83ID:RM6sSwmp
Jesus Christ is resurrected. Resurrection is for salvation.
So Jesus Christ is Christ, who redeem us.
人間でないものが復活したとしても人間は救済されない
だから復活した故に救済する方は完全な人間でなくてはならない
神性と人性の入り混じった人間と「似ていないもの」では救済にはならない
Ressurection is Deeds of God. Jesus Christ is Redeemer.
So Jesus Christ is devine.
救いは神の力によるものでなくてはならず、だから救い主は神的でなくてはならない
Jesus Christ という言葉自体にキリスト論があり、少なくとも救済を前提とするメシアとしてのイエスは人性を持ち、神性を持たねばならない
A is B. A is C.
ここでBがCと通じるのか、通じ合わないのか
相容れないとするなら解決策は論理を追求するとBかCが誤りとなる
Jesus Christ is human. Salvation is only derived from other God.
これはキリストの神性を否定するエビオン説、養子説
Jesus Christ is not human.
そもそも人間ではなく神以外のものではないとする、これが様態論(単神論)
さらに
Jesus Christ is not human, the God これは単神論
Jesus Christ is not human, a God これは三神論を含む多神論
Jesus Christ looks like human, a/ the / - God これが仮現論
グノーシスによらず、仮現論的な描写は聖書にもある
これらの異端は全て、A is perfectly human. A is perfectly devine.という難問に立ち入らないための合理的な選択
それでも神性と人性の完全なJesus Christはニケイア信条で確定された
0595吾輩は名無しである
垢版 |
2018/12/28(金) 01:41:49.45ID:RM6sSwmp
なぜ数あるアリストテレスの論理を無視する非アリストテレス的Jesus Christが成立したか、は全て救済のため
復活によって救済する、ならば復活したものは救済の力を持つ神的存在でなくてはならぬ
受肉によって救済する、ならば受肉したものは救済の力を持つ神的な存在が完全な人の形をとらねばならぬ
しかし、このJesus Christという一見固有名詞、でありながら「救済するもの」という重い機能的状態を付加されていることばはアリストテレス的には矛盾している
「受肉」という言葉とついになるのが「生む」という言葉
Jesus Christ is born from Mary. Jesus Christ is perfectly human, and perfectly devine.
ここまで誰も文句は付けられない、ところが
Mary is mother of the human, and mother of the God.
マリアは人を生んだから人であり、かつ神を生んだから神の母である
マリアは人の母であり、神の母でもある
マリアは人でもあり、神でもある
これが大問題で、一たびイエス・キリストを歴史的存在として受け入れると、あらゆる神的でかつ人的な存在があふれ出す
すると、歴史的・一回性であったイエス・キリストという出来事が普遍的・超時間的になっていく
これを再び一回性に回収しようとする、ブリリアントな試みに乗り出したのがネストリウスと言う人で、失敗こそすれ、彼自身はネストリウス主義者であったことは一度もなかった、と評される人です
「受肉」による救済、と「復活による救済」が超時間的か否かで違いがあるように思われる、とのこと
問題は「イエス・キリスト」ということばに含まれていて、「受肉」と「復活」においては人性と神性で「イエス・キリスト」という言葉に問題があります
アリストテレスの破綻がここにはあって、あえてアリストテレスを貫こうと三段論法が成立する形態をとろうとすると、「イエス・キリスト」の人性・歴史性が抜け落ちて神性・機能性が強調されます
しかしニケイア公会議以降はこれらの異端は成立しなくなります
その上で、じゃあ異端が解決しようとしたアリストテレス的アポリアを突き詰めたところにいるのがネストリウスの提示した問題と解決になります
0596吾輩は名無しである
垢版 |
2018/12/28(金) 01:52:44.24ID:RM6sSwmp
2世紀というのがアリストテレスの論理(プラトン神学の婢としての)に教義を合わせて行った結果、反動が出て3世紀に公認されるとともに教義の統一をあくまで救済に求め、「イエス・キリスト」の神性と人性が「定義」されます
この時点から「イエス・キリスト」の印象はそれ以前とは異なったものになっています
あえてアリストテレスの排中律を配した「反知性的な選択」(by 森本あんり)をとった結果、問題が噴出し始めていきます
「受肉」と「復活」のずれは、「母」という言葉で問題点を提出したネストリウスと同じ問題圏にあると思います
問題は「の」が「受肉」と「復活」で違うかだったかと思いますが、その通り。「イエス・キリストの復活」と「イエス・キリストの受肉」では文法論として違いがある
後者ではイエス・キリストの「キリスト性」を「普遍名詞性」を強調するため、時間性も変わるでしょう

who is Jesus? イエス論・言行録
What is Christ? キリスト論・メシア論・救済論
Who is Jesus Christ? 
What is Jesus Christ?

「人類を救済する人間」という主語はアリストテレスの論理学を破綻しうるもので、たぶんお答えにはなっていませんが答えるならアリストテレスとネストリウスを持ってくるしかないです
1世紀から2世紀→4世紀から5世紀まで飛んでいますが、連続性があると思います
0597吾輩は名無しである
垢版 |
2018/12/28(金) 02:13:40.08ID:RM6sSwmp
>>595の補足
>なぜ数あるアリストテレスの論理を無視する非アリストテレス的Jesus Christが成立したか、は全て救済のため
>復活によって救済する、ならば復活したものは救済の力を持つ神的存在でなくてはならぬ
>受肉によって救済する、ならば受肉したものは救済の力を持つ神的な存在が完全な人の形をとらねばならぬ
この考えは3世紀後半から、徐々に「復活による救済」と「受肉による救済」がともに認められ始める時代です
この二つをともに肯定すると、「イエス・キリスト」は人であって神であり、かつ人性と神性は交じり合わないという教義が少しずつ、本当に少しずつ析出していきます
2世紀にはパウロの書簡集は複雑な経過をたどり、あまり読まれなくなっていた時期があります
引用ですが
>グノーシス主義諸派がしばしばパウロを引用していたために、二、三世紀の護教論者たちはパウロの復活理解よりは、福音書に見られる反仮現論的復活理解を肉体の復活の教義として発展させたが、
>オリゲネスはパウロ書簡のみならず、旧約聖書や福音書の記述に基づいて終末論的様態変化としての復活理解を展開した。
>それゆえ彼の聖書解釈に見られるパウロ主義は当時の教会としては例外的な位置を占めることになり、彼の復活理解は後代のオリゲネス論争の要因の一つともなった。
>オリゲネス神学の評価を巡る問題は、当時のパウロ受容の状況とも複雑に関係していたと言える。
この辺は本当にどうでもいいことかもしれませんが、何人かの今著作の残る教父たちが、「難解だ」として軽視されていたパウロを正統教会に再度引き戻しはじめます
オリゲネスにしてもネストリウスにしても、後世異端と言う烙印を押されてはしまうのですが、その文章を読んでいるとその圧倒的な知性と真摯さに圧倒されます
0598吾輩は名無しである
垢版 |
2018/12/28(金) 02:23:34.43ID:RM6sSwmp
誤解を与えるかもしれないので(与えて悪い理由もよくわかりませんが)>>597のさらに細く
これも引用
>オリゲネスの異端的教説の一つとされた魂の復活をめぐる議論である。
>死者の復活の思想は、ケルソスら広義のプラトニズムに属するキリスト教批判者には到底受け入れがたいものだったが、一方、当時のキリスト教界の主流は、キリスト仮現論への抵抗もあって、肉体の甦りを物質主義的に解する傾向にあった。
>この両者の狭間でオリゲネスは、当時はあまり重視されていなかったパウロのテクストに依拠して、復活を「より善いものへの変化」という言い方で捉え、魂がこの世の肉体よりもさらに善い身体性を帯びる終末論的な様態変化と把握する。
>ここに、神的世界の永遠不動性を範型に魂の本質的な変化を認めないギリシア思想とは異なって、「変化する」ことを肯定的にとらえるヘブライ的ないし聖書的な思考を見抜いている。
何が言いたいかと言うと、上のオリゲネスの復活は今話題にしているキリストの復活ではなく、上の議論とは全く無関係としていいと思います

魂の普遍性はアリストテレスの「魂について」が猛威を振るったこともあって、いろんな時代のいろんな問題系にくっつくものです
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