なぜ数あるアリストテレスの論理を無視する非アリストテレス的Jesus Christが成立したか、は全て救済のため
復活によって救済する、ならば復活したものは救済の力を持つ神的存在でなくてはならぬ
受肉によって救済する、ならば受肉したものは救済の力を持つ神的な存在が完全な人の形をとらねばならぬ
しかし、このJesus Christという一見固有名詞、でありながら「救済するもの」という重い機能的状態を付加されていることばはアリストテレス的には矛盾している
「受肉」という言葉とついになるのが「生む」という言葉
Jesus Christ is born from Mary. Jesus Christ is perfectly human, and perfectly devine.
ここまで誰も文句は付けられない、ところが
Mary is mother of the human, and mother of the God.
マリアは人を生んだから人であり、かつ神を生んだから神の母である
マリアは人の母であり、神の母でもある
マリアは人でもあり、神でもある
これが大問題で、一たびイエス・キリストを歴史的存在として受け入れると、あらゆる神的でかつ人的な存在があふれ出す
すると、歴史的・一回性であったイエス・キリストという出来事が普遍的・超時間的になっていく
これを再び一回性に回収しようとする、ブリリアントな試みに乗り出したのがネストリウスと言う人で、失敗こそすれ、彼自身はネストリウス主義者であったことは一度もなかった、と評される人です
「受肉」による救済、と「復活による救済」が超時間的か否かで違いがあるように思われる、とのこと
問題は「イエス・キリスト」ということばに含まれていて、「受肉」と「復活」においては人性と神性で「イエス・キリスト」という言葉に問題があります
アリストテレスの破綻がここにはあって、あえてアリストテレスを貫こうと三段論法が成立する形態をとろうとすると、「イエス・キリスト」の人性・歴史性が抜け落ちて神性・機能性が強調されます
しかしニケイア公会議以降はこれらの異端は成立しなくなります
その上で、じゃあ異端が解決しようとしたアリストテレス的アポリアを突き詰めたところにいるのがネストリウスの提示した問題と解決になります