>>595の補足
>なぜ数あるアリストテレスの論理を無視する非アリストテレス的Jesus Christが成立したか、は全て救済のため
>復活によって救済する、ならば復活したものは救済の力を持つ神的存在でなくてはならぬ
>受肉によって救済する、ならば受肉したものは救済の力を持つ神的な存在が完全な人の形をとらねばならぬ
この考えは3世紀後半から、徐々に「復活による救済」と「受肉による救済」がともに認められ始める時代です
この二つをともに肯定すると、「イエス・キリスト」は人であって神であり、かつ人性と神性は交じり合わないという教義が少しずつ、本当に少しずつ析出していきます
2世紀にはパウロの書簡集は複雑な経過をたどり、あまり読まれなくなっていた時期があります
引用ですが
>グノーシス主義諸派がしばしばパウロを引用していたために、二、三世紀の護教論者たちはパウロの復活理解よりは、福音書に見られる反仮現論的復活理解を肉体の復活の教義として発展させたが、
>オリゲネスはパウロ書簡のみならず、旧約聖書や福音書の記述に基づいて終末論的様態変化としての復活理解を展開した。
>それゆえ彼の聖書解釈に見られるパウロ主義は当時の教会としては例外的な位置を占めることになり、彼の復活理解は後代のオリゲネス論争の要因の一つともなった。
>オリゲネス神学の評価を巡る問題は、当時のパウロ受容の状況とも複雑に関係していたと言える。
この辺は本当にどうでもいいことかもしれませんが、何人かの今著作の残る教父たちが、「難解だ」として軽視されていたパウロを正統教会に再度引き戻しはじめます
オリゲネスにしてもネストリウスにしても、後世異端と言う烙印を押されてはしまうのですが、その文章を読んでいるとその圧倒的な知性と真摯さに圧倒されます