文芸批評家 渡部直己 テクスト論とその功罪
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精確な渡部の発言は「俺の女にしてやる」か。
それなら、俺の読解では「お前、喜べ、俺の女にしてやるから」で、渡部の勘違いというか、
彼に悪気は余り無かった気がする。
最初に事件が発覚した時の報道では「俺の女になれ」だったが、そうではなく「俺の女に
してやる」だった。本当にそうだったなら、渡部の辞職は処罰の行き過ぎでは? hhasegawa
この15年間、
『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』の共著者の一人が68年史論で独自の地位を確立していくなかで、
もう一人は以前からやっていたフォルマリズム批評に戻り、
それに応じてこちらの関心も逓減していったのであった。いまやコンビ感もあまりない。
2018年6月22日
荒木優太(また本が出たよ)
渡部直巳事件はついにテクスト論という思想がもつマッチョイズムにまで及んだか。
私もテクスト論者で、しかも男性だから、人ごとじゃないな。
2018年6月23日
石川義正
はい、私もすぐに判断して断罪しようという意図はないです。
ただ氏自身がテクストというフィクションを真に受けてしまった可能性はあるかもなと。
例のチャート式採点表にしても、中上も絓もなかば冗談だったのに渡部だけはどうやらマジだなと当時から思ってました
2018年6月26日 渡部直己みたいなゴミ以下をありがたがる時点で早稲田も文芸誌もクソ以下 テクストというフィクション?何言ってんだこいつらは
人文主義=ヒューマニズムと相対化してるつもり? フォルマリズムとは作品の手法や構造を分析する批評様式であり一種の科学
これに対してテクスト論とは作者の主張や主題をを前提とする考えを退け
読解によって文学テクストの意味は変わるという、一種の解釈学的発想であり
解釈の多様性を評価するという点では芸術的アプローチ
両者を混同している人が多いようだけど全然スタンスが違います 高橋教授の書評空間: テクストはまちがわない :石原千秋
今20世紀の文学批評言語の布置を想い起こしてみる。
すると二つのもっとも典型的なトポスが浮かび上がってくる。
一つのトポスは、ジョルジュ・プーレ、
あるいは彼に代表されるジュネーヴ学派の「主題批評クリティク・テマティク」の言語である。
例えばプーレの『人間的時間の研究』や『円環の変貌』、
あるいはジャン・スタロバンスキーのルソー論『透明と障害』に典型的なように、
この批評言語においては文学テクストに対してある意味では超越的なかたちで「主題」
――たとえば宇宙=世界の表象としての「円環」――が設定され、
その主題にもとづいてテクストに隠されている多様な精神史的コンテクストが明るみに出されてゆく。
つまり「隠蔽されていたものの発見」というスタンスに立つ読解の多様性がそこからは引き出されるのである。
こうした多様性が、石原の言及するカルチュラル・スタディーズ的手法のなかでの
「読み」の多様性につながっていくことはいうまでもない。
ただ注意しなければならないのはこの多様性の根拠が
あらかじめ石原の禁じているテクストの外部における読解準拠枠の設定を意味するのではないかという点である。
そこでもう一つの批評言語のトポスが浮かび上がる。
それは、レヴィ=ストロースとローマン・ヤコブソンが共同で行った
ボードレールの詩「猫」の分析に典型的に現れている言語である。
その分析の精密さで読者を驚倒させたこの批評言語には二つのファクターが含まれている。
一つは、作者という条件さえも排除するリゴリスティックなまでのテクストの自律性への固執の姿勢である。
「猫」はいわば一切の外部を持たない純粋かつ自律的な言語=テクスト構造に還元されるのである。
もう一つは読解の一義性というファクターである。
レヴィ=ストロースとヤコブソンの分析はテクストの自律性の根拠を、
テクストが構造としての客観的に自存することに求めるがゆえに、
読解は最終的に客観的に決定されうる一義的な形式に帰着せざるをえない。
つまりそこではテクスト読解の多様性が排除されるのである。
一見すると対立的な関係に見える吉本隆明の『言語にとって美とは何か』の批評言語と
「猫」分析の批評言語はこの点で一致する。 テキストの読解ってスポーツなんだよ。
テキスト論もフォルマリズムも文学理論はスポーツ理論なんだ。
石原千秋や渡部直己その他、ここにいる人達は理論について一応は理解していても、身体は全く、その通り動いてくれない人達。 12じゃ、言葉が足りないので補足すると、説明が沢山出回ってるテキスト論やフォルマリズムについてしゃべることは出来ても、全く新しいテキストは自分自身で読み込むしかないので、スポーツセンスの無いものには取りつきようがないということ。
その代表が、石原、渡部、佐々木らだな。 方法的禁欲って、ハックルベリー・フィンの冒険に出てくる奴隷の脱出作戦みたいなアホらしさがある。 俺の女にしてやる!
俺とセックスしろ!という意味やろ?
ふつうに婦女暴行、強姦未遂。 いまさら三好行雄の作品論や、あるいはそれ以前の作家作品論に戻れるか? 戻れないでしょ。 >>13
>全く新しいテキストは自分自身で読み込むしかないので、
>スポーツセンスの無いものには取りつきようがないということ。
たとえば出版当初は冒険小説とみなされ
それゆえにつまらない小説という評価だった「白鯨」が
神や信仰の問題を描いた形而上学的小説として再評価されたのは20世紀中ごろであり
これは聖書解釈から派生した「読み」の理論の適用による
たしかに文学作品の解釈は時代や環境の変化によって違ってくる
しかしそれは天才的読者の登場によって行われる
創造的な行為による、という訳でもない
作者の創造性という神話を読者の創造性という神話に裏返しただけであり
この種の神話をマウントするだけのテクスト論は滑稽なだけ
作品はもちろん読者も時代や環境の派生物であり
一見すると「創造的」とみなされる読書や批評も時代や環境の結果に過ぎない
だから創造ではなく時代的要請に基づく発見程度のものなのです
スポーツでも何でもないよ >>19
俺はバフチンか、トドロフをスケールアップしたようなもんなんだがw >>19
時代環境還元主義は田中美知太郎を読んでないだけ 渡部先生が川上さんに編集者を紹介してデビューの切っ掛けとなったという話を聞きました
川上さんに憧れたり、早稲田文学に載りたい、川上さんのように活躍したいという望みを持って、渡辺先生の授業を選択していた生徒もいました
色んな意味で有名な先生で授業も刺激的だったので人気はありました
なのに教授達がセクハラ隠しをしていただなんて信じられませんし、信じたくもありません
渡部先生の授業を受けていたというだけで白い目で学内では見られてしまいます
女性号の巻頭の言葉も何だか白々しく思えてきました
フェミニストの川上さんは本当に何も全く渡部先生のことしご存知なかったのでしょうか?
どうして渡部先生を通じて編集者さんの何名かと知り合いになったり、
渡部先生と共にイベントに参加したことは伏せているのでしょうか?
それが不思議でなりません テキストがフィクションって考え方やっぱりよくわからない
自然言語処理からみるとテキストって確固たる実務的文字操作なんだけど テクストはテキスタイルからきている
自覚・無自覚は問わず
過去・現在の先行する作品(小説だけではない)から織り上げるのが小説
よくよく考えればマンガでも小説でも映画でもそうだが
これって当たり前のことなんだね 佐々木敦の「新潮」で連載中の「これは小説ではない」の先々月号だったかな
ドヤ顔で以下のような文章を書いていた
あまりにでたらめなので批判しても無視を決め込んでいる
文学の中に小説、戯曲、詩などがあるのであって逆ではない
本当にこいつは謝らない間違いを認めないエアリプしかしない
馬鹿でクズだと思った
「この作品は小説だが文学ではない」とは言えても「この作品は文学だが小説ではない」と言えないのは明らかだ
つまり文学とは小説の部分集合なのだ 古文書などのテキストがあやふやなものだというのは分かる。
テキストそれ自体では、取り敢えずフィクションかもしれないと思っておくのが普通だろう。 渡部のセクハラ事件だけど、日本文学の源流?である万葉集だってアジアのどこにもある歌垣(歌の掛け合いと踊りの催し)から派生したんだろ?
歌垣はアジアの何処でも、男によるセクハラ表現とそれを女が如何に上手くかわすかが見どころなんだがw >>29
いまは万葉の時代じゃないんだが
おまえ万葉人? >>30
セクハラからアジアの文学は始まったんだよ。
これは大きなことだよ。
パースペクティヴって國分や渡部も良く口にしてるけど、起源を踏まえて現在、未来を
語るってことだ。 Tomomo105
渡部直己と親しい青山真治がFBにこんなことを書いている。心から失望した。もう、青山の映画は信じない。
「相聞て双方の教養が同等に成立しないと動かないゲームなのよね〜
要するにセンスの問題であって、いまどきの神経過敏かつ程度の低い学生には通じなかった、と。無粋な話だなあ・・・」
2018年7月8日
津原泰水
早稲田文学への寄稿者でもある。余りにも低劣なセカンドレイプまがいの発言。念のためフェイスブックを確認。
本当に6月21日に書いている。Tomomo105氏の引用が全文であり渡部直己の名前はないが、
当該報道への反応と見て間違いあるまい。「いいね!」を押しているなかに浅野忠信の名前がある。
2018年7月9日
Kentaro_SUZUKI
渡部直己の「相手が学生であることを忘れてしまう」という言い方の元は、
蓮實重彦流の「映画」なり「テクスト」へのにじり寄りでしょう。
蓮實はまた、駒場寮に住む学生が「学生であることを忘れる」かのように、彼らを弾圧・追放もした。
蓮實重彦問題から渡部直己問題を見ることは必要不可欠と考える。
大杉重男氏の「批評的」身振りにしても、物には順序がある、とまず言いたくなる。
文壇の片隅から様々なる意匠に目端を利かせる前に、彼自身大学で教える文学者であるのだから、
新自由主義大学の蓮實重彦や渡部直己を問うことから始めねばならない。
山城むつみ氏と倉数茂氏も東海大学の同僚教員である。
2018年7月9日 >>31
ハラスメントの意味分かってないだろお前w
中学生かよ? 渡部の禿げを擁護するというよりも、女子院生が泣いて訴えたというのに嘘っぽさを感じるんだよw 0047 吾輩は名無しである 2018/07/10 07:17:16
ちょっとまてよ
お前らの推察ってミスリードされてないか?
「俺の女になれ」を、性格ではなく権力が言わせた言葉として考えたら
これ、思った以上にひどい事件につながってるんじゃないか?
デビュー後にその作家を誉め続ける類の、選考委員でもない批評家。それと早稲田閥、元生徒、愛人まがいの諸々の作家が、新人賞受賞後にあらお久しぶりですなんて現象、あり得るか?
つまり、文芸新人賞の応募作品のいくつかは一次選考の下読みを通さずに二次以降の選考に直通している可能性がある。 0057 吾輩は名無しである 2018/07/10 07:34:30
箝口令に従わないタイプの硬派な作家が
好評価八分食らってた理由を垣間見た気がする 渡部直己「セクハラをめぐり、さまざまな問題が指摘されている。
チンなくば勃たず。女学生のコーマンを得るために、評論家のトップである私自身☆が
一つ一つの問題について、責任を持って必ず全容を解明し、
ちんちんから膿を出し切り、俺の女にしてやる決意だ!!」 渡部のテクスト論について、ネットでしゃべってる奴がいないね。
クリステヴァのテクスト理論と関係あるの?
AKBの300万枚の超ヒット曲teacher teacherと同じで、渡部のテクスト論には世間的な
反響の証拠が殆ど無いんだから厄介だよw 食えないから大学教授になる。批評で食えるわけないんだから。小林秀雄だって実際何をやって食っていたか結局わからないじゃないかと吉本隆明が言ってた。小林の場合、普通にパトロンがいただけではないか。 高橋源一郎とかだって文筆によって得てる収入より大学教授としての給料の方が断然多いと思う。それはそれで良いのではないか。そこで自浄作用が働くのであれば。 出版業界の体力次第でないの? 文学の寿命も。
文学ブロガーで独りよがりで充分でないの?
紙媒体で発表ってのも時代に合ってないわな。
文芸誌なんて売れてないし、立ち読みしてる人見たことない。 >>46
画壇あるいは生け花や茶道の様なもので
小説家や批評家の場合は文壇的地位を確保した後に
大学教員というコースが平成年間を通して形成された
そうすると文壇的キャリア形成につながる
各文学賞の選考委員や
批評技術に長けた人間に権力が集中する
本が売れなくても変に食えたり
世間的評価がついてくるので
さらに腐敗するわけです 次の戦争で中国に負けて、アメリカからは遠ざけられて
韓国にすらつけこまれていろいろむしり取られて、そこで
ようやく新時代の文学が生まれましょうナ。 大学の官僚的批評家は売れっ子小説家みたいに金が入る訳じゃないから、女子学生とか手近の女に手を出す。
高級クラブの美人ホステスなんか高根の花w ナルホド、つまりたかが自分の利益の為に文学を利用してるだけかあ。
文学も堕ちたもんだね。
堕ちる程に高いところにあったのかね?文学ってさ。
JLGやプルーストやフローベールのようなブルジョアは存在しないか。
所詮貧しい国では、こんなものか? やっぱりツマラン。
世間の文学離れアタリマエ。 JLGは突き抜けているから、筆力のないプルーストやフロベールと一緒にしちゃいけないよ。 ホステスは店では止まって見えるぜ。そんな仕事にはらすべきでもなし。 ホチキスで留めてりゃじっとしてるしかないわな、
マネキンって映画はエガったが、いずれはロボットに取られる。
にしても文学者きどってりゃ無頼かインテリ装える御時世でもなかろうに。 ホステスがどれだけ頭の回転早いか知らないんだな。少なくともあなたたちよりは頭良いと思うよ。 解雇と言っても懲戒解雇ですらないのかw
小保方のテキトー博士号論文も酷かったけど、今回もワセダ自浄能力ないねえ
理系も文系もどこまでも腐れ大学やなあ 万死に値するって言っちゃってるよ、
もうこれ時間の問題だわ
バッシングもホドホドにしとこうぜ皆の者。後味悪くなるしな。 別の大学に復職したら後味悪いもんな
徹底的に追い込まないとね 渡部をハラスメントしてきた奴らも多分いるんだよ。
だから、自ら「自分のやったことは万死に値する」とか、言わされてしまう。
渡部は絶対、死んじゃいけない。 でも渡部直己は以前から作家志望を減らす為に活動
してきた筈なんだよ実際にそう発言してるし。その
意味では特定の学生に入れ込むのは理に適ってない。
しかし筒井康隆は本心は高笑いしてるよ間違いなく。
ひょっとすると筒井プロデュースによるハニトラだったりして。 中国でも有名に
文芸評論家として知られる早稲田大学の教授がセクハラで解雇 中国人「これが先進国日本の本当の姿だ」「中国では無理」
http://www.japohan.net/archives/19380 猫飛ニャン助
@suga94491396
浅学ゆえに教えてもらいたいのだが、日本文学研究者が良く使う「テクスト論」なるものが、いったい何か良くわからん。wiki見るとバルトとデリダの名前のみ上がっているが、それでいいん? ヌーヴェルクリティック(諸派あり)というわけでもなさそうだし。日本独自の概念? 俺も渡部のテクスト論てクリステヴァと関係あるの?
と文学板で聞いたことあるけど、応えは無かったw
しかし、スガは渡部の友人だから聞けば良かったのに。 渡部 で、実際にやってみるといろいろなことに気づく。たとえば、一九八三年に『杼』の二号で、インタビューをさせてもらいましたよね。
僕は生意気盛りのテクスト論者で調子に乗って話してると、柄谷さんからひとこと、しかし「君の本読んでると、文学テクストを解放すれば世の中よくなるような気がしてくるぞ」って、グサリと。
即なんだかんだ口答えはしましたが、あれには参りました。今から考えると、あれ、戸坂潤ですよね。
要するに、あの当時の僕のテクスト論は、柄谷さんの眼から見ると、昭和十年代の「文学主義」の再演みたいなものだったんですね。
だから、少し後に『批評とポストモダン』も書かれたんだと、今になって痛感しています。あの時は、柄谷さんが戸坂潤で、僕はちゃちな三木清だった(笑)、しかもマルクスもちゃんと読んでいない三木。 渡部のテクスト論の授業じゃナレーションnarrationを叙述と訳してたらしいが、narrationとdecription(叙述)は違う。
気になる人はdifference between narration and descriptionで検索して見れば良い。 ディスクリプションしちゃうとどんどん脱線してしまうんよ、お噺が。
だもんで、作者の思い通りの物語を描こうとすると描写が邪魔になる。 >>75
>>76
そうなんだ、ちーともしらなかったわぁ。
こんなギャグ覚えてる奴いないわなw
まあ、descriptionトnarrativeの関係は問題だ。 よし、次スレが立つまでここを使うか。
>>1000
お前がスルーしている事が許せないと言ってるんだよ
【早稲田大学】渡部直己5【俺の女になれ】
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1534602731/
997 P ◆.uKag/vUmY [] 2018/08/25(土) 22:20:20.11 ID:0ONhXadO
>>995
こういう暴言がスルーされている状況が許せないというのはそんなにおかしな事か?
1000 ムー大陸 ◆POG0Nh1MOnGz [sageない心] 2018/08/25(土) 22:27:06.14 ID:lPttZ+Xn
>>997
それはお前の「気持ち」の問題でしかない。 他者なんて自分が生存してこそだろ早稲田界隈文壇界隈の奴らはクソでいいだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています