『ニッポンの音楽』が描く“Jポップ葬送の「物語」”とは? 栗原裕一郎が佐々木敦新刊を読む

「Jポップ」の終わり
たとえば、はっぴいえんど(70年代)にとっての「外」は、シンプルにアメリカだった。
彼らの課題は、洋楽であるロックを日本でやることだったわけだが、
定説となっている、日本語をロックというフォーマットに乗せる試みそれ自体は、
実のところそれほど難問ではなかったのだと佐々木はいう。そうではなくて、
つまり「日本語のロック」を追究したことよりも、「日本のロック」のあるべき姿を模索した点に、
はっぴいえんどの「ニッポンの音楽」の開闢たる独自性はあったというのだ。

「それら〔海外のロック〕を「日本/語」でやるにあたって、
たとえば「日本のサイケ・ロック」「日本のプログレ」などと呼ばれる直截的な踏襲(直訳)にも、
あるいは逆に、日本/語の特殊性に安住したドメスティックな態度(超訳)にも陥ることなく、
いわば「ニッポンから見たアメリカ」と「海の向こうから見たニッポン」が交叉するポジションで
音楽を作り出そうとした点に〔はっぴいえんどの独特さ、貴重さは〕あるのではないか」

YMO(80年代)、渋谷系と小室哲哉(90年代)、中田ヤスタカ(00年代から現在)と
「リスナー型ミュージシャン」の系譜をたどることで、その「交叉」から生み落とされてきた
「ニッポンの音楽」の変遷が描かれていくわけだが、「内」と「外」の区別の溶解が完了し、
「ここ」しかなくなりつつある現在、その志向=欲望はもはや向かう対象を失ってしまった。
つまり終わった。「ニッポンの音楽=Jポップ」は終わりを迎えたのだ、
というのが佐々木の「物語」の粗筋である。