言語文化35号 / 2018年3月
ジャック・レヴィ 小説における声と叙法との交差
https://www.meijigakuin.ac.jp/gengobunka/bulletins/archive/pdf/2018/01_levy.pdf

一方で、たとえば中上健次の『千年の愉楽や『奇蹟』がそうであるように、
冒頭の「第一次物語水準」で登場する作中人物がそのあとに続く語りの主観として紹介されていようが、
叙述の形式上、決して入れ子状のメタ物語でもなければ話者の転換も行われていない、
同じ無人格の声によって繰り広げられる虚構もある。上記の例では、
語りが他者なるオリュウノオバやトモノオジの視点を借り、渡辺直己のいう自由間接話法ならぬ
「自由伝達話法」によって、それこそテクスト前面にわたる語りと視点が「渾然一体」されている。
そこで読み手=聞き手にたいして一種の「両義性」が見せかけられているとしても、
物語形式そのものには何らの曖昧性もなく、
だれが語っているのかという問いには、「混同」を避けようというのなら、
作中人物とも作者とも異なる語りの審級によるものであると答えるほかないのだろう。

日本における近年の小説風土で目立つのは、一人称と三人称とのあいだでの
語りの焦点の特異な移動と往復であるとする渡部直己は、それらの作品を、
保坂和志のテクストなどに見られる一人称の「三人称化」をふくめ、
一人称から三人称多元的な語りへ移る場合は.「越境系」と呼び、
三人称から一人称、あるいは、柴崎友香の『私がいなかった街』がそうであるように、
一人称の語りからその話者とは全く別の話者の一人称の語りへと移り変わるタイプの物語言説を
「狭窄系」と称している。