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【全国制覇】文学板雑談スレ267【決起集会】

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0002吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 10:36:48.51ID:aiEZMk6p
馬鳴菩薩著「大乗起信論」。

仏教は、一切皆苦の教えのはずだが、
大乗仏教のこの経は、「苦痛からの救済」を目的としているようだ。
0003吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 10:41:46.70ID:aiEZMk6p
馬鳴菩薩著「大乗起信論」。

仏教は、人を乗り物に例える。
「蔵」とは、仏教徒の心を意味する。
如来蔵(アーガマ、仏典すべて)、虚空蔵(知恵のすべて)、蓮華蔵(存在が幸せで満ちること)。
のような使われ方をする。
0004吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 10:53:51.23ID:aiEZMk6p
馬鳴菩薩著「大乗起信論」。

300ページある本だが、前半の180ページは、漢文と書き下し文であり、
現代語訳は100ページくらいの短い本だ。
0005吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 11:05:16.89ID:aiEZMk6p
馬鳴菩薩著「大乗起信論」。

仏典における無意識の起源は、
ヴァンスバドゥの末那識より先に、ゴータマ・シッダルタの「無明」にまでさかのぼれると考えていいだろう。
無明については、南伝経典の増谷訳「阿含教」に書いてある。
0006吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 11:08:28.42ID:aiEZMk6p
ゴータマ・シッダルタは、五感と意識がなくなった識覚を「無明」と呼んでいて、
確かにこれは、無意識についての言及だ。
0007吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 11:19:20.19ID:aiEZMk6p
馬鳴菩薩著「大乗起信論」。

めっちゃ難しい。
ぜんぜん理解できない。

胎児に生まれたばかりで六識に分類できない状態の意識を業識(ごっしき)という。
この仏典では、根本認識を業識としているようだ。
0008吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 11:29:27.10ID:aiEZMk6p
薫陶。

陶器に薫りをつけることをいう。
転じて、味のあるものを形容する修飾語である。
0009吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 11:35:44.80ID:aiEZMk6p
仏教は、乗り物である。
仏教は、薬草である。
仏教は、薫陶である。
0010吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 13:20:38.64ID:Iha3q6aQ
大乗起信論か。確か、井筒俊彦も重視していたテキストだな。どこかに埋もれているはずだがすぐには見つからないだろうな。
僕のほうはまあ、いわゆる鎌倉新仏教といわれる法然、親鸞、日蓮のほうだけどな。
日蓮は宮沢賢治や石原莞爾が影響を受けた国柱会とかだな。あと、道元とかも重要だけどこれは後回しだ。
0011吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 13:28:42.31ID:lPxbEJXv
ああ、あと空海とかもいたね。司馬遼太郎や松岡正剛が好きだった。まあすべてをフォローするというのは無理だ。
0012吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 13:30:23.28ID:lPxbEJXv
仏教は最終的には日本で開花したわけさ。
0014P ◆.uKag/vUmY
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2019/01/06(日) 13:36:01.54ID:9am7Gh+j
>>1
0015吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 13:50:01.32ID:aiEZMk6p
  17、無意識を探る

 無意識を最初にいったのは誰か。西洋哲学では、十八世紀のシェリングが最初だとユングがいっている。
しかし、無意識の起源が仏教哲学、インド哲学へさかのぼれるのは有名である。
 四世紀のインド思想家ヴァンスバトゥが「末那識」「阿頼耶識」に言及している。
しかし、大胆な解釈が許されるなら、紀元前五世紀のゴータマ・シッダルタの「阿含経」にある「無明」の概念を無意識の起源とすることもできる。
 原始仏典「阿含経」にあるゴータマ・シッダルタのことばでは、
「五感と意識の六識を消すと、「無明」が現れる」とある。
つまり、仏典では、教祖ゴータマ・シッダルタの「無明」にまで無意識の起源がさかのぼれるので、
仏教における無意識の起源は、ゴータマ・シッダルタであると仮に決めてもよいだろう。
 人の知覚できる世界、意識の世界において、その外の世界が存在すると考える根拠はなんだろうか。
西田幾多郎の「善の研究」において、人の意識は自我の主体の内側だけで意思が決定されるのではないという。
ヒトの意識は、意識の内側の要素だけで決まるのではない。
ヒトの意識は、意識の外側から志向される要素と意識の内側の要素との統合によって発現するのである。
つまり、無意識が原因で発現する意思の要素は必ず存在する。
ヒトの一回の意思決定には、無意識からの発動する神経による影響が存在する。
 我々の意識が、その外側からの神経刺激によって発現している。
その場合、我々の意識にとって外界はどの程度の確実性によって存在するのだろうか。
0016吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 13:50:18.52ID:aiEZMk6p
 意識によってとらえられない外界のことをカントは「物自体」と呼んだ。
意識によってとらえられない存在を、朱子は「理」と呼んだ。
意識によってとらえられない外界のことをゴータマ・シッダルタは「無明」と呼んだ。
ドイツ大陸哲学と呼ばれる思想は、仏教、儒教にすでに同様の発想が、西洋哲学とは異なる表現によって述べらえていた。
 ゴータマ・シッダルタが、無意識、「無明」を消すことによって
知ることができる外界の宇宙の法則を「智慧」と呼んだ。この「智慧」は朱子の「理」と同じ発想にぼくには思える。
0017吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 14:07:51.95ID:r+ZK4492
それじゃ意識中心主義の現象学とどこが違うんだね。また、意識と思考の違いはなんだ?
そこがはっきりとしないし、雑な言い方はよしたほうがいいと思うぜ。
0018吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 14:22:08.90ID:aiEZMk6p
>>17
うむ。無意識の領域の神経の興奮が、意識にのぼる意思の発現となるというのは、
西田幾多郎「善の研究」を読んでいた時に、ぼくが思いついたものだが、
はたして西田幾多郎に書いてあったのか確認できなくてね。
西田がそういっていたと書いてしまっているが、これでいいのか悩む。
0019吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 14:37:58.63ID:DHp9K0nP
まあ僕なりの考えはあるが、すぐ言ってしまうのも味消しだな。
みんないろいろ考えているのに自分だけ正解がわかったみたいな言い方をするのは軽率というものだろうな。
記憶はいつも僕が考えついたとか言ってるが、お前が考えつく事ぐらいすでに誰かが考えているだろうよ。
僕が、僕がといい募るきみが仏教の真実に至ったなんて誰も考えちゃくれないぜ?見苦しいだけだ。いつも通りにな。
0020吾輩は名無しである
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2019/01/06(日) 14:49:43.30ID:aiEZMk6p
トロツキー「レーニン」23%

永続革命論のが面白かったな。これはいまいちだ。
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