南国スネークス
私は渡部直己批判者ですが、「謝罪の必要性」など問題にしていません。
それは渡部と被害者女性の内々の問題であり、民事裁判にするなり和解するなり
好きにすればいいと思うし興味は一切ありません。しかし、私が引っかかるのは、
恐らくは女性にとっては二度と関わって欲しくない男性に、(続く)

(続き)「文学指導」と言う名目で責任を取らせようとする(あるいは本人が責任を取ろうとする)
問題設定が果たして正しいのかどうか、である。単刀直入に言うと、私はここに大いなる欺瞞を感じる。
無論、男性が「文学指導」を提案するのは自由だ。しかしあたかも渡部が指導すれば何らかの(続く)

(続き)文学賞が取れんばかりの憶測を以って渡部の「文学指導」を肯定するのは私は反対である。
それは私の考えでは、「文学」で以って「セクハラ」を癒しうる、と言う現象をアプリオリに語っているからだ。
それは幾ら何でも女性の立場からすれば男性の不遜さに怒りを覚えるだろう。(続く)

(続き)しかし、確かにここには「文学的問題」がある、と私は安里さんに同意する。
それは「文学」と言う大文字で以って全てを許されようとするのではなく、
「文学」で許され得ない悲哀を渡部直己が書き記す事だ。私の考えでは、
渡部直己が許されうるのはこれ以外ない。無論、その書き記された(続く)

(続き)悲哀の「質」によっては、渡部はより惨めな恥辱を味わうかも知れないし、
逆に悲哀を書き記し得たとしても恥辱を舐める羽目になる可能性がある。
そもそも現実的には民事裁判(あるいは和解)で高額の賠償金を払う事となり社会的地位も失い、
回復不能の痛手を王やも知れない。しかし、(続く)

(続き)『日本中年男性の《誕生》』を書き記す事。もし渡部直己が文学的に許しをこうならこれ以外の術はない、
と私は考える。これは冗談でも茶化しているのでもない。私も真剣に回答しています。(了)
2019年2月12日