カヤスワヲ
〈芸術〉が成立して自明と受けとられてしまうとき、
〈芸術〉は〈芸術〉が成立するまでのそれまでの来歴を隠蔽・消去してしまう。
あたかも〈芸術〉がそれ自体自明で、疑うべからざるものであるかのように。この点、〈貨幣〉の成立に似ている。

〈芸術〉が自明であると勘違いした連中が「芸術のための芸術」などと駄法螺をふく。連中の言い分では、
芸術のための芸術というセオリーに〈芸術〉は従う(または、従わせる、従うべきだ。)というわけだ。

しかし矛盾している。そのセオリー自体が〈芸術〉の経験・反復から教訓として引き出されたわけで、
ましてや〈芸術〉に先行するものではないからだ。〈芸術〉は本来的に豊かであり
(小説における〈雑〉を見よ。その強みは豊かさ=猥雑さではないか?)、
部分的に矮小化されたセオリーに従う謂れはない。

「芸術のための芸術」なんてのは、資本主義下に花ひらいた冷厳な徒花にすぎない。
あらゆる芸術論に隠蔽されたブルジョワ美学を暴くこと。それが肝要だ。

マルクス主義の強みは、理論的であることだが、ここでいう理論的であるということは、
資本主義との政治・経済的闘争においてであるし、また資本主義の文化=上部構造の研究において、である。

古井由吉なんかは、〈芸術〉(ここでいうと〈文学〉ですが)を自明なものとして受けとっていないですよね。
それゆえに古井の、意匠としてではない本源的なマニエリスムがあるし、渡部直己風に言えば「不達の愛技」がある。
2019年7月13日