その通り、仏法においては法は受容器である。
法には衆生法、世間法、自然法、妙法があり、仏法とは妙法である。
妙法の本体は一心であり、衆生の一心とはすなわち大霊の分子である。
衆生は霊性具してあれどその霊性の光が現れるわれことなく無明の闇に迷ってあるを衆生法と呼ぶ。
仏法とは人の精神が大霊を合一する、受け入れを可能にするものである。
衆生法は霊性を受け入れるに連れて衆生の心が発達し、霊性顕現するにいたって大霊と合一せしめる理法を最高の受容、妙法あるいは仏法と呼ぶ。
ゆえにことごとく大霊の理法が一切悉有をして統摂する。
この一切統摂(とうしゅう)を受け入れ、衆生が親(大霊)の目的を実行するものとなるのが帰趣である。
言い換えれば、一切知は一切能足らねばならぬ。
大霊と合一することが目的ではない、行動する義務までもが妙法に含まれる。
衆生は統摂さるるが、自ら法を磨き、理法を妙法たらしめねば帰趣には至らぬ。
ゆえに、一切悉有は仏性を持ちうるが、一切悉有は仏性を持ってはいない。
犬は統摂されている為に仏性、霊性を有するが、帰趣に至らぬがゆえ、仏性を体現できぬ。