道元は栄西や重源、円爾や蘭渓道隆に比べて随分と異質だ。
元天台僧出身の栄西は禅僧となっても律学・教学・密教を捨てないが、道元は密教を徹底批判し、伽藍建設にも反対する。
そもそも修業は一瞬たりともさぼることはゆるされず、しかも悟るためですらない。悟りは救済でさえない。
臨済将軍、曹洞土民と呼ばれるように、道元の教えは世俗に役に立たない。(だから道元の没後世俗派と厳格派で割れる。)
大衆化するためには、報われなくてはならないし目に見えるものでなくてはならない。
南宋の印刷術は一切経を容易にし、建築術は大伽藍を作る。悟りのための修業なる(本来当然の)思想が入り込む。時ならぬ仏牙ブームが起こって、釈迦の歯を南宋から分けてもらう。
律学・教学が経典や仏牙を根こそぎ手に入れると渡海しなくなるのを尻目に、禅僧は師匠と会話しなくてはならないから元冦のあとも渡海を続ける。
そして語学力(会話)を活かして外交・統治に携わる。
その根本は文化を包容する兼学の思想が臨済宗系にあることだろう。禅思想を否定する朱子もまたこの文化を学ぶ禅宗の中で保存される。
この自由神学よりは文化の相対的自律を認める新カント派に近い道元の敵がどうも日本の渡海僧集団と南宋には巣くっていた。
この寛容は、相対的に狭い土地と人脈にどうも由来している。
南宋には北宋が滅亡して逃げてきた僧が限られた土地で限られた禅寺に集まり、高麗や元の支配地域には渡航できない渡航僧は南宋の明州と博多の海商以外からは出発しない。大体同じ人名が出てくる。

道元の潔癖性とそれを取り巻く奇妙な宗教的寛容はまあ、おもしろくはある。南宋というのは相当に不自然な国で、同時期の日本も人知れず激変していて、ある種の空白を埋めようとする取り繕いへの反発を認めるように思う。