>>960
岡本太郎はイーグルトンの先生のreymond williams の
賛同者だから、岡本にとっての伝統は単純な性的な過去ではなく、
むしろ同時代のもので、常に変化する。

渡部がどうかは全然知らないが、蓮實が花田清輝を論じたがらないのは
蓮實にとってよく分からないからではないか?
花田は身体表象論にかかわることをたくさん書いてるが、東大表象出身の
横山太郎が、花田と同じ京都学派系統の武智鉄二の身体論に
全く歯が立たないことが証明されてるから。

浅田の縄文や弥生への思いは日本の建築思潮のメタボリズムに発してるが、
メタボリズムの建築家たちの縄文や弥生への
思いは極めて人口に膾炙しただけのものであって、彼等建築家は単なる大衆扇動者
ではないかとの批判を免れんだろ。
先ず言えば、弥生時代というのは、西洋流の芸術思想から見れば、縄文→弥生は
逆行なんだよ。しかも、それがずっと続いてる。
俺に言わせれば、縄文はコントラストで弥生は親和や協調だ。
古代ギリシャからローマ、ルネッサンス、近代はアルカイックの協調、親和から
クラシックのコントラポストからフィギュラ・セルペンティナータ、マニエリズムと
縄文→弥生と真逆の方向性を持ってる。
渡部や蓮實は残らんだろうが、浅田には残って欲しいので
苦言も呈する。