文学とは何か?
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文学を通じて、人の気持ちを理解する力を高めれば、長い人生のどこかで役立つ場面は来るだろう。 生きることにはあらゆる矛盾があり、不可欠、不可解、てんで先が知れないから 悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ。 坂口安吾 >>2 の定義ってほとんど宗教と一緒だよね。悪い意味じゃなくて。 古典が読まれるのは、必ずしも古典が優れているということではなくて誰もがそれを読んで いるので議論のテーマに上げることができるということだろう。要するに思考のベースになり得る ものそれが古典だと思う。 では古典的文学の役割はなんなのか? その前に文学は何かというと絶対に外せないのは 面白いということだ。役に立つとかではなくて面白いことでなくては文学の価値はない。だから 古典的文学を読んで語り合い面白さを分かち合うとういうことが古典文学の果たす機能と いうことになる。だから「文学好き」のコミュニティの中に入っていこうとすれば最低限そういうもの を読んでおく必要がある。誰かが悪戦苦闘して振り回して捨てた棒切れを拾い上げてもう一度 振り回してみる。特に悪戦苦闘しているわけでもないし棒切れを振り回す必要もないのだが とにかくカッコよく振り回してみる。チャンバラのコスプレみたいなものかもしれない。 でも、現実って所詮自己啓発本の世界だよな。少なくとも日本では。 文学に関しては英語でしか読まない。英語学習の為にそういう規則にしている。 英語学習、あるいは一般的に言語学習という観点から文学を見ると、文学は最適だろうと思う。 一般的洋書に比べると文学は語彙量が半端なく多く難しい。一般書なら苦も無く読めるが小説となると 辞書がないととてもよめない。小説はそれだけ表現力を求められるし、読む側も大量の語彙を知っている 必要がある。 語彙が豊富にあれば言語力があがり当然思考力も豊になる。 言葉を喋ることができるというのが人間としての基本であると同時に、高度に言葉を操ることができるという ことは高度な人間であることの必須条件だろう。とすれば自ずから文学の価値は決まってくる。 高度だと高校教育の効果のあがりぐらいで大成功して大人物になれないぞ。 作家は表現力が豊かであり巧に言語を扱うことができる。しかし作家を知識人として扱うのは無理が ある。彼らはある意味「自在に嘘をつける人達」と言い換えてもよい。想像の世界でその能力を発揮するのは全く 問題ないがリアルな世界で嘘をまき散らすのは勘弁してほしい。 徐京植のような作家が知識人として大学の教職につき非常に感情的に反日を叫ぶのを見ると現実と虚構の 世界の区別がつかなくなっているのがよくわかる。アル中のような病気と何ら変わりない。 朝日は嘘つきだと批判されるが、あれは文芸新聞なのだ。文芸をやってる連中が自分を知識人だと勘ちがいして 政治を評論したりするからおかしなことになる。朝日は政治に関しては単なる無知の戯言だ。 作品の凡庸さはともかくとして作家は激しく狂ってることが多い。 文学とは狂った人間が辛うじて正常を保つための戦いなのではあるまいか? 狂った人を正気に戻す社会では狂人が才覚を失い生きにくい。やさしさロマンは気がふれると思う。 狂人は人波のリズムにあわないから狂人なんだけど、恋路はうまい。 狂気の社会歴史的な役割はあるだろう。 文学の多くは狂わずには書けないようなものばかりだ。創造の産物だと言い張っても、さらけ出した ものはすべて自分の中身だろう。普通の神経ではとても恥ずかしくて書けない。 ペンネームを使い公には顔をさらさないようにして書いていた時代もあったが、今では恥さらしが 逆に賞賛されたりもする。見ず知らずの酔っ払い客からやんやの喝さいを浴びて得意満面の 温泉町のストリッパーみたいなものか。 人間とか、人生とかを扱うのが文学だと先入観のある人はそう考えているかも知れないが、必ずしもそうではない。 原文は忘れたが、江藤淳が森茉莉をラッキーストライクの空箱とか、ラムネの瓶とか、そこらへんに転がっている物のことばかり書いていて文学じゃないと評した。それに対して、ある人は江藤は文学を何にも解っていない、と書いていた。 何故か。「異化」なんていわなくても、わかる人には分かるわな。森茉莉は文学には違いあるまい。 スレタイだが、いやしくも日本人の研究者で、これに触れないのなら、モグリだろう やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける 世の中にある人 事 業しげきものなれば 心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり 花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば 生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり NLI(National Library of Ireland)が、 長年にわたって続けているイェイツ展の ヴァーチャル・ツアーをZoomを通じて行うとのことです。 イェイツの忌日である今月の1月28日に行われます。 Current Events (nli.ie) https://www.nli.ie/en/list/current-events.aspx?article=5eb47733-df6f-4ea0-9822-4c0faaad765a 書かれた言語だけでなく、雄弁も広い意味では文学だな 古代ギリシャローマでは現代の散文以上に重要だった ヒトラーは20世紀最大の雄弁家と言えるかもな 文学というのは、 こんな考え方もある、こんな生き方もある そういうことを押しつけがましくなく さりげなくわからせてくれる代物だ ぼくはそう思う >>29 傑作や古典のなかには、たった一行で世界観を変えてしまうものすらある。 一方、推理小説は何冊読んでも、世界観が変わることはない。 Jim Morrison "As long as there are people, they can remember words and combinations of words. Nothing else can survive a holocaust, but poetry and songs. No one can remember an entire novel. No one can describe a film, a piece of sculpture, a painting. But so long as there are human beings, songs and poetry con continue." 人類が滅びても詩は残るというのだが 歌も残りそうな気がするな まあ文学は残らないと思う ノーベル文学賞受賞された方残念でしたね(勿論棒読み) 訂正 人類が滅びちゃまずいなw 人類が存続する限りだ ああ歌も残るとちゃんと言ってるのか ダメだこりゃ jimごめん 紙なりメモリーステックなり人間の脳なり なんらかの媒体がなければ小説も歌も詩も言葉も残らない ジム・モリソンは紙媒体がなくても人間がいる限り歌と詩は残ると”文学的”に書いているが 広義の”レコード”がなければドアーズの演奏であれ残るわけがない ダメどころじゃない最悪だ。 最後の”songs and poetry con continue.” は勿論 "can"。ちゃんとチェックしないでRolling Stone誌から コピペしたおれが悪いんだけどこれは失態。終わりだ。 This is the end. My only friend, the end. Jim本当にごめん。ただ責任の半分はRolling Stone誌に あるのだから許して欲しい。それにおれは疲れていたんだ。 スレタイについて、日本語で書かれた最適の答えは石川淳の「夷斎筆談」だろう。 くだらない感想失礼いたします 石川淳って漢和辞典ないと読めなかったわ とにかく難しい漢字や熟語などが多くて辟易し へこたれそうになったものだが たまにユーモラスな表現があったりするから 辛うじて読めたような気がする あと森鴎外のフランス語もどきを指摘してるのは 面白かったな 創作され受容された場所と時代の精神を読み解く助けとなる文献が文学だよ だから漫画や映画も文学になり得る 文学の精髄といえば、ポエジーだろうが、クローデルによれば、 「偉大なフランスの詩人と呼ばれる人たちは、マレルブ、ボワロー、ラシーヌ、ヴォルテール、シェニエ、ボードレール、マラルメではなくて、ラブレー、パスカル、ボッシェ、サン・シモン、シャトーブリアン、バルザック、ミュシュレーである」 だそうである。 「フランスの散文を私は北斎の有名な波に例えよう。その波は巨大な、力強いうねりをあげて、岩に砕け、ぱっと白く泡沫と小さい群鳥をとばせる。この霊妙な鳥は、モーリス・ド・ゲランやランボーの章句だ。それは永久に尾韻や音数から逃れた何物かから生まれ、じかに襲われて接吻された魂のみによる何物かから生まれたものだ。」 文学とは何か。 私はそれを作品に即して出来る限り具体的に回答を試みようと思う。 その際に”私”というのは極限られた視点であることは言を俟たないであろう。 すなわち日本語を母語とし、廃れたSNSに書込みなどする、西暦2021年11月末日時点で いまだリアルの世界では生存している何者かである。 文学に限ったことではないが、主体の在り様こそ対象を対象化する決定的な要素である。 前置きはこれくらいにして、さて、文学である。 日本において、文学とは何かと問われ、 「これです」と差し出せる作品、それも唯一の作品は ずばり源氏物語である。 私はそう考える。 何故か、については今後ゆっくりと述べていきたいと思う。 文学とは芸術の一形式だろう 芸術とはそれ自体が美である鑑賞の対象だろう 「思へど、あやしう人に似ぬ心強さにても、ふり離れぬるかな」と思ひ続けたまふ。今日ぞ冬立つ日なりけるもしるく、うちしぐれて、空の気色、いとあはれなり。眺め暮らしたまひて、 過ぎにしも今日別るるも二道に行くかた知らぬ秋の暮かな 上掲は夕顔の終わり近くだが、ここで私が言いたいのは こころの在り様を言語によって表出する見事さである 形式化といってもいい もちろんそれが単純化であっては物足らないであろうし くだくだしければ退屈であろう その辺の案配の好悪は読み手の自由であることも付け加えておこう 文学は筆力が特殊能力のようなところ多分にある。 ところで死というエッセイを読んだけど、ある意味随筆ぐらいなら掲示板向きだね。いい作品もあったと思う。 哲学とは何か という哲学書があるから 文学は如何せんとか。 お札や小箱など以外に日本も昔からそうで呪いの木簡もあればね。 源氏物語の敬語文化がありながら、恋愛やセクハラ対策に敬語を使わないとはどうなの? 何をうつす(特殊効果)かと言うしるしを考えて何をどう込めて書くかという努力になる。 >>46 文学とは何かという 文学部唯野教授の元ネタになった本あるけど そうなんだでもマイナーじゃないかなあ。高橋源一郎より。 スーフリ名誉教授かいな。 イーグルトンを読んでから 実際にいろいろ読んでみるのも悪くないとは思うよ ただ、基本的に読書というのは自由なのだから 自分が面白いと思うものを見つけるというかんじでいいんじゃないか どうも文学は詰まらないということであれば それはそれでいいんだし そもそも本を読むというのが面白くないということであれば それもまた仕方ない 他にもいっぱい楽しいことはあるのだから ひとり本を読みながら時々 人間はひとりでは生きていられないのだなあ と思う 読んでいた本を置き この本を書いた人 この本を出版した人、売ってくれた人 いままさにこの本を読んでいる自分以外の人、既に読んだ人 のことなどを思う 文学なんてもう読まれないし、復活する事もないだろう。 文学作品それ自体に情報など無い。実体はただの記号の集まりいわば「リンク集」である。 アクセス先である読み手の脳に、教養という名のデータベースが無ければ意味が無いのだ。 読み手の脳にある情報同士を掛け合わせ、さらに付加価値の高い情報を生み出す。 これが「文学」である。 残念ながら、現代人は教養というデータベースがスカスカなのだ。 「まるでマクベスがバーナムの森を見つめるような眼差しで」と書かれても、 脳に教養がなければそこから得られる情報量はゼロだ。 シェイクスピアの知識が無い人には、 「まるでオニャララがウニャララを見つめるような眼差しで」と書いてあるようにしか 見えないのである。 現代人のスカスカのデータベースに合わせると、 「まるで子供が飴を見つめるような眼差しで」 など面白くも何ともない幼稚な表現しか出来ない。 作品それ自体にビジュアル情報を満載した映画や漫画に勝てるわけが無いのだ。 知と情 これは若島正説 問題はその割合だが そもそも知も情も人ぞれぞれだから やっぱり自分の趣味は自分で育んでいけばいいだけのはなしで 他人は他人、自分は自分 けれども他人にとって自分こそが他人だということを忘れないようにしたい 知とは、そういった自己・他者の関係性を正確に把握する能力だろうし 情とは、その分析作業を遂行していく際の違和感なり解放感なりの徴であるだろう そんな冴えないことのどこが面白いのかと言われても 面白いと思う者には面白いのだから仕方がない 面白くないと思う者には面白くないのだから、これも仕方がない 蓼食う虫というやつである たとえば若紫などを誤読しようと思えば思う程 ロリータのどこまでも誤読を拒む精緻な作りに感心してしまうのね 文学と出版業は別個のものだが 文学でお金が稼げる構造がどんどん崩れ去る状況は止めようがないなあ だいたいテレビと連動しなくなってきてるもの NHKの大河ドラマなんて 昔は原作があって それで本も売れたんだが 最近のは原作無しが増えてNHK出版の解説本みたいのしか売れないんじゃないかなあ 薄い物語しか受け入れられないエンタメ世界の中で 目を背けたくなるような深刻なものを題材にした、物語にならなそうな物語を どこまで読み手に受け入れさせることができるかを挑戦した、エンタメの拡張性を問うたものが文学 その昔、言葉に飢えて飢えて飢えたときにたどり着きたくなる場所 であって欲しかった 赤の他人が書いたものを物好きにも丁寧に読む そしてその書かれたものと書いた赤の他人と関係を結ぶこと 向こうはこっちのことなど全然知ったこっちゃないだろうが こっちにとっては事件であるようなこと そういう事件を起こしてくれる(あるいは起ってしまう)のが文学 人間の不思議さ、複雑さを教えてくれる愛しいもの 凹んでるときや不安なときに読むと気持ちに染みわたる 文学は地獄を描くべきである 天国を描くのは宗教や政治に任せておけばいい 世の中がどんどん痩せていって 金や名誉や性欲といった直截的なものに多くの人が殺到している それでも なんの役にも立たない ヒヨワで 面倒くさく ちっとも妥協というものをしてくれない詩や小説に 妙に愛着する人というのも ふしぎと無くならないのだから やはりこの世は面白い どの時代でもこの世というのはだいたいにおいてそんなものだ 感情的な言葉というのはある だが言葉が感情を持っているわけではないのだ ゆっくり時間を掛けて読むこと 効率無視(笑) 人生は短いというけれど 急げば長くなるというもんでもないだろう(笑) ほんのちょっと前に進めばそれでよし みんながみんな翼をもっているわけでもなし 蟻には蟻の歩幅があるのさ(笑) ちょこちょこ ちょこちょこ おっと また踏み外して後戻りだ みつを(笑) いろいろ辛いことはあるだろうけど 死にたいとか言っちゃいけないと思うよ あらしの過ぎるのをもうちょっとだけ待ってみよう まずは一息つくこと まあでも、それも難しいことではあるだろうけど やるだけやってみてはどうだろうか ここにもう一人の自分がいるって思えることは大きな救いになるって聞いたことがある 尾崎豊が言ってたんだっけかな それが文学 何太后じゃないが、何かでは哲学書にある。何ぞか(ありうむ)のほうが文と字韻でいい。何かも見直してね。 学自体三に関係ある。文心じゃないがね。文心書簡文通。哲というと折口じゃないが、 骨折痛手に関係ある。狂人は精神障害者。 障害者事務部がいかに出版に遠いとか近いとか。給料いいよ。働く理由もあるし。 殆どボツになるぐらいで、健常の自由は過度には抑制しないさ。 障害者の体感幻覚なんかが文学と哲学を虹蛇橋のようにつなぐだろう。 文学は決して純粋なものじゃない狂気にしても嘘や裏。ワンホストソーメニーホステステンション。 やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける 世の中にある人 事 業しげきものなれば 心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり 花に鳴くうぐひす 水に住むかはづの声を聞けば 生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり スレタイについてこれほど簡潔にやさしく高貴な言葉で解明した人が古今東西にいるだろうか? イーグルントンよりも貫之だな >>5 元々安吾は仏教の研究からスタートした作家だからな 「私にとって文学は宗教のようなもの」 と他でも書いている モンテーニュは文学、超一流の文学 デカルトはダメだこりゃ、科学とか理論学では金字塔かもしれんが文学としてはクソ 両者の違いは人間の生活に興味を持ったかどうか モンテーニュは人間の生活というよりも、人間そのものに関心を持ったのではないか。 シャム双生児をみて果たしてこれが人間なのか怪物なのかと考察している。 日本文学は情緒や情念を書くのは上手いが、モラリスト文学はないな。 まあ、キリスト教文化の下地がないから対立観念としての人間を意識しにくいんだろうけど。 倉橋由美子は「モラリスト坂口安吾」という安吾論を書いているな。 安吾と小林秀雄との対談では、小林が「一番道徳的な作家。戯作者というのは違う」と本人を前に評している。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる