【群像☆】批評の新人賞が全滅!【すばる】
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新潮の評論賞が消え、群像評論賞も休止、すばるクリティーク賞も休止。
日本の思想は文芸批評が牽引してきた。
小林秀雄、吉本隆明、江藤淳、柄谷行人、蓮實重彦、福田和也など。
どう思う? >>66
読んで面白いだけじゃだめかってかんじかな
リテラシーが基準に達してるかどうかとか >>67
私の群像での落選作、実はある被爆者のインテリについて論じたものなんだけど、書き出しは「被爆者としてのゴジラ」というオタな内容だった(そもそも個人的に核やヒロシマ・ナガサキに関心を持った大もとの理由が、小学生の時ゴジラを観たからだったせいもある) ともかくも「シンゴジラ」が最終選考までいってあずまんがそれを高く評価してたこともあってそうしたんだけど、やっぱ文芸誌でそれやっちゃいけなかったんだな 私のがホントに面白かったかどうかは別にして(すばるならよかったのかな?)(笑) 価値の最終的な決定者たる権威ある批評家という幻想があるんだよな
そういうのはこれからは必要ない >>70
近代批評を日本で確立した小林秀雄にしても自分が誠実に、
真摯に生きていく上で自分の尊敬する芸術家に命懸けでぶつかって
教えを乞おうとする様な態度で他者への命令的な批評ではなかったものね
尊敬がその根本にあるような批評がまた蘇るなら嬉しいね 中傷やシニカルな物言いが芸になったら、そりゃ終わるわ 北村匡平|新刊『アクター・ジェンダー・イメージズ』
@Kyohhei99
学生の書く論文に年々ポリコレ的な批評が散見されるようになってきている。もちろんこういう視点は重要。だが、これで批評したことになっているケースもある。それからフィクション=虚構/現実の境界がなく、映画が現実社会と地続きに捉えられ、どう描くのが正しくて何が悪かの価値判断も多い。
北村匡平|新刊『アクター・ジェンダー・イメージズ』
@Kyohhei99
加えて言えば、作品分析も「SNS的な切り取り批評」になっていることもあって(まさにTwitter的な文脈無視の批評)これは非常に心配。女性の胸や足を映したら悪。映画でいえばショットの編集など複数の要素で意味づけられるはずが、切り取り批評においては作家の批評性が徹底して見落とされてしまう。 >>73
北村氏の言うことを全否定する積りは全くないが、この部分だけに関する限り「このてのポリコレ・コンプラを振りかざした「批評モドキ」は昔からあった」という反問を禁じ得ない
その極北に輝くのが○江健三郎の「破壊者ウルトラマン」であり、あるいは〇実重彦の(こっちは昔じゃないけど)最近群像でやってた連載での「シンゴジラ」へのイデオロギー丸出しの罵倒である
誰でも老いるし最後は骨になるが、外見がいくつであれ、正直「心の老いぼれ」だけにはなりたくない
(無論他にも理由はあるだろうが)批評を衰退させた一因は、文芸誌やアカデミズムがリベラリズムのドグマ化を維持・強化し続け「心の老いぼれ」たることを読者や学生に強いたせいではないのか といったら言い過ぎかな? 追伸
まあ、この問題と関わる事実で一番ひどいのが(ちょっと古くなるけど)○波が「ちびくろサンボ」絶版にして他社が次々と追従してったときの「批評家達の(事実上の)沈黙」だよな いまはもういくつかの出版社が復刊してるけど(ただ個人的には「註釈(=お母様お父様方へ)」必須にすべきとも思うが) >>73
言いたいことは何となく分かる
社会反映論かジェンダー批評みたいなものばかりと言いたいのだと思う 実際には特定分野のことしか分からず偏見・偏愛に凝り固まってるだけの、(コンプラ・ポリコレという名の「模範解答」に従って)自分の専門外の物を口汚く罵倒するだけの批評家が権威者ぶるのは辟易だけど、単なる「感想」を越えた批評(=作品の内に「人の内面」「世間」「国家社会」etcを見出す)は出来れば残って欲しい まあもう無理だろうけど 柄谷の『終焉をめぐって』は優れた批評集だと思うな。
大江論(アレゴリーうんぬんの方)と春樹論の並びが良い。 「日本浪漫派批判序説」に目を通したとき、正直橋川は(「日本の橋」や「蒙疆」と違って)保田の「絶対平和論」(の農本主義的平和主義)に正面から向き合っていないと感じた
「静かな生活」で大江健三郎が大江光を単なる「お涙頂戴ヒューマニズム」のネタにして、障碍者と健常者との間に横たわる「隔絶」(これは丸山真男が自らの結核療養体験をもとにいっているのだが)には全く触れないという事実を論じない大江論に、一体何の意味があるのか私には分からない(えっ、そこそこカネになりゃそんなこたどうでもいいって?) さえぼーが
蝶のように舞い蜂のように刺せ
だってさ
カマのように掘れ
って言いたいんだろホントは。性欲おばさん 石原慎太郎が弟んとこ逝ったことで思い出したけど、昔○塚英司が某保守オピニオン誌で石原批判したがために同誌出入り禁止になったって、自分の主宰する「新○実」(休刊)で繰り返しボヤいてたことがある で○塚(ほぼ同じ考えのメンバーだけで凝り固まった)同誌の執筆陣の内、○台シンジが独り改憲論ブツとそこでまたグダグダいってた まあ現実にはなかなかムズイんだろうけど、大きなサル山であれ小さなサル山であれ、その中だけで吠えててもしゃーないんだよね
ところで今回上のレス見て、大江ファンでも5ちゃんの中ではリテラシー無視した差別語連発するんだってことがよく分かった 昔○江良介(某社元社長・故人)がある在日の編集者から「差別問題を思想的に利用すんな!」と反発されていたのが思い出される この80の人、大江本人やその息子の前でも「○タワ」とか使うのかな? すいません 「○塚英司」の「英司」を「英志」に訂正します >>81
5ちゃんみたいなとこでも派閥できたりするからね
自由に話し合うのは結構むずかしい >>84
亡くなってすぐの人にあれこれゆうのもホント品がないけど、石原も大江同様政治的党派性に凝り固まってたよね 激情型と慇懃タイプのどっちがまだいいかってのは人それぞれだけど
ただ石原のいわゆる問題発言は反対の立場からの「政治的」批判(てか批難)に晒されたけど、大江の被爆者や障碍者(の息子)への「上から目線の同情」を「文学的に批判する」人はほぼ誰もいなかった このスレのタイトル「批評の新人賞が全滅」だけど、少なくともこの「見せかけの憐み」をテーマにした文芸批評は、そもそも我が国には初めっから存在しなかった >>85
政治って調整妥協ですよね
大江さんはなんかな、小椋桂も同様の境遇だけどずっと自然でかっこいい
もっとも自分がそうだったら、大江さんほどもできないと思うけどね >>85
>「見せかけの憐み」をテーマにした文芸批評は、
>そもそも我が国には初めっから存在しなかった
磯田光一がそういうテーマの仕事幾つかしてると思いますけどね 左派の詭弁や偽善や皮相なら磯田光一は繰り返して批判したけど
「見せかけの憐み」のような85さんの求めるテーマにぴったりとは
当てはまらない気もしてしました、書き込んどいて何ですが
早とちりで御迷惑おかけしたならどうもすみません >>88
あえていえば「下下戦記」の吉田司と「友情」の西部邁かなぁ ただこの二人とも厳密には「純」文学ではないんだよね(前者はルポライター、後者は社会経済学者兼政論家) パヨク批判が必ずしも彼らがマイノリティを自分達の主義主張を正当化するための「広告塔」にしてきたという問題への批判に繋がらないのが悲しいところ
「見せかけの憐み」なるものへの批判的視点なら
初期作品である「他人の足」がまさにそうであって
作家としての名声を獲得していく過程でかつては自分が批判的に書いていた
偽善者に近いものになっていくところが悲しいですね
また、そういう自分に全く鈍感というわけでもないところがさらに悲しい
しかしこちらの方は欠点というよりは美点でもあるわけです
すくなくとも道徳的に愚鈍というわけでもないですから
たとえば太宰治だと大江のような他者批判よりも自己批判に向かうので
たしかに作品は輝くのだけど書き手の精神はボロボロになって終には破滅という結末になる
倫理的な攻撃を他人にはもちろん自分に対して行うのも考えものですね
そう考えるのなら、われらがわれらの隣人の罪をゆるすがごとくわれらの罪もゆるしたまえ
という言説はよくできていますよ 大江本人はなんだかんだ嫌いじゃないのよ
問題は彼の理論に依拠する左派言論人ね
大江のような才能もないくせに、文学を政治の手段として叩き棒にして
憚らない奴ら。 >>86 >>90
もう時効だと思うので書いちゃうけど、院で日本文学専攻してた頃梶井基次郎の「呑気な患者」やった時なんだけど、突然ゼミの教授(故人)が「私はマイノリティなんです」とだけ言ってそれ以降具体的なことは何もいわずじまいになったことがある あとで別の教授から障碍者の子供がいるって聞いたんだけど、正直子供の障碍を勝手に「取り上げる」姿勢に唖然としてしまった 私が大江が苦手なのは多分この教授のせいなんだけど、ただこの人基本とっても温厚だったんだよね
「悲惨」なのは、今の日本では(いや、多分日本だけじゃない)障碍者の親は自分の子を事実上「ペット」にすることでしかやってけないってことなんだけど、大江の子供でも何でもない被爆者や沖縄戦の生存者まで「巻き添え」にされちゃ、彼らも堪んないと思う >>91
その理屈だと畢竟昭和天皇に戦争責任はないってことになる ワタシ的には象徴天皇支持するけど、それと「道義的責任」のこととは別だと思う こういう擁護のやり方は丸山真男に対してもなされるけど、彼が晩年「本当の社会主義国を擁護する」って言い張ってたのは、どう考えても「無責任の体系」 でもまあ、マイノリティーとして米国大統領の地位にまでのぼりつめた男が
中東ではテロ対策として現地人一般を巻き込む掃討作戦を展開したり
国外ではそういう非道行為を平気で行っているくせに国内の黒人射殺問題で慟哭しているわけであって
理想主義として「核なき世界」を謳ったはいいのだけど
大した成果も出せずにその弁解のように広島まで行脚して被爆者や遺族と抱き合ったりするわけです
こういう欺瞞に満ちたエセ正義がはびこる世の中において
たとえば「アトミックエイジの守護神」のような作品をだして
道徳的エスタブリッシュメント層を下からスナイプしていくことは無効とは思えません
まあ、最弱者視点では同じ穴の狢のように映るのかもしれませんが すみません 93の「社会主義国」を「社会主義」に訂正します >>92
これを読んだだけだと、その教授が苦悩をちょっと吐露しただけで、悪い印象ないですけどね
>>93
丸山は頭脳明晰だけど詐偽的で信用できない
日本政治思想史の目的的ご都合論証は酷い
まあ、時代に対する皮肉なんだろうけど
あと、近代主義に対する評価も真逆なので >>90 >>94
(正直に白状すると)「他人の足」も「アトミックエイジの守護神」も概略しか知らない でもこういった類いの筋立ての作品が「傑作」(単なる秀作ではない)であるのなら、北条裕子の「美しい顔」いかに剽窃が取り沙汰されようとどれほど被災当事者の顰蹙を買おうとそれもまた傑作でなければならない じゃなきゃ結局「大家のアバタならそれはエクボ」ということになる
>>96
この教授、ゼミのときとても穏やかな顔つきのまま「反核(反公害)運動に参加しない、沈黙したままの被爆者(公害病患者)なんて、要するにただの臆病者、卑怯者でしかないんだ」って言ってた その妄言を聴きながら私は、障碍者の子供を「ペット」化した親は等しく、それ以外のマイノリティにも善意に満ちた自己犠牲を強要するものなんだとしみじみ感じた
それから前にもちょっとレスったけど、丸山は自分の結核療養経験をもとに障碍者と健常者の「隔絶」さらに個々人の隔絶を前提にしない民主主義の無意味さについて述べている が、それはいつの間にか忘れ去られイデオロギーとしての「戦後民主主義」を擁護するようになり、末期癌となったときも「本当の社会主義」なんてことを言い出してしまっている 子供や赤の他人の傷跡にすがって文学を政治に売り渡すのは正直見ているだけでイヤになってしまうが、自分自身の傷跡から「逃亡」する形で政治的であろうとするのは、(個人的には)どこか滑稽で、そしてとても悲しい
あと、丸山の研究業績では「日本政治思想史研究」よりも「忠誠と反逆」の方が印象深かった >>97
よくわかりませんが、西洋近代って闘うことがいいことみたいなとこあるけど、これも罪深い考えに思えます 闘うことがいいって考えなら、程度の差こそあれ多分世界中どこでもそうだと思う 日本だって700年間おサムライさんが支配してたじゃん >>99
仏教は本質的に戦いません。
祖国が殲滅されても何もしなかった釈尊
イスラムに虐殺されても戦わなかったインド仏教
中共に侵略されても復讐でなく慈悲をかけるチベット仏教の聖者
日蓮は非仏教で、僧兵や南アジアの他派殲滅はどっか退廃してると思います てかそもそも近代兵器が大量虐殺する一方、近代そのものを否定したら日本を始め多くの国が飢餓と病気に見舞われる このことは確か小林秀雄が少し論じてたと思う 無責任だけど出来れば小林読んで欲しい >>102
そうでしょう、チクロンの開発者が空気中から肥料作ってから食料生産量があがって人口増加した
そういう近代科学的生産なしに増大した人口は維持できない
でも、人口を維持することで持続不能になりつつあるのも確かでしょう
私には今回のコロナがチャンスだったようにも思えます。老人や弱者が死にやすいからで
私も結構歳なのでいつ死んでもいいです。
小林は無常についてとか、美術関係のいくつか読んだだけですが、清沢満之とか和辻哲郎みたいな仏教を西洋化してダメにした人より、かなりよかった印象があります。
たしかヴァレリーだったか西洋人の影響にあるのは同じですが、プロテスタントや文献学よりずいぶんよかったような >>103
小林秀雄は一般的に社会問題を自分の内面の倫理や克己や抑制が
どのように実践可能かを考える為の問いに変換するストア派風の所が
ありますから包括的な社会問題へのアプローチはそんなに出て来ない気が
します
どんな社会問題も自分が解決出来る立場に関与出来ない以上、
結局は自分の覚悟や美学を磨き上げて小規模でも良いから
自分が尊敬する芸術から学んだ道徳的な行為を日々小規模に実践しつつ
円熟して死ぬような主体のあり方が小林の理想だったのではないかなと
自分は愚考しています >>102
一時期の小林の立場は近代という認識や規定自体が非常と漠然としているから
近代を乗り越える為には近代の一部分を批判しながら厳密化しつつ
極限まで推し進めて行く事によって近代によって近代の負の側面を乗り越えるみたいなスタンスですよね
上山安敏氏の『神話と科学』が日本の近代思想の受容の捩れや日本における
知識人の西洋近代のとらえ方を批判的に論じていて勉強になった記憶があります 正直に告白すると個人的には近代文学の中で一番目を通したのは小林よりも保田与重郎 しかもその前に中村光夫と橋川文三を若干読んでたから勢い初めから批判的なバイアスがかかってたと思う 近代ーーとりわけ日本の近代ーーのアポリアを真正面から見据えてた一人が中村(の「「近代」への疑惑」と「「移動」の時代」)だったように思う >>103
あなたはフリッツ・ハーバーの例を挙げておられますが、こうした二分法の論理は(恐縮ながら、というか先の主張とある意味矛盾してしまうのですが)チェルノブイリと福島でもう終わったーーてか終わらざるを得なくなったーーと思います
あと余談ながら、ハーバーのチクロン製造を激しく非難してたアインシュタインが(結果的に)それよりもずっと酷い原爆の開発に間接的ながらも関わることになったのは、ホント歴史のイロニーだと思う(おっと、ここあくまで文芸批評スレだった) >>106
中村光夫って過小評価されてますけど、
小林秀雄、福田恆存、江藤淳等にも見られなかった
鋭い史眼を時折発揮することがありますよね >>107
二分法とは、西洋東洋とか近代非近代とかですか?
それとも、根本的な分別、二項対立判断のことですか?
そして、矛盾とはどこでしょう?
小林と言えば、宣長ですが、熊野純彦の宣長は素晴らしかった おお、いつの間に
レスが100越えてる
批評復活の日も近い? >>109
いやだからこの「二分法」確か小林が言ってたはずなんだけど、要するに近代科学の「軍事利用=悪\平和利用=善」ってことで、「矛盾」ってのはこの二項対立では「平和利用による人災」って問題が解決出来ないってことなんですが
>>90 >>94
あと確か「美しい顔」について、そこでのマスコミ批判(=「お涙頂戴批判」)はそのまま「見せかけの憐み」に吞み込まれてくって批判がSNSであったと思うけど、これもそのまま「他人の足」「アトミックエイジの守護神」にも当てはまんじゃない? どうせならせめて「静かな生活」のラスト 障碍者小説で儲けた作家が札束数えながらほくそ笑むシーンとかで終わって欲しい でなきゃ結局はナントカの貉だと思う 大江批判を前提にしない北条叩きってつまるところ事大主義でしかないんじゃ >>112
いやいや、そんなこと言ってません。
近代主義全体が世界に不幸をもたらしたと思ってます オスカーワイルドは批評は創作と言ったんだぞう!
もっと批評を >>113
少なくとも近代は「否定」出来ない ただ単に「批判」出来るだけ あとはもう(勝手ながら)103さんにお任せします いつ死んでもいいって言ってる位だから、少なくとも私よりはきちんとしたこと言ってくれるに違いない >>115
私のはただの思いですので、聞かれれば答えますが、戦ったり主張することはありませんよ
その上で今結構理解が進んできてるように思います
植民地主義が批判され、虐殺や殲滅が反省されるようになってきてます
また、ユダヤ人であるユヴァル・ハラリがユダヤ教を批判し仏教を高く評価し実践もしてるのに、代表されるように深く本物の仏教を学ぶ西洋人が沢山いることです。
ハラリは結構表面的あるいは目的的ですが、元物理学者のマチウ・リカールなど本格的な方も結構います。
ハラリのようなタイプは、マインドフルネスやヴィパサナ、ヨガなどをやって集中力や知恵の発展開発をめざしますが、この流れは政府も教育に取り入れる国もあるので、こういう流れたが主流になり、平和で緊張や苦悩の少ない社会が来ることを祈っております。 >>116
やはり丸投げするのは無責任だと思うので若干補足します
前にも確かレスったのですが、私は正直小林についてはそんなに詳しくありません ただ彼は確か何かのエッセイの終わりで「ミサイル←→文明」という二項対立述べたり、他にも「近代の超克」の座談中に「機械←→精神」という二分法口にして下村寅太郎(だったと思う)に「機械を作った精神が問題ですよ」と嚙みつかれてた記憶がある(記載された冨山房の本は家のどっか 目下行方不明)
人の考えは長い目で見れば変わるものだからこういう主張ばかりではないのだろうけれど、本当の意味での反近代主義ならミサイルは文明に含まれるしやはり下村のように考えると思う
あと、これはあくまで「要望」の域出ないけど、出来れば皆さんもハンドルネーム付けて貰えると助かる アンカーだけだと誰に言ってるのか正直混乱するので、、、
最後に、仏教に僧兵(の強訴)の歴史やロヒンギャの虐殺に関わってる坊さんという事実が現実にある以上、「右の頬を打たれたらーー」をいつの間にかどっかへやっちゃって十字軍や宗教裁判やったキリスト教やナチ顔負けのジェノサイドやってるイスラエルを単純に仏教の下に置いちゃうのはそれ自体偏見だと思う アンベトガルはカーストに対決したけれども、それはヒンドゥーだけでなくそれと事実上癒着してたインドのいわゆる伝統仏教も含まれてたと思う すみません 最後のところ「アンベトガル」じゃなくて「アンベドガル」です 「ト」に濁点付けて下さい >>110
>批評復活の日も近い?
文系院卒で社会復帰が難しくなった人による
キャリア形成のためのたたき台のようなところがあったから
文芸誌とはいえ、いちおう商業誌ではある文芸誌が
そういうリサイクル工場のような役割を担うのが嫌になった
というのが批評系新人賞停止の理由だとおもうけど?
ジャンル特性上もめごとが多そうだし
じっさい、せまい業界向けの文芸時評程度でもいろいろあったし >>119 てか要は文芸批評に需要がなくなったってだけのこと(悲) 代わりにこういう5ちゃんスレがかつての批評のいわば「短歌」「俳句」版になってるってことで、その辺は多分110さんも分かった上で、半ば諦めのレスしてるってことじゃないかな
それから(あえてまた蒸し返すけど) >>90 さんや >>94 さんはどうして大江(的ヒューマニズム)に「しがみつく」んだろう? 大江の言うこと聞いてると、結局「ヒューマニズム=お涙頂戴=正義の押し売り」ってことでしかないじゃん >>117
下村など近代の超克系の人たちは結構方向性が近いですね
ですか、いわゆる京都学派の仏教理解はかなりおかしいです
僧兵や日蓮、ロンヒギャなどについては、先に述べたように退廃や非仏教と考えます
ロンヒギャなどイスラム問題は難しいものがありますが、排斥運動している僧はおかしいと思います
ミヤンマーはテーラワーダの最も生きた国ですが、そういう僧もいるでしょう
中共進攻以前のチベットは大乗の最も生きた国と思われますが、その中でも悪霊派が大いに力を振るったことからも、いつの時代も聖者は希だということでしょう。
ともあれ、仏教が世界平和の希望であることは確信しています。 人口爆発の問題がある以上弱者や老人は流行り病で死んだほうがいいってのは、ある意味真理かもしれんが決して救済ではない(まあ、現実の世界で人が人に出来るのはあくまでも「助け」であって「救い」じゃないけど)
丸山真男のいうことで個人的に一番ヤなのは「悪」よりは「偽善」って考え お釈迦様はカンダタのあとに大勢の亡者が糸を掴んだとき、カンダタが「来るな!」って言ってくれるのを待ち焦がれてたに違いない 文学者が「悪人」をやめてただの「偽善者」になってしまったら、そしてそんな文学者が世界的な勲章貰ってしまったら、そしてそんな文学者を文芸評論家が肯定・礼賛するようになってしまったら、批評は勿論のこと文学そのものも、もう終わりだ >>122
https://ci.nii.ac.jp/naid/110007044529
上はポレミックで優秀なインド学研究者による『蜘蛛の糸』批判の最新のもの
文献学としては明解で妥当だと思います。
ただし、この学者および19世紀欧州文献学者が仏教が分かっていたとは思いません。
この方法はルネサンスの源泉へ(ad
fontes)運動を取り入れたプロテスタントの、聖書原典探求、カトリック批判を植民地主義とドイツのアーリア主義に応用したもので、言語分析や文献批判は見事ですが、それで法(ダルマ)になるとは思えません。
例えば、無我をアイデア、命題と捉えていて、それを信じることで助かると書かれていますが、それでは助からないでしょう。もちろん、信じないよりいいですが。
その意味で19世紀欧州文献学者より、ヴィパサナを実践しているユヴァル・ハラリの方が仏教を知っているし、批判される大拙の方が仏教を知っている、さらには前に紹介したマチウ・リカールなどの実践者の方が知っていると思います。
ですが、確かに芥川よりの学者および19世紀欧州文献学者の方が仏教に近いと思います。
その論文に書かれるようにお釈迦様は縁ある人に教えを説くだけで、相手が求めもしないのに自分の意志で糸を垂れるようなことはありません。
まして、お釈迦様が〈「カンダタ「来るな!」って言ってくれるの待ち焦がれてい〉ることは有り得ません。
まあ、私が言わせたようなものですし、芥川の作品はそう考えてもしかたないように書かれているので、学者は批判しているのですが、
そういう皮肉は言わない方がいいですよ。私に対して言ってもかまいませんが もともと文芸批評スレだったはずのこのスレ、90番代辺りから「正しい本来の仏教とは何かスレ」にすり替えられてしまい、しかもこのしょーもないスレチ行為に結果的に私も加担してしまっている(恥) だがそんな詰まんないことに関心があるのは実際、宗教学専攻の好事家インテリかファナティックな坊さんだけだろう(もっともアンベドガルの仏教が単なる「回帰」かそれに留まらないある種の革新運動なのかは個人的には興味深い ただ、いわゆる「畜生」戒名をうっちゃって来た私達日本人の大多数には、それは結局他人事でしかないというのが現実なのだ)
「蜘蛛の糸」のお釈迦さんが必ずしもホントのそれじゃないなんてことは高校生でも知ってるし、そんなことはどうでもいい 問題なのは現代文の授業で私達は皆、「あんなこと言うカンダタが一番悪い」と「教えられる」ことなのだ (話がすっ飛ぶが)トランプの移民政策を批判してたバイデン(ハリス)は今頃内心、「芥川のお釈迦さん」を心底羨んでることだろう お釈迦様を責める人はいないのだから
そして丸山や大江といった戦後民主主義者は、おそらく仏教か儒教のいずれか(もしくは両方)に端を発するだろう「悪よりは偽善」という観念を受け入れることで、(長期的には)戦後の思想・文学を確実に腐らせてきた この場合の「腐食」「頽廃」は必ずしも近代主義とは関係ない 近代主義者としての丸山を一本調子に批判(=擁護)する人にとって、私がこのスレで繰り返ししつこく問題にしていることは(傲慢の誹りを承知で言えば)理解不能の問題でしかないのだ
つまるところ「悪人は自らの悪を自覚する可能性を持つが、偽善者は自らの偽善を自己欺瞞の中に隠蔽する」ーーこのアポリアは文芸批評のものではあっても好事家のそれではない(無論それは「悪人正機」や「罪なき者石を投ぜよ」に通じているけれども) >>124
アベンドカルは唯の仏教に仮託した平等運動、伝承もないし輪廻否定してるので
マルコムXとかキング牧師に近い >>124
仏教で偽善つかってる人は偽物
まあ、いいやここで止めとく
スレ違い失礼 >>124
要するに釈尊をああ描いた芥川が悪い。
すまん、一つ重要かもしれないので最後に追加しときます。
それまで重視されてなかった悪人正機、歎異抄を使ってプロテスタント化したのが清沢満之
それが倉田百三などによって流布され、仏教の核心のようにいわれるが、歎異抄は自著でなく、蓮如以前に痕跡すらなく、清沢以前は重視されてない
流布してる説は、ほとんどプロテスタント的なので仏教とは思えないし、真宗で妙好人などを出していた生きた伝統とは全く違い、この流れからは、妙好人は出てないように見える。
つまり、結果が出せない誤ったものと思います 実は私、アンベドガルについてはほぼなんにも知らない ただかつて野間宏が沖浦和光との対談でアンベドガルについて延々とくっちゃべってたのに目を通したことがある そのとき野間があたかもアンベドガルこそ真の仏教者であるかのように持ち上げつつ、彼が社会主義(=スターリニズム)に批判的だったことについてはほとん触れない姿勢に「これだから政治的な文学者はーー」と若干失望した覚えがある
仏教が「輪廻」の概念をバラモン教から引き継ぎつつ、一方で「解脱」を唱えたのはおそらく事実だろう そしてその宗教史的事実こそ仏教が結局カーストをそのものを否定出来ず、ヒンドゥーの「付録」になり果て、我が国における差別戒名にも繋がっていった原因でもあろう 多分アンベドガルはこの事実を薄々知ってたからこそ、そして反面で社会主義にも与しえなかったからこそ、「輪廻」を頑なに斥け、その否定こそが真の仏教であるといわば強弁したのだろう(マルコムXはムスリム組織からの離脱後も自分をイスラムと思っていたのか?)
私の実家が一向宗(浄土真宗という言い方はコンプラ的に法然の浄土宗との関係上よろしくないらしいので、ここではあえて古めかしい歴史用語を用いる)の檀家なこともあって同宗派については乏しいながらも知識がある 「歎異抄」が親鸞死後のものだということぐらいは知ってるが、悪人正機が蓮如以前に遡れないというのはホントだろうか 仮にそうだとしても基本的に「救いの対象者が誰かは初めから決まってる」とするプロテスタントと「悪人こそはーー」という「近代的(?)一向宗」はホンマに類似品なんだろうか?
個人的には、「正しい仏教」なんてことはどーでもよくって、アンベドガルや明治以降の一向宗がなぜああいう教えを仏教として主張したのかが少し気になる(この問題も文芸批評というより社会批評、オピニオンというべきなのかもしれんがーー) それは私が大江の「戦後民主主義」に「多事争論」よりも「同調圧力(=空気読め的な)」しか感じないこと、そして「もともと民主主義はこんなもんじゃない もしこれを民主主義と呼ぶなら、もう民主主義なんか要らない」と思ってしまうことと、多分どっかで関わってる アンベドカルは不可触民を差別しないのが仏教なので利用した
清沢は江戸以来の反仏教思想と外来の科学的プロテスタントの批判の中で、廃仏毀釈が起こり、仏教が滅亡の危機にあったので、プロテスタント化を図り精神主義というものを唱えた
その根幹に歎異抄を用いたと考えます
それがインテリ層に受けた。
なので、方便としては一時的にしょうがなかったとは思います
問題は未だにそれを正しいとしてるとこ、安田理深みたいによりプロテスタント化を正当とするような人もいて、彼のような人が尊敬されてるとこですね
歎異抄が蓮如以前に遡れないのは調べた限りそうです。
少なくとも最古写本は蓮如本なのは確実です。
覚如、存覚、高田門徒などの現存本にも言及されません。
江戸期でも註釈が数点あるだけで、中心的なものではないように思います
私としては清沢と同時代の七里恒順師のような方の教えが真宗の本質と思います。彼は有名な妙好人も育てていて、行動と教えから本物と思われます >>128 すいません 「アンベドガル」の「ガ」から点々とって「カ」にして下さい
もうそろそろこのスレも終わりだろう 最後に改めて個人的に思うことだけいっとくと、(最近では「美しい顔」に見られるように)文学における「お涙頂戴批判」「見せかけの憐みへの批判」そのものが、当の「お涙頂戴」「見せかけの憐み」に取り込まれてゆく状況にあって、文芸批評だけがこの問題に対峙し得る武器になると勝手に思い込んでた その武器が事実上消え去ってしまったのが、何とも無念でならない お早うございます
文芸批評なんだから基本「好き嫌い」入ると思うけど、その延長線上で言葉のやり取りするとしたら、もう(ネットの)noteだとか5ちゃんぐらいしかないだろう 問題はそういうとこで「マジメにヒマツブシ」したい人がどれだけいるか(てか残ってるか) ネット上で自分の好きな作品がどのように語られているかを調べまくって
宮沢賢治論に対する山下聖美みたいなことやれば
面白いんじゃ? >>133
その山下聖美の宮沢論に吉田司(ノンフィクション作家)の「宮沢賢治殺人事件」入ってるんでしょうか? タイトルからも分かるようにどっちかってゆうと(とゆうかかなり)批判的なやつーー賢治の日蓮ベタベタなところとかクローズアップしたりしててーーですが 入手できるかぎり全部読んだらしいから
入ってるかもよ?>吉田 >>129
>清沢は江戸以来の反仏教思想と外来の科学的プロテスタントの批判の中で、
>廃仏毀釈が起こり、仏教が滅亡の危機にあったので、
>プロテスタント化を図り精神主義というものを唱えた
>その根幹に歎異抄を用いたと考えます
国学の隆盛による神道思想の高まりから
幕末期には神仏分離運動が発生して(とうぜん幕府によって弾圧された)
この流れの中で本願寺の資金援助を受けた明治政府が神仏分離を進めたところ
一部過激派が廃仏毀釈に向かった
たとえば葦津珍彦のような神道思想家によるとこの運動は組織的かつ計画的なものであり、
本願寺の策謀によるものだったとされている
実際、西本願寺派が仏教的地位を確立したのは明治以降であり
それまでは修験系の流れをくむ道場的なものだったのでそれなりに説得力のある指摘ともいえる で、歎異抄の発見は明治以降であり
このテキストをたとえばプロテスタント神学(理神論ともいわれる)のように
仏教の理論化に利用したのが清沢であって >>136
廃仏毀釈が本願寺の策謀ということなら、始めて聞きました。その根拠はなんでしょう?
>>137
発見は現状では蓮如になりますね
プロテスタント化に利用したのが清沢でしょう
清沢については、通説といっていいと思います。 >>138
また話を教理問答に戻してる 「正しい仏教」なんてのは文芸批評的に意味なし そもそもそんなことにこだわること自体が日蓮宗や教条的な一向宗(浄土真宗)の一部、それから(ヒンドゥー教典を批判的に読み直すのでなく焚書始めた)アンベドカル派の一部とおんなじでしかない
とどのつまり釈迦が輪廻を否定しなかったことが、(結果論的に)インドの「伝統仏教」がカーストの正当化・黙認に吞み込まれた理由であり、それは神の前の平等を説いたイエスが反面で「皇帝の物は皇帝に」といったことが、キリスト教がローマ帝国やのちのフランク王国といった権力と癒着してった淵源になったことと根本的には変わらない
ある宗教や政治的イデオロギーの正当性を説く人には、そもそもなぜそこでの主義主張に全面的な同意を得られないのかが、決して理解出来ない それは石原(の憲法改正)や大江(の戦後民主主義)見ててもよく分かる
どうしても仏教の話したいなら、近代における仏教文学の話(=例えば賢治の話の中にいかなる仏教説話の影響が見てとれるか)をするべきだろう だだし、そもそもプロテスタントが近代的自由のもとになった一方で、その予定説が「黒人の魂は救われないと予め定められてる」という人種差別の正当化にもなってしまっている以上、それはストレートに悪人正機とは結び付かない そんなこと言う人は(失礼ながら宗教オンチの私から見ても)メチャクチャ 多分特定の文献だけを掘り下げたが故に、あちこち見落としてしまったのだろう >>139
>その根拠はなんでしょう?
葦津珍彦著「国家神道とは何だったのか」に詳述されているよ
個人的には説得力がある説明だとは思えないけど
宗教革命としての明治維新(井之口章次)の諸派中で良いとこ取りをしたのが
西本願寺派だからとうぜんやっかみは多いのだとおもう
葦津珍彦は神社本庁の設立者だけど朝鮮併合に反発してその独立を支援した
元社会主義者でもあるのでそこらへんも考慮して考えるべきかと
でもまあ、いろいろ面白い指摘があるので読んでみても損はないでしょう そういえば日本植民地下の朝鮮半島をニューフロンティアたる
布教の場としたのは東本願寺派と曹洞宗だったかな
曹洞宗の場合は柳川藩の武田範之の手引きによるものだけど東本願寺派の進出過程はよくわからない
まあ幕府側だったのでそうとう冷や飯を食わされたのだと思うのだけど
で、これらとは別に長老派、青年派、メソジスト派というプロテスタント系諸派の布教活動もあって
プロテスタントと真宗が教義(と信者獲得)面で衝突するのは日本よりも半島だったような気がする で、朝鮮半島でキリスト教徒による政治活動が
独立運動とも絡んで活発になるのは三・一運動の頃からで
地域的にはいろいろもめごとの多い全羅道が中心だったかな
こういった動きは大戦期にも続いたのだけど
日本政府はこういう反政府運動に対して
キリスト教全体の監視と管理団体たる日本基督教団を組織したわけだな 今度は「日韓近代宗教史」スレになってる まあ「仏教は絶対正しい」スレよりはマシか でもなして別のスレ立てないんだ?
では今日はこれで お休みなさい >>140
そこまで言うなら、正直に感想を言わしてもらうけど、そういう狭い近代文学批評の視野では批評自体が縮小再生産にしかならないので、面白くないんだと思います
せめて漱石ぐらい和漢洋に通じてないと批評はね
強烈な体験とか、原典読まないと新しい発想、視点が出てこないので
>>141
そういう政治的な方向はあんまり興味ないし、葦津さんみたいな怪しいものを扱うのは圧倒的な情報量で裏づけないと信憑性低いように思いますね
まるでユダヤ陰謀説みたいな ついでに、正しい仏教といのもおかしいですね。
一時、批判仏教というどうしようもない非仏教説が流行ったけど、ああいう観念的で一義的な正しい仏教というのは、プロテスタント的な源泉主義で仏教的では決してないと思います。
仏教の妥当性はサンガの聖者に伝承されてきたことと、それが聖者を生み出してきたこと、つまり道として結果を出してきたという証拠にあると思われます。
道も空で縁起して変わるので、文献批判、歴史的批判的方法のような19世紀的なやり方では文献伝承ぐらいしかたどれないでしょう。
文芸批評的にいえばポストモダン以前の歴史的事実の一義的実在を信仰しているような幼稚なかんじに見えます。 >>146
つまり「正しい○○教なんておかしい」ってことでは同意して貰えるわけですね
教理問答するなっていったのは、冒頭(>>1)で挙げられてた人物の多くが基本文芸評論家で、一部に映画評論、社会評論関係が含まれていただけだから(ちなみにこのスレ立てたのは私じゃありません)
したがってもし宗教関係論じるならスレ立てた方の意を踏まえつつ(私の乏しい知識で考えると)宮沢賢治と国柱会の関係とか「最後の親鸞」とか遠藤周作関連から始めるのが筋じゃないかと今でも確信しています
スレタイトルが「批評の新人賞が全滅」なのに90〜100番代以降、このスレの内実が「正しい仏教スレ」「日韓近代宗教史スレ」へと立て続けに変わってしまうのは、どう考えても単なるスレチ、もっとはっきり言えば「あらし」でしかありません
実は私自身は文芸よりもサブカルの方に詳しく、このスレの前半ではそういった問題に関わるレスもしましたが、それは「すばるクリティーク」の最終受賞者がサブカルを論じていたことが話題になったからです
必ずしも宗教や政治を扱うなといってるのではなく、扱うにあたってマナーは守って欲しいという、ただそれだけです
あと「仏教は絶対正しい」と繰り返しスレしてる方、私の「仏教は輪廻を否定出来なかったがゆえに、インドでは(少なくともアンベドカルまでの間ずっと)ヒンドゥーの腰巾着になり果て、我が国では「畜生」戒名を再生産した」という問題にはお答えになっておられませんが、それはどうしてでしょう? 社会問題に関心のない宗教ディレッタントの8割はオカルティストかネトウヨだというのは私の偏見でしょうか?
すみません 147番の後半「スレしてる方」を「レスしてる方」に訂正します >>149 >>150
「うずひこ」 確か「朝生」で故・野村秋介が「あしづうずひこ」って言ってました
>>145
言い忘れたので補足しますが、陰謀論は確かに問題なのだけれども、しばしば陰謀論批判は大局的なものの見方そのものの否定にもなってしまうと思う
優れた実証研究で知られる秦郁彦が「陰謀史観」の中で石原莞爾の「(太平洋戦争の責任追及するなら)ペリーを呼んで来い!」と言ったことを批判してましたが、現実問題として韓国が豊臣秀吉を恨み(一方で元寇でのかたば担ぎは忘却し)、パレスティナ問題がなかなか解決しないことを考えても陰謀論そのものをタブー視するのはちょっと疑問です >>151
野村秋介
朝生、
世代を感じるね
塩田丸男とかw 度々すみません 151番の「元寇でのかたば担ぎ」を「元寇での片棒担ぎ」に訂正します
「陰謀論」について重ねて補足しますと、例えばいわゆる「偽史」ものの類いには、往々にして敗者の精神史が含まれているものなのだと思います 呉座さんみたいに一刀両断で終わらせるべきじゃないのです(このことも文芸批評から逸脱したテーマになってしまいますがーー) >>147
冷静なお答えありがとう。
そうですね、荒らしですね。
しかしながら、貴方以外にも面白い方が出たので、
もうちょっと、いいですか?
ダメなら、必ず打ち切ります。
挙げられた方々はみな清沢系統の親鸞なので意味ないと思います。賢治は不思議ですね、非仏教の日蓮から結構仏教的です。
近代文学だと漱石と露伴かな、ちょっと仏教分かってるかんじは
輪廻は思想じゃなく、体験ですので否定しようがありません。ただし、何か実体が輪廻するのではなく、変化しながら縁起して輪廻するというのが仏教の立場です。
これが近代で受け入れられなくなって、日本仏教やテーラーワーダで色々変なこと言う人がいますが、それはおかしい。
そして、輪廻を信じなくても、仏教は実践可能です。何らかの苦を除く道だからです。究極的には輪廻から解脱しないと苦は完全に除けませんが、例えばヴィパサナ、マインドフルネスなどで効果的に除くことができ、輪廻を信じる必要もありません。しかも集中力や智恵が出ます。なので西洋人に受けてると思います。 >>151
石原莞爾のその発言には賛成。近代の諸悪はほとんど西洋の植民地主義だし、背後にキリスト教の支配欲があるのは間違いないでしょう。
パレスチナ問題はイギリスとユダヤのせいでしょう。あんなとこに新たに国つくるは、アラブは分割統治するは、酷すぎ。
韓国が秀吉恨むのは当然だと思います。
ユダヤも金持ちも色々裏工作はしてるでしょう。しかし、陰謀論はちょっとしたネタに妄想てんこ盛りなので、これは扱えない、あるいは妄想力として分析するのがいいと思います。 >>153
なるほど、そういう意味での読みはありですね。
平家とか太平記でそういう論を兵藤さんだったかが論じてて、それは面白かった記憶があります。 >>152 (笑) この言い方だと平成右翼の代表格が野村で昭和(戦後)は三島と村上一郎になるのかな? ただネット検索って結構タイムマシンとして機能するんですよ まあこういうとこではおっさんとして見られてた方が変にディスられたりしないかな
>>154 この答えではあなた自身が、インドの伝統仏教がヒンドゥー(=カースト)に吞み込まれた事実や、我が国での畜生戒名の事実を黙認してるとしか受け取れませんが、そうとってよろしいですか?
>>155 パレスティナ問題については上記2国の他に、(ナチの)ドイツ、(サイクス・ピコ協定の)フランス、ひいては大なり小なりホロコーストに加担したヨーロッパ諸国の大半に責任がある
安藤礼二が群像で仏教関係の連載してるが(もう終わったっけ?)専門用語が多く正直ムズイ (宗教論議はここではスレチだということの他に)宗教を取り上げるにあたっては、もう少し分かり易くならんのだろうか >>157
輪廻でヒンドゥーに飲み込まれたとは誰が言ってるのですか?
まず、ヒンドゥーは釈尊よりずっと時代下がって成立したとされます。
ブラフマニズムなどヴェーダの宗教をも含めた意味で誤用しているとしても、輪廻、サムサーラという言葉も、生まれ変わり死にかわって経めぐるという意味で用いたのも仏教が最初とされます。
安藤礼二さんはよく覚えてないけど、彼がよく言及している井筒俊彦とかの仏教理解はダメですね。 「真の仏教」の名においてカーストや畜生戒名を黙認し、「正しいキリスト教」の名において魔女狩りや反ユダヤ主義容認するのも、それが主義主張の範囲に留まるなら(信教の自由に照らして)勝手なのかもしれんが、そんな視野狭窄な宗教談義は、「本当の社会主義」と言い張って社会主義の現実から終生逃げ続けた丸山真男とでもやって欲しい 少なくともここはそんな「都合の悪いことはパスする」スレチの居場所じゃない
ここはあくまで文芸評論の、「批評に関する大手文芸誌の新人賞の消滅」についてのスレなのであって、もうみんなこのことに関心ないなら(あるいは諦めてるなら)このスレが終わりになるのも、致し方ないのだ >>159
たぶん理解できないでしょうが、仏教には主張はない、ただアドバイスのような道を示すだけ、その道も最終的に捨てられるので 社会主義に完成はない ただアドバイスのような理念を示すだけ(そして多くの人々が警察国家の管理下に置かれるーー)
そういえば林達夫の「共産主義的人間」って、共産主義こそ宗教だといって批判してたんだよな >>161
仏教に完成はある、解脱成仏。社会的には世俗のあるがまま
共産主義、マルクス主義は世俗的キリスト教の一形態でしょう 社会主義は世俗された宗教 内面オンリーの救いでなくウチ・ソトを越えようとして結局偽善まみれになった
宗教ファナティックがいくら「自分は違う」と正当化しても、世の東西に関わらず内面だけにこだわる宗教は、世俗での差別や抑圧、戦争を黙認し正当化する そして看過について問われるとどこまでも抽象的に、つまり厚顔無恥に「アレは正しい教えでない」というは「切り捨て」に逃げる
もうスレチ大概にして欲しい まあ国策文学も戦後民主主義文学も、その意味では同じだけど 「カースト」という語のルーツはインドの言語からではなく
ポルトガル語の家柄・血統を意味する「カスタ」という言葉から派生したもの
たしかに出自による階層分けというのは昔にもあったわけですが
現在につながる差別というのは
植民地化の過程で生まれたものだというのがさいきんの説ですね たとえばインドで最もカースト差別の激しい北西部パンジャブ地方は
19世紀に大英帝国に植民地化されるまではシク教を奉ずるシク王国の領土だったので
ヒンズー教の残照としてのカースト制という説明は納得のいくものではない
また、この地域はいわゆるアーリア人の侵入によって
ガンダーラ仏教が興った地域でもあり、日本では天竺国として知られています カーストは正しくはヴァルナおよびジャーティという二つの身分制の総称で、いずれもインド古来のものらしい イギリスの植民地支配下で強化されたといわれるが、当時イギリス人はカーストのような因習がある以上、我々は彼らを啓蒙する義務があるといって植民地支配を正当化した(イギリス国内の階級制は棚に上げて)
どの国も、どの個人も、結局自分には甘く他人には厳しい
ある作家が「破戒」のラストで主人公が海外に渡るのは「逃げ」だといったという 逃げた先でも、また「イエローモンキー」でしかないことが分からなかったのだろうか
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