なろう作家が参考にすべき異世界の貴族のあり方のモデル

島原の乱

松倉氏が定めた税は多岐に渡り、家に棚をつけたら「棚税」、窓をつけたら「窓税」、子が出来たら「頭税」、囲炉裏(いろり)を作れば「囲炉裏税」、挙げ句の果てには死者を埋葬した時の「穴税」まで制定した。
特に年貢については、3倍に水増しした検地を行ない、それを基に年貢を課すという極悪非道ぶりで、領民は文字通り食うや食わずの生活を強いられた。

そこへきて、4年(1634〜1637年)に渡る凶作の連続。凶作でも年貢の量は変わらず、餓死者が相次ぐ。そして年貢の引き下げが行なわれるどころか、逆に取り立ては非情さを増した。

キリシタンに限らず年貢を払えない者に対しても、ありとあらゆる残虐な行為が繰り広げられた。
城へ呼び出された年貢未納者は、手足を縛られ蓑(みの)を着せられ、火をつけられた。
熱さのあまりもだえる様が踊っているように見えたので、役人たちはそれを「蓑踊り」と言って楽しんだというからシャレになってない。

また当時の文献に「籠詰(かごづめ)」という刑罰も載っている。
『百姓の与三左衛門は、年貢を納めきれず幾らかの未納米があった。
役人たちは、ならばかわりにと息子の嫁を臨月でお腹が大きくなっていたにも関わらず引っ立てていき、初冬の冷たい川の中へ籠詰で数日間そのままにさらした。
やがて6日目に嫁は籠の中で出産、衰弱した母子は共に不憫な最後を遂げた。』

農民にはもう、黙って死ぬか、戦って死ぬかの、どちらかしか道が残されていなかった。

籠城した者たちはよく耐え抜きましたが、ついに武器も食糧も尽き果てて、1638年総攻撃を受けて1万7千人の男子は皆戦死しました。
落城の翌日、武器を取ることもせず城内の堀に隠れていた女子供2万人が一人残らず殺されました。
原城内で唯一生き残ったのは、一揆軍を裏切り敵の手引きをしようとした絵師山田右衛門作だけでした。