新しく有利な発想は、ひらめき=知能の産物、だけではない事は重々承知している。

「鐙」を例に挙げよう。
まずは知識が必要だ。
「馬(または類似の騎乗用動物)」「乗馬(または類似の(ry)」「馬上戦闘は不便」この辺の知識がないとそもそも鐙なんて絶対思いつけない。ようは農奴とかで馬上戦闘なんて無縁の人間は、いくら知能が高くても鐙なんてまず思いつけない。
そして現代社会みたいに教育が行き届いた社会でないと、必要な知識を得るハードルは跳ね上がる。
尚、「馬上戦闘が不便」だと思っても、尚且つそれを「馬上戦闘なんてこんなもんだ」と甘んじずに「この不便を解消しよう」と考えるのは知能の産物だ。あと、「原因は足場が安定しない事だ」と看破するのも知能の産物だ。
次に機会が必要だ。
ようは問題を知ってそれに意見できる機会だ。昔は身分制度とかが厳しかったから人口の大半を占める農奴とかが良い発想を思いついても、それを馬上戦闘をするお貴族サマに進言する機会はなかなかなかっただろう。
例えば賢い奴隷が作業を効率化する方法を思いついて主人に提言しても、「怠ける方法を考えるな!」だの「じゃあお前らは用済みな」という結果になるだけだ。
そして時間と労力が必要だ。
何らかの解決策を考えたり、それを実用化するために試行錯誤するのには時間と労力が必要で、上記の機会と相まってそれを用意するのにもいろいろと困難がある。

近代的な教育が行き届いたりして知識に溢れ、身分制度の無いorゆるやかな時代でないと、文明の発達って難しいんだよね。