巨大な竜が天に向かって吠えた。冥府の神の悪夢から生まれたと伝説されるその竜の咆哮は、今まさに足下で、大地が裂けているのではないかという錯覚を私に起こさせた。
 瞬きする程の時間しかなかった。尾をたった一振りしただけで、周囲の景色は一変してしまった。数百年もの間、この悪夢を封印してきた遺跡は瓦礫と化し、森の木々はなぎ払われてしまっている。
 どんな嵐でもこれほどの力はないだろうと思われた。空気が未だびりびりと震えている。稲妻のような恐怖に打ちのめされ、私はしばらく立ちあがるのをためらった。
 森が守り隠してきた秘密はついに暴かれた。眠りから解き放たれた悪夢は、現世を地獄に変える力を持っている。
 
「どうして生きてるの」
 傍らで、私と同じく身を固くしたままの男に訊ねた。訊ねたと言うより、素朴な疑問が口をついて出ただけだった。
「シェイエルドさ」
 髭面の戦士がウィンクしながら、庇護の魔法の名を口にした。呻いた、という方が適当かもしれない。右肩から夥しく出血している。魔術が発動する前に、何かが直撃したのだ。
「ゼル! 大丈夫!?」
 心配ないさ、と彼は唇の端を歪めて言った。嘘だ。力が入らない腕は、風のない日の旗のようにだらりと垂れ下がり、青ざめた顔には脂汗が浮いている。
 魔法が使えるなんて一言も聞いてなかった。港町の酒場で知り合ってからまだ日は浅い。背中に大きな傷があるのは知っているが、まだまだ知らないことは多いようだ。
「キュア、は?」
 彼が力なく首を左右に振って、血に汚れた水晶球を投げてよこした。
「そいつがあれば俺も英雄の仲間入りかと思ったんだが」
 非魔術師にも魔術を可能にするという小さな水晶球。しかし、力を使い果たした魔力の結晶はひび割れ、濁りきってしまっている。
「もう俺には剣も振れん」絶望を受け入れて彼は小さく笑った。「剣を振ったところでどうにかなる相手でもないようだが……畜生、封印を解くべきじゃなかったんだ」
「もう遅いわよ。封印は解かれるべくして解かれた。私たちが来ようと来まいと。時が来たのよ」
 なんだって?と、男は訝しげに私を見た。
「おまえ、それを知っててここに来たのか?」

 竜が辺りを見回している。巨体が動くとそれだけで山鳴りのような音がした。コウモリのそれのような翼を一二度開いては閉じ、初めて飛び立つ若鳥のように羽ばたかせる。風が音を立てて吹き、砂埃を巻き上げて視界がなくなる。
「この場を離れろ。奴は俺たちを虫けら程にも思っていない。今の内だ、俺に構うな」
 腕で顔を庇いながらゼルが怒鳴った。
「あなたを置いていったりしない」私は竜のいる方向を向いて言った。「こいつを逃がしもしない」
「何考えてんだよ! 敵うわけがないだろ!?」
「こいつを自由にすれば、世界が滅びるかもしれない。地獄がこの世に現れるのよ」
 私は彼に近寄ると首に提げていたネックレスを外した。小さな、さっきのものよりずっと小さな水晶球がついている。
「あなたの名前を教えて」
 黒い水晶のような瞳。彼なら、私の生を意味のあるものにしてくれるかもしれない。
「本当の名前を」
 私が重ねて訊くと、ゼルは本当の名前を教えてくれた。聞き覚えのある、由緒ある家に生まれた証の名だった。

 竜がもう一度吠えた。羽ばたきを繰り返して飛び立とうとしているが、眠りから覚めたばかりだ、まだ巨体を浮かび上がらせるだけの風を起こすことができないでいる。
「あなたに会えたおかげで、私は人として生きられるかもしれない」
 風が一秒ごとに強さを増していく。
「私の名を覚えて!そして戦いのあと、この水晶に私の名を唱えて」
 立っているのが精一杯なぐらいの風の中で、私はゼルに水晶を握らせ叫んだ。
「もし私が生きていたら!」
 私はゼルを抱き寄せ、耳元で自分の本当の名を言った。
 
 そして私は「誓文」を唱え始めた。自らを解放する魔力の言葉。ゼルが驚きに目を見開いている。もう変化は始まっている。
 私の体にも竜族の血が流れている。その血脈は、古から悪竜と戦い、封じることを義務づけられた神の僕の竜であることを意味する。
 竜の本性をちいさな水晶に隠して、人間に姿をやつして生きてきた。竜に戻って我を失っても、連れ戻してくれる人がいるなら、また人として生きていけるかもしれない。
 怒りと憎悪が、戦いの本性が自らのうちに沸きあがってきたことまでは憶えているが、その後のことは定かではない。
 次に、あたたかな腕の中で目を覚ました時までは。