一面の花畑だった。菜の花の黄色が、緑に映えている。一陣の強い風が吹いた。黄色の海に波が立ち、黒スーツ、喪服姿の男
江西に吹き寄せた。後ろになでつけている髪は揺れた。ほくろを眉間に有する彼は、そのほくろにむけて、朝から眉を寄せっぱなしだったが、
この時の彼はただただ、呆然としていた。

つい先ほどまでは、何故ここなのか。彼は分からなかった。

妻が自殺したのは半年前だ。遺書にはここの住所だけが書かれていた。

三重県福河原町字次4−5。
これだけである。妻は何を考え、この番地をしたためたのか。結婚10周年を迎える直前に自殺。そのおりに遺すには、もっと違う言葉があっただろうに。
半年前、江西は遺書を開きながら、奥歯を噛んだ。10年間で子宝には恵まれなかったが、安定した仕事についてはいた。酒も賭け事もしなかった。
職場の飲み会に参加をしても、一次会の終了と共に帰り続けた。黙々と誠実に仕事をこなす江西の評価は高かった。職場の女性の中には、
そんな江西を誘惑する者がいたが、彼はのらなかった。

職場では浮気をしたことは無い。1度、だけ。出張先で一度だけ、女性と間違いを犯したことがある。
7年前の話だ。雨に濡れて歩いている女性を
不憫に思い、車に乗せた。駅まで送ろうとしたが、彼女は固辞をした。
その後で関係をもったのは一度きりだ。連絡先も交換をしなかった。妻にも知られていなはずだ。
が、それからだろう。妻との間に壁が、不可視の膜のようなものが、出来始めたのは。

だからか。妻が密かに心を病み、死を選んだ。では、三重県には何があるのだ。自殺という死の形ゆえに、密葬を選らんだ江西は悩んだ。
妻の残した財布には、探偵社の領収書が入っていた。彼女は探偵に何を調べさせ、何を得て、死を選んだのか。真実を知りたい。が、恐ろしい。

訪れることを決心するのに、半年かかった。妻への弔いの意味もこめて、江西は喪服に身を包んだ。
新幹線、電車、バスを乗り継ぐ。
都会の喧騒から解かれていく景色は、美しさを増していく。
その美の果てに、この菜の花畑で、江西は目を見張った。

彼の瞳には、菜の花の黄色い波に見え隠れするように、6歳くらいの男の子の姿が映っている。4歳くらいの女の子と遊んでいる。江西には男の子の妹に見えた。
問題は、男の子だ。ほくろがあった。眉間に、ほくろ。江西と同じ位置にほくろがあった。
この時、江西は妻の死の理由を悟った。

6歳の子。息子。妻。死。菜の花。一面の菜の花。
全てが一緒くたになり、陽に煌めいて、江西の気は遠くなった。