そこには黄色い菜の花が一面に咲いていた。
その菜の花の中で男は呆然と立ち尽くしていた。顔には驚きの表情が見てとれる。
くたびれたスーツ姿の男であった。

30分程前、その男はある山あいの寂れたバス亭に立っていた。
日に三本しか来ないバスは、今しがた男を降ろして走って行った。
男の目的地は、まだここから暫く歩いたところだ。
男の顔はどこか不安げであった。懐かしい道だというのに、そのような感慨は湧いてこない。
ただ、恐れに似た気持ちが心を満たしていた。心臓に絞られるような痛みを感じる。
我が家まであと100メートルというところだった。
俯いていた男は意を決して顔を上げた。
何もない……心臓の痛みが鈍いものから、突き刺すような痛みに変わる。
男が5年前まで住んでいた家の周りには、男が望むような物は何も見当たらなかった。
「やはり、だめだったか……」
あきらめの気持ちが心を覆うが、最後の見納めにと家のほうに向かう。
心に焼き付けるようにして、我が家を眺め、家の裏手のほうに周った時だった。

そこには一面の菜の花が春の陽射しをあびて、うららかに咲いていた。
目を見開いたままの男は、そのまま菜の花畑の中へと入っていく。
その時だった。
「おかえりなさい」
男が振り返ると、30歳ほどの女が立っていた。
女の顔には切なさを湛えた微笑が浮かんいる。男の顔をじっと見ている。
5年前、男は心ならずもある犯罪を犯してしまった。刑期を終え、今日がその出所の日であった。
刑務所から男は妻にある手紙を送った。
映画の幸せの黄色いハンカチになぞらえ、自分を許してくれるなら家のまわりに何か黄色い物を目印として置いてほしい、そう願ったのだった。

男に春の優しい風が吹く。
妻も菜の花畑に静かに入ってくると、男の手をそっと取った。
女の目に涙が溢れる。男の頬にも熱いものが幾筋も流れる。
黄色い菜の花は二人を柔らかく包むように、なおもいっそう黄色く咲くのであった。